クラスの中心にいる君と、隅っこにいる俺の話。

あの日から、二ヶ月ほど時間が経った。
体育の授業での一件は、いつのまにかクラスの「ちょっとした伝説」になっていて、俺の名前を知らなかったやつも、今ではみんな顔くらいは覚えているらしい。


でも、それが嬉しいかというと……
ちょっと微妙だ。 

噂のせいで、神代と一緒にいるだけで注目されることが増えたから。

「(あれ以来、少しずつ距離を詰めた気はするけど……)」

そんなことを考えながら、俺は机の上に積まれたプリントを見下ろす。

「期末テスト」

文字だけで頭が痛くなる。
そして俺の手は、英語のページで止まっていた。

「……やっぱ、動詞の過去分詞とか無理だわ」
思わずつぶやくと、隣の席の神代が小さく笑った。

「また英語?」

「うん……中間のとき、英語だけ赤点ギリギリだったし」

「ギリギリって、たしか……」

「……36点」
言った瞬間、神代が吹き出した。

「それギリギリって言わないだろ」

「ギリギリ“取れてない”の間違いじゃん!」

隣にいた上羽が、すかさずツッコむ。

「いや、一応他の教科はちゃんと取れてるから!」
「英語以外な」
「英語は…まぁ…」返す言葉がない。

二人に笑われて、俺は机に突っ伏した。

「……もうやだ。英語なんて消えてほしい」

「そう言ってたらまた同じことになるぞ」
神代がノートを閉じ、俺の前に英単語帳を差し出す。

「今日から、少しずつでもやろ。わかんなかったら、俺が見る」

「え、神代って英語得意なの?」 

「まぁ、拓よりは」
余裕そうな笑みを浮かべながら、神代が俺の方を見る。
その落ち着いた顔がなんだか少しムカついて、思わず「くっ……」と声が漏れた。


「たくっち、俺も教えてあげよーか?」
上羽がニヤニヤしながら隣の席に腰を下ろす。
「え、上羽も英語得意なの?」

「いや、英語じゃなくて……体育」

「え、体育って勉強関係ないじゃん!」

「いやいや、運動って意外と奥深いんだよー」
「じゃあ英語は?中間何点だったの?」

「英語はねー……ななじゅう」

「42点」
神代が、すかさず被せるように言った。
「あっ!ちょっ、それ言うなよ!」

「俺とほとんど変わらないじゃん!」
思わず吹き出すと、上羽が顔を真っ赤にして反論する。

「そんなことないし!じゃあ東真は何点なんだよ!」
「俺? 俺は……95」
その数字を聞いた瞬間、俺と上羽は同時に固まった。
「(……95?そんな点数、英語で取ったことないんだけど)」
静まり返った数秒のあと、上羽が天井を見上げて叫ぶ。
「顔も良くて、勉強もできて、スポーツもできて、神代くんには敵いません!」

「お前、声でかいって」
神代が呆れ気味に言うが、上羽は全く気にしていない。

そんな他愛もない会話をしていると、
「ねぇ、神代くん、上羽くん」

突然、前の方から女子の声がした。
見ると、クラスでもよく話しかけてくる女子数人が立っていた。

「今度のテスト前、みんなで一緒に勉強しない?放課後、図書室とかで」
教室の空気が一瞬だけ静まる。
周りの女子たちも、さりげなくその会話に耳を傾けている。

「え、勉強会?」上羽が少し反応をしめす。
「そうそう!人数多い方が楽しいし。神代くんとか教えるの上手そうだし」

「(俺は当たり前にいない設定だよね……)」
気まずい空気にならないよう存在感をできるだけ消す。

「えーいいじゃん、楽しそう!」上羽のすぐに食いつく様子に、
神代は「お前、すぐ乗るなよ」と呆れて言う。 
全く乗り気ではない神代に対して女子たちはアピールを続け、
「だってさ、テスト前にみんなでやるとか青春じゃん?」
「うんうん!そうだよね!」
と笑いながらも、神代の方をじっと見ていた。
「神代くんもどう?ね?」

