クラスの中心にいる君と、隅っこにいる俺の話。

翌朝。昨日の考え事のせいで寝不足気味のまま教室に入る。
いつもなら感じない視線を感じ、周りを見ると空気がなんだか違う。
「ねぇ、昨日グラウンドで神代くんが誰かに手振ってたの見た?」
「見た見た!なんか、三浦くんの方だったよね?」
「え、マジで?もしかして仲いいの?」
「確かに昨日も3人で弁当とか食べてたし!」
耳に飛び込んでくる自分の名前。
心臓が変なリズムを刻み始める。
「(……やばい。もう昨日のことが広まってる)」
「(目立ちたくないのに、なんでこうなるんだよ…)」
机に鞄を置いて、そっと深呼吸をした。
そのとき、背中に軽い衝撃。

「人気者はつらいねぇ、たくっち?」
上羽がニヤリと笑いながら肩を叩いた。
「うわっ、びっくりした…!」声を潜める俺を見て、上羽は楽しそうに笑う。
ふと、教室のドアが開いた。
神代が静かに入ってくる。
周りの女子たちがざわめく中、彼の視線が一瞬こちらに向いた。
「おはよ。拓」
神代は昨日と変わらない様子で、周りのことも気にしていないようだ。

「お、おはよ……」
返す声が小さすぎて、届いたかも分からない。だけど、神代の口元が少しだけ緩んだのを見て、なんとなく安心した。

昼休み。
「腹減ったー!」
授業のチャイムが鳴り終わると同時に、上羽が両手を空に伸ばして叫んだ。

「朝、パン二個も食べてたくせに」
神代が呆れたように言うと、上羽は口を尖らせる。

「いや、足りないでしょ、どう考えても!」

「じゃあもっと食べろ」

「でも俺、ダイエット中なんだよなー」

「……なら食べるな」
そんな他愛もない会話を交わしながら、二人は当然のように俺の前の席へやってくる。

「たくっちも痩せてるよなー」

「えっ、そんなことないって」

「高校入ってから太ったし」

「え、まじ?それで太ったの?」

「うん……」
上羽のオーバーなリアクションに思わず笑ってしまう。
「俺も痩せよっかな……」
ぼそっと呟く俺に、神代が箸を止めた。

「いや、拓はそのままでいい」

「え?」

「それ以上痩せたら心配になる」


「そ、そうかな……」
視線を逸らそうとしたけれど、神代はまっすぐ俺の方を見ていた。


「うん。今のままがいいよ」
その言葉が、昼のざわめきの中でやけに静かに響いた。

すると、突然廊下の方から声が飛んでくる。
「上羽ー!神代ー!」
上羽が振り返る。
「あれ、鈴木じゃん?どした?」
「顧問がサッカー部全員集めろって!」

「えー!今食べ始めたばっかなんだけどなぁ」

「早く来いって!怒られるぞ!」
上羽が渋々弁当のフタを閉じる。

「すぐ戻ってくる」
神代は短くそう言い
「ほら、行くぞ」と上羽の肩を軽く押した。


「たくっちー!俺の弁当、見てて!」
上羽の声が遠ざかる。
教室に残ったのは、俺ひとり。

と、そのとき。背後から、影が差した。
「ねぇ、三浦くん」
振り返ると、女子たちが数人。
腕を組んだり、机に手をついたりしながら、俺を囲むように立っていた。

「ちょっと聞きたいんだけど……神代くんと上羽くんと仲いいの?」


「えっ……」


「だって今日も一緒にお弁当食べてたじゃん。昨日もグラウンドで神代くんに手振られてたね?」


「え、あれは、その……」

「一年のときは、違うクラスで関わりなかったはずなのになんで?」
笑顔とも探るような表情ともつかない視線が、いくつも突き刺さる。手の中の箸が震えた。
「ただ俺がひとりぼっちだから、声かけてくれただけだよ」
「そっかー…じゃあ神代くんって彼氏とかいるの?」
「えっ!気になる!上羽くんは!?」
女子の興味はそっちへいき、質問攻めが始まった。
「えっ?いや、そこまでは……」
何か言い返そうとしても、喉が固まってうまく言葉が出てこない。

