ぽんぽこ神社のたぬきと巫女と


 ドンッ。
 鈍い音が遠くから響いた。
 社殿(しゃでん)の中にいた巫女姿の少女が顔を上げる。

「……来る?」
「ふむぅ、来ますですねえ」

 妙ちくりんな丁寧語で応じたのは、たぬきだった。
 ぽてんと床に落ちているたぬき。ひんやりした板張りに腹をペタリとし、くつろぐ様子はまるで敷物だ。
 しゃべるたぬきにも動じることなく、巫女は「んーっ」と伸びをした。

「んじゃ、いっちょ神楽(かぐら)をやろうか」
「ですですー。こちらへお招きいたしますですよ。この世に未練を残す、どなた様かを!」

 起き上がったたぬきは四つ足でトコトコ歩き出す。
 ニコリとする巫女が開けた扉の外は――ほんのり赤い灯火に照らされた、小さな神社の境内だった。



  ✻ ✻ ✻



「あ……あれ?」

 一人の男がぼう然とし、あたりを見回していた。
 ここはどこだろう。いつの間にか街灯の一つもない暗闇にいる。
 見えるのは鮮やかな赤に塗られた鳥居。そしてその奥に続く参道だけだった。


 男は田中という。どこにでもいる会社員だ。三十歳。独身。
 今日も残業をなんとか切り上げ、帰る途中だったと思うのだが。田中は記憶を探った。

 自宅の最寄り駅は大きくないが、そこそこ栄えている。駅から徒歩十二分の安い賃貸マンションが田中の家だ。
 今日もいつも通り、ロータリーを抜け、横断歩道を渡り、そこで――。

「車が……突っ込んできたんだ」

 突然あびた白いライト。ドンッという衝撃。
 体が軋み、信じられないほどの痛みに襲われたような気がする。
 田中は自分自身を確認した。よれたスーツと通勤カバン。車に撥ねられたはずなのに、体には怪我もない。

「……え。まさか俺、死んだの?」

 そんなセリフを冗談でなく言う日が来ようとは。

 ――ポポンッ!

 途方に暮れる田中の耳に、いきなり軽やかな(つづみ)()が聴こえた。
 ポポポポ、ポポンッ!
 ッポン!
 ポ、ポン!

「神社から……?」

 田中は鼓に誘われるようにフラフラと鳥居をくぐる。

 参道の脇はうっそうとしていた。
 (もり)はとろりとした闇に沈み、風はなく、そよという木の葉ずれも聞こえない。
 ただただ響く、不思議な鼓――。

 奥に見えてきたのは、ほのかな灯籠の明かりに照らされるお(やしろ)だった。
 右手前には手水舎(ちょうずしゃ)社務所(しゃむしょ)、左に神楽殿(かぐらでん)。その小さな舞台で巫女さんが舞っている。

 白い衣に緋袴(ひばかま)。背中に結った髪が長い。まだ少女のような若さだ。
 真っ直ぐに空気を切る扇とひるがえる袖が清冽で、田中は目を奪われた。

 神楽といっても笛は鳴っていなかった。舞のお供は鼓だけ。だが舞台にいるのは巫女の他に、たぬき一匹で――。

腹鼓(はらつづみ)!?」

 ポポンッ!
 音高く鳴るたぬきの腹。天に差し伸べられた巫女の腕が止まる。

 どうにも素っ頓狂な状況だった。しかし田中が戸惑っているのにもかまわずに、たぬきと巫女はポーズを取る。
 スチャッ!
 やや古い、戦隊もののごとき決めフォーメーション。巫女がニッコリ笑顔になった。

「おまかせ下さい! 未練を晴らすお手伝い!」
「ぽんぽこ神社へようこそ! でございますー!」

 あまりのことに田中はピクリとも動けない。
 十秒ほど思考を空転させてから、やっとひと言絞り出した。

「…………異世界転生?」

 だって、車にはねられたんだし。
 迎えてくれたのが美しい女神さまじゃなくて、田中は首をかしげた。



  ✻ ✻ ✻



 残念ながら、ぽんぽこ神社では異世界転生のお世話はしていない。
 でも田中がつぶやいたのが〈異世界転移〉だったら、ある意味正しかった。ここは〈狭間の場所〉。異世界と言えなくもない。