「……」神代が少しだけ視線を落とし、ちらっと俺の方を見る。

「悪い。俺、もう予定入ってる」

「えっ、そうなの?何するの?」

「拓と上羽と、うちで勉強」

「えっ?」思わず俺が反応してしまう。

「うち使っていいって親が言ってたから」
「まじ!?やった!」上羽がテンション高くガッツポーズを決める。
「東真の家、久しぶりに行きたい!ってことで勉強会は無理だなーごめんね」
上羽が上手くその場をまとめる。

女子たちは
"なんであんたがいるの"
という視線を俺に向けながら
「そっか、残念。じゃあまた今度ね」と笑顔で席に戻っていった。
「……ふぅ」

「神代、今のって……」

「別に。人数多いと集中できねぇし」

「まぁまぁいいじゃん!放課後、たくっちも予定大丈夫そ?」

「あっ、うん…俺もいいの?」

「たくっちのための勉強会なんだからー」

「神代もいいの?」

そう横を見ると、神代は窓の外を見ながらぼそっと呟いた。
「……別に」
その横顔は、どこか嬉しそうで、俺は思わず笑ってしまった。

放課後。

「うぉー、神代ん家とか絶対キレイだろ!」
テンション高めの上羽が先に走っていく。
俺はその勢いに押されるように神代の家へ向かった。
玄関のドアを開けると、想像どおり整った空間が広がっていた。
余計なものがなく、どこか静かな空気が漂っている。

「おじゃましまーす!」
上羽の声に続けて「おじゃまします」と俺も小さく頭を下げた。
「部屋、二階」
神代が短く言い、階段を上っていく。
部屋に入ると、白を基調にしたシンプルな空間。
机の上には英語の参考書やノートがきちんと整頓されていた。
「やっぱキレイだなー、さすが綺麗好き」
上羽が感動したように言いながら、ベッドにダイブしかける。
「おい、寝るな」神代が素早く上羽の腕を掴んで止める。
「ちょっと座るだけー!」
「おい!」

いつものように軽口を叩く2人のやりとりを見て、思わず笑ってしまう。

「(……この空間に、俺がいるの、なんか不思議)」

「ほら、早く始めるぞ」

「はーい」

上羽はしぶしぶカバンから教科書を取り出し、机に広げる。
俺もそれに続いて、筆箱とノートを取り出した。
神代が机の前に座り、こちらをこちらに差し出す。
「昨日の範囲、どこ分かんなかった?」
「う、うーん…関係代名詞とか」
「そこか。じゃあ」
ペンを持つ神代の手が俺の手元に近づく。
思わず息を呑む。
「ここ、“that”の前にカンマ入れると意味変わる」

「え、あっ、そうなんだ」

近い。
声も、体温も。
その瞬間、背後から声が飛ぶ。

「よーし!お菓子タイムにしよーぜ!」
ガサガサと袋の音が鳴り、集中していた空気が一気に崩れた。
「……集中力どこ行った」
神代がため息をつく。
「集中力はあるよ!まずは腹ごしらえしないとねー」
上羽が満面の笑みでポテトチップスの袋を広げ、俺の方へ差し出してくる。

「ほら、たくっちも食え!」

「あ、うん」
ありがたく手を伸ばそうとすると


「違う、違う」
上羽が袋をすっと引き寄せた。
「えっ?」

「たくっち、俺があーんしてあげよう」
そう言って、ポテトチップスを一枚取り、口元へと差し出してくる。

「あ、うん……」

別に断る理由もなく、なんとなくそのまま口を開けた、、、その瞬間。

横から神代の手が伸び、ポテトチップスがひょいと奪われた。
「あっ!ちょっと東真!」
上羽がむっとする。
神代は無言でポテトチップスをもぐもぐと噛みながら、眉を上げる。
「……何?」とでも言いたげな顔。
「せっかく俺がたくっちにあーんしようとしたのに!」
上羽の抗議にも、神代は動じず。
俺は苦笑いを浮かべるしかない。
「じゃあ次は俺が、拓にする」
「……え?」
思考が止まった。神代の声があまりにも自然すぎて、冗談に聞こえなかった。