「(女子、怖いって…)」

「でも神代くんと三浦くん、距離近くない?」
女子のひとりが、探るような目で俺を見つめる。

「……いや、そんなことないよ」

「ふーん」

どうしよう、早く誰か戻ってきてくれ。

「たくっちー! 見張りありがとー!」
まるで祈りが届いたみたいに、教室のドアが勢いよく開いた。
上羽の明るい声。続いて神代の姿が見えた瞬間、女子たちの表情が一気に引き締まる。
「お、なんか楽しそうじゃん?」
上羽は空気を読まずに軽く笑いながら入ってきた。
けれど、その後ろの神代の表情は明らかに違っていた。
無言のまま、女子たちをゆっくりと見渡す。
その目は、少し冷たかった。
「……何してたの?」
静かな声。だけど、教室の空気が一瞬で張り詰める。

「え、べ、別に?三浦くんと話してただけ」
「そうなのか?」神代が俺に聞いてくる

「え?あぁ…うん…」
「……そっか」
神代は短く答えると、俺の机の隣に無言で腰を下ろした。

その仕草が、まるで「ここは俺の場所だ」と言っているように見えた。

「俺ら、飯食うから。あっち行って」
「あっ。ごめん」
女子たちは少し気まずそうに笑い、そそくさと教室を出ていった。

残された静けさの中、神代は視線を落としたまま小さくつぶやく。
「……あいつら、何してた?」

「えっ、いや、別に。ちょっと話してただけ」


「……そう」
短く答えながらも、眉がわずかに動く。
その横顔に、いつもの落ち着きとは違う影が見えた。

「さぁ!食べよ食べよ!」
上羽がわざと明るく声を上げ、場を和ませる。
「てか、俺がいない間にモテモテじゃん、たくっち!」
上羽がにやにやと笑う。

「そ、そんなことないって!」

「いやいや、あんだけ女子に囲まれるのはモテ男の証拠です!」

「ちがうって」
笑いながら顔を伏せると、視界の端で神代が静かにこちらを見ているのが見えた。
その瞳には、どこか安心したような、けれど少し複雑な色が宿っていた。

「……次、体育か」
上羽が大きく伸びをしながらつぶやいた。


「やべっ!早く着替えないとだ」
食べ終わると、慌ててロッカー室に向かう。
更衣室の中はすでにざわざわと賑やかで、体操服に着替える男子たちの声が飛び交っていた。
「なにするんだろ?俺、バスケがいいー」
上羽がシャツを引っ張りながら言う。

「バスケか…」

「たくっち得意?」

「いや!全然…」
俺は苦笑いを浮かべながら首を振った。
運動音痴な俺にとって、どのスポーツも“苦手ランキング”で常に横並びだ。
「そう言って実は得意だったりするんじゃ…?」

「ほんとできないよ!」
上羽がからかうように笑い、俺は思わずタオルを軽く投げつける。
「うわぁ、たくっち怒ったー」
「あっ!ごめんごめん」
神代もふっと笑いながら横目で会話を楽しんでいる。
そんな他愛もない会話をしているうちに、チャイムが鳴った。
「やば、行こ行こ!」
体操服のまま駆け足で体育館へ向かう。

体育館に入ると、男子だけでなく女子の姿もあった。
「キャー!来た来た!体操服姿やばい!」
女子たちの黄色い声が響く。

「(さすが、相変わらずの歓声……)」

けれど神代も上羽も気にした様子もなく、いつも通り男子の輪の中へ入っていった。
「なぁ、今日女子と合同?」
上羽が不思議そうに首を傾げ、近くの男子に尋ねる。
「いや、今日は体育館を半分ずつ使うらしいぞ」

「まじかー!」
上羽はあからさまに顔をしかめた。
「俺、女子に見られながらやるの嫌なんだけど」

「(上羽のあんな顔、初めて見た。ほんとに嫌なんだな)」

一方で神代は、いつも通りの無表情。何を考えているのか、やっぱり読めない。 

「おーい!チャイム鳴ってるぞ!男子は早く集まれ!」
体育教師の怒鳴り声で、騒がしかった体育館が一気に静まる。
「女子はこっちに集まってー!」

「今日は体育館を男女で半分ずつ使うから、間違えて女子の方に行くなよ」

「行くわけねーだろ!」

「先生が行くんじゃねーの?」
男子たちの軽口に、先生は「うるせぇ!」と一喝した。

「今日はバスケをやるぞー!」 

「おーっ!やっぱバスケじゃん」
上羽が嬉しそうに声を上げる。
俺はというと、心の中で小さくため息をついた。よりによってバスケか……。

「今日は初回だから3対3のミニゲームにする。人数を数えて、適当にチーム組んでくれ」

「よっしゃ、たくっち、俺と組もー!」
上羽が真っ先に手を上げて、俺の肩を軽く叩いた。
「えっ、いいけど……」
そのとき、後ろから低い声が響く。

「俺も入る」

振り返ると、神代がボールを片手に立っていた。
相変わらず涼しい表情だけど、その目の奥にはほんの少し熱を帯びた光が見えた気がした。
「おっけー!じゃ、俺らチーム完成!」 
上羽が両手を伸ばして、俺と神代の肩をがっしり組む。