「つまりあの世とこの世のあいだ、なのでございますー」
「うえっ……俺、成仏できなかったのか」

 夜の境内。
 町中の神社ならば車や電車のざわめきが届くはずなのに、それもない。静まりかえる空の下、言葉をしゃべるたぬきを前にして田中は事態を受け入れざるを得なかった。自分は死んだのだ。

「あのさ、成仏はお寺でしょ。ここ、神社ね」

 軽々しい口調で巫女が訂正した。だがすぐに舌を出す。

「ま、どうでもいいんだけど」
「いいのかよ!」

 田中は崩れ落ちそうになった。
 こちとら死にたてホヤホヤで混乱していて、センシティブ・グラスハートなのに!

 見た感じ、巫女は高校生ぐらい。バイトなのだろう。しかしこんな神社の求人など、どこかのサイトに掲載されているものなのか。田中のため息は止まらない。
 ちょこんと香箱座りするたぬきは、困惑する田中にかまわず話を進めた。

「田中さまは、何かが気にかかって黄泉の国へ行けないのですー。それをなんとかしないと、このままさまようことになりかねませんですー」
「さまよ……っ! え、一生幽霊やってるとか、そういう?」
「一生って。もう死んでるってば」

 巫女がケラケラ笑う。田中は無神経な巫女のことをギッとにらんだ。

「うるさいな! ずっと何かしてること『一生』って言うだろ? それに俺、まだ死んだ実感なんてないんだよ! そんな……突然……」
「あぁそっか、ごめんなさい」

 顔をゆがめて言葉に詰まる田中へ、巫女はあっさり謝った。悪気はないらしく、申し訳なさそうにする。

「今は平和な世の中だし、この若さで死ぬとか考えないもんね」
「そうだよ……まさか今日死ぬだなんて、おも、思わない、じゃないか……うっ……」

 田中はこみあげるものをこらえる。こんな小娘の前で泣きたくなかった。口をへの字にして耐える田中に、たぬきは尻尾をふぁさふぁさして尋ねる。

「お気持ちお察しいたしますー。で、ですね。ご自分の未練。想い残したこと。お心あたりございますです?」
「え……ええっと」

 田中は口ごもった。いろいろあるといえば、ある。
 というか、まだ死にたくないのだが。生き返るのは無理だろうか。しかしたぬきはあっさり首を横に振った。

黄泉返(よみがえ)りは、たぬきのお助けできることではない。でございますねえ」
「……はは。だよ、な」
「この世への里帰りは黄泉に行きましてから交渉していただいて」
「はあ!? できるの!?」
「わかりませんですー」
「えー? 気軽に黄泉から帰ってこられるなら、遺された人も悲しんだりしないでしょ?」

 ほわほわ受け答えするたぬきと、突き放した言い方の巫女。煙に巻かれたような気がするが、たぶん一度死んだら諦めろということだ。
 田中はがっくりしてお社の(きざはし)に座り込んだ。うつむく田中の顔を、たぬきがのぞき込む。

「明日以降、大切なご予定でもありましたです?」
「……そりゃ、まあ。仕事だって中途半端だし」
「お仕事はだいじですねえ。ご家族とかは、いかがでこざいましょう?」
「今は一人暮らしだけど。両親は田舎に……でも兄貴が結婚して地元にいて孫もできてるから、まあ」
「お兄さんがどうでもさ、あなたが先に死んじゃったら親御さんショックだよ。息子だもん」

 いきなり巫女から気づかわれて驚いた。若いなりに、人の心はあるらしい。

「そ、そうかな」
「そこで否定しないあたり、特に悪い関係じゃなかったんだね」
「……わかったような口ききやがって、高校生ぐらいのくせに」
「高校は行ってないよ」

 つまらなそうに巫女は唇をとがらせた。
 今どき中卒とは、何か事情があるのかもしれない。田中はややうつむいた。

「……なんか、ごめん」
「べっつにー。じゃあ田中さんの想い残りは家族じゃない、と」
「あ、ああ……たぶん」
「だとしたら、なんでございますかねえ。車の運転手への恨みというセンはいかがですー?」
「あ! 確かに……俺のこと殺した奴だもんな」
「って今それを思いついたなら、気にしてなかったんでしょ」
「ぐっ……」

