幸せな時間は、どうしてこうも脆いのだろう。
積み上げるのには途方もない時間がかかるのに、崩れるのは一瞬だ。まるで、波打ち際の砂の城のように。
屋上での誓いから一週間。俺と流星先輩の共作は、驚くほど順調に進んでいた。
放課後の生徒会室は、俺たちだけの聖域だった。キーボードを叩く音、ページをめくる音、時折交わされる短い会話。
物理的な距離は相変わらず30センチ。けれど、そこに流れる空気は、以前のような張り詰めたものではなく、秋の陽だまりのような穏やかさを帯びていた。
「この台詞、いいな」
流星先輩が、俺の書いたト書きを指差して微笑む。
「王子が初めて世界に触れる場面。……お前は、こういう希望を描くのが上手い」
「ありがとうございます」
褒められて、顔が熱くなる。
脚本は、クライマックスのシーンに差し掛かっていた。『触れられない王子』が、魔法使いの言葉によって呪いを解き、初めて他者に触れる瞬間。それは、俺と先輩の未来への祈りでもあった。
「あと二週間で文化祭だな」
流星先輩が、窓の外を見ながら呟いた。
「舞台で、お前の言葉が響く。……楽しみだ」
その横顔を見つめながら、俺は思った。
過去の傷は消えていない。海斗との確執も、そのままだ。でも、この人が隣にいてくれるなら、俺は大丈夫だ。
そう、信じていた。
俺は、何も知らなかった。明日の朝、全てが崩れ去ることを。
文化祭まであと二週間を切った、月曜日の朝。
教室に入った瞬間、空気が変わったのを感じた。
ザワッ、と波が引くように、話し声が止む。クラスメイトたちの視線が、一斉に俺に突き刺さる。
それは、いつもの「透明人間」を見る無関心な目ではない。好奇、軽蔑、そして恐怖を含んだ、異物を見る目だ。
「……おはよう」
恐る恐る声をかけてみる。
だが、誰も返事をしない。
近くにいた女子グループが、俺と目が合うなり、ヒソヒソと耳打ちをして距離を取った。
「ねえ、見た? 裏サイト」
「見た見た。マジでヤバいって」
「あんなのが脚本書いてるとか……」
嫌な予感が、背筋を駆け上がる。
俺は席に着くなり、震える手でスマホを取り出した。学園の非公式掲示板、通称「裏サイト」。トップページに、新しいスレッドが立っていた。
『【悲報】文化祭の演劇脚本、家庭クラッシャーが担当してる件』
タイトルを見ただけで、血の気が引いた。
指先が冷たくなるのを感じながら、震える指でタップする。
画面に並ぶ、容赦ない言葉たち。
『2年の有村雪って知ってる? 中学の時、友達の家庭崩壊させたらしいよ』
『マジで? 詳細キボンヌ』
『友達の親の不仲とか家庭環境とか、全部実話ベースで小説書いてネットに晒したんだって。で、それが特定されて友達の親が離婚したらしい』
『うわ、最悪。人の不幸で承認欲求満たすタイプ?』
『サイコパスじゃん』
『そんな奴がなんで生徒会演劇の脚本やってんの?』
『氷室会長も騙されてるんじゃない?』
『縁起悪いわー。今年の演劇、呪われそう』
『保護者から苦情来てるって噂もある』
『脚本降ろせよマジで』
書き込みは、数百件に及んでいた。そこには、俺がひた隠しにしてきた過去の傷が、醜悪に歪められて晒されていた。
「家庭クラッシャー」「人の不幸をネタにする悪魔」「サイコパス」。
投げつけられる言葉の礫。
誰だ。誰がこんなことを。
いや、考えるまでもない。俺の中学時代のことを、ここまで詳細に知っている人間は、この学校には一人しかいない。
俺は、窓際の席を見た。
桜庭海斗が、机に頬杖をついて窓の外を眺めていた。クラスの騒ぎなど我関せず、といった表情で。
だが、俺が見ていることに気づいたのか、ゆっくりとこちらを向いた。
