……ずっと、こうしていたかった。
永遠なんて信じないはずの俺が、心の底からそう願ってしまった、その時だった。
視界の端が、どろりと黒い墨を流したように濁り始めた。
さっきまで頬を撫でていた清涼な風が、急に生温く湿ったものになり、足元の宵湖が、真っ暗に染まっていく。
『……灯弥……残り火を……消す』
どこか遠くで、あの『夜屑』の声が響いた気がした。
幸せだった光景が、まるで薄い氷が割れるように、パリンと音を立てて砕け散る。
(綾空……っ!)
名前を呼ぼうとしたが、喉が引きつって声にならなかった。
抱きしめていたはずの銀色の髪が、指の間から砂のように零れ落ちていく。
身体に感じるのは、奈落へ突き落とされるような猛烈な浮遊感。
熱い。身体がまた、焼けるように熱い――!
「……や、……なおや! なおや!!」
鼓膜を叩く叫び声に、俺の意識は強制的に引き戻された。
「……っ、は、あ……!」
目を開けた瞬間、肺に一気に空気が流れ込んできた。
見えたのは、見慣れた俺の部屋の天井。
そして、視界を塞ぐように俺を覗き込んでいる、宵の顔だった。
「なおや! よかった……っ、なおや、なおや……!」
宵の目からは、大粒の涙がとめどなく溢れていた。
俺の胸元に必死に縋り付き、壊れた物を扱うような手つきで、何度も俺の頬や肩を撫で回している。
「……宵」
振り絞った声は、ひどく掠れていた。
身体が鉛のように重い。熱はまだ残ってるが、さっきまでの「魂を焼かれるような熱」ではない。
不意に、頬を伝う冷たい感触に指が触れた。そこで初めて、俺は自分も泣いていることに気づいた。
「……俺、……なんで……」
涙が止まらなかった。
ただの夢だ。そう言い聞かせたいのに、胸の奥にある喪失感が、あまりにも生々しくて、深すぎる。
あの湖の静けさ。
肩に預けられた、銀色の髪の重み。
「お前がいればいい」と言った、あの低くて甘い、愛おしい声。
それらすべてを、俺は知っていたのだ。
ずっと、ずっと昔。俺の指先は、たしかにあの銀色に触れていたんだ。
「なおや、どこにも、いかない……? いっちゃ、やだ……」
宵が、震える指で俺のパジャマの裾をぎゅっと掴んだ。
その怯えたような仕草が、夢の中で俺の肩に額を預けていた綾空の姿と重なり、心臓が暴れた。
「……行かないよ」
俺は重い腕を上げて、宵の背中に回した。
夢の中の神獣よりも、ずっと小さくて、細い身体。
神様でも神獣でもない、今、ここで俺を求めて泣いている――俺の宵。
「どこにも行かない。……俺はここに、いるから」
宵を抱きしめながら、俺は天井を仰いだ。
分かってしまった。
なぜ俺が、こんなにもこの男を放っておけなかったのか。
俺は、なくしたんだ。
ずっと、ずっと昔。俺にとって、世界そのものだった、あの銀色の光を。
(――思い出してはいけない)
本能が、また頭の中で警鐘を鳴らす。
けれど、もう遅かった。
扉は開いてしまった。
あの、ひどく残酷で、美しかった『別れの夜』へと、記憶が滑り出していく。
「……綾空……」
無意識に零れたその名を、宵が聞き取ったかは分からない。
ただ、窓の外で風が強く吹き抜け、何かが不吉に笑ったような気がした。

