試合開始のホイッスルが鳴っても、神代の集中はどこか欠けたままだった。
最初のパスが、わずかにずれる。
トラップが大きくなり、いつもなら簡単に収められるボールを弾いてしまう。
「……っ」
舌打ちを飲み込み、神代はもう一度客席を見た。
そこにいるはずの姿を、無意識に探してしまう。
いない。
わかっているのに、目が勝手に動く。
「神代、前!」
上羽の声で我に返り、慌てて走り出す。
だが一歩遅れた判断が、相手にボールを奪われる。
観客席がざわつく。
ベンチからも、いつもより緊張した声が飛ぶ。
落ち着け。
そう自分に言い聞かせても、胸の奥がざらついて、呼吸がうまく整わない。
「(なんで……来てないんだよ)」
試合に集中すべきだとわかっている。
でも、頭の片隅から拓の存在が離れない。
ゴール前。
決定機だったはずのシュートは、枠を大きく外れた。
「嘘だろ……」
自分でも信じられないミスに、神代はその場で立ち尽くす。
拳を握りしめても、力が入らなかった。
その瞬間、上羽がちらっと神代を見て、小さく舌打ちをする。
「……ダメだな、これ」
誰にも聞こえない声でそう呟いて、
もう一度、神代は客席を見上げた。
やっぱり拓はいない。
その事実が、ゴールを決められなかった悔しさよりも、ずっと深く胸をえぐっていた。
前半が終わり、ホイッスルの音が重くグラウンドに落ちた。
スコアボードは、無情にも相手校に一点リードを許したまま。 神代はピッチ中央で立ち尽くし、荒く息を吐いた。
「(……噛み合わない)」
パスはわずかにズレ、タイミングも合わない。 いつもなら自然と見えるはずのラインが、今日はやけに遠かった。
これだけ経ってもまだ拓は来ない。来る途中で何か事故にあったのではないか、それとも自分のことが嫌になったのではないか。
アップのときも、試合開始のときも。 その考えが頭の中から離れない。
「神代!」
監督の声に肩を震わせ、ベンチへ戻る。 重たい空気の中、選手たちが腰を下ろすと
「……なぁ」
その沈黙を、破ったのは上羽だった。
「東真、今日なんでこんな顔してんの?」
俯いたままの俺を見て、上羽は一歩前に出る。
「負けてるから?ミスしたから? それとも……誰か来てないから?」
一瞬、神代の肩がぴくりと揺れた。
「確かにさ、応援って大事だよ。気合も入るし、嬉しいし」
上羽はそこで一度言葉を切り、神代を真っ直ぐ見る。
「でもな、それに頼ってサッカーしてんのか?」
空気が張り詰める。
「お前、そんな選手じゃないだろ」
その言葉に、神代は顔を上げた。
「ピッチに立ってんのは、お前自身だ。 好きなやつが見てようが見てまいが、 やることは一つだろ?」
ぐっと拳を握りしめる。
「……勝って、見せるんだろ」
その一言が、胸の奥に落ちた。
神代はゆっくり立ち上がり、スパイクのつま先で地面を踏みしめる。
「(そうだ……)」
拓がいないから、じゃない。
拓に“見せたい”からこそ
「後半、いくぞ」
低く言った声に、仲間たちも顔を上げる。
上羽は小さく笑って、ぽんと神代の背中を叩いた。
「その顔だよ。あとは、結果で見せよう」
再び鳴るホイッスル。
神代はピッチに戻りながら、空っぽの客席を一度だけ見た。
「待ってろ、拓」
この試合が終わる頃、 自分の気持ちも、きっともう誤魔化せなくなっている。
後半が始まる。
少しずつ流れが変わり、ボールが繋がり始める。
一点を返し、同点。
そして、残り数分。
神代はセンターライン付近でボールを受けた。
前には相手ディフェンス。
一瞬の隙を突いて走り出す。
「(決める。ここで)」
そのとき。
「神代!!」
はっきりと聞こえた。
雑音じゃない。
間違えようのない、声。
スタンドの一角。
息を切らしながら身を乗り出している、拓の姿。
「いけ!!」
その瞬間、世界が一気に開けた気がした。
足に伝わる芝の感触。
ボールの重さ。