その茶色の瞳は、暗く、冷たく、そしてどこか悲しげだった。
――言っただろ。これ以上被害者を増やすなって。
声は聞こえない。けれど、彼の目がそう語っていた。
これが、海斗なりの「守り方」なのかもしれない。俺を孤立させ、筆を折らせ、流星先輩から引き剥がすことで、先輩を俺から守ろうとしている。
歪んでいる。でも、俺には反論できない。書かれていることは、事実の一端だから。
俺が書いた小説が、海斗の家庭を壊す引き金になったのは、紛れもない事実なのだから。
一時間目の授業が始まっても、俺の頭には何も入ってこなかった。
教科書の文字が霞んで見える。黒板の文字も、水の中にあるように揺らいでいる。
休み時間。トイレに立とうとすると、前の席の男子が振り返った。
「なあ、有村。あれって、本当なの?」
好奇心丸出しの目だ。
「……」
「友達の家庭、崩壊させたって。マジでそんなことしたの?」
答えられない。
俺は黙って席を立ち、教室を出た。背後から、ヒソヒソと囁き合う声が聞こえた。
トイレの個室に逃げ込み、鍵をかける。
スマホの通知が鳴り止まない。知らないアカウントからのDMが次々に届く。
『脚本降りろ』
『人殺し』
『学校来んな』
『お前のせいで演劇が台無しになる』
言葉の暴力が、画面を埋め尽くす。
怖い。
二年前の悪夢が、鮮やかに蘇る。まただ。また俺は、居場所を失う。
やっと見つけた、温かい場所。流星先輩との時間。それも全部、俺の過去が壊してしまう。
昼休み。
俺は教室にいられず、図書室の奥の席に逃げ込んだ。以前、流星先輩に見つけられた場所だ。
あの日から、全てが変わった。
でも、もう終わりだ。俺が関わっていいものじゃなかったんだ、最初から。
ガタン。
誰かが向かいの席に座った。
顔を上げると、クラスの学級委員長だった。真面目な女子で、いつも俺には無関心だった。
「有村くん、ちょっといい?」
「……」
「文化祭実行委員会から伝言。……その、演劇の脚本なんだけど」
彼女は言いにくそうに、しかしはっきりと言った。
「保護者から学校に苦情が来てるらしくて。このままだと問題になるから、脚本担当を変えてほしいって」
予想していた。それでも、実際に言われると、胸に穴が開いたような感覚だった。
「……分かった」
「ごめんね。でも、仕方ないよね。評判とか、色々あるし」
彼女は申し訳なさそうに、でも安堵も混じった表情で席を立った。
一人残された俺は、机に突っ伏した。
放課後。
俺は文芸部の部室に向かった。幽霊部員だが、籍だけは置いている。正式に、脚本辞退を申し出るためだ。
ノックをして、ドアを開ける。
部長と数人の部員が、深刻な顔で話し合っていた。俺の姿を見ると、ピタリと会話が止まる。
「……有村くん」
部長が、困ったような顔で俺を見た。眼鏡をかけた、温厚な三年生だ。
「掲示板のこと、見たよ」
「はい」
「その……学校にも、保護者から連絡が来ててね。君が脚本を担当することに、反対の声が上がってるんだ」
部長は言葉を選びながら、しかし結論ははっきりしていた。
「悪いけど、脚本は降りてもらえないかな。このままだと、演劇そのものが中止になる可能性もあるし……」
当然だ。
俺みたいな爆弾を抱えた人間を、表舞台に出せるわけがない。
「分かりました」
俺は、深く頭を下げた。
「ご迷惑をおかけして、すみませんでした」
退部届を机に置き、俺は逃げるように部室を出た。
背後から、部員たちの安堵の溜息が聞こえた気がした。
廊下を歩く足が、鉛のように重い。
どこに行けばいいんだろう。
教室には居場所がない。部活も追い出された。
生徒会室?
