胸の中が、得体の知れない不安でモヤモヤしたまま帰宅した。
「ただいま」
「ただいまー」
「あらおかえりなさい。夕飯、ちょうどできたところよ、食べましょうね」
おばあちゃんのいつもと変わらないのんきな声に、ようやく少しだけ息がつけた気がした。
それから、三人で夕食を囲んでいる。――のだが。
宵が俺をじっと見てくる。
ずっと。ほんとに、ずーっと。視線が刺さるほどに、俺を見ている。
箸を持つ手を動かしても、味噌汁を飲んでも、おばあちゃんと会話していても、俺から視線が離れない。
耐えかねて、箸を止めた。
台所に移動しても、背後から視線を感じる。振り返ると、案の定、また目が合った。
「……ちょっとなに? さっきから」
思わず声を上げると、宵がぱちくりと瞬きをした。そして、俺の目を見ながらポツリと言った。
「なおや、大学のあのひと、だれ?」
「ん? なんの話?」
「なおや、あのひとと、なんでいっしょいるの?」
一瞬で理解した。坂下のことだ。
「坂下は友達だから。普通の友達だから」
「ふつう」
宵は納得いかないという顔で、箸を持ったままフリーズしている。そこへおばあちゃんが、面白そうに口を挟んだ。
「あらあら、宵くん。ヤキモチかしら?」
「やきもち?」
「尚弥を取られたくない、ってことよ」
宵がひとつ呼吸をして、俺を見た。それから、こくんと頷いた。
「とられたくない、ぜったいに」
「……なんなの? お前」
宵は何事もないような顔をして続ける。
「なおや、ぼくのだから」
「違うに決まってるし? 所有権はないから!」
おばあちゃんが吹き出した。
「ふふ、若いわねぇ」
「おばあちゃんも、煽るの止めてよ!」
でも宵は真剣な表情をしながらも、目を潤ませている。箸を置いて、俺の服の裾をぎゅっとつまみ、言った。
「いなくなるの、やだ」
その声は不安そうに震えていて、帰り道で見せた鋭い目とは、まるで違う、親とはぐれた子どものような目だ。
「いなくならないってば」
「ほんと? よかった」
宵の肩がふっと緩んだ。たったそれだけの返答で満足したように、彼はまたご飯を食べ始めた。
……なんなんだ、ほんと。また俺だけが置いてけぼりじゃん!
**
寝支度を済ませ、布団の上でスマホを触っていた時、不意にちゅっ、と頬に柔らかい感触がした。
「……ん?」
一拍置いて、脳が状況を理解した。
「はああ!? い、今なにした?」
顔が一気に熱くなる。宵はきょとんとした顔で俺を見上げ、悪びれた様子ゼロで言い放つ。
「きす。だめ?」
「なんでしてくんの? ダメに決まってる!」
心臓が速くなって、目も合わせられない。たぶん今、俺の顔は真っ赤になっている。
宵は少し考えるように首を傾けて、それから当然のように言った。
「なおや、ぼくのなおや」
「意味わかんないって、ずっと言ってるだろ!」
強めに言い返したのに宵は気にした様子もなく、むしろ安心したように目を細めた。そしてそのまま、俺の反論を無視して、身を寄せてきた。
「ねよ」
宵は短く言って、次の瞬間には腕が伸びてきて、当然のように俺を抱き寄せる。
「ちょっと、ちょっと! なんで抱いて寝る流れ??」
「ねるから」
「理由になってない!」
抗議しているのに、背中から回された腕は、まったく緩まない。ぴたりと密着した背中からは、体温が伝わる。
「ほんと意味わかんない……」
「なおや、おやすみ」
挨拶を済ませると、宵の額が俺の肩にコツンと当たる。呼吸が首筋にかかり、ゾワっと鳥肌が立つ。
「……宵」
「んー……」
そのときだった。
ふわ、と腰のあたりに柔らかい感触がふれた。
……?
次の瞬間、もふっとした重みのある何かが、ゆっくり俺の腰に巻きつく。
「――待って。なに今、これって」
「しっぽ」
「しっぽ!? 出てるし! 巻きつかせないで!」
反射的に身をよじると、尻尾がきゅっと力を込めた。まるで逃がさない、みたいに。
「俺、拘束されて寝るの? これで寝られるの?」
「あったかいから」
耳元で、今にも眠りそうな声で囁かれる。尻尾は、無意識みたいに俺の腰をなぞり、そのたびにドクッとタイミングを間違えたみたいに心臓が鳴る。
「卑怯じゃん、それ……。しまえないの?」
「たぶん、むり」
「即答なのが腹立つ……」
観念して目を閉じて、背中と腰の温度をじんわり感じていると、背後で宵の呼吸が一瞬、乱れたのがわかった。
回された腕に、ぎゅうっと力が入り、さっきまでの、甘えた抱き方とは違う、少し苦しいほどの強さで抱きしめられる。同時に尻尾にも力が入り、身動きがとれない。
「……?」
俺が小さく身じろぐと、宵の額がさらに強く背中に押し当てられたのがわかった。
「尚弥」
さっきまでの子供のような甘えた声とは違う、低い凜とした声。
「な、なに?」
「今、怖くない?」
「な、なんで? 別に……いや、怖いことはあるよ? いろいろ……」
声のトーンの変化に驚きつつも返事をしたが、宵はそれ以上何も言わなかった。ただ、俺を包んでる腕だけが少し強いままだった。
そのまま、再び目を閉じた。宵も呼吸が揃ってきて、どうやら眠りについたみたいだ。
……なのに、俺はまだ眠れない。
それは拘束されているからではない。(いや、少しあるけど)
今日起きた出来事が、勝手に頭に浮かんでくる。
帰り道のあの一瞬のことだ。街灯の下で見た、黒い煙のような影。
それから――宵の声。
『……大丈夫だよ、灯弥』
あのときの声。あれは……よく見る夢に出てきたあの人の声に似ていた。
いつもの、甘くて少し間の抜けた感じじゃない。低くて、迷いがないような声だ。それに俺のことを『灯弥』と呼んだ。
「……考えすぎか?」
小声で呟いても、腑に落ちなくて胸に不穏な波が立ってる。
寝息とともに、宵の腕と尻尾が、またわずかに動く。寝ているはずなのに、無意識に俺を抱き直す。
まるで何かから守る、みたいな動きだ。
なに、それ。
俺、そんな頼りなさそうに見える?
いや、確かに今日のはちょっとビビったけどさ。
もう一度、まぶたを閉じる。
正直、宵が密着して一緒に寝てることの方が、よっぽど心臓に悪いわ。
……俺、なんか試されてるのか?
でも、なんでだろうな。
こんな状況なのに、どこか安心している俺がいる。
抱きつかれるのもどっかしっくりきてる……のは絶対に認めてやらないけど!

