「宵! 立てる?」
そう叫んで、宵の腕を掴んだ。引き上げようとした――けれど、うまく力が入らない。
……いや、違う。
「……あれ?」
足元が、異常に重い。
地面そのものが、俺の足を掴んで離さない。靴の裏に、ぬめっとした嫌な感触が絡みつく。
(な、なにこれ……!)
すぐに、宵の腕をさらに強く引いた、その瞬間だった。
――掴まれた!
俺の足首を、冷たい何かが。
「ひっ……!!」
視線を落とすと、水たまりのように広がった黒い影の中から、無数の『黒い手』が伸びていた。
狙われているのは宵じゃない。俺だ。連れて行こうとしていのは――俺だ。
あまりの気持ち悪さに俺は、宵の腕にしがみついた。
これは襲われているんじゃない。『連れていかれる』という感覚のほうが近かった。
それに、本能的に分かる。こいつは俺の『忘れたい記憶』そのものだ。
「……尚弥」
名前を呼ばれた声は近くて、次の瞬間には身体が引き戻された。
宵が、俺を抱き寄せていた。
俺を腕の中に閉じ込めた宵の気配が、変わった。
再び伸びてきた黒い手が宵の肌に触れた瞬間、パチンと火花が散る。
影は弾かれ、怯えるように後退した。
「……宵?」
宵の背中から眩しい光が噴き上がる。
白銀の髪が、燃えるように輝き、その背後に立ち上がるのは、紅の『狐火』
――九つ。
尾の形をした炎の残像が、夜に揺れる。
神々しくて、息を呑むほど美しい。けれど……何かおかしい。
宵の輪郭が、ところどころ、欠けている。
かすむように透けて。
陶器のように、ひび割れて。
銀色の破片が、夜の空に舞った。
(宵が……壊れていってる……!!)
宵の背中は、あまりにも神々しくて、あまりにも遠い。
綺麗だ。
神様みたいだ。
そして、今すぐ空へ帰ってしまいそうで。――それが何よりも怖かった。
俺を守って、宵は影と戦っている。俺はなにもできず、ただ、それを見ていた。
――見ているだけ、なんて。
(……待って。宵の力が、影じゃなく自分自身を削ってるんじゃないか?)
宵は影を倒そうとしていない。
――終わらせようとしてる。
胸が、ぐっと引きつった。理由はわからない。けれど、もう我慢ができなかった。
ダメだ!
そう思ったが、間に合わなかった。
宵は自分の身を削りながら、ただ俺の首筋を隠すように、影を退け続けている。
自分の身体がひび割れていくことなんて、きっと気づいていない。
宵の頭の中は、俺のことしかないんだ。
――それが、たまらなく腹立たしくて、泣きたかった。
「ふざけんな! 勝手に一人で終わらせんな!」
行き場のない怒りが溢れて止まらない。
「そんなの、守ってるって言わねーからな!!」
叫びながら、足元から伸びてきた黒い手を、右手の拳で叩き落とした。
その瞬間だった。
右手の衝撃よりも早く、胸の奥を冷たい刃で貫かれたような激痛が走った。
「……んぅっ、あ、……ッ!!」
叩いたのは手のはずなのに、なぜか胸が焼け付くように痛い。
経験したことが無いはずの、『身体が終わる感覚』がノイズのように脳裏を埋め尽くす。
視界が、赤く染まった。
一瞬だけ、水の音と――誰かが俺の名を叫ぶ声が、耳の奥で響いた。
意識が飛びそうになるのをこらえ、俺は宵の背中にしがみつく。
その背中は、狐火のせいで火傷しそうに熱い。なのに、宵の身体は、凍えるように冷たかった。
(離したら、こいつはこのまま、いなくなる……)
「俺を置いていくな! 一緒にいるって言っただろ!!」
宵の背中を離すまいと、回した腕にぎゅうぎゅうと力を入れる。
「俺を、俺を置いてく覚悟だけ、勝手に決めんなよ……」
声が情けなく震えた。
「俺は――お前に守られるんじゃなくて、一緒に生きる側なんだよ!」
「なおや……」
宵が掠れた声を出した瞬間、彼の背後で揺れていた狐火が、紅色を変えた。
燃えるような赤は、白銀へと変わる。
光が、宵を中心にパァンと弾けた。
夜の闇を包むように、光の波が広がっていく。
――けれど、その光は俺を包まない。
俺の身体のすぐ手前でぴたりと止まり、這い寄る影だけを飲み込んでいく。
優しいのに、強い光だった。
影は、悲鳴を上げる間もなく、跡形もなく消滅した。
次の瞬間、宵の身体から力が抜け落ち、俺の胸へと倒れ込んでくる。
受け止めた腕の中で感じる体重は、やたら軽かった。
「……宵?」
呼びかけても、返事はない。肩に触れた指が、氷のように冷たい。
耳が、ない。
さっきまでたしかにあったはずの銀色の耳も、尻尾も、その輪郭が滲む。
「え、嘘だよな……」
俺は宵の背中に腕を回して、ぎゅうっと強く抱きしめた。
確かめるみたいに、何度も、何度も。
ここにいる。
ちゃんと、俺の腕の中にいる。
そう、信じたくて、腕に力を込めた。
(――嫌だ。嫌だ、嫌だ!)
まだ、ちゃんと名前も呼べていないのに。
まだ何一つ、お前のことを分かっていないのに。
視界が、止めどない涙で滲んでいった。