神代は一瞬、ちらっと上羽を見て少しだけ目を細めた。
「……お前、楽しそうだな」

「え?そりゃ楽しいでしょー!だってバスケやりたったんだから」

「ふーん」
その短いやり取りのあと、神代は軽くボールを回しながら俺の方へ視線を向けた。

「拓、怪我すんなよ」
「え、う、うん……」

「おーい、早く並べー!」という先生の声に急かされて、俺たちはスタートラインへ向かう。

笛の音が鳴り、ゲームが始まった。
上羽が素早くボールを拾い、ドリブルで相手を抜けていく。神代がそのボールを受け取り、華麗にシュートを決める。
「おぉー!さすが!」と周囲から声が飛ぶ中、俺はというと、、、
コートの端でおそるおそる動きながら、必死に邪魔にならないようにしていた。
試合が進む中、いきなり
「たくっち、パス!」と上羽の声が飛ぶ。
「え、えっ」目の前から飛んできたボールをほぼ反射的に掴む。

「(キャッチできた……)」



でもここからどうすればいいの?


白熱した状況とミスしてはいけない気持ちで焦ってしまう。

「拓!俺にパス」神代が、そう叫ぶ。
その声に反応して、俺は無我夢中でその方向へ投げる。
俺のパスから神代は華麗なパスを決める。
「いぇーい!東真、さすが!」上羽が駆け寄りハイタッチをする。「たくっちも!」
3人でハイタッチする。初めてスポーツで楽しいと思えた瞬間だった。
そして残り数十秒、ゲームが白熱していく。
上羽と神代の背中を追うように、俺も慌てて動いた。 
けれど、足は思うように動かず、目だけがボールを追いかけてしまう。

「あれ、ボールどこだ…」



バンッ!


「っ!」
予想外の方向から飛んできたボールが、勢いよく俺の側頭部に当たった。
視界が一瞬、真っ白になる。
「うわ、ごめん!大丈夫か」
相手チームの誰かの声が聞こえたが、頭がぐらぐらしてうまく立てない。
「拓!」
真っ先に駆け寄ってきたのは神代だった。

いつもの冷静な顔じゃない。眉をひそめ、焦ったように俺の頬を支える。

「たくっち!大丈夫?」上羽や先生も心配そうに俺に駆け寄る。
「どこ打った?目、見えるか」
「う、うん…ちょっと、くらって…」
「でも、ひとりで歩けるから。ちょっと保健室に……」
そう言いかけた瞬間、視界がふっと揺れ、体の力が抜けた。
気づいたときには、体が宙に浮いていた。

「えっ……!」
神代の腕の中。完全にお姫様抱っこの体勢。
「あのっ!ちょっ…」


「先生、ちょっと保健室連れて行きます」
「あぁ……よろしくな」
周りの男子はざわつき、体育館の一角が一気に騒がしくなる。
「だ、大丈夫だから!降ろしてもらって…」

「喋んな。動くと危ない」
神代は低い声でそう言って、しっかりと俺を抱えたまま歩き出した。

「え、え!?神代くん、三浦くん抱えてる!?」

「ちょっと、やばくない!?」
女子たちの声が一斉に上がった。
「東真、俺手伝うよ!」
上羽が慌てて駆け寄る。だが神代は短く首を振った。
「いい。俺が連れてく」
その一言で、体育館のざわめきが一瞬止まる。
神代は俺をしっかりと腕に抱えたまま、周囲の視線など意に介さず歩き出した。



"俺をお姫様抱っこしながら"



