講義が終わり、俺は坂下と並んで校門へ向かっていた。
視線の先には、もはや見慣れた光景――並木道の真ん中で、スッと背筋を伸ばして立つ白銀の髪があった。
記憶が重なって以来、宵の纏う空気は明らかに変わった。
以前なら、「なおやー!」と尻尾を振って駆け寄ってくる大型犬のような無邪気さがあったが、今は違う。
どこか静かで……そう、おばあちゃんが言っていた『神様』としての気配が、隠しきれずに溢れ出している。
「またちゃんと来てんな、あの銀髪美青年。……っていうか、最近あいつの近づくなオーラ半端なくないか?」
隣で坂下が、もはや感心を通り越して呆れたような声を出す。
宵は俺たちに気づくと、ゆっくりとこちらに寄ってきて、静かに俺の手を取った。
「なおや、お疲れ様」
宵は坂下の存在を完全に無視して、俺にだけ、花が咲いたように微笑んだ。
「じゃあな南。また明日――」
坂下がいつもの調子で、俺の肩をポンと叩こうと手を伸ばした、その時だった。
宵がスッと俺の肩を抱き寄せて、坂下をジロリと睨みつけたのだ。
坂下の手が、触れる直前でピタリと空中で止まった。
「……っ。……おい、南。お前の居候、マジで怖すぎるんだけど。俺、今日なんか地雷踏んだか?」
「えっ? ……ごめん。宵、そんなに威嚇しなくても……」
「いや、何もしてねーよ? 触ってもねーし」
坂下の抗議に、宵は琥珀色の瞳を鋭くさせ、低い声で言い放った。
「だめ。触るな」
「ちょっと宵!? そんな言い方しちゃダメでしょ。坂下、別に変なことしようとしたわけじゃないし」
「そうだよ。俺、挨拶しようとしただけだぞ。まだ指一本触れてねーし」
坂下が半ば呆れ顔で両手を上げた、その時。
宵が地面を指差して、とんでもないことを口にした。
「だめ! なおやとサカシタの『影』が、重なってるからやだ!」
「「…………は?」」
俺と坂下の声が、綺麗にハモった。
見れば、夕日に照らされて長く伸びた俺の影の端に、坂下の影がほんの少し、重なり合っている。
「……おい南。あいつ、今なんて言った? 影? 影が重なるのがアウトなの?」
「……みたいだな」
「マジかよ……。嫉妬が高度すぎるだろ。今の俺、影ですら立ち入り禁止なわけ? お前の周り、ソーシャルディスタンス厳しすぎだろ!」
「……悪い。宵、影くらい許してやれよ……」
俺が宥めても、宵は「だめなものはだめ」とばかりに俺の手をぎゅっと握り締め、坂下の影を自分の影で上書きするように足を踏み出した。
「尚弥。……帰ろう? 今日は美味しいお魚が届いているって、おばあちゃんが言ってたよ」
「う、うん……」
そのまま、有無を言わさぬ足取りで連行される俺。
背後から、坂下の魂の抜けたような声が追いかけてきた。
「南……。お前、もう影の形まであいつに支配されてる自覚もって方がいいぞ……。マジで怖すぎ……」
坂下の呆れ声を背中で聞きながら、俺は赤くなって顔を伏せた。
だって、影が重なるだけで、あんな必死になるなんて。
――そんなバカみたいな独占欲が、今の俺には、どうしようもなく愛おしく感じられてしまったんだ。
……俺、やば。
**
夕食を終え、居間でおばあちゃんが淹れてくれたお茶を啜る。
ただ座っているだけだが、宵は相変わらず俺にピッタリくっついて離れない。
もう夏なんだし、暑苦しいんだけど……それでも、俺もどこか安心するせいで離せないんだ。
宵はとろんと眠そうな目をしながら、無意識なのか、指を一本ずつ絡めるように握ってきた。
「宵……。それ、今やる必要ある?」
「だって……、自然に……。落ち着くんだもん」
(タチ悪いな、本当に。こっちは全然落ち着かないって!)
