俺の同居人は普通じゃない


 崩れ落ちた宵をどうにか抱え上げ、必死の思いで家に向かう。
 腕の中の宵は、熱に浮かされたようにうわごとを繰り返していた。
 
「……とうや、いかないで……おいて、いかないで……っ」
 
 かつての絶望をなぞっているようなその声に、俺は胸が締め付けられながら返事をする。
 
「だめだ、無理に思い出すな! 今のままでいいから……」
 
 倒れ込みそうな身体に無理やり力を込めて宵を家に運び込み、布団に寝かせると、彼はそのまま深い眠りに入っていった。
 病院に連れていくべきか迷ったが、自分が高熱を出した時のことを思い出し、おばあちゃんに相談した。
 おばあちゃんは宵の様子を静かに見つめ、俺の肩に手を置いた。
 
「無理やりこじ開けられた記憶が、今この子の魂と混ざり合おうとしているのね。……目を覚ましたら、綾空さまとして記憶が戻っているかもしれないわ。……尚弥、今あなたにできるのは、前に宵くんがしてくれたように、この子を支えてあげることだけよ」
 
 ……宵。あんなに苦しそうにうなされてまで、思い出さなきゃいけないものか?
 俺にとって愛おしい思い出でも、綾空にとっては、最愛の番を失った地獄のような記憶じゃないか。そんなもの、思い出さないほうがずっと幸せなのに。
 
 一生甘やかしてやると決めたばかりなのに――何もできない自分が情けなくて、視界がじわっと滲む。
 俺は、祈るような気持ちで宵の熱い手を握りしめた。
 
 一晩中、宵の額を拭き、冷たくなった指先を温め続けた。
 熱はないはずなのに、宵の呼吸はずっと荒く、時には頬を涙が伝った。そのたびに、俺は「ここにいるから」と何度も耳元で囁き続けた。

 翌朝。
 宵の手を握ったまま、いつに間にかうとうとしていた俺は、彼が身じろぎする気配にハッとして顔を上げた。
 
 開かれた琥珀色の瞳と、視線がぶつかり、俺はその場に釘付けになった。
 宵の瞳には、これまでの無垢な幼さに加え、深い知性を宿っていたからだ。

「……おはよう、尚弥。ごめんね、心配させた。……もう、大丈夫だよ」
 
 宵の声、はいつもより少しトーンが低く、驚くほど流暢に言葉を話した。

「……っ! 宵、お前、……全部、思い出したの?」
 
 たまらず声を上げると、宵は眉を下げ、かつての綾空を彷彿とさせるような困ったような笑顔を見せた。

「ううん、全部かどうかはわからない。……だけど、ぼくは『宵 綾空(よいあやそら)』だった。灯弥を愛して共に生きたことはすべて覚えているつもりだよ」
「あ……、綾空……!」
 
 俺は、身体を起こそうとした宵をそのまま布団に押し戻し、溢れ出す涙を拭うことも忘れて、ぎゅうぎゅうと押し付けるように抱き締めた。

(よかった、ほんとに……っ)

 昨日までの宵も、かつての綾空も今は両方ここにいて、俺の名前を呼んでいる。
 その奇跡に、俺はただ声をあげて泣くことしかできなかった。

「なおや、くるしいよ……」

 宵がクスクスと、小さく笑った。
 その笑い声が、あまりにも澄んでいて、熱を帯びていて。俺はハッとして身体を離した。

「ご、ごめ……っ。お前、ほんとに……大丈夫なんだよね?」

 涙を袖で拭いながら顔を覗き込むと、宵は俺のパジャマの胸元をギュッと掴み、俺の顔をじっと見つめてきた。
 その瞳の奥には、昨日までとは違う、深い綾空の知性と愛が宿っている気がした。

「……うん、思い出した。ぼくが、灯弥を追いかけてここに来たことも。昨日なおやに噛みついてぼくの『しるし』を付けた理由も覚えてる」

 宵の声はいつも通り甘いけれど、言葉のひとつひとつが真っ直ぐ胸に届く。
 記憶が重なったせいで、言葉が整ったんだろうか。……昨日よりもずっと色気のある響きに聞こえて、俺は居心地が悪くなって視線を逸らした。

「……。そっか。よかったな」
「なおや、こっち向いて?」

 宵の指先が、俺の顎に触れる。強引じゃないけれど、逃げられない強さで顔を向けさせられた。
 宵が、ふにゃりと微笑んだ。けれど、可愛い笑顔の中に、どこか獲物を狙うような獣のような甘い熱がある笑みだ。

「……ねえ、なおや。ご褒美、ちょうだい……」

 不意に顔が近づく。
 鼻先が触れそうな距離で、宵の銀色の髪が俺の肩に零れた。それと同時にあの、雨上がりの森のような甘い匂いが一気に俺を包んだ。

「ご、ご褒美って、……何?」
「なおやが言ったんだよ。『家帰ってからな』って」

 ――あ。
 昨日の朝、デートに行く際、おでこを合わせるのを『家帰ってからな』と約束していたことを思い出した。
 宵の顔がさらに近づく。狙ってるのは……絶対におでこじゃない! 俺の唇だ!
 潤んだ唇が、俺のすぐ前で、誘うように開かれた。

「……っ、ちょ、ちょっと待って!!」
 俺は咄嗟に宵の肩を押さえた。
「……だめ?」
「だ、だめ!! ここは俺の部屋だし、おばあちゃんいつ入ってくるか……」
「おばあちゃんなら、さっき買い物行ったよ?」

 宵が、いたずらっぽく目を細めて首筋に顔を寄せてくる。付けられた噛み跡を舌先でぺろりと舐められた。心臓がドキドキと音を立て、全身にゾクゾクと鳥肌が立つ。

「……。だめだって」
 俺は必死に理性を繋ぎ止め、宵の頬を両手で挟んだ。

「その、……ちゃんと口にするのは、まだダメ。お前、起きたばっかだし、それに……」
「それに? ……もしかして、なおや、ぼくのこと嫌いになった……?」

 宵が不安そうに瞳を揺らす。
 
「そんなわけない! ……そうじゃなくて。……俺、その……まだ誰ともしたことがないの!!」
「……え?」

 俺は真っ赤であろう顔を、両手で覆って悶絶した。
 こんな羞恥の限界突破を経験する羽目になるなんて……!
 
「……だから! ファーストキスくらい、ちゃんとした時にしたいって言ってんの!」
(こんなうなされて起きたばっかのお前の、看病の流れで……したくないよ)

 宵は一瞬驚いたように目を丸くしてから、今まで見たことがないほどの、蕩けた顔で笑った。

「……そっかぁ。じゃあ、なおやのその『はじめて』は、ぼくのだからね、ぜったい」

 その言葉を聞いた瞬間、俺はいつか聞いた宵の声を思い出した。
 坂下に向けた、あの意地っ張りで必死な独占欲。

(……本当に、こいつは。記憶戻ってからもそこは変わらないんだ……)

 前よりも色っぽく、逃げ場のない熱を孕む宵の瞳。
 俺はもう、真っ赤な顔をして「もう、勝手にして」と吐き捨てるのが精一杯だった。