「(いや、なにこの状況ーーー)」

「(俺、お姫様抱っこされてる?しかも学年1のイケメンに!)」

その腕の中で、俺は完全に固まっていた。

信じがたい光景に、頭の処理がまったく追いつかない。
ざわつく女子たちの声が遠くで響く。

「やばっ……まじで映画みたい!」

「神代くん、王子様すぎる」
心臓の音がうるさいほど鳴っていた。
神代の制服越しに感じる体温が近すぎて、呼吸が落ち着かない。

「……重くない?」

「軽い」
間髪も入れずに返された声が、妙に真面目で、余計に恥ずかしくなった。

保健室に着くと、神代は片手で器用にドアをノックした。

コン、コン。

……返事はない。
「先生、いないのか」
彼が小さく呟く。

「あっ、あの……もう大丈夫なんで、ありがとう」
「そうか」
ようやくおろされると思い、神代が腕を離した瞬間、ふっと息が詰まる。
顔が近かった。ほんの数センチの距離で、互いの息が触れ合いそうになる。
「(ち、近い……)」
「俺、先生呼んでくるから。ここで待ってて」

「う、うん。ありがとう」

神代がドアを開けて廊下へ出ていく。
その背中が見えなくなった瞬間、ようやく息を吐き出した。
「(……なにこれ。まじで少女漫画じゃん)」

神代が出ていったあと、保健室には静寂が戻った。
外のざわめきが遠くに聞こえるだけで、やけに心臓の音が響いている気がする。
「(……落ち着けって。別にたいしたことじゃ……)」
そう自分に言い聞かせながら、ふと視線が鏡に向いた。
鏡の中の自分は、頬が見事に真っ赤だった。
「(……うわっ、やば。めっちゃ赤いじゃん……)」
指先でそっと触れてみる。熱い。
頬だけじゃない、耳まで赤くなってる。

「(あれ、これ完全に照れてるやつじゃん……)」
思わずうつむいた瞬間、神代の腕の感触がふっと蘇る。
しっかりした腕。あの安定感。

「(いやいやいや、何考えてんの俺!)」
思わず声に出して頭を抱えた。
ちょうどそのタイミングで、ドアの向こうからノックの音がする。
コン、コン。
「拓?」
神代の声だ。

慌てて姿勢を正す。
「せ、先生いた?」

「すぐ来るって」
神代が中に入ってくる。

「顔、赤いけど……痛む?」

「い、いやっ!大丈夫!ちょっと恥ずかしいだけ!」
「恥ずかしい?」

「えっ?!あっ、なんでもないっ!」
神代は少し首をかしげたあと、ふっと笑う。
「そういえば、初日も怪我してたよな」
神代がふと思い出したように言う。
「あっ、うん。転んじゃったやつね」

「そう。大きい怪我じゃなくて良かったよ」

「う、うん……」
その優しい言い方に、なんだか胸の奥がくすぐったくなる。

そう思った瞬間——ズキッ。

さっきボールが当たったあたりが急に痛んだ。
「いたっ……」
思わず小さく声が漏れる。
「どこ?」
神代の声が、少し低くなった。


次の瞬間、彼の手が伸びてきて、そっと俺の頭に触れた。
指先が髪をかき分けて、当たった部分を確かめるように撫でる。
「まだ痛むか?」
その声音は、驚くほど優しかった。
鼓動の音が、どんどん大きくなっていくのが分かる。

「……だ、大丈夫。ちょっと痛くなっただけ」
神代は小さく息を吐き、手を離した。
でもその手の温もりは、なかなか消えてくれなかった。
「ほんとに、大丈夫か?」

「うん……たぶん」

そう答えた時、保健室のドアが「ガラッ」と勢いよく開いた。

「ごめんねー。遅くなっちゃって」
入ってきたのは、白衣姿の保健室の先生だった。
「怪我しちゃったんだよね?」
「はい。ボールが頭に当たって」
神代が冷静に説明する。
「そっか、それであなたが運んでくれたのね」先生が少し笑いながら言う。

「ありがとう。後はやるからあなたは授業に戻って」
「でも、また立った時にふらついたりしたら心配で…」
「いや、もう大丈夫だと思う。先戻ってくれていいよ」

「そうか……」
神代はほんの一瞬だけ黙り、
ゆっくりと俺の耳元に顔を寄せた。

「……そしたらまたお姫様抱っこで」

「ちょ、ちょっと!言わなくていいから!」
思わず声が裏返る。
先生はそんな二人を見て、くすっと笑った。

「もー、あなたは早く戻りなさい」
「はい」
神代は軽く頭を下げ、
ちらりと俺の方を振り返ってから保健室をあとにした。
ドアが閉まる音がやけに静かに響く。
「仲がいいのね」
先生が柔らかく微笑む。

