氷の王子は、俺の「言葉」にだけ熱を宿す

 屋上での和解から数日後。
 流星先輩が、学校を休んだ。
 朝のホームルームで担任が告げた瞬間、教室がざわついた。
「え、氷室先輩が?」
「マジで? あの人、無欠席記録更新中だったのに」
「何かあったのかな」
 クラスメイトたちの驚きの声。
 「氷の王子」は完璧だ。成績も、生徒会の仕事も、出席日数さえも。それが、突然の欠席。
 俺は、胸騒ぎを覚えた。
 放課後、生徒会室に行くと、顧問の先生が困った顔で書類を整理していた。
「有村くん、悪いんだけど」
 先生は、俺を見つけるとホッとした様子で言った。
「これ、氷室くんに届けてくれないか? 生徒会の重要書類と、授業のプリントなんだけど」
 渡されたのは、厚手の封筒。
 そこに書かれた住所を見て、俺は息を呑んだ。
 都内でも有数の高級住宅街。駅から徒歩15分の、タワーマンション。
 俺なんかが足を踏み入れていい場所じゃない。
 でも、心配だった。
 あの完璧な人が休むなんて、よほどのことに違いない。もしかして、俺のせいで無理をさせてしまったんじゃないか。
「……分かりました。今から行ってきます」
   
 タワーマンションのエントランスは、高級ホテルのロビーのようだった。
 大理石の床。天井から吊るされたシャンデリア。受付には、制服を着たコンシェルジュがいる。
 場違いすぎて、足が竦む。
 でも、流星先輩の顔を思い浮かべて、俺は受付に向かった。
「あの、氷室流星さんのお宅に、学校の書類を届けに来たんですが……」
 コンシェルジュは、俺の制服を見て頷いた。
「星陵学園の方ですね。氷室様には連絡が入っております。どうぞ、エレベーターで最上階へ」
 最上階。
 つまり、ペントハウス。
 俺は、エレベーターに乗り込んだ。上昇していく数字を見ながら、緊張で手のひらが汗ばむ。
 30階。
 扉が開くと、そこにはたった一つのドアしかなかった。フロア全体が、一つの住居になっているらしい。
 俺は、インターホンを押した。
 しばらくして、不機嫌そうな声が応答した。
『……誰だ』
 その声は、いつもの凛としたものではなく、掠れていた。
「あ、あの、有村です。プリントを届けに……」
『雪か……?』
 一瞬の沈黙。
 それから、ガチャリ、と鍵が開く音がした。
 重厚な扉が、ゆっくりと開く。
 そこに立っていたのは――。
 見慣れない姿の流星先輩だった。
 白いシャツとスウェットのパジャマ姿。髪は乱れ、顔色は青白い。
 そして何より、いつも完璧に整えられていたその表情が、弱々しく歪んでいた。
 顔が赤い。目は潤んでいて、呼吸が荒い。
 そして――。
 彼の手に、手袋がなかった。
 素手だ。白く、長い指が、無防備に晒されている。
「先輩、大丈夫ですか!?」
 俺は、思わず一歩踏み出した。
「……入るな」
 彼は、俺を拒絶するように後ずさった。
 その足元が、ふらつく。
「風邪だ。うつすから、帰れ」
「でも、顔色が……」
「帰れと言っている!」
 彼は声を荒らげた。
 その拍子に、激しく咳き込んだ。喉を押さえ、その場に崩れ落ちそうになる。
 俺は迷わず、靴を脱いで上がり込んだ。
 彼の腕を支える――寸前で、思いとどまる。
 素手だ。今触れたら、彼はパニックになるかもしれない。
「先輩、肩を貸します」
 俺は、彼に背中を向けた。
「触れませんから、俺の服を掴んでください」
 流星先輩は、荒い息を吐きながら、しばらく黙っていた。
 やがて、観念したように、俺のシャツの裾をちょこんと摘んだ。
 熱い。
 布越しでも分かるほど、高熱で指先が焼けている。
「寝室まで案内してください」
 俺は、彼の指示に従って廊下を進んだ。
 部屋の中は、驚くほど殺風景だった。
 高級な家具が置かれている。北欧デザインの家具、壁には抽象画、大きな窓からは都心の夜景が一望できる。
 でも、生活感がない。
 人形の家のように冷たく、整然としている。写真も、趣味の小物も、何もない。
 まさに、「氷の城」だ。
 ここで彼は、たった一人で生きてきたのか。
   
 寝室に辿り着き、流星先輩をベッドに座らせる。
 彼は、ようやく俺のシャツから手を離した。
「……悪い。弱いところを見せた」
「謝らないでください」
 俺は、ベッドサイドに膝をついた。
 彼と視線を合わせる。熱に浮かされた瞳が、焦点が定まらない。
「何か、食べましたか?」
「……食欲がない」
「薬は?」
「飲んでない。空きっ腹に飲むなと書いてある」
「じゃあ、何かお腹に入れないと」
 俺は立ち上がり、キッチンを見せてもらった。
 広くて清潔なキッチン。最新の設備が揃っている。
 だが、冷蔵庫を開けると――。
 ミネラルウォーターのペットボトルと、栄養ゼリーが数個。それだけだった。
 調味料すら、ほとんどない。
 この人は、普段どうやって生活しているんだ。
 家政婦が来ると聞いていたが、食事の用意まではしていないらしい。
 俺は溜息をつき、近くのスーパーまで走った。
   
