俺の同居人は普通じゃない


 結局、一週間ほど休んだ大学に、やっと今日から復帰した。
 
「おう、南。大丈夫なのか? なんかやつれたか?」
「あ、おはよ、坂下。もう大丈夫だよ、ありがとな」

 坂下の相変わらずな様子に、少しだけ肩の力が抜ける。
 講義の愚痴をこぼし、単位を気にして、学食で騒がしく昼飯を食う。そんな当たり前の日常が戻ってきたことに、心の底からホッとしていた。
 
 溢れ出した灯弥の記憶に飲み込まれないよう、俺は必死に『どこにでもいる大学生・南尚弥』を演じていた。目の前の坂下との何気ない会話だけが、俺を今の現実に繋ぎ止めてくれる唯一の命綱だった。

 午後からの講義中、俺はノートを取るふりをしながら、無意識にズボンのポケットにある『火打ち石』を握りしめていた。
 おばあちゃんが持っていたあの狐のお守りが壊れてしまった今、俺と宵を、そしてあの悲しすぎる過去を繋ぐものは、このゴツゴツした石の感触だけだ。
 逃げ出したいのに、どうしても手放せない。そんな矛盾した執念が、指先をじりじりと熱くさせていた。

 ――そんな、どこか浮ついた平和な日常を、不吉で冷たい風が切り裂いたのは、その数日後のことだった。

 ある日の帰り道。隣では、いつものように宵が俺の袖を掴み、二人並んで歩いていた。
 今日の晩飯は何にしようか、なんて、相談しながら。
 そんな変わり映えのない日々が、俺には心地よかった。
 けれどこの日、そんな平穏が唐突に崩れる、不穏な気配が、すぐそこまで迫っていた。

 まだ空は燃えるような夕焼け色をしていたのに。駅からの道を歩いていると突然、宵の足が止まった。
 それと同時に、周りの空気が重くなり、温度が下がったように感じた。
 街の景色が暗く染まっていく。
 
(さっきまで普通だったのに……!)
 
「……来る」
 
 直感したときには、もう遅かった。
 嫌なほどはっきりわかる。これは『夜屑』の気配だ。
 あの日、博物館でその名を知ってから。俺の感覚は、夜屑の淀んだ冷気を恐ろしいほど鮮明に拾うようになってしまっていた。

『残り火を、消す……今度こそ……今度こそ……』
 
 頭に直接響く、忌々しい声を拾ったとき、人の形をした夜屑が姿を現した。
 前に宵が消したものと同じほどの大きさだが、以前より動きの滑らかさが段違いだった。……いや、より『生き物』に近かった。
 
 ぐっと喉が鳴る。
 宵はすぐさま、『綾空』を思わせる鋭い目つきに変わり、狐火を焚き威嚇を始めた。
(宵……。覚えてはいないのに、本能で俺を守ろうとしてるのか)
 
「尚弥……っ」

 宵は迷いなく俺の前に踏み出すと、鋭い呼吸とともに、目に見えない圧を夜屑へ吹きつけた。
 けれど、夜屑はそれをすり抜け、俺の背後に滑り込んできた。
 
(速すぎる……!)
 
 影の動きに合わせて、宵が即座に応戦するが、俺にできることは何一つなかった。
 何もできない自分が情けなくて、爪が食い込むほど拳を強く握った。
 
(もう、あの時みたいに宵を独りで戦わせたくない……!)

 そのとき、今度は足元にヒヤリと冷たい風を感じた。
 すぐ下に目をやると、黒い手のようなものが無数に地面から生え、俺だけではなく、宵にまで手を伸ばしている。
 
(触られる、奪われる……!)
 
 その直前、握りしめていた拳の中が、熱くなった。
 
 ――火打ち石だ。
 
 熱に導かれるようにポケットの中に手を突っ込むと、指が火打ち石に触れた。その瞬間、かつて呪具を扱っていた時の『灯弥』の感覚が、指先に宿った。
 
「……来るな。宵に、触れるなぁぁ!!」
 
 喉が裂けるほどの叫び声が響いた瞬間、宵と俺の間で火打ち石が灯火のように明るく光った。
 俺の指先から、宵を優しく包み込むような、橙色の波動が広がる。
 その光に焼かれた夜屑の手が、影が、逃げるようにして消えていく。

「な、なおや……!? どうして、そんなことが……?」

 驚きに目を見開く宵を、俺は力強く、まっすぐ見据えた。

「俺にも、守らせてくれよ。……綾空」

 その言葉を口にした瞬間、宵の身体が凍りついたように動かなくなった。
 琥珀色の瞳が大きく見開かれて、その奥で止まっていた(とき)が無理やり動き出すように――黄金の光がぶわりと溢れ出した。

「……っ、……あ……」

 宵の喉が、引き攣った音を立てる。
 俺を呼ぼうとして、けれど言葉にならないみたいだ。
 やがて、その瞳から、せきを切ったように大粒の涙が溢れ出した。

「……灯弥……。とう、や……」

 いつもの甘えた声じゃない。遠いところから聞こえるような、深くて、切ない響きだった。

 俺は宵の肩を掴み、祈るような心地でその顔を覗き込んだ。

「宵……思い出したのか? あの日のこと、だ。俺たちが――ずっと前に、一緒にいた場所のこと」

 宵は涙に濡れた顔で俺を見つめ、力なく首を振った。

「わかんない……っ、おもいだせない、けど……っ」

 宵は俺の服の胸元を、爪が食い込むほどの力でぎゅっと握りしめてきた。

「むねが、……くるしい。なおやに、こう言われたこと、ぼく、しってる……」

 しゃくりあげながら、宵が俺の胸に顔を埋めてくる。そのまま、激しく泣きじゃくった。

「おもいだしちゃ、だめ。……でも、はなしたくない。なおや、なおやぁ……っ」

 声をあげて泣くのを聞いて、確信した。
 宵の中に、今、綾空が重なっている。
 記憶の()は見えてなくても。
 俺を愛し、失うことを何よりも恐れていたあの日の魂が、今の宵とひとつになろうとしているんだ。