お祭りが終わってから数日。
表向きは『普通』の日常を装っていたが、ここ三日ほど、宵の様子が明らかにおかしかった。
とにかく、過剰なまでに俺から離れないのだ。
大学の帰りだけでなく行くときまで付き添い。講義中もどこか近くで気配を潜めている。
また何か近くにいるのかもしれない。けれど、俺自身には何の違和感も、気配も感じられなかった。
そして夜。家の中にいても、宵は一人で窓の外をじっと見つめる時間が増えていた。その横顔は、まるで俺の知らない「夜」を監視しているみたいで、声をかけることさえためらわれた。
そんな緊迫感が頂点に達した、ある日の帰り道。
家のすぐ近くまで差し掛かった、その時だった。
「――っ! なおや、とまって」
宵の喉が低く鳴り、鋭い声が飛んだ。
そのとき、周囲の街灯や、コンビニの明かりが、まるで誰かに握りつぶされたかのように一段暗くなる。
俺と宵の視線の先。
逃げ場のない夜の闇の中で、影がゆらりと揺れた。
以前見たモヤに似ているが、決定的に違う。より大きく、禍々しい。
目を凝らした俺は、息を呑んだ。その影は、もはや影のままではなかった。
肩があり、腕があり――それは意志を持って、『立っている』ように見えた。
人の形をした影が、ゆっくりと音もなく近づいてくる。
目などないはずなのに、執拗に俺を狙っているのが本能的に分かった。
怖い、と理解するより先に、身体が硬直する。背中から冷たいものが這い上がる。全身がすくみ上がり、喉がひくりと鳴って、呼吸が浅くなった。
逃げなきゃ。そう思うのに、足がアスファルトに縫い付けられたように動かない。
これは幻覚なんかじゃ、ない……!
に、逃げられない!
――俺、殺される。
「尚弥、後ろに」
その声に、鼓動が跳ね上がった。
声は低く、どこか懐かしい響き――宵じゃない、あの夢の『綾空』の声だ。
ハッとして宵の方を見れば、彼は銀色の耳と尻尾を出していた。見たことがない、立ち上がった耳と、威嚇するように逆立った、膨れる尾。
宵の周りで熱風が渦を巻き、足元には青白い炎が静かに灯る。それを直感的に『狐火』だと分かった。
狐火だ。
攻撃ではない。――あれは、威嚇だ。
初めて見たはずの光景。なのに分かった。
いや、初めてではないんだ。
怖かった。得体の知れない人型の黒い影も。そして何より、宵――いや綾空の断片を俺が知っているという事実にも。
全部が重なり、動けなかった。やっと一歩を動かせたと思った瞬間、足が絡まり、俺は地面へと倒れ込んだ。
転んだ拍子に見上げた視線の先で、黒い影が加速して向かってきている。
――今、笑った?
そう感じた次の瞬間、影は一気に距離を詰め、いつの間にか俺の目の前に迫っていた。
喉が鳴り、呼吸が止まる。
怖い、体が言うことをきかない。目なんて存在しないはずなのに、確かに見られている。
視線を外せないまま、俺の首筋に、影の手が伸びる。
――さ、触られる!
そう思った、その時。
「尚弥! そのまま動くな!」
宵の声が聞こえたと同時に、影の手がピタリと止まった。
黒い気配は距離を取るように下がっていく。
俺の目の前には、宵の――綾空の背中があった。
俺を庇うようにして立つその姿。
けれど、守られている安心感よりも、宵が遠くへ行ってしまうような、取り返しのつかない予感がこみ上げてきて怖くなった。
――置いていかれる。
その瞬間、記憶の底が、ざわりと揺れた。
――ああ。また同じだ。
いつかも、俺はこうして――。
宵が、深く、深く息を吸い込んだ。
そして、影に向かってふーーっと、低く、長い息を吹きかける。
目に見えないはずのその吐息は、狐火の紅い色を纏わせて、夜の空気を波打たせた。
それが、圧となって正面から敵へと叩きつけられる。
……だけど、当たらなかった。
影は一瞬で位置を変え、数メートル先にゆら、と立つ。まるで最初から、そこにいたみたいに平然と。
宵は舌打ちを漏らすと、迷いなく地面を蹴った。
逃げる先を、既に読んでいたかのように、間髪入れずに踏み込んだ。
地面を蹴る音。
風を裂く感覚。
俺の視界の中で、宵の動きが残像になる。
逃がさない。そう言わんばかりに、彼の敵の移動先へ、狐火を纏った空気の圧の攻撃を叩き込んだ。
黒い影は、たまらず、じわ、と千切れた。煙が溶けるように消えていく。
その消えゆく霧の向こうから、頭の中に直接、不気味な声のようなものが響いた。
『――おまえ……おまえの、せいだ……』
――俺だ。
こいつが欲しいのは宵じゃない。俺だったんだ。
言葉を失っていると、宵の荒くなった呼吸が聞こえて、現実に引き戻された。
宵は大きく肩で息を吐き、耐えきれなかったのか、その場に崩れるように地面に膝をついた。
「……っ、宵!」
考えるより先に、身体が動いた。俺は、倒れ込みそうな宵の元へ駆け寄る。
尻尾と耳は出たままだったが、狐火は消えている。
「なおや……」
宵が、いつもの頼りない声で俺を呼ぶ。
「……行くな。俺を置いていくな」
勝手に口から溢れ出した言葉が、どんな意味を持つのかさえ気にならなかった。
俺はただ、もう二度とこの温もりを失わないように、全力で宵を抱きしめた。
俺は思った。
俺の知らないところで、何かが確実に終わろうとしている。
そして――何かが始まろうとしている。

