湖面を渡る風が、俺の肌を優しく撫でた。
次の瞬間――考えるより早く、俺はもう動いていた。
どこへ向かうべきかも、なぜそこへ行くのかも。衝動が身体を動かした。
ただ、そこへ行かなきゃいけない。そう俺の魂が知っていた。
水際に立つ、巨大な影。
月光をその身に受けて浮かび上がる、白銀。
一切の曇りがない、琥珀色の瞳。
「……」
声を出すことさえ忘れ、胸の奥が熱く震えた。
――ああ。
そこにいたのは、一匹の狐だった。
信じられないほど大きく、気配だけで空気をピリピリと裂くような存在。
白銀の毛並みは逆立ち、周囲の空気は、張り詰めて歪んでいる。
近づけば、呑まれる。
触れれば、焼かれる。
それなのに、俺は迷いなく手を伸ばしていた。
指先が、白銀の毛に触れる。
その瞬間、荒れ狂っていた気配が、ふっと揺らいだ。
銀色の毛の、俺の指が触れた場所だけ、柔らかく波打っていく。
「……力、入りすぎだ」
自分の口から出た声に、驚きはしなかった。
この声を、
この距離で、
何度も使ってきたことを、知っている。
『……灯弥。お前の火は、いつも眩しすぎる』
「眩しいくらいじゃないと、お前の夜は照らせないだろ。……ほら、力抜いて。俺がここにいる」
冷え込む宵界の夜。
俺は大きな狐姿の綾空の毛に顔を埋めて、くすぐったさに目を細めて笑った。
「あったかいな。綾空」
子どもみたいな弾んだ声が出たのを、自分でも可笑しく思った。
この夜に、この温もりの中にいれば、恐れるものは何もない。そう信じて疑いもしなかったからだ。
不意に、白銀の気配がさらに近づいた気がした。
肩に重みがかかる。驚くより先に、俺はその存在を当然のように受け止めていた。
気づけば、綾空は人の形をとっていた。
長い銀の髪が、夜風にさらさらと揺れている。
さっきまであれほど張り詰めていた神気は、今は静かで、月光の中に溶け込んでいた。
綾空は何も言わず、俺の肩に額を預けてくる。
逃げる気もないし、威圧も微塵もない。ただそこに『いる』だけ。
『……重いか?』
低くて、控えめな声で聞いてきた。
「平気だよ」
綾空は、しばらく何も言わなかった。
ただ俺の肩に頭を預けたまま、呼吸を整え、俺の体温を確かめているようだった。
指先に触れる銀の髪は、驚くほど柔らかかった。
『灯弥……。お前の指先が触れるだけで、私の魂は、こんなにも静まる』
低く、確かめるような声で聞いてきた。
『……これは、呪いか?』
「呪いじゃないよ」
俺は思わず、小さく吹き出した。
月を見上げたまま、軽く肩をすくめてみせる。
「……愛だって、昔の誰かが言ってたぞ」
綾空の体が、わずかに震えた。けれど彼は否定も肯定もせず、ただ、そのまま離れない。
「綾空。お前は、この世界を守りすぎだ」
月が、湖面に映りゆらゆらと揺れている。水音だけが、ゆっくりと二人の時間を進めていた。
「たまには、自分のために息をしろ」
俺が言うと、綾空はもう少しだけ肩に力を預けてきた。
『……』
長い沈黙のあと、囁くような声で言った。
『……お前がいれば、それだけで十分だ。他に何もいらない』
ぎゅうっと胸が締め付けられた。
その言葉が、神として重すぎることも。
いつか自分たちを壊しかねないほど危ういことも、分かっている。
神獣が、たった一人の人間に依存するなんて、正しいはずがない。
それでも。
この静けさの中で、彼が触れている場所だけが、確かに『世界の中心』だった。
綾空は、俺の肩から離れようとしなかった。
(きっと、この感触を知ってしまったからだ)
一度、触れてしまったら。
一度、こうして体温を分け合ってしまったら。
俺たちはもう、二度と、独りには戻れないんだ。