行けるわけがない。流星先輩も、きっと知ってしまっただろう。俺の過去を。
『お前の言葉は薬だ』と言ってくれた彼も、真実を知れば軽蔑するに決まっている。「騙していたのか」と、あの冷たい目で睨まれるのが怖かった。
俺は、下駄箱で靴を履き替え、校門へ向かった。
逃げよう。このまま家に帰って、部屋に鍵をかけて、二度と出てこないようにしよう。そうすれば、もう誰も傷つけない。
流星先輩のことも、忘れよう。短い夢だった。氷の王子と過ごした、魔法のような一ヶ月。それだけで十分じゃないか。
校門が見えてくる。
夕陽が、長い影を落としている。
そして、その門柱の前に、人影があった。
腕を組み、仁王立ちで待ち構えている長身のシルエット。白革の手袋が、夕陽を受けて赤く染まっている。
――氷室流星。
俺は、息を呑んで立ち止まった。
なぜ、ここにいる。生徒会の仕事はどうしたんだ。
逃げ出したい。でも、足がすくんで動かない。
流星先輩が、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。その表情は、怒っているようにも、泣き出しそうにも見えた。
俺との距離、三メートル。
彼はそこで足を止めた。
「……どこへ行く」
低く、抑揚のない声。
「……家に、帰ります」
「脚本は? 今日の打ち合わせはどうする」
「……辞めます」
俺は、視線を地面に落としたまま言った。
「脚本担当、降りました。文芸部も辞めました。だから、もう先輩と会う理由はありません」
嘘じゃない。でも、本心でもない。
会いたい。そばにいたい。でも、俺と一緒にいたら、先輩まで汚れてしまう。
「理由を聞こうか」
「……知ってるくせに」
俺は、自嘲気味に笑った。
「掲示板、見たんでしょう? 俺はそういう奴なんです。人の不幸をネタにして、平気な顔をしてる化け物なんです」
わざと、突き放すような言い方をした。
「……先輩のことも、騙してました。すみませんでした」
これでいい。これで、彼は俺を嫌いになる。軽蔑して、罵って、二度と関わらないでくれ。
だが。
返ってきたのは、罵倒ではなかった。
「……馬鹿野郎」
震えるような、怒声。
俺は驚いて顔を上げた。
流星先輩は、顔を歪めていた。それは俺に向けられた怒りではなく、俺を傷つける世界への、どうしようもない憤りの表情だった。
「誰が、お前を化け物だと言った。誰が、お前を否定した」
彼は、一歩、また一歩と近づいてくる。
俺は後ずさった。
「来ないでください! 俺に関わると、先輩まで悪く言われます! 生徒会長の評判に傷がつきます!」
「そんなもの、どうでもいい!」
流星先輩が叫んだ。
普段の冷静な彼からは想像もできない、感情を剥き出しにした声。
「俺が守りたいのは、生徒会長の椅子じゃない」
彼は、俺の目の前まで迫った。
「お前だ、雪!」
距離、30センチ。
彼は右手を伸ばした。俺の腕を掴もうとして――。
ピタリ。
その手は、空中で止まった。俺の腕の、わずか数センチ手前。
潔癖症のトラウマが、彼の身体を縛り付けている。指先が、痙攣したように震えている。
掴みたい。引き止めたい。でも、触れられない。
「……くそっ!」
流星先輩は、悔しそうに呻いた。行き場のない手を、強く握りしめる。
その拳が、俺の目の前で震えていた。
「なんで……なんで俺は、こんな時に、お前の手一つ握れないんだ……!」
彼の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
俺のために、泣いてくれている。最強の氷の王子が、こんなにも無力に、俺の前で泣いている。
その姿を見たら、俺の強がりなんて、一瞬で崩れ去った。
「先輩……」
「逃げるな、雪」
流星先輩は、濡れた瞳で俺を見つめた。
「勝手に終わらせるな。俺たちの物語は、まだ途中だろ」
「でも、みんなが……」
「世界中がお前を敵に回しても、俺は味方だと言ったはずだ」
彼の言葉が、冷え切った俺の心に、熱い杭を打ち込む。
「その言葉を、嘘にする気か」
「……」
流星先輩は、涙を拭い、決意に満ちた声で言った。
「明日、全校集会がある」
「え……?」