「い、いや、俺、普通に食べれるから!」

慌てて断ろうとするが、神代はもうポテトチップスを俺の口元へ持ってきていた。

「ほら」
至近距離で見つめられて、息が詰まる。
そのまま、仕方なく口を開けると、指先がほんの一瞬、唇に触れた気がした。

「……どう?」
「い、いや、普通にうまいけど……」

視線を逸らしながら答えると、上羽がすかさず声を上げた。

「じゃあ、次はたくっちが俺にあーんしてよ!」

「えっ、まぁ、うん……」

「お前は自分で食べろ」
神代が即座にツッコむ。

「えー!俺だけなんもなし!?」
その瞬間、神代が無表情のまま上羽の口にポテトチップスを5枚ほど押し込んだ。

「うわ、ぢょっど、なにずるんだよぉ!」

口いっぱいにチップスを詰められ、上羽が神代を軽く叩く。

俺はそのやり取りを見ながら、堪えきれず吹き出した。

「ははっ……もう、なにこの空気」
笑い声が部屋に広がり、外の夕焼けが窓をオレンジ色に染めていた。

机の上に広がるノートと、わずかにしけたポテトチップスの袋。
ページをめくる音と時計の針の音だけが、静かな部屋の中に響いていた。

「……“who”と“which”の違いは分かった?」
神代が俺のノートを覗き込みながら言う。

「うん、多分……」

「多分じゃなくて、ちゃんと覚えろ」

「う……」
そのやり取りの後ろで、かすかな寝息が聞こえた。

「……え?」
振り返ると、上羽が教科書を枕にして机に突っ伏していた。
ペンを握ったまま、完全に夢の中。
「おい、まじかよ……」
神代が呆れたように眉をひそめる。
「寝たの?」
「寝た。五分も経ってねぇ」
「はやっ……」

神代はため息をつきながら、上羽に上着を軽くかけた。
その仕草が、なんとなく優しくて。

「(……こういうところが、みんなに好かれる理由なんだろうな)」

そう思って、ふと視線が合う。
「……なんだよ」
「え、あ、いや……別に」
慌ててノートに視線を戻す。
「……なぁ」
神代が少し間を置いて、低い声で続けた。

「俺、こうして拓と一緒に勉強してるの、けっこう好きかも」

「えっ……」
不意に言われた言葉に、思考が止まる。

「真面目で、集中してて。見てて落ち着く」

そう言って、わずかに口元を緩める神代。

沈黙。

でも、不思議と気まずくない。

「(なんだろう。今だけ、時間がゆっくり流れてる気がする)」

気づけば、上羽の寝息が完全にリズムを刻んでいた。

神代はペンを置き、静かに背伸びをする。
「ちょっと飲み物取ってくる」

「うん」

神代が部屋を出ていく。
静けさが戻る。
何気なく視線を動かしたとき、棚の上に一枚の写真立てがあるのに気づいた。
気になって近づいてみる。
そこには、神代が小学生くらいの頃の写真。

神代が、ユニフォーム姿で笑っていた。
真っ白なサッカーウェア、青い空、グラウンド。
その手には、金色のトロフィー。

「(この時からサッカーやってたんだ)」
チームの中心にいる神代は、今よりもずっと楽しそうに見えた。

「(こんなに笑った顔するんだ)」

その瞬間、背後から声がした。
「……それ、見てるの?」
振り向くと、神代がペットボトルを2本手に持って立っていた。
どこか照れくさそうに目をそらしている。
「ご、ごめん。勝手に見ちゃって」
「いや。別に、隠してたわけじゃないし」
神代は写真を手に取り、しばらく見つめた。

「このときは、ただ楽しくてやってた。勝ち負けとか、全然気にしてなかったな」
「でも、すごい楽しそうだよ。いい顔してる」
「……まぁ、昔はな」
その声がほんの少しだけ寂しそうだった。
「今は?」
「今は……勝ちたいって思うようになった。だから、余計に笑えなくなったのかも」
神代の横顔を見ながら、胸の奥が少しざわつく。
グラウンドで見せる冷静な神代しか知らなかったから、写真の中の笑顔が新鮮で、でもどこか切なかった。
「でも、今の神代もサッカーしてる時、凄くかっこいいよね」

