氷の王子は、俺の「言葉」にだけ熱を宿す

 翌朝。
 重苦しい空気が、体育館を支配していた。
 全校集会。普段ならダルそうに私語を交わす生徒たちも、今日ばかりは異様な緊張感に包まれている。
 視線の先にあるのは、ステージの袖に控える俺――有村雪だ。
「あいつが例の……」
「よく学校来れたな」
「メンタル強すぎでしょ」
 ヒソヒソ話が、さざ波のように広がっている。
 針のむしろだった。俺は俯き、拳を握りしめて耐えていた。
 逃げ出したい。でも、逃げない。流星先輩が「信じて待ってろ」と言ったから。
 チャイムが鳴った。
 司会の教師がマイクを握る。
「えー、それでは、生徒会長より話があるそうです。氷室くん、どうぞ」
 ざわめきが、一瞬で消えた。
 ステージの中央に、氷室流星が現れたからだ。
 完璧に着こなした制服。白革の手袋。そして、凍てつくような美貌。彼はマイクスタンドの前に立つと、会場全体をゆっくりと見渡した。
 そのアイスブルーの瞳が通るだけで、生徒たちは蛇に睨まれた蛙のように静まり返る。
「生徒会長の氷室だ」
 低く、よく通る声。
 マイクを通したその声は、体育館の隅々まで染み渡った。
「今日は、一つ話がある」
 彼は、手元の原稿を一切見なかった。真っ直ぐに前を向き、堂々と語り始めた。
「来月の文化祭について、訂正と報告だ」
 会場が、さらに静まり返る。
「現在、生徒会主催の演劇について、事実無根の噂や悪意ある誹謗中傷がネット上で拡散されている」
 流星先輩の声が、一段と低くなる。
「脚本担当者に対する、個人攻撃だ」
 どよめきが起きた。まさか、生徒会長が裏サイトの話題を公の場で出すとは思わなかったのだろう。
「脚本を担当しているのは、2年A組の有村雪」
 流星先輩が、袖にいる俺の方を向いた。
 「出てこい」という目配せ。
 俺は震える足に力を込め、ステージへと歩み出た。数百人の視線が、一斉に俺に突き刺さる。スポットライトが熱い。眩暈がしそうだ。
 けれど、隣に立つ流星先輩の存在感が、俺を支えていた。
「彼には、過去がある」
 流星先輩は、隠さなかった。
「中学時代、彼の書いた小説が原因でトラブルが起きた。それによって傷ついた人がいることも、彼自身が深く傷つき、筆を折ったことも――俺は知っている」
 会場のざわめきが大きくなる。
「やっぱり本当だったんだ」
「ヤバくない?」
 悪意の波が押し寄せてくる。俺は拳を握りしめた。
「静粛に!」
 流星先輩の一喝が、空気を裂いた。
 彼は、怒りを露わにしていた。普段の「氷の王子」からは想像もできない、激しい感情の色。
「過去は過去だ。それが、現在の彼の才能を否定する理由にはならない」
 彼は、俺の肩を抱くように――しかし触れずに、空中で腕を広げた。
「俺は、彼の書く文章を読んだ」
 一拍。
「……それは、誰かを傷つけるための言葉じゃない。誰かの孤独に寄り添い、凍えた心を温める、救いの言葉だ」
 流星先輩の声が、熱を帯びていく。
「俺自身、彼の言葉に救われた一人だ」
 会場が、息を呑んだ。
「俺がこの学校で、生徒会長として立っていられるのは、彼の言葉があったからだ。彼の書いた詩が、俺の支えだった」
 生徒たちが、呆気に取られた顔をしている。
 あの完璧な氷室流星が、「救われた」と言った。弱さを晒した。たった一人の、地味な生徒のために。
「脚本家として彼を選んだのは、俺だ」
 流星先輩は、会場全体を睨みつけた。
「俺が彼の才能に惚れ込み、俺が彼に頭を下げて頼んだ。文句があるなら、全て俺に言え」
 その瞳は、王者の風格を湛えていた。
「有村に対する中傷は、生徒会に対する、いや――」
 彼は一瞬言葉を詰まらせ、俺の方を向いた。
 マイクを通さず、俺にだけ聞こえる声で、彼は言った。
「彼は、俺の大切な人間だ」
 その言葉が、俺の胸を貫いた。
 涙が溢れて、視界が滲む。全校生徒の前で。教師たちの前で。彼は、自分の立場も名誉も投げ打って、俺を守ってくれた。
 最強の「氷の盾」となって。
 流星先輩は、再びマイクに向き直った。
「文化祭の演劇は、予定通り上演する。有村雪の脚本で」
 彼の声は、揺るぎなかった。
「以上だ」
 会場は、静まり返っていた。
 誰も、もう野次を飛ばす者はいなかった。流星先輩の覚悟と、俺への想いの深さに、圧倒されていたのだ。
 俺は、彼の横顔を見つめた。
 この人は、本当に、俺のために戦ってくれた。
 ありがとう。そして、ごめんなさい。
 心の中で、何度も呟いた。
   