 巫女の鋭い指摘に黙らされる。
 ――実は田中、自分の未練に心あたりはあった。でも初対面の相手にいきなり相談できることではないのだ。こんな生意気な巫女や、たぬきなんかに。

「……わからないなら仕方ないけど。早く想い残りを解決しないと危ないよー?」
「ゆうよは、五十日ですー」
「は? 猶予? 五十日って」
「それが死者の〈(いみ)〉の期間なの」

 忌が明ければ、穢れが終わる。枯れていた日常()が戻ってくる。
 魂が宙ぶらりんでいたとしても、その状態が日常となってしまうのだ。黄泉に行けないまま固定されれば――。

「自分で言ったでしょ。『一生幽霊』ってわけ」
「……四十九日じゃないのか」
「だからそれはお寺!」

 ちゃんとツッコミを入れる巫女を放っておいて、田中は考え込んだ。



  ✻ ✻ ✻



 社務所の控室で一晩休んだ田中は、「会社を見に行きたい」と申し出た。

「抱えていたプロジェクトが気になって。どうなったかと……」
「思ったより真面目な方なのですねえ」

 たぬきがシレッと失礼なことを言った。でも巫女は同情的だ。

「遅くまで仕事してたんでしょ? じゃなきゃ車にはねられることもなかったよねえ」

 そう。田中の死因は飲酒運転による事故。かなりのスピードが出ていたらしく、危険運転致死にあたると思われる。
 しかし犯人より何より気になることが田中にはあった。そのためにも会社に行きたい。

「現世に出ることって、できるんですか」
「できますです、はいー。でも話したり触ったりは無理ということになっておりまして。それでもよろしいですです?」

 田中がうなずくと、巫女は立ち上がった。
 ここは社務所の中だ。そこらへんの棚から、巫女は一枚の紙片を取り出す。そして用意したのは墨と筆。

「では御朱印を授けまーす」
「へ?」

 相変わらず軽い調子の巫女が背すじを伸ばし、筆を手にした。
 紙の上に堂々とした墨跡で記されるのは「狸穴(まみあな)大明神」の文字。
 次にたぬきが朱肉へ片手をポンと置く。
 そして、むにっ。
 鮮やかな肉球の印が文字の隣に押された。

「これをお持ちになれば、お出かけ可能でございますー」
「お、おう……」

 どういうシステムなのかわからないが、出られるならありがたい。スッと渡された御朱印をながめ、田中は目を細めた。

「……ここ、〈ぽんぽこ神社〉じゃなかったっけ。最初そう言ってた気が……」
「それは愛称。かわいくていいでしょ?」

 巫女がニッコリしたが、田中はその意見に賛同できなかった。



  ✻ ✻ ✻



 御朱印をカバンにしまった田中は、おそるおそる鳥居の外に出た。
 そこは普通に、町。
 振り向けばビルとビルの隙間の空間が歪み、ぽんぽこ神社の鳥居がそこにギュッと収まっている。

「……え。こわ」

 たくさんの人が行き交う通りは、田中が勤める会社の近くだった。自宅の最寄り駅で事故死したはずが、何故ここに。

「ご都合主義……ッ」

 小さく叫んだが、その声は誰にも聞こえないらしい。振り向く人はいなかった。

 今の田中はいわゆる幽霊であり、こんな真っ昼間に現れると思われていない存在だ。
 予想外のものは認知されにくい。だからよほど霊感の強い者でもなければ田中を知覚しないだろう、と言われた。たぬきから。