ゴールまでの距離。
迷いはなかった。
神代は振り抜く。
渾身のシュートが、ゴールネットを揺らした。
逆転。
歓声が爆発する中、神代はただ一人、スタンドを見た。
拓と、目が合う。
笑っていた。
息が上がって、必死で、でも確かに。
その笑顔だけで、全部報われた気がした。
「神代!ナイスゴール!!」
上羽に肩を叩かれて、ようやく現実に引き戻される。
周りは歓声と拍手で溢れているのに、俺の意識は一つの場所にしか向いていなかった。
着替えもそこそこに、気づけば客席へ走っていた。
人混みの中、少し居心地悪そうに立ってる拓が、すぐに目に入る。
目が合った瞬間、拓が驚いたように瞬きをして、それから、少し遅れて笑った。
その笑顔だけで、全部報われた気がした。
「……来てくれたんだ」
声が、思ったより低く震えていた。
拓は小さくうなずく。
「うん。途中からだけど……すごかった」
「……声、聞こえた」
それだけ言うと、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
あの一声で、どれだけ救われたか。
拓は気づいてない顔をして、少し照れたように視線を逸らした。
「叫んだら、届くかなって思って」
届いた。
叫ぶどころか、まっすぐ俺の心に刺さった。
気づけば、俺は一歩距離を詰めていた。
人目なんて、どうでもよかった。
ずっと抑えてきた感情が、試合と一緒に決壊しそうだった。
拓が俺を見上げる。
その目に映る俺は、今どんな顔をしてるんだろう。
「……拓」
「神代!」
声が重なる。
「あっ、ごめん!神代からどうぞ」
「いや、拓から。どうした?」
「あの……本当は今日、試合最初から見るつもりだったのだけど」
少し言いにくそうな顔をしながら拓は続ける
「行く前に、海斗に呼ばれて…」
「うん」
「海斗に…告白されて…」
やっぱり。心のどこかで覚悟はしていたが、動揺は隠せない
「そっか。それで拓はどうしたの?」恐る恐るの気持ちで聞く
「それは…」
拓は言いかけて、ほんの一瞬だけ言葉を飲み込んだ。
その間が、やけに長く感じる。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
試合中、あれだけ走って、叫んで、勝ったはずなのに。
今は、ゴール前に立たされている気分だった。
「無理に言わなくていい」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
逃げ道を用意したつもりだった。
けど本当は聞きたくて仕方なかった。
拓は小さく首を振る。
「ううん。ちゃんと、言う」
その目は、迷っているけど、逃げてはいなかった。
ーーーーーーーーーーーーーーー
家の玄関を出たら、目の前に海斗が立っていた。
「少しでいい。話したいことがある」
その声が、妙に真剣で。
胸の奥がざわついたけど、俺はうなずいてしまった。
公園のベンチ。朝の風が、まだ冷たい。
海斗は立ったまま、しばらく言葉を探すみたいに空を見ていた。
「久しぶりに再会しただろ。転校してきて、最初に拓を見つけたときさ……正直、安心した」
「安心?」
「うん。知らない場所で、知らない人ばかりで。でも、拓だけは変わってなかった」
ゆっくり、俺を見る。
「小学生の頃から、拓はそうだった。
誰にでも同じで、特別扱いしないのに、気づいたら一番近くにいる」
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
「……俺、ずっと好きだった」
はっきりとした声だった。
逃げも、冗談もない。
「離れてる間も、忘れたことなかった。
再会できたの、偶然じゃないって思いたかった」
沈黙。
遠くで、試合に向かう人たちの声が聞こえる。
「拓が、誰を見てるのかも……なんとなく、分かる」
それでも、と海斗は一歩だけ近づいた。