 集会が終わった直後、流星先輩は教頭先生に呼び出された。
 「あまりにも過激だ」「公私混同だ」と、お説教を食らっているらしい。
 俺は、職員室の前の廊下で、柱の影に隠れて待っていた。心臓がまだドキドキしている。
 嬉しさと、申し訳なさと、そして彼への愛おしさで、胸がいっぱいだった。
 しばらくして、職員室のドアが開いた。
 流星先輩が出てくる。少し疲れた顔をしていたが、俺の姿を見つけると、ふっと表情を緩めた。
「……先輩」
 俺は、駆け寄った。
「待ってろと言った覚えはないぞ」
 憎まれ口を叩くけれど、声は優しい。
「すみません。俺のせいで……怒られましたよね」
「問題ない。少し小言を言われただけだ」
 彼は肩をすくめた。
 嘘だ。あんな大立ち回りを演じて、ただで済むはずがない。教頭だけじゃなく、生徒会の副会長たちからも文句を言われたに違いない。
 俺は、俯いた。
「どうして……あんなことまで」
「言っただろう。お前を守るのが、俺の役目だと」
 流星先輩は、俺の前に立った。
 距離、10センチ。
 今までで一番近い。彼の靴のつま先が、俺の靴に触れそうだ。
「顔を上げろ、雪」
 言われて、顔を上げる。
 至近距離にある彼のアイスブルーの瞳が、揺らめいていた。そこには、抑えきれない衝動が見えた。
「……触れたい」
 彼が、掠れた声で呟いた。
「今すぐお前に触れて、抱きしめて、お前がここにいることを確かめたい」
 彼の右手が、俺の頬へと伸びる。
 白革の手袋。
 それが俺の肌に触れるまで、あと数センチ。
 けれど、その手はピタリと止まった。指先が、痙攣したように震えている。
 ――怖い。
 彼のトラウマが、身体を縛り付けている。過去の泥水の記憶。裏切りの痛み。暴力の恐怖。それが、彼の手を拒絶させる。
「くそっ……!」
 流星先輩は、苦しげに顔を歪めた。
 こんなにも近くにいるのに。心はこんなにも通じ合っているのに。物理的な距離だけが、どうしても越えられない。
 その姿が、たまらなく切なかった。
「……先輩」
 俺は、廊下の窓から差し込む光に目を向けた。
 強い午後の日差しが、俺たちの影を床に長く伸ばしている。
「これなら、どうですか」
 俺は、自分の手を光にかざした。
 床の上に、手の影ができる。
 流星先輩は、ハッとして俺を見た。そして、吸い寄せられるように、自分の手をかざした。
 床の上で。
 俺の手の影に、彼の手の影が重なった。
 黒い影と影が、指を絡ませ、しっかりと握手をする。
「……影なら、汚れません」
「……ああ」
 流星先輩の声が震えた。
 彼は、影の中で、俺の手を強く握りしめた。
 物理的な感触はない。体温も伝わらない。けれど、俺には確かに感じられた。影が重なった瞬間、彼の魂から流れ込んでくる、不器用で、巨大で、温かい「愛」の熱を。
「これが、今の俺にできる精一杯だ」
「十分です」
 俺は、涙声で答えた。
「すごく、温かいです」
 俺たちは、廊下の片隅で、影の握手を交わし続けた。
 涙が、床に落ちて、影を濡らした。
 触れられないことが、こんなにも切なくて、でも、こんなにも尊い。
 チャイムが鳴った。
 予鈴だ。授業が始まる。教室に戻らなければならない。
 名残惜しく、影の手を離す。
「先輩」
 俺は、涙を拭って、彼を見上げた。
「脚本、必ず完成させます。最高のものを」
「ああ。期待している」
 流星先輩は、いつもの自信に満ちた笑みを浮かべた。
「俺たちが主役の物語だ。失敗するはずがない」
 俺は深く頷き、教室へと走った。
 背中に、彼の視線を感じながら。
   
 教室に戻ると、空気が変わっていた。
 集会の前のような、あからさまな敵意は消えていた。代わりにあるのは、戸惑いと好奇心が混じった視線。
「有村って、氷室先輩とマジで仲良いんだ……」
「生徒会長があそこまで庇うとか、ヤバくない?」
「あの人、あんなに感情的になるんだ」
 ヒソヒソ話は続いていたが、その内容は変わっていた。俺への非難から、俺と流星先輩の関係への興味へ。
 海斗だけは、変わらず窓の外を見ていた。
 俺は彼の背中を見つめた。彼が何を考えているのか、もう分からない。でも、いつか分かり合いたい。そう思った。
 放課後。
 俺は生徒会室に向かった。今日から、脚本執筆を再開する。
 ドアを開けると、流星先輩がすでに待っていた。
「遅いぞ」
「すみません」
「冗談だ。……座れ」
 俺は、いつもの席に座った。30センチの距離。でも、もうその距離は冷たくない。
 流星先輩が、俺の原稿を手に取った。
「続きを書け。俺が読む」
「はい」
 俺は、ノートパソコンを開いた。
 画面に向かい、キーボードに指を置く。そして、深呼吸をして、タイピングを始めた。
 物語は、クライマックスへ向かう。
 『触れられない王子』が、魔法使いの言葉を信じ、初めて世界に手を伸ばすシーン。
 俺は、全身全霊を込めて書いた。
 これは、俺たちの物語。
 触れられないけれど、心は繋がっている二人の、愛と救済の物語。
 必ず、ハッピーエンドにしてみせる。
 そして、いつか。
 影ではなく、本当の手で、彼に触れる日が来ると信じて。
 キーボードを叩く音が、静かな生徒会室に響いていた。
 窓の外では、夕陽が沈み始めていた。茜色の光が、二人の影を床に映し出す。
 その影は、少しだけ、重なり合っていた。