「たぬき、てのがなあ……」

 どこまで信じていいものやら。なんだか化かされている気がして仕方なかった。

 ――そのたぬき、ちょっと離れた後ろから田中を尾行している。巫女も一緒だ。

「いちばん気になるのが会社ってさ。今そういうの、なんて言うんだっけ」
「しゃちく、でございますねえ」
「田中さんもそれかあ」
「わかりませんですー」

 たぬきと巫女は、田中の後を追ってビルに入る。エレベーターに消える田中を見送り、巫女は周囲を確認した。

「うん。階段でいこ」
「えええー、なのですー!」

 たぬきの抗議の声を聞かないふりで、巫女はさっさと階段を上り始めた。エレベーターの浮遊感が慣れなくて嫌いなのだ。でも三階ほどで早々にたぬきの息があがる。

「たぬきは……たぬきはもう駄目です……」
「情けないなあ」

 だが幸いなことに田中は五階にいた。たぬきもヨロヨロたどりつく。田中が持つ御朱印とたぬきがつながっているので、見失うことはなかった。

 田中はぼう然と立ち尽くしていた。
 いつものオフィス。なのに同僚が誰も自分を見ない。挨拶もされない。デスクの上には花が飾られていた。
 聞こえてくる話題は田中の突然の訃報についてが多い。仕事の引き継ぎ、リスケ、まだ決まらない葬儀もろもろのことなど。

「俺……本当に死んだんだ」

 絞り出した声は震えていた。
 たぬきと巫女は離れたところで見守る。これは本人が受容しなければならないことだ。
 オフィスに電話が入ったのはそんな時だった。取ったのは、田中の後輩の間中(まなか)という女性。少し言葉を交わして上司に回す。

「田中さんの、お兄さまという方です」
「ああん?」

 渋々電話を受けた上司はいちおう沈痛な声を出した。

「お電話替わりました。このたびは大変なことになりまして、お悔みを申し上げます……はあ、はい」

 兄。電話の向こうにいる人のことを考えて田中の鼻の奥がツンとした。
 実家も大慌てだろう。昨夜遅くに連絡がいったのか、今朝になってからか。わからないが両親は悲しんでいると思う。驚いて倒れてないといいのだが。
 しばらく何事かを話して電話を切った上司は、大きくため息をついた。間中が心配そうにする。

「どんなお話でしたか」
「まあ普通に葬儀をこっちでやるので手伝ってくれと。あと労災の申請を頼むとか」

 通勤中の事故死ということになるので遺族補償給付や葬祭料が請求できる。犯人の自賠責との兼ね合いではあるが。でも上司は不満そうにつぶやいた。

「めんどくせえなあ。ただでさえ人手が足りないってのに事故るなんて」
「そんな」

 聞きつけた間中の表情が曇る。悲しげに瞳が揺れた。

「田中さんだって――死にたくなかったはずですよ!」

 強く抗議するひと言に、オフィスが沈黙した。



  ✻ ✻ ✻



 田中はぽんぽこ神社に帰ってきていた。フラフラとおぼつかない足取りで会社を出たところを、たぬきと巫女に確保されたのだ。
 今は社務所の控室にこもっている。何日か経ったのかもしれないが、よくわからなくなっていた。

 実感として迫った、みずからの「死」。
 誰からも認識されることのない幽霊として町を歩いて、足もとが崩れていくような感覚になった。自分なんて、ほんのちょっとしたことで消えてしまう存在なのだ。

 神社にこもっていても、田中はすでに死んでいる。
 腹は減らない眠くならないトイレも必要ない。
 それにカバンからスマホを取り出しても使うことができなかった。電波が届いていないのもあるが、もう中身にアクセスすることすら無理になっている。自分のスマホのはずなのにどういうことだ。

「俺はもう、俺じゃないのかよ」

 電話が掛けられるとは思っていなかった。でもカメラフォルダぐらい開けられてもいいじゃないか。社内レクリエーションでさりげなく混ざった集合写真。そこに写る人の姿をながめるぐらい。

「間中さん……」

 二年後輩の彼女は、田中と同部署。真っ直ぐな性格で正義感の強い、会社組織ではちょっと危ういところもある人だ。そんなところが気になって好きになった。
 会社に行こうと思ったのは彼女の様子を知りたかったからだ。
 何故なら――交際を申し込み、返事を待っているところだったので。

「くそ……っ」

 ドン、と床を叩いてみる。手はちっとも痛くなかった。

 田中と間中、名前が似てるねと笑い合ったのが懐かしい。もうそんなこともできなくなった。
 告白の結果どころじゃないのだ。
 田中という存在そのものが、彼女の人生から消えてしまうのだから。



