昼前、俺は一人で台所に立っていた。
最近、平日はおばあちゃんに甘えてばかりだったので、休日くらいは昼食を担当しようと考えた。
鍋に水を張り、火にかける前に昆布を一枚そっと沈める。
火をつけ、湯が沸騰する前に昆布を引き上げ、今度は鰹節をひとつかみ入れる。
湯気とともに、ふわっと、出汁の香りが立った。
あ、いい匂い。よし、完璧だ。
揚げは甘めに煮て、食べやすく切っていく。
「おばあちゃん、宵ー、昼メシ作ったよー」
「なおやの、ごはん?」
「うん、うどんでいい?」
「うどん、だいすき」
宵が嬉しそうに寄ってくる。
丼を三つ並べ、湯切りしたうどんを盛る。熱々の出汁を注ぎ、黄金色の揚げを乗せて、刻みネギを散らした。
運ばれてきたうどんを見て、おばあちゃんがくすりと笑った。
「あらあら、きつねうどんだなんて。今のこの家に、ぴったりねぇ」
宵は自分の丼を見つめてから、おずおずと箸を取った。一口すすり、じゅわっと汁の染みた揚げにかじりついた。
「これぼくのすき。なおや、ぼくのため、した?」
「……たまたま今日は揚げがあったからだけど?」
俺は、目を逸らした。なんとなくだ。
自分の丼に向き合った。
嘘だ。昨日の買い出しで、無意識に一番高い揚げをカゴに入れていたことは、墓場まで持っていこうと思う。
うどんをきれいに完食し、お茶で一息ついているときだった。おばあちゃんが一枚のチラシを差し出して言った。
「そういえば尚弥、今日は『狐灯祭り』の日よ。準備しなさいね。宵くん連れて行ってあげるんでしょう?」
祭り? あ、それ今日だったっけ? 正直、めんど……。
おばあちゃんの言葉に、宵が敏感に反応した。
「きつね……?」
「そうよ、この街の狐のお祭り」
おばあちゃんは窓を眺めるようにして、穏やかに語る。
「この街では毎年この時期にあるの。灯籠に火を入れて、みんなで狐の面をつけて歩くのよ」
「あー……たしか小学生の頃、行った気がするな、狐の面つけた気がする」
正直、細かい記憶はない。
屋台の明かり、絶え間ない人混み、お父さんに大きな手で引かれて歩いた、あの感覚くらいだ。
「今日、やっぱり混むよな? 屋台とか」
「いく。いきたい」
宵の返事は早かった。
そんな様子を見て、おばあちゃんは笑顔で言った。
「宵くん連れていってあげなさい。あの灯りはきっと好きよ。それに、狐灯が多い夜はね、変なものは寄り付けないの。外を歩くには一番良い日よ」
「……? ふうん。じゃあ、ま、夕方になったら行くか」
「この街はね、『狐の神が灯を運ぶ街』なのよ」
「確かに、いたるところで狐のモチーフあるもんね」
「夜明け前に白銀の尾が揺れると、願いが叶う……なんて。昔から言われていてねぇ」
「それは聞いたことあるな。……おばあちゃんに聞かされたんだっけ」
懐かしい昔話に目を細めていると、おばあちゃんが少しだけ真面目な顔をして続けた。
「南の家はね、昔から『狐火を迎える家』だったのよ」
「……初耳なんだけど」
「あら、言ったことなかったかしら?」
おばあちゃんは不思議そうに首を傾げて、けれどすぐにいつもの朗らかな笑みに戻った。
「浴衣もあるわよ」
宵は何も言わず、じっと灯籠の絵が描かれたチラシを見つめていた。その瞳が何を映しているのか、俺には読み取れなかった。
**
夕方。家の中に、線香と石鹸が混ざったような独特の匂いが漂っていた。
俺はこの匂いを、毎年のように嗅いでいたことを思い出した。
(これ狐灯祭りの匂いだったんだ)
居間の真ん中には、宵が大人しく立たされていた。
「じっとしてなさい。ほら、背中をまっすぐに」
おばあちゃんが、手際よく宵の浴衣を整えていく。
紺地に白い流水紋があしらわれた、少し古風な仕立ての浴衣だ。宵は文句ひとつ言わず、されるがままになっている。
「これ、くるしい?」
「祭りの間だけだから、少し我慢しなさいね」
おばあちゃんが帯をきゅっと締めると、宵が「ふぅ」と小さく息を吐いた。
その隣で、俺は自分の浴衣の裾を気にしながら立っている。俺のは、濃紺の無地の浴衣だ。
どうやら俺と宵の浴衣は、お父さんの若い時の浴衣らしい。
「尚弥も、ちゃんと着られた?」
「着てるって。そんな心配しなくても、これくらい一人でできるよ」
おばあちゃんはどこか眩しそうな目で俺たちを見て、満足そうに頷いた。
「いいわねぇ。二人とも、よく似合ってるわ」
「じゃあ、行ってきます」
玄関を開けると、夜になる直前の藍色の空が広がっていた。
遠くから、トントン……と太鼓を叩くような音が、風に乗って微かに聞こえてくる。
俺たちの知らない『夜』が、すぐそこまで来ていた。