 三十分後。
 俺は、卵とネギだけのシンプルなお粥を作って、寝室に運んだ。
 流星先輩は、ベッドに半身を起こして待っていた。掛け布団を肩まで被り、俺を見つめている。
「……いい匂いだ」
「味は保証できませんけど」
 俺は、サイドテーブルにお椀を置いた。
 湯気が立ち上る。卵の優しい香り。
 彼は、震える手でスプーンを持った。素手で。
 そのぎこちない手つきで、一口すくって口に運ぶ。
 そして、動きを止めた。
「……どうですか?」
 俺が心配そうに聞くと、彼はゆっくりと顔を上げた。
「……温かい」
 彼が呟いた。
 その声に、不思議な響きがあった。
「誰かに食事を作ってもらったのは、久しぶりだ」
 彼は、お椀を見つめたまま続けた。
「家政婦は来る。掃除も洗濯もしてくれる。でも、温かい食事は作らない。俺が触れられたくないから、最低限の接触しかしない」
 彼の声が、掠れる。
「両親は海外赴任中だ。年に一度帰ってくるかどうか。電話はたまにかかってくる。『元気か』『成績は』『生徒会は順調か』。……それだけだ」
 その言葉に、俺の胸が締め付けられた。
 この広い部屋で、彼はずっと一人で食事をしてきたんだ。
 誰とも触れ合わず、誰にも甘えず、ただ完璧であることを求められて。
「……また、作りますよ」
 俺は、少し震える声で言った。
「俺でよければ、いつでも。……先輩が一人で食べなくていいように」
 流星先輩が、顔を上げた。
 その瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
 熱のせいなのか、それとも――。
「……ありがとう」
 彼は、小さく笑った。
 そして、お粥を完食してくれた。
 一口、一口、大切そうに。
   
 薬を飲ませ、彼が横になるのを見届けた。
 掛け布団を肩までかけ、枕元に水のペットボトルを置く。
「何かあったら、すぐ連絡してください」
「……ああ」
 彼は、目を閉じたまま頷いた。
 俺は、部屋を暗くして、ドアに向かった。
 外はもう暗い。時計を見ると、もう8時を過ぎている。
「じゃあ、お大事に」
 ドアノブに手をかけた時だった。
「……待て」
 呼び止められた。
 振り返ると、ベッドの中から彼の手が伸びていた。
 素手の指先が、掛け布団の外に出ている。
 その指が、俺の方へ伸びている。
 俺は、ベッドに近づいた。
 流星先輩の手が、俺のシャツの裾を、ちょこんと摘んだ。
「……まだ、行くな」
 子供のような声だった。
 いつもは強気で、完璧で、誰にも弱みを見せない生徒会長。
 その彼が、熱に浮かされて、理性のタガが外れて、俺に甘えている。
 その破壊力は、凄まじかった。
 俺の心臓が、爆発しそうなほど高鳴る。
「……先輩」
「一人は、寒い」
 彼は、裾を握る手に力を込めた。
 その力は弱々しいけれど、俺を離したくないという意志が伝わってくる。
「お前がいると、空気が温かいんだ」
 彼の声が、さらに小さくなる。
「……もう少しだけ、ここにいてくれ」
 断れるわけがなかった。
 俺は、ベッドの脇の床に座り込んだ。
 彼の手は、俺の裾を掴んだままだ。
 30センチの距離。でも、布一枚を通して、俺たちは繋がっている。
「分かりました。先輩が眠るまで、ここにいます」
 俺は、彼の手の甲を、自分の指先でそっと撫でる真似をした。
 触れてはいない。でも、撫でるような動き。
 流星先輩は、安心したように目を閉じた。
「……雪」
「はい」
「好きだ」
 寝言のような、小さな呟き。
 でも、確かに聞こえた。
 俺は、顔が沸騰するのを感じながら、彼の寝顔を見つめた。
 月明かりが窓から差し込み、彼の横顔を照らしている。
 苦しそうだけど、俺の裾を握ったその手は、安らかだった。
 この人を、一人にはしない。
 この冷たい城を、俺が温めるんだ。
 この人が笑えるように。この人が安心して眠れるように。
 俺が、ずっとそばにいる。
 そう、心の底から誓った夜だった。
   
 流星先輩の寝息が、規則正しくなった。
 深く眠っている。
 俺は、静かに立ち上がった。
 彼の手は、もう俺の裾を掴んでいない。布団の中に戻っている。
 俺は、そっと部屋を出た。
 廊下を歩きながら、この広すぎる部屋を見回した。
 高級な家具。美しい内装。でも、誰もいない。
 この城には、王子が一人しかいなかった。
 でも、これからは違う。
 俺がいる。
 俺が、この人の最初の「住人」になる。
 玄関で靴を履きながら、俺はスマホにメモを残した。
『明日の朝、また来ます。朝ごはん作ります。冷蔵庫に食材入れておきました。無理しないでください』
 送信ボタンを押す。
 きっと彼は、明日の朝、このメッセージを見て、また「生意気だ」と笑うだろう。
 それでいい。
 俺は、彼の笑顔が見たいから。