  ✻ ✻ ✻



「――あれ?」

 気配が動いて、巫女は唇をとがらせた。

「田中さんが神社を出た! もう、勝手なんだから!」
「いえいえ、未練のためにがんばろうとなさっているんですー。えらいでございますよ」

 たぬきはウンウンと後方指導者ヅラをする。
 だがどこかへ行く田中をそのままにしてはおけなかった。よそで無縁幽霊になられても困るし、それはさすがに哀れだ。

「しゃーない、追っかけよ!」
「了解でございますー」

 鳥居をくぐった巫女とたぬきは、田中が持ち歩く御朱印の力をたどる。

「この町はどこ? 会社じゃないね?」
「子どもが遊んでおりますし、週末なのでしょうねえ。会社はお休みなのですー」

 せかせか小走りに田中を探す。するとまた、たぬきがゼェハァし始めた。

「た、たぬきは……たぬきはもうおしまいです……」
「あーもう! 運動不足!」

 ヒョロヒョロ足をもつれさせるたぬきのことを、巫女はガシッと抱き上げた。

「神さまだからって甘えてんじゃないわよ!?」
「も、もうしわけありませんですー」

 謝るたぬきを雑に抱えて巫女は走る。やっと視界にとらえた田中は思い詰めた顔をして、とあるマンションを見上げていた。

「……なに? ここ」
「なるほどなるほどー。ここはどうやら、同僚の間中さんのお宅なのですー」
「え、なんで家を知ってるの。気持ち悪っ」

 それは田中に厳しい意見だった。荒天の日、同時に退社してタクシーを乗り合いにしただけなので。もちろん下心がなかったとは言わないが、誓って住所の悪用はしていない。

「田中さんは、間中さんのことを想っているのですねえ」
「未練ってそれ? どうしたいのかな」
「――ほうほう。なんと想いを告げて、お返事を待っている局面だったみたいですですー!」
「そこで死んじゃったんだ。さすがにかわいそう」

 たぬきだって大明神を名乗るだけのことはあるのだ。すぐそこで強い気持ちを駄々漏らせている田中の念を読むぐらいならお手のもの。「未練を晴らすお手伝い」は、ここからが本番だった。

「田中さん、お待たせしましたですー」

 足もとからたぬきに声を掛けられて、田中はぎょっと飛び上がった。
 内緒で出てきたことも、ここが間中のマンション前なのも、すべてが後ろめたい。

「あ、あの。その、すみません俺」
「田中さんか想い残したことは、同僚の間中さんなのでございますねえ。承知いたしましたですよ――ええい!」

 気合一閃、たぬきはスイと手を伸ばす。
 そして、ポポン、と軽やかな腹鼓を鳴らした。

 ――田中の周囲が、闇に包まれる。

「うわ、え、ちょっとこれ何?」

 うろたえる田中の前に、ぼんやりと光が降った。それが次第に人の形を取っていく。そして呼びかけてきた。

「――田中、さん?」
「え――間中さん」

 現れたのは間中だった。どうやら田中の姿が見えるらしい。息を呑み、目を丸くしている。

「田中さん……あの、事故で亡くなったって聞いて、私びっくりして」
「そ、そうなんだよ。俺も信じられないんだけど死んだみたいで……え、なんだこれ、夢なのかな」

 田中は自分の頬をつねってみた。痛くない。やはり夢か。いや、社務所で床を叩いた時だって痛くなかった。これはただ、死んでいるだけ。

「もうなんでもいいか……間中さんと話せてるんだもんな」

 はは。嬉し泣きをこらえて田中は小さく笑った。
 たぬきが何か術でも掛けてくれたのかもしれない。ならばこの際、好きだった人にお別れぐらい言おう。

「あのさ俺、かっこ悪くてごめん。告白したのに返事も聞かずに死ぬなんて、すっげえ間抜けだ」
「そんなことないです! 田中さんは……いつも助けてくれたじゃないですか。私すごく尊敬してました」

 そうだった。
 男尊女卑な上司から間中に向けられる嫌みと八つ当たりにやんわり割って入るのが田中の常。仕事もなるべく引き受け、間中をかばっていた日々がもはや懐かしい。
 だが――。

