朝、いつもの『儀式』で目が覚めた。
宵は、綾空の記憶を手に入れても、顔中をキスで埋め尽くす朝のルーティンは変える気がないらしい。
「……儀式、終わりましたか?」
「……終わったけど……まだ、起きちゃダメだよ」
寝起きの、掠れた毒気のある色っぽさに当てられて、俺は視線を逸らすことでしか抵抗ができなかった。
今日は月曜日だ。そろそろ準備しないと、一限の講義に間に合わなくなる。
「そろそろ起きよう。朝ごはん食べないと」
「えー……つまんないの」
不満げに口を尖らせる宵を横目に、俺は重い腰を上げて布団から出た。
けれど宵は変わらず、俺の背中にぴたりと吸い付くように張り付いてくる。これにも俺は慣れつつあった。
結局、そのままの状態で、おばあちゃんと三人で朝食を済ませる羽目になってしまった。
食後、洗面所で身支度を整える。
俺は鏡の前で、薄手のストールを巻き、入念に整えていた。鏡越しに背後に張り付いている宵と目が合う。
「今日は大学がある日なんだ。宵も来るなら、さっさと着替えてきて」
俺がそう促すと、宵の尻尾が俺の太ももにぎゅっと巻きつき、力を込めた。
「さかした……また、なおや、見る?」
『見る』ってなに!? しかも幼い喋り方に戻ってる!!
「宵! その話し方、わざとだろ……!」
指摘すると、宵は「ふふっ」と優雅に笑みを漏らす。
「……ばれた?」
「〜〜〜!!」
その確信犯的な返事に言葉を失っていると、宵は、細い指先で、俺がせっかく巻いたストールをスルスルと外してしまった。
そのまま、俺の首筋に熱い顔を擦り付ける。
例の、あの雨上がりの森のような甘い香りが、ぶわりと濃く広がっていくのが分かった。
「宵!! それ、さすがに公共の場所じゃ迷惑になるから! 朝からマーキングやめてって!」
「じゃあこの跡は隠さなくていい。……尚弥、どうして隠すの?」
宵が、首筋の噛み跡を指先で愛おしそうになぞる。
「……っ、当たり前じゃん。恥ずかしすぎるって!」
「ふうん……」
「ひゃあっ!? ちょっと、宵――っ!!」
変な声が出てしまったのは、俺のせいじゃない。宵がいきなり、その噛み跡を深くなぞるように舐め上げたのだ。
鏡越しに眼が合う。宵はわざとらしく眉を下げ、捨てられた子犬のような目で俺を見て言った。
「ぼくのものだって証がないと、不安なんだ……『これは呪いか?』」
その琥珀色の瞳の奥に、かつて宵湖のほとりで同じように問いかけてきた、あの綾空の影が重なった。
――確実におちょくられている。
「……っ、呪いなわけないだろ。……前も言った」
「じゃあ、なあに?」
「……だから! 愛だよっ!!」
ヤケクソ気味に叫ぶと、宵は一瞬驚いたように目を見開いたあと、この世の春をすべて手に入れたような、眩しい笑顔で笑った。
「そっかぁ。『愛』かぁ〜。うれしいな」
「絶対、わざと言わせたよね!? 絶対に確信犯!!」
なんなの……? 綾空と宵が混ざってから、格段にタチが悪くなってない……?
可愛さと色気を武器にするの、ずるすぎる……!!
はぁ……。朝から色々と心臓がもたない。いつ慣れんの……、これ。
結局、俺はストールを巻き直す余裕すら与えられないまま、宵に手を引かれて家を出た。
駅までの道を並んで歩く。もちろん……当たり前のように指を絡められたままで。
ふと、隣を歩く宵の歩幅を合わせながら思う。
俺のあんなに愛していたはずの『普通』って、一体どんな感触だったっけ、と。
宵の中に綾空が戻った。それは俺にとって、この上ない喜びのはずだったけれど。同時に、平穏だった俺の日常が、本当の意味で『終わり』を告げた瞬間だったことに気がついた。
俺はこれからも『宵 × 綾空』のハイブリッドな執着に翻弄される日々を送るのだろう……。
――けれど、そんな俺たちの変化を、冷ややかに見つめている『目』があることに俺はまだ気づいていなかった。
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大学に着いて、俺は校門で宵と別れ、鞄から隠し持ってきたストールを巻き直した。
息を切らしながら講義室に入ると、いつもの席で待っていた坂下の隣に座る。
「おはよ、坂下」
「ぷふっ!! ……ははは! おはよ、南。くくく……っ」
「おい、笑うな。分かってる、分かってるから……」
坂下は机を叩いて笑いを堪えている。
「いやぁ、このクソ暑いのにストールって。お前、余計に目立ってるからな? それに……」
坂下がくんくんと鼻を鳴らし、わざとらしく顔をしかめた。
「今日、一段と匂いが濃いぞ。お前、登校前まであいつに煮込まれてきたのか? 俺の鼻がバカになりそうなんだが」
最悪だ……。
今の俺は、何をしても、何もしなくても目立つ……!
「俺の愛する普通……帰ってきて……っ」
切実な祈りが気づかないうちに、声に出ちゃってた。
それを坂下が、冷ややかな視線で拾い上げた。
「南さ……。それ、もう『普通』じゃないのがお前の普通になってるの、いい加減自覚した方がいいぞ」
唯一の命綱である坂下にまでそんな残酷な真実をを突きつけられ、俺は無言で机に突っ伏した。
――俺の平穏は、やっぱりもう、どこにもなかった。

