メゾン・ド・モナコ




もし火の玉だとしたら、前回、なずなを襲い損ねた仕返しに現れたのだろうか。
そう思ってしまえば、恐怖で体が震えたが、それでも、なずなはぎゅっと拳を握った。怖いけど、あれが何か確かめなくてはならない。もし火の玉なら、フウカ達の疑惑を晴らすチャンスだ。

なずなは息を殺しながら、そっと灯りへと近づいて行く。だが、部屋は暗く、床には物が散乱しており、物音を立てずに進む事は不可能に近い。案の定、爪先に何かが当たり、カタ、と音を鳴らしてしまった。自分で出した音にびくりと肩を跳ね上げ、なずなは恐る恐る顔を上げた。ぼんやり浮かんでいた灯りは揺らめき、一つだったものが二つ三つ…と数を増やし、それはなずな目掛けて勢い良く飛んできた。

「キャア!」

なずなは思わず悲鳴を上げ、躓きながらも玄関へと急いだ。火の玉が追いかけてくる気配を背中に感じ、靴も履けず、アパートの階段を駆け降りていく。

「た、助けて!マリリンさん、ギンジさん!」

遠くだが、まだ見える背中に大声で呼び掛けた。だが、後ろにいた筈の火の玉が、今度は目の前に現れ、ボッと音を立てながら火が揺らぐと、それはたちまち燃え広がり、なずなの視界を遮ってしまった。
迫る炎の壁に、なずなは悲鳴を上げて後退ろうとするが、見えない何かに捕らわれたみたいに、体が言う事を聞かない。

「や、なんで、」

前方だけだと思っていた炎の壁は、ぐるりとなずなを取り囲むように燃え広がっていく。恐怖に足が竦み、なずなはどうにも出来ずに尻餅をついた。前から後ろから、なずなを囲う炎が勢いを増して襲ってくる。怯えた心臓が、ドクドクと痛いくらいに鳴り、その音は体中を支配して、目の前には、じわじわと這うように炎が迫る。
そもそも火の玉は、人を追いかけ回すだけだとニュースで言っていた、だがこの火の玉は、なずなを逃がす気がないように思える。これが、襲い損ねた火の玉の、なずなへの報復なのか。
目の前に死の予感が迫り、じわりと涙が視界を覆う。どうしてこんな目に遭わなくてはならない、せっかく一歩踏み出せたのに、このまま何もなくなってしまうのか。

そんなの嫌だ、でも、いくら心で否定しても、なずなの思いは届かない。燃え広がる炎は、今にもなずなを飲み込もうとしている。

逃げられない。

なずなが覚悟して目を固く閉じた時、ザッと水の音が聞こえ、直後、背後で何者かの叫び声が聞こえた。

「え、な、何、」
「ダメよ、女の子に乱暴しちゃ」

驚いて顔を上げると、マリンがなずなを庇うように立っていた。なずなの頭上を越えたのは、マリンの水だろうか。しかし、今のなずなにそんな事を考える余裕はなく、助かったという安堵からボロボロと涙が溢している。既に腰が抜けているなずなは、「マリリンさん!」と、這いつくばってマリンの方へ向かおうとすれば、その横を、今度はギンジが駆けていった。「え、」と、驚いてなずながその姿を目で追いかけると、ギンジはそのまま、炎の一部に覆い被さってしまった。

「火の玉の犯人はお前か!」
「ち、違う!俺は頼まれてやっただけだ!」

炎が嘘みたいに口を利いた。なずなは状況が飲み込めず、ぽかんとしていたが、その炎の中に何者かが居るのは確かだった。
ギンジに捕らえられた大きな炎は、徐々に人のような形になっていく。燃える面積が小さくなった分、より強い炎で燃えているように見える。その様子を見て、炎の中に誰かがいるのではなく、この炎自体があやかしだったのだと気づいた。
暫し呆気に取られていたが、その炎の人型をギンジが素手で捕らえていると気づいたなずなは、はっとしてマリンを振り返った。

「も、燃えちゃう、ギンジさんが…!」

思わずマリンに訴え掛けるようしがみついたなずなだが、マリンはなずなの頭を優しく撫でるだけだ。

「大丈夫、あれは本物の火じゃないから」
「え?」
「火を取り込んで体に投影出来るのよ。(はる)さんが言ってたでしょ?ほら、カメレオンみたく体の色を変えるみたいに、あれは形ごと、色々な姿に擬態出来るのよ」

再びなずながギンジの方へ目を向けると、炎は急速に小さくなり、ギンジの手元には、三頭身の子供のような背丈の男がいた。頭と両手足がまだ燃えているが、火がついてない部分は、体が透き通って見える。
ギンジの姿に恐れてか、それともギンジが気づかぬ内に鉄槌を食らわせていたのか、火の玉男はすっかり気を失ってしまったようだ。ギンジは舌打ち、火の玉男を肩に担いで振り返った。

「とりあえず、こいつを連れて帰るぞ。お前は大丈夫か」
「は、はい」

不可思議な出来事の連続に、なずなは呆然としていたが、ギンジに声を掛けられ、慌てて立ち上がろうとした。だがその際、足にズキリと痛みが走った。コンクリートの上を靴も履かずに走ってきたせいか、気づけば靴下は擦りきれ、足の裏は傷だらけだった。もしかしたら、石か何かを踏んだのかもしれない、必死になって走っていたので、痛みに気づかなかった。

「あら大変、痛いでしょう…」

マリンはそう言いながら、なずなの足の裏に手をあてる。すると、清らかな水が溢れだし、傷口を洗い流してくれた。

「これじゃ歩けないわね…」
「二人を担げない事もないが…」

被害者と加害者を両腕に抱えるのは、なずなの気持ちを思えば抵抗があるのだろう。なずなも出来れば遠慮したい、何より、ギンジに担いで貰うのは申し訳ない。

「私なら大丈夫ですよ」
「駄目よ、人の子はか弱いんだから、傷からばい菌が入ったら大変でしょ?」

でも、と遠慮して、なずながそれでも、大丈夫と繰り返していれば、二人のやり取りを見て、ギンジは大きく溜め息を吐くと、ズボンのポケットからスマホを取り出した。