瀬々市、宵ノ三番地




「…宵の人間は、化身を見たら何であれ回収すると聞いているけど」
「中には危険な物が居るからです。あなたもご存知でしょうが、物には全て意思があり、心がある。その心を留めておくか、あなたのように化身として姿を持って外へ出るのか、それは自由です。ただ、化身として姿を現すものは、それ程強い思いを持った物という事、そして、その強い思いは時に禍つものへと変えてしまう。禍つものは、人を襲う事もありますから」
「あなたの瞳も、それが原因?さっきの悪い憑きものって話は事実?」

愛はその問いかけを受け、彼女の背後で黙って成り行きを見守っている多々羅(たたら)に目を向けた。多々羅には彼女の声は聞こえていないが、その表情が不安そうに歪められていくのを見てか、愛は彼女への返事を微笑むだけに留めたようだった。

「まぁ、そういう理由もあり、禍つものになってしまう前に強制的に心をまっさらにしてしまおうと、そう考える宵の店もあるようです」
「…あなたの考えは違うっていうの?危険かもしれないのに、それでもあなたは、私を放っておくの?」

彼女は、分からないといった様子で愛に問いただした。彼女はもしかすると、宵の店の人間が来た時に備え、連れていかれる覚悟を決めていたのだろうか。

「あなたには、ここに留まる意味がありますから。もし、ただ持ち主から離れたいだけって言うなら、うちで休むといい。あなたの心のままで、また誰かの元へ行きたいと思えるようになるまで、うちの店はいつまで居ても構いませんから」

揺れる彼女の瞳と目が合い、愛はそっと彼女に微笑んだ。濁った翡翠の瞳が、柔らかく煌めき、多々羅はその煌めきに、思いがけず見惚れていた。

「私は、彩さんを今でも思ってるあなたの意思を尊重します。ここに留まるなら、様子は見に来ますけどね」

そう、と、彼女は瞳を揺らしながら伏せ、愛につられるように僅かに頬を緩めた。

「…あなたの本音は?」

そう尋ねられたら、愛は困って肩を竦めるしかない。

「そりゃ、彩さんの元へ帰って欲しいですよ。あの人は、これからもあなたを大事にしてくれそうですから」
「…私、必要とされてる?」

それから、躊躇うように出た問いかけに、愛はその心を包むように口を開いた。

「背中を押して貰うのも嬉しいけど、辛い時や悲しい時、八つ当たりしたい時だって、めげずに傍に居てくれるのは心強いですよ。ごめんって思いながら、つい甘えて当たってしまう。彩さんはあなたが居たから強くなれたし、それに、彼女の人生はスケートだけじゃありません。きっと、その後の人生も、あなたには傍に居て欲しい筈です。あなたは、彩さんが頑張ってきた証でもある。彩さんは、あなたの事を戦友で、宝物だって言ってましたから」
「…私に、まだ寄り添う資格はあるのかしら」
「ありますよ。今だって、彩さんはあなたと戦う為に、この壁の向こうで練習してるんじゃないかな。さっき電話したら、今日来るって言ってましたから」

彼女は、揺れる瞳を愛に向けた。

「あなたは必要とされてるよ、そうでなきゃ、彩さんが私を頼ったりしません」

愛の優しい声に、彼女は困った様子で顔を俯けた。

「……」

何かを言葉にしかけたが、それは言葉にならず、彼女は顔を歪めて手で覆った。その瞳からは、宝石のような涙が零れ落ちていた。


彼女が彩の元へ帰る事を望んでくれたので、愛は安堵したように頷くと、そっと彼女の頬に触れた。零れる涙を親指で拭ってやると、彼女は美しい微笑みを見せてくれた。
それから、彼女がそっとその瞳を伏せれば、その体は陽に照らされたみたいにキラキラと煌めいた。その頬が、腕が次第に透き通り始めると、今度は足元から煙が沸き起こり、彼女の体を煙が包んでいく。その煙は徐々に小さくなり、愛がその中へ手を伸ばすと、愛の手の中にはペンダントが現れた。


突然発生した煙からペンダントが現れ、多々羅は驚いて、手元のペンダントと愛の顔を見比べた。

「…えっと、話はついたって事ですか?」
「あぁ、彩さんの元に帰るそうだ」

愛はそう言うと、ペンダントを優しくその手で包む。夜の外気に触れて冷たい筈のそれはとても温かく、目を閉じれば、彼女の心が伝わってくるようだった。

“大丈夫、私は跳べる”
“大丈夫、見ていてくれる”
“大丈夫、また笑ってくれる”
“どうして、跳べないの”
“どうして、見てくれないの”
“初めから、跳べなきゃ良かった”

流れてくるのは、彩の声だ。ペンダントは、いつも彩の声を聞いていた。涙に濡れた日も少なくない。
跳べないジャンプ、上手くいかない演技、氷を掻いて倒れる体、それでも、悔し涙を必死に飲み込んで立ち上がる。
深い溜め息、握りしめる手、祈る言葉に何も返せず、ただのペンダントには、彩を跳ばす魔法もない。
頭の中で、足を抱えて俯く化身の彼女が見えて、愛はその心に手を伸ばした。

「…大丈夫だ、彩さんはあなたを待ってる」

愛は呟いて、ペンダントを胸に抱きしめる。多々羅はそんな愛の姿を、ほっとした気持ちで見守っていた。愛の化身と向き合う姿に、多々羅の中にあった不安が消えていくのを感じる。化身の姿は見えないけれど、確かにそこにいたのだろうと、愛の姿を通じて見えたような気がして。
同時に、変わってしまったとばかり思っていた愛に、幼い頃と変わらない愛の姿が重なって、どこか擽ったい気持ちだった。