「なずなさん?」
その呼び掛けに、なずなは肩を跳ねさせた。
「あ、その、えっと、何でもありません、その、何から何まで、申し訳なくて、」
こんな風に怯えていたら、またフウカに嫌な思いをさせてしまうかもしれない、また距離が出来てしまうかもしれない。
そう思えば、胸の中を冷たい何かが駆け抜けて、指先までヒヤリと冷たくなる。なずなは、とにかくこの恐怖を誤魔化さなくては必死になるが、そんななずなの様子に、フウカは何を思ったのか、先程の焦った様子もなく、「なずなさん」と穏やかな声で、なずなを振り返るように少し顔を傾けた。
「大丈夫、僕がいますから」
「え、」
「あなたに怖い思いはさせませんから。だから、安心して下さい」
その言葉に、なずなはきょとんとして。それから、じわりと熱くなる胸に、遅れて頬まで熱くなるみたいだった。じわりじわりとめぐる熱に、ヒヤリとした指先まで温まる気がして、なずなは咄嗟に言葉が出なかった。
背中の上では、やはり振り返ったフウカの表情は見えなかったけど、まっすぐとしたその声に嘘はなく、フウカの優しさが伝わってくる。
人間だからとかではなく、あやかしの責任だからとかではなく、今のフウカはまっすぐとこちらを見てくれている気がして、なずなはまた胸がいっぱいになるみたいだった。
けれど、胸をつかえる感覚は、先程までの苦しさとは少し違う。
「…はい、ありがとうございます」
気づけば恐怖はどこかへ流されて、なずなの胸には温かさが満ちている。フウカがいてくれる心強さに、なずなはすっかり勇気を貰っていた。
「では、開けますね」
「お邪魔します」と言って、フウカは少しドアを開けた。そのまま、中の様子を窺っているのだろうか、ややあって、「少し上がっても良いですか?」と、申し訳なさそうになずなに声を掛けた。
「なるべく、部屋の物を見ないようにしますので」
「は、はい…いえ!大丈夫です。ちゃんと確認して貰った方が、私も安心なので。電気つけますね」
正直恥ずかしさはあるが、安全を確保する方が大事だ。なずなは、貰った勇気を総動員して手を伸ばし、部屋の電気をつけた。そうして部屋の中へ足を踏み入れれば、その部屋の状態に改めて呆然としてしまう。
「…大丈夫そうですね、他にあやかしはいないみたいだ」
「良かったです…」
そう返事はしたが、なずなは部屋の惨状に言葉が続かない。
「…惑わす為ですかね、こんなに散らかさなくてもいいのに。ひとまず、今日はアパートに帰りましょう」
まるで、気持ちを代弁してくれているかのようなフウカの言葉に、なずなは苦笑いながら頷いた。
片付けをするにも、なずなはあやかしに襲われたばかりで足の怪我もあるし、夜も遅い。最後にフウカは、貴重品や必要な物を持ち出すかと尋ねてくれたが、この部屋の様子ではどこに何があるのかも分からないので、窓等の施錠や安全の確認だけをして、二人は玄関を出た。
「鍵しめますね」
「ありがとうございます」
なずなが鍵を渡すと、フウカはなずなを背負ったまま、ドアに鍵をかけてくれた。それから、またなずなの体を気遣うように、帰り道を歩いていく。
「…すみません何から何まで、…その、それに重たいですよね」
「はは、軽いもんですよ。なずなさんは気にしすぎです」
そう言うフウカの声は軽やかだが、なずなをずっと背負いっぱなしなのだ、いくらあやかしとはいえ、正直辛いだろう。それでもフウカは、なずなに気遣ってくれる。なずなは、申し訳なさを感じると同時に、そわそわお落ち着かない気持ちになり、それを誤魔化すように、フウカに声を掛けた。
「その、…フウカさんは、優しいですね」
「そうでしょうか?持ち上げても何も出ませんよ」
「事実です!…それに、きっとモテるんだろうなと」
そういえば、ギンジは人間の女性に振られたと聞いたけれど、フウカも人間の女性と恋に落ちたりするのだろうか。
「…そういうものは、僕には関係のない話ですから」
「え?」
そわそわと落ちつかない気持ちが、一瞬、時を止めたように凍りつくみたいだった。
今、フウカの声色が変わった気がしたが、すぐにフウカは顔を上げ、困った様子で眉を寄せた。
「あの部屋にいるのは、やはり危険ですね。暫くはうちのアパートに泊まって下さい。もう危ない事がないよう、僕らでお守りしますから、安心して下さいね」
「あ、ありがとうございます…」
こちらに少し顔を傾けたフウカの横顔は、いつも通り、優しい笑顔を浮かべている。なずなはほっとしつつも、先程感じた、どこか冷めたような声が気になった。
フウカはいつも物腰柔らかく穏やかだから、彼を取り巻くものも、優しく穏やかなもので溢れていると勝手に想像していた。
一体、フウカに何があったのだろう。そう思っても、そんな事聞ける筈もなく、温かなフウカの背中の上、なずなは少しばかりのショックを気取られないように、何気ない会話を繰り返した。