「ちゃんと、言わないまま終わりたくなかった」
告白。
心臓が、強く鳴る。
でも、答えはもう決まっていた。
「……ありがとう、海斗」
そう言ってから、深く息を吸う。
「気持ちは、すごく嬉しい。大事に思ってくれてるのも、伝わった」
海斗の目が、わずかに揺れる。
「でも、ごめん」
まっすぐ、目を見る。
「俺、もう……気づいてる人がいる」
一瞬、海斗は笑った。
苦笑いに近い、でも優しい笑い。
「だよな」
「海斗のこと、幼なじみとして大切だよ。
でも、それ以上には……応えられない」
少しだけ、沈黙。
やがて海斗は、肩の力を抜いた。
「言えてよかった。これで、ちゃんと前に進める」
そう言って、くしゃっと俺の頭を撫でる。
「行けよ。大事な人、待ってるんだろ」
その言葉に、胸が強く跳ねた。
「……うん」
走り出しながら、背中で聞こえた。
「応援してる。拓が選んだ答え」
その声は、少しだけ震えていた。
俺は振り返らなかった。
振り返ったら、迷いそうだったから。
俺は客席へ向かう。
神代のいる場所へ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
話を聞き終えた俺は、何も言えずに立ち尽くしていた。
「それで……」
拓がこちらを見る。
「俺、遅れたけど……それでも、神代の試合、見たくて来た」
胸の奥で、何かが崩れ落ちて、同時に積み上がる。
告白された。
それを断った。
それでも、ここに来た。
「……そっか」
それ以上、言葉が出なかった。
嬉しい、怖い、期待してしまう。
全部が混ざって、うまく整理できない。
拓は少し視線を落とし、ぎゅっと拳を握りしめてから、意を決したように顔を上げた。
「それと……俺から、ちゃんと言いたくて」
声が、ほんの少し震えている。
「俺は、神代のことが……その……」
その先を聞く前に、もう限界だった。
考えるより先に体が動いていた。
強く、拓を抱きしめる。
「……っ」
一瞬、拓の体がこわばったのがわかった。
でも次の瞬間、そっと俺の背中に腕が回される。
そのぬくもりに、心臓が大きく跳ねた。
「好きだよ、神代のこと」
囁くような声。
でも、はっきりとした言葉。
その一言で、今まで必死に押し込めてきた感情が、一気に溢れ出した。
抱きしめる腕に、思わず力がこもる。
「……本当に?」
自分でも驚くほど、弱い声だった。
ゆっくり腕をほどき、拓の目を見る。
「本当だよ」
逃げない視線。
まっすぐで、迷いのない瞳。
「俺は、神代のことが好き」
その表情が、声が、あまりにも大切で。
気づけば、そっと頬に手を伸ばしていた。
指先に伝わる体温。
拓の呼吸が、近い。
唇が、ほんの数センチの距離で止まる。
息が絡むほど近いのに、どちらも動けない。
「……いい?」
声が思ったより低く、震えていた。
拓は一瞬だけ驚いたように目を見開いて、それから小さく、でもはっきりとうなずく。
その仕草だけで、胸の奥が熱くなる。
もう迷えなかった。
そっと、触れるように
唇が重なる。
音もなく、深くもなく、ただ確かめ合うみたいなキス。
なのに、触れた瞬間、全身を電気が走ったようだった。
拓の指が、ぎゅっと俺のユニフォームを掴む。
逃げない、拒まない、その事実が嬉しくて、もう一度、少しだけ強く唇を重ねた。
「……神代」
名前を呼ばれて、胸が締めつけられる。
唇を離すと、拓は頬を赤くして俯いていた。
でも、その手はまだ離れない。
「俺さ……」
言葉を探していると、拓が先に顔を上げる。
「今まで、よく分からなかった。でも……今は、はっきりしてる」
その目が、真っ直ぐ俺を見る。
「神代のそばにいたい」
それだけで、全部報われた気がした。
俺はもう一度、今度は額を軽く合わせて笑う。
「……それ、反則」
夕焼けに染まるグラウンドの片隅で、
世界はまだ何も変わっていないのに、