「そこで、俺が全てを話す」
俺は息を呑んだ。
「お前がどんな人間か。お前の書く言葉が、どれほど素晴らしいか。……俺が、証明してやる」
彼は、俺の前に立ちはだかるように、両手を広げた。
触れられないけれど、それは確かに、俺を守るための「盾」の形をしていた。
「お前を守る。それが、俺の役目だ」
夕陽の中で、彼の白い手袋が、黄金色に輝いて見えた。
俺は、溢れ出す涙を止めることができなかった。この人は、本当に、俺のために戦おうとしてくれている。自分の立場も、名誉も、全てを賭けて。
俺は、小さく頷いた。
もう、逃げない。この人がここまでしてくれるなら、俺も信じるしかない。
この、不器用で、優しくて、誰よりも熱い「氷の王子」を。
「……はい」
震える声で答えた。
「先輩を、信じます」
流星先輩が、ふわりと微笑んだ。
「ああ。……明日、全てを変えてみせる」
彼は拳を握りしめ、空に向かって掲げた。
「だから、信じて待ってろ」
茜色の空の下、彼の姿は騎士のように見えた。
俺の騎士。俺だけの、氷の王子。
積み上げるのには途方もない時間がかかるのに、崩れるのは一瞬だ。まるで、波打ち際の砂の城のように。
屋上での誓いから一週間。俺と流星先輩の共作は、驚くほど順調に進んでいた。
放課後の生徒会室は、俺たちだけの聖域だった。キーボードを叩く音、ページをめくる音、時折交わされる短い会話。
物理的な距離は相変わらず30センチ。けれど、そこに流れる空気は、以前のような張り詰めたものではなく、秋の陽だまりのような穏やかさを帯びていた。
「この台詞、いいな」
流星先輩が、俺の書いたト書きを指差して微笑む。
「王子が初めて世界に触れる場面。……お前は、こういう希望を描くのが上手い」
「ありがとうございます」
褒められて、顔が熱くなる。
脚本は、クライマックスのシーンに差し掛かっていた。『触れられない王子』が、魔法使いの言葉によって呪いを解き、初めて他者に触れる瞬間。それは、俺と先輩の未来への祈りでもあった。
「あと二週間で文化祭だな」
流星先輩が、窓の外を見ながら呟いた。
「舞台で、お前の言葉が響く。……楽しみだ」
その横顔を見つめながら、俺は思った。
過去の傷は消えていない。海斗との確執も、そのままだ。でも、この人が隣にいてくれるなら、俺は大丈夫だ。
そう、信じていた。
俺は、何も知らなかった。明日の朝、全てが崩れ去ることを。
文化祭まであと二週間を切った、月曜日の朝。
教室に入った瞬間、空気が変わったのを感じた。
ザワッ、と波が引くように、話し声が止む。クラスメイトたちの視線が、一斉に俺に突き刺さる。
それは、いつもの「透明人間」を見る無関心な目ではない。好奇、軽蔑、そして恐怖を含んだ、異物を見る目だ。
「……おはよう」
恐る恐る声をかけてみる。
だが、誰も返事をしない。
近くにいた女子グループが、俺と目が合うなり、ヒソヒソと耳打ちをして距離を取った。
「ねえ、見た? 裏サイト」
「見た見た。マジでヤバいって」
「あんなのが脚本書いてるとか……」
嫌な予感が、背筋を駆け上がる。
俺は席に着くなり、震える手でスマホを取り出した。学園の非公式掲示板、通称「裏サイト」。トップページに、新しいスレッドが立っていた。
『【悲報】文化祭の演劇脚本、家庭クラッシャーが担当してる件』
タイトルを見ただけで、血の気が引いた。
指先が冷たくなるのを感じながら、震える指でタップする。
画面に並ぶ、容赦ない言葉たち。
『2年の有村雪って知ってる? 中学の時、友達の家庭崩壊させたらしいよ』
『マジで? 詳細キボンヌ』
『友達の親の不仲とか家庭環境とか、全部実話ベースで小説書いてネットに晒したんだって。で、それが特定されて友達の親が離婚したらしい』
『うわ、最悪。人の不幸で承認欲求満たすタイプ?』
『サイコパスじゃん』
『そんな奴がなんで生徒会演劇の脚本やってんの?』
『氷室会長も騙されてるんじゃない?』
『縁起悪いわー。今年の演劇、呪われそう』
『保護者から苦情来てるって噂もある』
『脚本降ろせよマジで』
書き込みは、数百件に及んでいた。そこには、俺がひた隠しにしてきた過去の傷が、醜悪に歪められて晒されていた。