心の中で文句を垂れつつも、どうしてか握り返してしまう。
そんないつもと変わらないどうでもいい甘い空気の中。おばあちゃんが静かに口を開いた。
「……そろそろ、話しておこうかしらね」
おばあちゃんの眼差しから、いつものほんわかしている空気が消えた。背筋を伸ばし、真剣な顔で俺たちを見つめる。
「何……?」
「南の家に代々伝わる、『語り部』のことよ」
そうだ。忘れていたわけじゃない。けれど、あまりにも平和な日々に紛れて、あえて目を逸らしていた疑問。
俺は姿勢を正して、ずっと聞きたかった問いをぶつけた。
「……ねぇ、おばあちゃん。語り部って、結局何なの? ただ昔話を覚えてるだけじゃないんでしょ? ……おばあちゃんは宵のことや、前世の俺たちのこととか、なんでそんなに知ってるの?」
おばあちゃんは俺の言葉を受け止め、穏やかに微笑んだ。
「そうねぇ。語り部っていうのはね……神様がこの世界で道に迷わないように、『正しい終わりの形』のを指し示すための、灯台のような役割があるのよ」
正しい終わりの形……? なんだか不穏な響きに、俺は少し怖くなった。
「語り部はね、ただ綾空さまと灯弥を幸せにする存在じゃないの。『二度と同じ結末に行かせない』ためにいるのよ」
俺に張り付いていた宵の身体が、ぴくりと跳ねた。絡めている指先にこもる力が、一段と強くなる。
「あなたたちがどこまで思い出しているのかは分からないけれど」
おばあちゃんはどこか遠く、少し悲しそうな顔をして、続きを語る。
「灯弥と綾空さまは、これまで何度も、何度も巡り合ってきたのよ。お互いを見つけるたびに、全てを捨てて抱き合った。互いだけを選ぶの。……そして守りすぎて、閉じすぎて、その結果、逃げ場がなくなる……」
おばあちゃんは一度瞼を閉じ、深く息を吐き出してから言った。
「……いつも最後はね、
『守り抜くために、二人で死ぬ』のよ」
息が止まった。
隣の宵は俺の服の胸元をぎゅっと掴み、尻尾を腰にきつく、折れそうなほど強く巻き付けた。
「愛が深すぎるとね、『正しい道』が見えなくなるのよ。どちらかが欠けるくらいなら、一緒に消えることを選んでしまう」
「だから、語り部は近づかない。けれど引き離すこともしない。ただ一点、夜の海の灯台のように光を灯して、二人が『生きて帰ってくる場所』を示すこと。それが、語り部の役目よ」
おばあちゃんは、俺の瞳の奥をじっと見て微笑んだ。
「二人はこれまで、愛が深すぎて世界を壊してきたけれど。……でもね、今回は、少しだけ違う気がしてるのよ」
宵が、震える小さな声で、縋るように俺を見上げた。
「……ぼく、尚弥といるこの世界、壊したくない……。いっしょに、生きたい……」
俺は何も答えられず、ただ宵の手を強く握りしめた。
記憶にない。けれど、俺たちはそんなことを繰り返していたのか?
(守るって、一緒に沈むことじゃないでしょ。……俺は、お前と明日を迎えたいんだよ)
――その『別の答え』を、俺はまだ知らない。
**
重い話を聞いて、胸の奥がモヤモヤしたまま、寝支度を済ませた。
消灯し、布団に入る時、宵が「だっこして……」と、弱々しくねだってきた。
不安でたまらないのだろう。……それは、俺だって不安だ。
今、宵を安定させるための抱擁は、俺自身の心も安定させることにもなっていた。
向き合うようにして俺の膝の上に乗る、宵。
宵は俺の肩に額を置いて、震える手を俺の左胸――心臓の上にぴたりと当てた。
「宵? 何してんの?」
「……錨、ここにあるか確かめてるの」
「……。あるに決まってんじゃん。俺はここにいる」
「うん。……ちゃんと、帰ってこられる。なおやのところに」
俺は宵の頬を両手で包み込んで、少しひんやりした額に、そっと口づけを落とした。
「大丈夫。何があっても、うまくいく。……俺はずっと、お前のそばにいるからね」
「……うんっ!」
宵は、暗闇の中で花が綻ぶような、最高に愛おしい顔で笑った。