確かに、俺たちは新しい世界へと歩きだした。
最初のパスが、わずかにずれる。
トラップが大きくなり、いつもなら簡単に収められるボールを弾いてしまう。
「……っ」
舌打ちを飲み込み、神代はもう一度客席を見た。
そこにいるはずの姿を、無意識に探してしまう。
いない。
わかっているのに、目が勝手に動く。
「神代、前!」
上羽の声で我に返り、慌てて走り出す。
だが一歩遅れた判断が、相手にボールを奪われる。
観客席がざわつく。
ベンチからも、いつもより緊張した声が飛ぶ。
落ち着け。
そう自分に言い聞かせても、胸の奥がざらついて、呼吸がうまく整わない。
「(なんで……来てないんだよ)」
試合に集中すべきだとわかっている。
でも、頭の片隅から拓の存在が離れない。
ゴール前。
決定機だったはずのシュートは、枠を大きく外れた。
「嘘だろ……」
自分でも信じられないミスに、神代はその場で立ち尽くす。
拳を握りしめても、力が入らなかった。
その瞬間、上羽がちらっと神代を見て、小さく舌打ちをする。
「……ダメだな、これ」
誰にも聞こえない声でそう呟いて、
もう一度、神代は客席を見上げた。
やっぱり拓はいない。
その事実が、ゴールを決められなかった悔しさよりも、ずっと深く胸をえぐっていた。
前半が終わり、ホイッスルの音が重くグラウンドに落ちた。
スコアボードは、無情にも相手校に一点リードを許したまま。 神代はピッチ中央で立ち尽くし、荒く息を吐いた。
「(……噛み合わない)」
パスはわずかにズレ、タイミングも合わない。 いつもなら自然と見えるはずのラインが、今日はやけに遠かった。
これだけ経ってもまだ拓は来ない。来る途中で何か事故にあったのではないか、それとも自分のことが嫌になったのではないか。
アップのときも、試合開始のときも。 その考えが頭の中から離れない。
「神代!」
監督の声に肩を震わせ、ベンチへ戻る。 重たい空気の中、選手たちが腰を下ろすと
「……なぁ」
その沈黙を、破ったのは上羽だった。
「東真、今日なんでこんな顔してんの?」
俯いたままの俺を見て、上羽は一歩前に出る。
「負けてるから?ミスしたから? それとも……誰か来てないから?」
一瞬、神代の肩がぴくりと揺れた。
「確かにさ、応援って大事だよ。気合も入るし、嬉しいし」
上羽はそこで一度言葉を切り、神代を真っ直ぐ見る。
「でもな、それに頼ってサッカーしてんのか?」
空気が張り詰める。
「お前、そんな選手じゃないだろ」
その言葉に、神代は顔を上げた。
「ピッチに立ってんのは、お前自身だ。 好きなやつが見てようが見てまいが、 やることは一つだろ?」
ぐっと拳を握りしめる。
「……勝って、見せるんだろ」
その一言が、胸の奥に落ちた。
神代はゆっくり立ち上がり、スパイクのつま先で地面を踏みしめる。
「(そうだ……)」
拓がいないから、じゃない。
拓に“見せたい”からこそ
「後半、いくぞ」
低く言った声に、仲間たちも顔を上げる。
上羽は小さく笑って、ぽんと神代の背中を叩いた。
「その顔だよ。あとは、結果で見せよう」
再び鳴るホイッスル。
神代はピッチに戻りながら、空っぽの客席を一度だけ見た。
「待ってろ、拓」
この試合が終わる頃、 自分の気持ちも、きっともう誤魔化せなくなっている。
後半が始まる。
少しずつ流れが変わり、ボールが繋がり始める。
一点を返し、同点。
そして、残り数分。
神代はセンターライン付近でボールを受けた。
前には相手ディフェンス。
一瞬の隙を突いて走り出す。
「(決める。ここで)」
そのとき。
「神代!!」
はっきりと聞こえた。
雑音じゃない。
間違えようのない、声。
スタンドの一角。
息を切らしながら身を乗り出している、拓の姿。
「いけ!!」
その瞬間、世界が一気に開けた気がした。
足に伝わる芝の感触。
ボールの重さ。
ゴールまでの距離。
迷いはなかった。