「家庭クラッシャー」「人の不幸をネタにする悪魔」「サイコパス」。
投げつけられる言葉の礫。
誰だ。誰がこんなことを。
いや、考えるまでもない。俺の中学時代のことを、ここまで詳細に知っている人間は、この学校には一人しかいない。
俺は、窓際の席を見た。
桜庭海斗が、机に頬杖をついて窓の外を眺めていた。クラスの騒ぎなど我関せず、といった表情で。
だが、俺が見ていることに気づいたのか、ゆっくりとこちらを向いた。
その茶色の瞳は、暗く、冷たく、そしてどこか悲しげだった。
――言っただろ。これ以上被害者を増やすなって。
声は聞こえない。けれど、彼の目がそう語っていた。
これが、海斗なりの「守り方」なのかもしれない。俺を孤立させ、筆を折らせ、流星先輩から引き剥がすことで、先輩を俺から守ろうとしている。
歪んでいる。でも、俺には反論できない。書かれていることは、事実の一端だから。
俺が書いた小説が、海斗の家庭を壊す引き金になったのは、紛れもない事実なのだから。
一時間目の授業が始まっても、俺の頭には何も入ってこなかった。
教科書の文字が霞んで見える。黒板の文字も、水の中にあるように揺らいでいる。
休み時間。トイレに立とうとすると、前の席の男子が振り返った。
「なあ、有村。あれって、本当なの?」
好奇心丸出しの目だ。
「……」
「友達の家庭、崩壊させたって。マジでそんなことしたの?」
答えられない。
俺は黙って席を立ち、教室を出た。背後から、ヒソヒソと囁き合う声が聞こえた。
トイレの個室に逃げ込み、鍵をかける。
スマホの通知が鳴り止まない。知らないアカウントからのDMが次々に届く。
『脚本降りろ』
『人殺し』
『学校来んな』
『お前のせいで演劇が台無しになる』
言葉の暴力が、画面を埋め尽くす。
怖い。
二年前の悪夢が、鮮やかに蘇る。まただ。また俺は、居場所を失う。
やっと見つけた、温かい場所。流星先輩との時間。それも全部、俺の過去が壊してしまう。
昼休み。
俺は教室にいられず、図書室の奥の席に逃げ込んだ。以前、流星先輩に見つけられた場所だ。
あの日から、全てが変わった。
でも、もう終わりだ。俺が関わっていいものじゃなかったんだ、最初から。
ガタン。
誰かが向かいの席に座った。
顔を上げると、クラスの学級委員長だった。真面目な女子で、いつも俺には無関心だった。
「有村くん、ちょっといい?」
「……」
「文化祭実行委員会から伝言。……その、演劇の脚本なんだけど」
彼女は言いにくそうに、しかしはっきりと言った。
「保護者から学校に苦情が来てるらしくて。このままだと問題になるから、脚本担当を変えてほしいって」
予想していた。それでも、実際に言われると、胸に穴が開いたような感覚だった。
「……分かった」
「ごめんね。でも、仕方ないよね。評判とか、色々あるし」
彼女は申し訳なさそうに、でも安堵も混じった表情で席を立った。
一人残された俺は、机に突っ伏した。
放課後。
俺は文芸部の部室に向かった。幽霊部員だが、籍だけは置いている。正式に、脚本辞退を申し出るためだ。
ノックをして、ドアを開ける。
部長と数人の部員が、深刻な顔で話し合っていた。俺の姿を見ると、ピタリと会話が止まる。
「……有村くん」
部長が、困ったような顔で俺を見た。眼鏡をかけた、温厚な三年生だ。
「掲示板のこと、見たよ」
「はい」
「その……学校にも、保護者から連絡が来ててね。君が脚本を担当することに、反対の声が上がってるんだ」
部長は言葉を選びながら、しかし結論ははっきりしていた。
「悪いけど、脚本は降りてもらえないかな。このままだと、演劇そのものが中止になる可能性もあるし……」
当然だ。
俺みたいな爆弾を抱えた人間を、表舞台に出せるわけがない。
「分かりました」
俺は、深く頭を下げた。
「ご迷惑をおかけして、すみませんでした」
退部届を机に置き、俺は逃げるように部室を出た。
背後から、部員たちの安堵の溜息が聞こえた気がした。
廊下を歩く足が、鉛のように重い。
どこに行けばいいんだろう。
教室には居場所がない。部活も追い出された。
生徒会室?