「えっ?」

「俺から見たら、凄くサッカーが好きなんだろうなって感じた」

そう言うと、神代は小さく息を吐いて、ほんの一瞬だけ笑った。
「お前、たまにズルいこと言うよな」
「え?」
「なんでもない」
そう言って神代は、写真をそっと棚に戻した。
「えっ、何?なんか嫌なことでも言っちゃった?」

「いや、そうじゃないけど」ふっと笑う神代。
「えー、なんだよー」
その会話に部屋の中が、少しだけ柔らかい空気になる。

「今日はここまでにするか」

「うん」
時計を見ると、いつの間にか外はすっかり暗くなっていた。
「結局こいつは最後まで起きなかったし」
神代が気持ちよさそうに寝ている上羽を見て、呆れたようにため息をつく。
「起こそっか」
俺が上羽の肩に手を伸ばそうとした瞬間。


「ちょっと待って」

神代の声が止めた。

「ん?」

「ちょっとやりたいことあるんだけど」
そう言って、神代が珍しくニヤリと笑う。
その笑顔には、明らかに“悪巧み”の匂いがした。

「……なんか企んでる?」
警戒しつつ尋ねると、神代はカバンの奥から何かを取り出した。


ジャーン――。


「……クラッカー?」

「せっかく勉強会してんのに、起きなかった悪い子には罰を与えないとな」
その言い方が妙に楽しげで、思わず笑ってしまう。


「……面白そう」
我ながら好奇心に負け、神代の案に乗ることにした。


2人でそっと上羽の両隣に座る。
寝息を立てている上羽の顔が、なんだか無防備で笑えてくる。

「せーのでいくぞ」

神代がクラッカーを構える。

「……いっせーのーで!」



パーーーン!!
静まり返った部屋に、派手な音が鳴り響いた。


その瞬間

「うわぁぁああ!!!」


上羽が飛び起き、目を見開いて叫ぶ。
「な、なに!?爆発!?!」
その取り乱した様子に、俺と神代は顔を見合わせて、同時に吹き出した。

「寝ぼけすぎだろ、お前」

「ちょ、なんだよこれ!心臓止まるかと思った!」

上羽が怒ったように言いながらも、どこか笑っている。
部屋の中に、三人の笑い声が響いた。

「もう……まじで勉強会っていうか、騒ぎ会じゃん」
上羽がぼやくと、
神代が「お前が寝るから悪い」と返す。

「でもさ、こういうのも、なんかいいよね」ぽつりとつぶやくと、神代が少しだけ視線をそらして「……まあ、悪くない」と呟く。

その言葉に、なんとなく胸の奥が温かくなる。

静かな夜、ふと時計を見ればもう夜の10時。

「そろそろ帰るか」

「送ってく」神代が立ち上がる。

「いいよ、家近いし」

「いや、夜だし」
そんなやりとりをしていると、上羽が伸びをしながら言った。
「次は寝ないからな!リベンジ勉強会、決定!」
神代が笑って頷く。

「次は俺が東真を驚かすからな」
そう言う上羽に、神代が「せいぜい頑張れ」と上羽の肩を叩く。

「またやろうな」俺の方を見て笑う神代と上羽。

「うん」
3人の距離が、また少し縮まった気がした。

「じゃあ、またテスト前日な」
「うわ、それはヤバいって」
笑いながら帰り支度をする二人。


なんでもない時間なのに、不思議と心が満たされていた。

「(……こういう時間、ずっと続けばいいのにな)」
そう思いながら、俺は神代の部屋の灯りを背に、そっと玄関を出た。


翌週
朝の光がカーテンの隙間から差し込む。
アラームの音にうめきながら目を開けると、時計の針はすでに7時を少し過ぎていた。


「やばっ……今日英語のテストじゃん!」


慌てて制服に袖を通しながら、昨日の夜の勉強を思い返す。

「(あんなに頑張ったけど、覚えてるかな……?)」
単語帳のページが頭の中でぐるぐる回る。
“relationship”…“achievement”…“influence”……