神代は振り抜く。
渾身のシュートが、ゴールネットを揺らした。
逆転。
歓声が爆発する中、神代はただ一人、スタンドを見た。
拓と、目が合う。
笑っていた。
息が上がって、必死で、でも確かに。
その笑顔だけで、全部報われた気がした。
「神代!ナイスゴール!!」
上羽に肩を叩かれて、ようやく現実に引き戻される。
周りは歓声と拍手で溢れているのに、俺の意識は一つの場所にしか向いていなかった。
着替えもそこそこに、気づけば客席へ走っていた。
人混みの中、少し居心地悪そうに立ってる拓が、すぐに目に入る。
目が合った瞬間、拓が驚いたように瞬きをして、それから、少し遅れて笑った。
その笑顔だけで、全部報われた気がした。
「……来てくれたんだ」
声が、思ったより低く震えていた。
拓は小さくうなずく。
「うん。途中からだけど……すごかった」
「……声、聞こえた」
それだけ言うと、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
あの一声で、どれだけ救われたか。
拓は気づいてない顔をして、少し照れたように視線を逸らした。
「叫んだら、届くかなって思って」
届いた。
叫ぶどころか、まっすぐ俺の心に刺さった。
気づけば、俺は一歩距離を詰めていた。
人目なんて、どうでもよかった。
ずっと抑えてきた感情が、試合と一緒に決壊しそうだった。
拓が俺を見上げる。
その目に映る俺は、今どんな顔をしてるんだろう。
「……拓」
「神代!」
声が重なる。
「あっ、ごめん!神代からどうぞ」
「いや、拓から。どうした?」
「あの……本当は今日、試合最初から見るつもりだったのだけど」
少し言いにくそうな顔をしながら拓は続ける
「行く前に、海斗に呼ばれて…」
「うん」
「海斗に…告白されて…」
やっぱり。心のどこかで覚悟はしていたが、動揺は隠せない
「そっか。それで拓はどうしたの?」恐る恐るの気持ちで聞く
「それは…」
拓は言いかけて、ほんの一瞬だけ言葉を飲み込んだ。
その間が、やけに長く感じる。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
試合中、あれだけ走って、叫んで、勝ったはずなのに。
今は、ゴール前に立たされている気分だった。
「無理に言わなくていい」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
逃げ道を用意したつもりだった。
けど本当は聞きたくて仕方なかった。
拓は小さく首を振る。
「ううん。ちゃんと、言う」
その目は、迷っているけど、逃げてはいなかった。
ーーーーーーーーーーーーーーー
家の玄関を出たら、目の前に海斗が立っていた。
「少しでいい。話したいことがある」
その声が、妙に真剣で。
胸の奥がざわついたけど、俺はうなずいてしまった。
公園のベンチ。朝の風が、まだ冷たい。
海斗は立ったまま、しばらく言葉を探すみたいに空を見ていた。
「久しぶりに再会しただろ。転校してきて、最初に拓を見つけたときさ……正直、安心した」
「安心?」
「うん。知らない場所で、知らない人ばかりで。でも、拓だけは変わってなかった」
ゆっくり、俺を見る。
「小学生の頃から、拓はそうだった。
誰にでも同じで、特別扱いしないのに、気づいたら一番近くにいる」
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
「……俺、ずっと好きだった」
はっきりとした声だった。
逃げも、冗談もない。
「離れてる間も、忘れたことなかった。
再会できたの、偶然じゃないって思いたかった」
沈黙。
遠くで、試合に向かう人たちの声が聞こえる。
「拓が、誰を見てるのかも……なんとなく、分かる」
それでも、と海斗は一歩だけ近づいた。
「ちゃんと、言わないまま終わりたくなかった」