「尊敬、か」
「あ、あの」
「いや、いいんだよ。もう俺は死んだんだ。告白の返事なんてしなくていいから」

 決定的にフラれるのを田中は拒否した。だってそうだろう、人生の最後でみじめな気持ちになりたくない。
 だが、田中に向ける間中の瞳はやさしかった。

「私、転職するんです」
「転職?」
「はい。しばらく前からそのつもりで動いていて……だからあの会社では、誰ともお付き合いするつもりはありませんでした」
「そっかぁ……」

 田中はしみじみと笑った。
 これは田中を傷つけないための言い訳なのだろうか。でもできれば本当であってほしい。間中がパワハラ上司から逃げ、どこかでキャリアをつないでくれるなら嬉しいと心底から思えた。

「よかった。間中さんは強い人だ。ここでお別れになっちゃうけど、どうか……幸せになって下さい」
「田中さん……」

 間中が涙をこらえる顔になる。深々と頭を下げてくれるのを見つめていると、田中の体は少しずつ軽くなっていった。

「あ、れ……俺……なんだかすごく、楽に……」

 さっきまで抱えていた不安や苦しさがどこかへ消えるのがわかった。
 体が透きとおる。光が満ちる。
 田中のまわりにあった暗闇はいまや、まばゆくあたたかな白になり――――。



 ――そして、唐突にそこは元のぽんぽこ神社に戻った。田中はもういない。いるのは巫女だけだ。

 ボンッ!

 奇妙な音とともに、たぬきが姿をあらわす。巫女はニッコリと迎えた。

「おかえり、間中さん(・・・・)
「はいー」

 照れ笑いするたぬきは、頭の上にあった葉っぱを手に取る。ぽんぽこ神社でゴロゴロ過ごしていても、化身の術は(なま)っていなかった。
 巫女は小さく見得を切り、芝居がかってみせる。

「まさか別れを告げた相手が化けだぬきとは、お釈迦様でも気がつくまい!」
「ええと、お釈迦様は仏教なのですー」

 というかセリフそのものは歌舞伎あたりだが、それはともかく。

 間中は生きた人間だ。霊感もない。
 そうなると田中と間中を直に合わせる方策は、たぬきにもなかった。だから、間中に化けた。

「でも、たぬきは嘘は申しておりませんですー。間中さんのお心を読み取り、正直な気持ちでお話をいたしましたですよー?」
「うんうん、わかってるって。だから田中さんも本音で話せたんだし」

 仕方ないとはいえ、本当に本物の相手と会わせられなかったことは申し訳ない。そんなたぬきの気持ちを知っているから、巫女は笑顔を見せた。


 ――だけど考える。
 人の命とはなんだろう。
 死んでなお抱きしめるほどの想いとは、何故生まれるのだろう。


 たぬきは静かな空を見上げた。
 たくさんの魂を見送ってきた、空を。

「田中さんは誠実に生きましたです……」
「ん。そだね」
「周りの人たちに渡してきた田中さんの心や想い出は、消えてなくなることはございません。間中さんの中にも、ちゃんと残りますですよ」
「うん」

 生きた証は受け継がれるのだ。世の中を見続けてきたたぬきだから知っている。
 幽霊となってこの世に残る手もあるが、それでも次第に想いを薄れさせ消えていくのが普通だった。「一生幽霊」をやるのは本当のところ難しい。
 でもそれでいい。
 心を後の世代へ送り届けていけば。

「――まあとにかく! 無事に送り出せてよかったのですー」

 ――ウゥゥー! カンカンカン! ウゥゥー!
 ひとりの魂を送った話をするそばから遠くで消防のサイレンが鳴り、たぬきと巫女は顔を見合わせた。

「あれ? 次が来る?」
「そのようでございますねえ。ならば続けて、お招きいたしますですよ!」

 勢いよく、たぬきが腹を叩く。
 ポーン!
 小気味よい音が空に響いた。

 それは終わった命への鎮魂の音色。そして、誰かにつなごうとあがく心へ向けたエール。
 だって命は残り続ける。想いはつながる。
 人から人へ、渡されていくものだから――。