行けるわけがない。流星先輩も、きっと知ってしまっただろう。俺の過去を。
『お前の言葉は薬だ』と言ってくれた彼も、真実を知れば軽蔑するに決まっている。「騙していたのか」と、あの冷たい目で睨まれるのが怖かった。
俺は、下駄箱で靴を履き替え、校門へ向かった。
逃げよう。このまま家に帰って、部屋に鍵をかけて、二度と出てこないようにしよう。そうすれば、もう誰も傷つけない。
流星先輩のことも、忘れよう。短い夢だった。氷の王子と過ごした、魔法のような一ヶ月。それだけで十分じゃないか。
校門が見えてくる。
夕陽が、長い影を落としている。
そして、その門柱の前に、人影があった。
腕を組み、仁王立ちで待ち構えている長身のシルエット。白革の手袋が、夕陽を受けて赤く染まっている。
――氷室流星。
俺は、息を呑んで立ち止まった。
なぜ、ここにいる。生徒会の仕事はどうしたんだ。
逃げ出したい。でも、足がすくんで動かない。
流星先輩が、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。その表情は、怒っているようにも、泣き出しそうにも見えた。
俺との距離、三メートル。
彼はそこで足を止めた。
「……どこへ行く」
低く、抑揚のない声。
「……家に、帰ります」
「脚本は? 今日の打ち合わせはどうする」
「……辞めます」
俺は、視線を地面に落としたまま言った。
「脚本担当、降りました。文芸部も辞めました。だから、もう先輩と会う理由はありません」
嘘じゃない。でも、本心でもない。
会いたい。そばにいたい。でも、俺と一緒にいたら、先輩まで汚れてしまう。
「理由を聞こうか」
「……知ってるくせに」
俺は、自嘲気味に笑った。
「掲示板、見たんでしょう? 俺はそういう奴なんです。人の不幸をネタにして、平気な顔をしてる化け物なんです」
わざと、突き放すような言い方をした。
「……先輩のことも、騙してました。すみませんでした」
これでいい。これで、彼は俺を嫌いになる。軽蔑して、罵って、二度と関わらないでくれ。
だが。
返ってきたのは、罵倒ではなかった。
「……馬鹿野郎」
震えるような、怒声。
俺は驚いて顔を上げた。
流星先輩は、顔を歪めていた。それは俺に向けられた怒りではなく、俺を傷つける世界への、どうしようもない憤りの表情だった。
「誰が、お前を化け物だと言った。誰が、お前を否定した」
彼は、一歩、また一歩と近づいてくる。
俺は後ずさった。
「来ないでください! 俺に関わると、先輩まで悪く言われます! 生徒会長の評判に傷がつきます!」
「そんなもの、どうでもいい!」
流星先輩が叫んだ。
普段の冷静な彼からは想像もできない、感情を剥き出しにした声。
「俺が守りたいのは、生徒会長の椅子じゃない」
彼は、俺の目の前まで迫った。
「お前だ、雪!」
距離、30センチ。
彼は右手を伸ばした。俺の腕を掴もうとして――。
ピタリ。
その手は、空中で止まった。俺の腕の、わずか数センチ手前。
潔癖症のトラウマが、彼の身体を縛り付けている。指先が、痙攣したように震えている。
掴みたい。引き止めたい。でも、触れられない。
「……くそっ!」
流星先輩は、悔しそうに呻いた。行き場のない手を、強く握りしめる。
その拳が、俺の目の前で震えていた。
「なんで……なんで俺は、こんな時に、お前の手一つ握れないんだ……!」
彼の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
俺のために、泣いてくれている。最強の氷の王子が、こんなにも無力に、俺の前で泣いている。
その姿を見たら、俺の強がりなんて、一瞬で崩れ去った。
「先輩……」
「逃げるな、雪」
流星先輩は、濡れた瞳で俺を見つめた。
「勝手に終わらせるな。俺たちの物語は、まだ途中だろ」
「でも、みんなが……」
「世界中がお前を敵に回しても、俺は味方だと言ったはずだ」
彼の言葉が、冷え切った俺の心に、熱い杭を打ち込む。
「その言葉を、嘘にする気か」
「……」
流星先輩は、涙を拭い、決意に満ちた声で言った。
「明日、全校集会がある」
「え……?」
「そこで、俺が全てを話す」
俺は息を呑んだ。
「お前がどんな人間か。お前の書く言葉が、どれほど素晴らしいか。……俺が、証明してやる」
彼は、俺の前に立ちはだかるように、両手を広げた。
触れられないけれど、それは確かに、俺を守るための「盾」の形をしていた。
「お前を守る。それが、俺の役目だ」
夕陽の中で、彼の白い手袋が、黄金色に輝いて見えた。
俺は、溢れ出す涙を止めることができなかった。この人は、本当に、俺のために戦おうとしてくれている。自分の立場も、名誉も、全てを賭けて。
俺は、小さく頷いた。
もう、逃げない。この人がここまでしてくれるなら、俺も信じるしかない。
この、不器用で、優しくて、誰よりも熱い「氷の王子」を。
「……はい」
震える声で答えた。
「先輩を、信じます」
流星先輩が、ふわりと微笑んだ。
「ああ。……明日、全てを変えてみせる」
彼は拳を握りしめ、空に向かって掲げた。
「だから、信じて待ってろ」
茜色の空の下、彼の姿は騎士のように見えた。
俺の騎士。俺だけの、氷の王子。