「(うん、たぶん大丈夫……たぶん)」

急いで家を出ると、秋の朝の空気が冷たくて、頭が少しシャキッとした。
通学路の角を曲がると、ちょうど上羽が自転車を押しながら歩いていた。

「おっ、たくっち!おはよー!」

「おはよう、今日は早いね」

「そりゃ、今日はテストだもん!早めに来て運を呼び込むタイプ!」

「……勉強じゃなくて運?」

「運も実力のうち!」
その後ろから、ゆっくり歩いてくる影がひとつ。

「朝から元気だな」

神代だった。
白いイヤホンを片耳にかけ、手には教科書。
「え、東真、まだ勉強してんの?」

「まぁ、確認だけ。拓は?」

「……寝坊」

「だろうな」

「なんで分かったの?」

「寝癖」
そう神代が少し笑って、俺の髪を軽くくしゃっとする。

「ほら、行くぞ。間に合わなくなる」

そう言って先を歩く神代の背中を見ながら、

「(本当に頼りになるやつだな……)」
と、心の中で小さく思う。

学校に着くと、すでに教室はピリッとした空気に包まれていた。
机の上には英語のプリントやノートが広げられ、みんなが最後の悪あがきをしている。

俺は自分の席に座り、深呼吸を一つ。
神代が横の席から、静かに言った。
「大丈夫。やったとこ、ちゃんと出る」
「……ほんと?」
「勘」
「それ、上羽と同じじゃん!」
「違う。俺のは“理論的な勘”」
「そんなのあるかよ」
そう言いながらも、少しだけ笑えた。

「頑張ろうな」

「うん」

少し前までは、テストの朝なんてただの憂うつな時間だった。
でも今は、不思議と怖くない。

チャイムが鳴り響き、いよいよ期末テストが始まった。
教室には、緊張と鉛筆の音だけが満ちている。
プリントの一枚目をめくると、見慣れない単語がずらり。

「(うわ……やっぱ英語、苦手だ……)」

昨日まで神代と一緒に勉強したところも、出ているには出ているけど、思い出すのに時間がかかる。
頭の中で単語と文法がぐるぐる回って、まるで英語の渦の中にいるみたいだ。
ちらっと前の席を見ると、神代は真剣な顔でスラスラとペンを走らせている。
「(すげぇ……)」
そんなことを思ってる間にも、時間だけが過ぎていく。
「残り五分です」
先生の声が響いた。
焦りで手が震える。
「(やばい、あと少し!)」
最後の問題をなんとか書き終えたところで、チャイムが鳴った。
「はい、そこまでー!答案用紙前に出してー」

「……終わったぁぁ!」
上羽が両手を広げて叫ぶ。
「おい、静かにしろっての」先生がプリントを回収しながら注意するが、もう誰も聞いていない。
「ふぅ……」俺も鉛筆を置いて天井を見上げた。
英語のテスト、手応えは、、ある!

「どうだった?」
横から軽い声が飛んでくる。
振り向くと、神代が俺を見ていた。
「うーん……」
「難しかった?」
「いや、いけた気がする!神代が教えてくれたところもでたし!」 
「そっか、良かった」優しい笑う姿には安堵のような表情にも見える。
「神代もできた?」

「まぁ出来た。でも……

リスニング、上羽の咳で聞こえなかった」

「俺のせい!?」前の席で上羽が勢いよく振り返る。
「お前、タイミング最悪だよ。“question number three”って言った瞬間に、ゴホン!って」
「だって緊張で喉乾いてて」

「水くらい飲め」

「持ってなかったの!」
神代と上羽のやり取りが始まり、俺は思わず笑ってしまう。
気がつけば、教室の空気も少しずつ和らいでいた。
「ま、終わったもんは仕方ない!」
上羽が勢いよく立ち上がり、拳を突き上げる。
「これで今日の英語とはおさらばだ」
「次、数学だぞ」