「じゃあ、ちょっと見せて。頭、当たったのね?」
促されて椅子に座ると、
先生がそっと髪をかき分けて傷のあたりを確認する。

「うん、大丈夫そうね。少し赤くなってるけど、冷やせばすぐ治るわ」
先生は保冷剤を渡しながら微笑んだ。

「そうですか、ありがとうございます」

冷たい保冷剤を当てながら、ぼんやりと天井を見上げる。体育館の喧騒が嘘みたいに、ここだけ静かだった。

「……神代くん、優しい子ね」
先生が机にカルテを置きながら言った。
「えっ?」
「いや、凄くあなたのこと心配していたから」
「そうですかね…?」
「私はそう見えたよ」
先生は少しだけ笑う。
その笑い方が優しくて、つい本音がこぼれそうになった。
「……俺、正直、よく分かんないんです」
「なにが?」
「俺は、地味だし目立つようなタイプじゃないのに、神代と上羽は話しかけてくれたり、心配してくれたり…」

保冷剤を握る手に少し力が入る。

「俺も友達だと思ってるけど……
本当に神代や上羽は、そう思ってくれてるのかなって」
先生はしばらく黙ってから、柔らかく微笑んだ。
「人の心って、見えない分だけ難しいけどね」

「……はい」

「でもね、あなたのことを“心配する”って、
 それだけでもう、立派な“想い”なのよ」

「想い……」

「うん。友達としてか、それ以上かは分からないけど、"心配する"ってことは、少なくともその人にとって大切な存在であるんじゃないかな」
その言葉に、胸の奥がじんわり熱くなった。
けれど同時に、
“自分なんかが”という思いもまだ消えなくて、俺はただ黙って頷いた。
先生は微笑んだまま、冷たい保冷剤をもうひとつ手渡してくれた。
「ほら、これ。少し頭冷やして考えなさい」
俺は思わず笑ってしまう。
「……はい」
保冷剤を当てながら、
窓の外の光をぼんやり見つめた。

チャイムが鳴ってしばらくしたころ、
保健室のドアが「コン、コン」と軽くノックされた。
「どうぞー」と先生が返すと、
ドアの隙間から、見慣れた2人の顔がのぞいた。

「失礼しまーす。拓、大丈夫?」
上羽が勢いよく入ってくる。
その後ろには、神代が少し控えめに立っていた。
「あっ、うん。もう元気」
「でもマジで焦ったぞ?思いっきり当たってたもんな」
「まぁ…」苦笑いでしか返せない。

「ほんとに無理してない?」
神代が一歩近づき、俺の顔を覗き込む。
その距離が近すぎて、息が詰まる。

「だ、大丈夫。冷やしてもらったし」

「そっか」
安心したように小さく頷く神代。

「じゃ、戻ろっか。次、移動教室だぞ」
上羽が明るく声を上げる。

「失礼しました」と先生に感謝を伝え、廊下に出る。

「はぁ〜、やっぱり拓が無事でよかったわ」
上羽が大げさに胸をなでおろす。

「まじで神代、顔真っ青だったからな。俺がどうだったって聞いたとき『心配で仕方ない』とか言い出して」
「おい、上羽」

「はいはい、悪かったって。照れてんだろ?」
上羽は笑いながら肘で神代の脇腹をつつく。
神代は無言でそっぽを向いたが、その耳の先がほんのり赤くなっていた。 

「(……ほんと、仲いいなこの2人)」

そんなふうに思っていたら、
神代がふいにこちらへ目を向けた。
「歩くの、平気?」

「う、うん。全然大丈夫」

「ならいい」
それだけ言って、神代は前を向く。
歩く速度を少し落として、俺の歩幅にさりげなく合わせてくれていた。
「(優しいよな、やっぱり)」

「(でも……こうして隣にいるの、俺でいいのか?)」
廊下の端では、女子たちがこっちを見て
ひそひそと話している。
「ねぇ、やっぱ神代くんと三浦くん、仲良くない?」
「お姫様抱っこ、ほんとだったんだ……」
その声が耳に刺さるように届く。

「(うわ、もう噂になってる……)」

「たくっち?」
上羽の声で、はっとする。

「ん、なに?」

「顔、赤いぞ?熱ある?」

「な、ない!全然!」
上羽が笑いながら肩を組んでくる。
気づけば、三人の影が廊下に並んで伸びていた。そのとき、さっき先生が言っていた言葉を思い出した。

――“その人にとって大切な存在”

「(……俺、本当にあの2人の隣にいていいのかな)」
そんな迷いを胸に抱えたまま、けれどどこか嬉しい気持ちのまま、2人より一歩後ろを歩いた。