展示室を一歩出ると、そこには拍子抜けするほど明るい光が差し込んでいた。
さっきまで見ていた薄暗い影の話が嘘のように、ロビーには平和な午後の空気が満ちている。
「なおや、あいす、ある!」
館内の休憩スペースに、アイスの自販機を見つけたらしい。「ばにら!」と跳ねて喜んでいる。
二人で冷たいアイスを食べ、出口へ向かう途中でミュージアムショップに立ち寄った。
「なおや、あれ! あれがいい!」
宵が指差したのは、売店に並んだ狐の顔を模した木製のキーホルダーだった。
「……また狐? さっき展示で嫌というほど見たじゃん」
「ちがう、これ、なおやとおそろいする」
宵はそう言って、俺のリュックと自分の服を交互に指差した。
さっき読んだ『神獣が去る際に残した涙』という悲しい一節が、ふいに脳裏を掠めた。
伝説の中の神様は泣いて消えたのかもしれないけれど。今、俺の袖を引っ張っている宵は、こんなにも欲張りで、生身の体温を持っている。
「……一個だけな」
財布を取り出しながら、俺は心の中で毒づいた。
運命だの伝説だの、知ったことか。
俺は、このバニラアイスの匂いがするありふれた日常を、絶対に手放したくない。
**
博物館の帰り道。
空はいつの間にか夕方になっていて、湿度を含んだ風がぬるく吹いている。
住宅街へ続く静かな道を歩いていると、ふとおかしな気配に気がついた。
その瞬間、黒い霧が漂い始め、まだ明るかったはずの空が、街の景色ごと、急に暗くなった。
――嫌な気配が、肌にまとわりつく。
「……っ!」
(これ、夜屑だ! この感じ……間違いない!)
今日はあの日よりもずっと、例の影――夜屑の気配を鮮明に感じる。けれど、攻撃をしてくるような気配は感じない。
隣を歩く宵もこの気配を感じているようだ。目を鋭くして、俺を守るように半歩前へ出ると、周りを警戒し始めた。
そのとき、霧の中から、声が聞こえた。
低く、くぐもっていて……なのに、聞き覚えがある。
(俺の声に、似てる……?)
『……見つけた』
霧の奥で、声が笑った気がした。
『灯の、残り火……。まだ、そんなところで燻っているのか……』
意味なんてわからない。
けれど、その一言は、俺の胸の奥を鋭い爪で引っ掻いたような痛みを残した。
呼ばれた……。
今の俺、南尚弥ではない『何か』の名前を。
宵が即座に反応した。身体中から噴き上がるような、凄まじい威嚇の殺気。
「だめだ……っ!」
宵の声が、怒りと恐怖で震えている。
「なおやに、触れるな。なおやは……ぼくの……」
宵の息が詰まり、琥珀色の瞳が一瞬、黄金色に発光した。
「――ぼくだけの、灯火だ」
その、祈るような叫びに包まれただけで、俺の身体にあった激痛が、嘘のように消えていくのを感じた。
俺は、考えるよりも先に身体が動いていた。
「……っ」
気づけば、宵を後ろから強く抱きしめていた。逃がさないように、腕に力が入る。
「……なおや?」
宵が驚いた声を出しても、俺はなぜか離せなかった。
胸の中が、ざわざわとして落ち着かない。
さっき宵が口にした『灯火』という言葉が、まだ頭に残って、熱く、熱く、共鳴し続けている。
――灯火。
やっぱり、まだ何も意味はわからない。
けれど、宵を一人で立たせることだけは、どうしても嫌だった。
「帰るぞ、宵」
それだけを言って、俺は宵の手を引いた。
強くもなく、弱くもなく。けれど、もう二度とはぐれないよう、確かな強さで。
**
俺たちが背を向けると、すぐに気配はなくなり、辺りはいつもの夜が戻った。
帰宅してからの宵は、不安そうによりいっそう俺にぴったりとくっついて離れようとしなかった。
宵をなだめて一緒に布団に潜り込んでも、彼は俺の腕を折れそうなほど強く抱きしめてくる。
(怖くて不安だよな……。俺もそうだけど、でもそばにいると安心すんだよな)
そんなことを思いながら、宵の柔らかい銀髪をゆっくりと撫でていると、やがて彼の呼吸が静かな寝息に変わり、ホッとした。
眠りに入る直前だった。
目を閉じる前に、枕元に置いたはずの『火打ち石』が、カチッと音を立てて光った気がした。
意識が遠のく中、まぶたの裏側で。
俺は見たこともないはずの、けれどあまりにも懐かしい光景を視ていた。
銀色の雪が降り注ぎ、紅の炎に包まれた――宵界。
地獄のように美しく、悲しい世界。それが、目の前に広がっていて、ありえないほど鮮明に視えていた。
火打ち石を握りしめ、静かに目を閉じた。
「これは、夢じゃない。俺……あの日、ここにいたんだ……」