告白。
心臓が、強く鳴る。
でも、答えはもう決まっていた。
「……ありがとう、海斗」
そう言ってから、深く息を吸う。
「気持ちは、すごく嬉しい。大事に思ってくれてるのも、伝わった」
海斗の目が、わずかに揺れる。
「でも、ごめん」
まっすぐ、目を見る。
「俺、もう……気づいてる人がいる」
一瞬、海斗は笑った。
苦笑いに近い、でも優しい笑い。
「だよな」
「海斗のこと、幼なじみとして大切だよ。
でも、それ以上には……応えられない」
少しだけ、沈黙。
やがて海斗は、肩の力を抜いた。
「言えてよかった。これで、ちゃんと前に進める」
そう言って、くしゃっと俺の頭を撫でる。
「行けよ。大事な人、待ってるんだろ」
その言葉に、胸が強く跳ねた。
「……うん」
走り出しながら、背中で聞こえた。
「応援してる。拓が選んだ答え」
その声は、少しだけ震えていた。
俺は振り返らなかった。
振り返ったら、迷いそうだったから。
俺は客席へ向かう。
神代のいる場所へ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
話を聞き終えた俺は、何も言えずに立ち尽くしていた。
「それで……」
拓がこちらを見る。
「俺、遅れたけど……それでも、神代の試合、見たくて来た」
胸の奥で、何かが崩れ落ちて、同時に積み上がる。
告白された。
それを断った。
それでも、ここに来た。
「……そっか」
それ以上、言葉が出なかった。
嬉しい、怖い、期待してしまう。
全部が混ざって、うまく整理できない。
拓は少し視線を落とし、ぎゅっと拳を握りしめてから、意を決したように顔を上げた。
「それと……俺から、ちゃんと言いたくて」
声が、ほんの少し震えている。
「俺は、神代のことが……その……」
その先を聞く前に、もう限界だった。
考えるより先に体が動いていた。
強く、拓を抱きしめる。
「……っ」
一瞬、拓の体がこわばったのがわかった。
でも次の瞬間、そっと俺の背中に腕が回される。
そのぬくもりに、心臓が大きく跳ねた。
「好きだよ、神代のこと」
囁くような声。
でも、はっきりとした言葉。
その一言で、今まで必死に押し込めてきた感情が、一気に溢れ出した。
抱きしめる腕に、思わず力がこもる。
「……本当に?」
自分でも驚くほど、弱い声だった。
ゆっくり腕をほどき、拓の目を見る。
「本当だよ」
逃げない視線。
まっすぐで、迷いのない瞳。
「俺は、神代のことが好き」
その表情が、声が、あまりにも大切で。
気づけば、そっと頬に手を伸ばしていた。
指先に伝わる体温。
拓の呼吸が、近い。
唇が、ほんの数センチの距離で止まる。
息が絡むほど近いのに、どちらも動けない。
「……いい?」
声が思ったより低く、震えていた。
拓は一瞬だけ驚いたように目を見開いて、それから小さく、でもはっきりとうなずく。
その仕草だけで、胸の奥が熱くなる。
もう迷えなかった。
そっと、触れるように
唇が重なる。
音もなく、深くもなく、ただ確かめ合うみたいなキス。
なのに、触れた瞬間、全身を電気が走ったようだった。
拓の指が、ぎゅっと俺のユニフォームを掴む。
逃げない、拒まない、その事実が嬉しくて、もう一度、少しだけ強く唇を重ねた。
「……神代」
名前を呼ばれて、胸が締めつけられる。
唇を離すと、拓は頬を赤くして俯いていた。
でも、その手はまだ離れない。
「俺さ……」
言葉を探していると、拓が先に顔を上げる。
「今まで、よく分からなかった。でも……今は、はっきりしてる」
その目が、真っ直ぐ俺を見る。
「神代のそばにいたい」
それだけで、全部報われた気がした。
俺はもう一度、今度は額を軽く合わせて笑う。
「……それ、反則」
夕焼けに染まるグラウンドの片隅で、
世界はまだ何も変わっていないのに、
確かに、俺たちは新しい世界へと歩きだした。
