瀬々市、宵ノ三番地




「…お給料の事より、その…俺なんかで良いんでしょうか。愛ちゃんとは子供の頃に別れたきりだし、愛ちゃんが何て言うか…」
「大丈夫だよ、多々羅(たたら)君だからお願いしたいんだ。愛にとって君は、子供の頃から信頼出来る人間だからね」

臆病に揺れる気持ちが、正一(しょういち)のまっすぐな眼差しに射ぬかれて、はっとする。
こんな自分でも、誰かの役に立てるのだろうか。そんな淡い期待に、胸の奥底が熱くなる。

今まで頑張ってきたけど、一体何の為に頑張っているのか、分からない事ばかりだった。
歌舞伎の世界から逃げ出したのに、結局自分は、八矢宗玉(はちやそうぎょく)の兄でしかない。
この先、自分は何の為にあるのか、未来に希望も何も見いだせなかった。

瀬々市(ぜぜいち)の家の前で足を止めたのも、もしかしたら、あの頃に戻りたいと思ったからかもしれない。
まだ何度でもやり直せた、何も考えないでいられた、何も分からないで父親の後をついて回った頃。何も知らない愛の手を引いて、遊び回った頃。

愛と共にいれば、またあの頃のように戻れるような気がしてしまった。
多々羅は悩みながらも、正一の提案に頷き、そのひと月後、会社を辞めた。
同僚達が引き止めてる声に、多々羅は笑ってお礼が言えた。
心が軽かった。今なら、自分に声を掛けながらも、その視線が八矢の家に向けられていたって、軽く受け流せそうだ。それは、多々羅の心がもう別の方へ向いてるからかもしれない。新しい場所で、誰かのではなく、多々羅として見てもらえる場所へ。


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そして、現在から一週間前のその日、多々羅は“宵ノ三番地”へと向かった。

前もって愛に言うと、愛は意地を張って拒否するかもしれないと、正一が言うので、多々羅は店を訪ねる数時間前に、正一から愛の元に連絡を入れて貰った。

とはいえ、まだこの時は、意地を張る愛が想像出来ず、多々羅は半信半疑だった。多々羅の中にある愛の記憶は、素直で可愛らしい姿ばかりだ。


二十一年振りの愛との再会、さすがに男と分かっているので勘違いはしないが、それでも緊張はする。愛は、自分を覚えているだろうか、受け入れてくれるだろうか。

愛にも、不必要だと否定されたりしたら、どうしよう。

そんな不安を抱えつつ、愛と再会した多々羅は、人生二度目の雷を打たれたような衝撃を受ける事になる。主に、美しく凛々しい青年へと成長した愛の、残念でならない生活態度にだ。



宵ノ三番地、その店の外観を見上げ、多々羅は記憶の中と変わらないその店構えに、感動を覚えた。それにより、愛と過ごした日々が次々と甦り、多々羅の中で、僅かながら不安が期待に塗り変えられていくのを感じる。愛と過ごした日々は、楽しい思い出ばかり。多々羅の心も懐かしさに引きずられ、幾分軽やかだった。


店の扉にはクローズの札が掛けられていたが、構わず入っていいと正一から連絡を受けていたので、多々羅はドアをノックしながら店の扉を開けた。

「お邪魔します…」

カランと鳴るドアベルの音と共に声をかけてみたが、店内はがらんとしており、何の反応もない。薄暗い店内を進み、誰か居ないかと辺りを窺いつつ応接室に入ってみれば、開け放たれたドアの向こうから話し声が聞こえてくる。「失礼します…」と、声をかけつつドアの向こうを覗けば、二階に続く階段があり、話し声はその二階から聞こえてきた。足元を見ると、男性ものの革靴と、一回り小さなスニーカーが置いてある。多々羅は上がっていいか迷いつつも、そこで靴を脱ぎ、二階へと向かった。

外観同様に、建物内も年季が感じられた。木製の階段は一段上がる度に軋み、こんな狭い階段だっただろうかと、懐かしさと共に、時の流れを感じさせる。

そうして郷愁を感じつつ二階の住居スペースに出ると、部屋の奥に向かって苛立ちをぶつけるように怒鳴っている女性がいた。多々羅が声を掛けて良いものか躊躇っていると、多々羅の視線に気づいたのか、女性が不意にこちらに顔を向けた。その怒った表情がみるみる内に明るくなるのを見て、多々羅は目を瞬いた。

「来た!君が多々羅君?」

ゴミ袋片手に詰め寄って来たのは、舞子(まいこ)だ。これが、彼女との初対面である。

「私、すぐそこの“時”って喫茶店で働いてる、音谷(おとや)っていうの。正一さんから前もって話は聞いてたからさ、もう、来てくれて良かったよ本当に!」
「…舞子さんも知ってたのかよ」

部屋の奥からひょっこり顔を出したのは愛だ。愛はふて腐れながら呟いていたが、舞子は気にも留めずに多々羅に向き直る。

「愛がうだうだ言っても気にしないで。先ずは掃除からだね」

そう言われながらゴミ袋を持たされ、多々羅は舞子によって部屋の中へと招き入れられた。
そして、その部屋の惨状に、多々羅は呆然とした。