「現実見せんなって、東真ぁ!」

その瞬間、チャイムがもう一度鳴る。

「はいはいー次のテスト用紙配るよー」先生の声が響くと、上羽は机に突っ伏した。

「もうやだぁぁあ……」
「ほら、起きろよ」神代が上羽の背中を軽く叩く。
「うわー優しくしてー」

「じゃあ代わりに俺が叩こうか?」

「おっ、たくっちなら優しく」
その言葉と同時に神代が上羽の背中をもう一度叩く。

「強っ!東真じゃん!」

「拓はだめ」

そんなふざけたやり取りの中で、
俺はなんとなくこの空気が好きだと思った。
緊張と笑いが入り混じったこの時間。
神代と上羽がいて、くだらない話で笑っていられるこの瞬間が。

キーンコーンーーーー
チャイムと同時に「……終わったぁ……」
教室のあちこちからため息と安堵の声があがる。みんな早々に筆記用具を片付けて教室から出ていく。
上羽は大きく伸びをしながら、
「ふぁー、やっと終わった!テスト地獄、バイバーイ!」

「お前、最後の数学、途中で寝かけてたよな」

神代が呆れ顔で言う。

「いや、もうギリギリ状態でしたから。でも終わったからオールオッケー」

上羽は笑いながらバッグを肩にかける。
「じゃ、俺、顧問に呼ばれてるから行くわー」
「たくっちもお疲れ!」

「うん、おつかれ」手を振って上羽を見送ると、教室は一気に静かになった。
外からは他のクラスの笑い声と、蝉の声が混じって聞こえる。

「終わったな」
「…うん」
神代が席に腰をかけ、ペットボトルの水を一口飲む。
その仕草をぼんやりと見ていた俺は、
ふと気になって口を開いた。

「テストどうだった?」

「んー……まあまあ。最後数学でちょっとミスったかも」

「それで"まあまあ"なのずるい」
俺が笑うと、神代も肩をすくめた。

「拓は?」

「……国語が死んだ」
俺がぼそっと呟くと、神代がすぐに返した。
「やっぱりな。昨日、眠そうだったし」

「うっ」

図星を突かれて、言い返す言葉が見つからない。
自分でも、昨夜の眠気との戦いは惨敗だったと思う。
神代はそんな俺を見て、ふっと小さく笑った。
そして席を立ち、机の間を抜けて俺の前に立つ。
「苦手な英語も一生懸命やってたし」
そう言って、神代は当たり前のように俺の頭に手を置いた。

ポン、ポン、と軽く。
優しい手のひらの感触に、胸の奥が不思議と温かくなる。


教室にはもう誰もいない。
静かな空気の中で、窓からの風がカーテンを揺らした。

「……俺、子供じゃないけど」
ムスッとしたように言うと、神代は手を止めず、
俺の顔をまっすぐ見つめたまま、かすかに笑った。


「可愛い……」


その声は、まるで独り言のように小さかった。
だけど、はっきりと耳に届く。

「(ん? 今、“可愛い”って……俺が?)」

「い、今なんて?」思わず聞き返すと、

神代は一瞬だけ目をそらし、
「ん? あっ、いや……なんでも」
と、少し慌てたように手を引っ込めた。

その仕草が、逆に誤魔化しきれていなくて。
なんだか胸の奥がざわついた。

神代が手を引っ込めたあと、
教室の中にはほんの少しの沈黙が残った。
窓の外では放課後の風が、遠くで部活の声を運んでくる。
その音が、やけに遠く感じた。

「……そろそろ帰るか」

神代が何気なく言って、鞄を持ち上げる。
俺もつられて立ち上がるけど、まだ胸の奥がざわついていた。

「(“可愛い”って……どういう意味だったんだろ)」
子どもっぽい、って意味?
それとも、、、
考えれば考えるほど、答えは出ない。
ただ、さっきの神代の表情が頭から離れなかった。
いつもの余裕のある笑顔じゃなくて、
少しだけ、何かを隠すような顔。

「(なんか、変だ)」

「……どうした?」
神代が俺の顔を覗き込む。

「え、あ、なんでもない」

慌てて視線を逸らした。
窓の外はすっかりオレンジ色に染まっていて、
その光の中で神代の横顔がやけに綺麗に見えた。

「(神代って俺のことどう思ってるんだ)」
そう思いながら、俺は一歩遅れて神代のあとを歩き出した。

テストのことなんて、もう頭の中になかった。