氷の王子は、俺の「言葉」にだけ熱を宿す

 学校に行きたくない。
 本気でそう思ったのは、小学生の時以来だった。
 布団の中で丸まったまま、スマホの画面を眺める。未読のLINEが積み重なっている。全て、流星先輩からだ。
『今日は来られるか』
『脚本、進んでる?』
『体調はどうだ』
『何か困っていることがあるなら言え』
 文面は簡潔だ。でも、その行間から滲み出る心配が、俺の胸を締め付ける。
 返信したい。でも、指が動かない。
 何て書けばいい? 「実は俺、人の不幸を食い物にする化け物なんです」とでも?
 結局、俺は既読すらつけず、スマホを伏せた。
 重い足取りで教室に入ると、空気が変わった気がした。
 被害妄想かもしれない。でも、クラスメイトの視線が、俺の背中に突き刺さる。
 海斗は、いつも通り窓際の席でサッカー部の仲間と笑っていた。俺を見ない。それがかえって、彼の中にある怒りの深さを物語っている。
 俺は自分の席に座り、教科書を開いた。文字が霞んで見える。
 これでいい。また透明人間に戻ればいい。誰の視界にも入らず、誰の記憶にも残らない存在に。それが、俺にできる唯一の贖罪だ。
 休み時間、トイレに立とうとすると、廊下で海斗とすれ違った。
 彼は、俺の耳元で囁いた。
「……まだ書いてんの?」
 立ち止まることもなく、海斗は歩き去っていく。
 その背中を見送りながら、俺は拳を握りしめた。
 書いてない。もう、書けない。
 逃亡生活は、四日目に終わりを迎えた。
 放課後。俺が下駄箱で靴を履き替えていると、校内放送のチャイムが鳴り響いた。
『ピンポンパンポーン』
 無機質な電子音。続いて、全校生徒が聞き惚れる、あの低く美しいバリトンボイスが校舎中に響き渡った。
『生徒会より連絡する』
 心臓が跳ねた。
『2年A組、有村雪。至急、屋上へ来い』
 時間が、止まった。
 下駄箱付近にいた生徒たちの視線が、一斉に俺に集中する。
『繰り返す。有村雪、至急、屋上へ来い。以上』
 ブツッ。
 放送が切れる。
 静寂。
 そして、ざわめき。
「有村って、誰?」
「氷の王子が、名指しで呼び出すとか……」
「屋上って、ヤバくない?」
 好奇の目。野次馬根性丸出しの視線。
 俺は、観念した。
 もう、逃げられない。
 屋上への階段を登る足が重い。
 一段、また一段。鉛の靴を履いているみたいだ。
 最上階の踊り場で立ち止まり、深呼吸する。
 目の前にある、錆びた鉄扉。
 その向こうに、彼がいる。
 ガチャリ。
 扉を開けると、秋の冷たい風が吹き込んできた。
 茜色の夕陽が、屋上全体を染めている。
 フェンスに背を預けて立つ人影があった。
 氷室流星。
 彼は腕を組み、逆光の中でこちらを見ていた。表情は見えない。でも、その立ち姿だけで、彼だと分かる。
 俺は扉を閉め、その場に立ち尽くした。
 彼との距離、約十メートル。
「……来たな」
 流星先輩が、低い声で言った。
 怒っているのかと思った。でも、その声には怒りよりも、深い安堵が滲んでいた。
「三日と十二時間。お前が俺を避けた時間だ」
 正確すぎる。
 彼は、ずっと数えていたのか。
「なぜ避ける」
 彼が一歩、踏み出してくる。
 俺は反射的に後ずさった。
「来ないでください」
 その言葉に、流星先輩がピタリと止まった。
 彼の顔が、夕陽に照らされる。
 傷ついた表情だった。
 まるで、見捨てられた子供のような。
「……理由を言え。体調不良なんて嘘は、もう聞き飽きた」
「……」
「なぜ、突然いなくなった。なぜ、連絡を無視する。なぜ、俺の前から消えようとする」
 彼の声が、僅かに震える。
「お前が何を恐れているのか、俺に話してくれ」
 俺は、俯いた。
 もう、隠しきれない。この人は、俺が白状するまで追い詰めてくる。
「……俺は、もう書けないんです」
 絞り出すように言った。
「先輩の脚本を、書けません。だから、降ろしてください」
「理由を聞いている」
「……俺が書くと、人が不幸になるからです」
 風が、ビュウと吹き抜けた。
 俺は、全てを話した。
 二年前の夏のこと。
 海斗の家庭環境をモデルにした小説を書いてしまったこと。
 それが原因で、彼の両親が離婚し、彼の人生が壊れたこと。
 『お前の言葉は、人を殺す』と言われたこと。
 そして。
「俺は、今また同じことをしようとしてるんです」
 俺は顔を上げ、流星先輩を見た。
「先輩の孤独を、先輩のトラウマを、勝手に物語にして。それで、俺が満足しようとしてる」
 涙が、視界を滲ませる。
「俺は化け物なんです。人の傷を見つけると、それを美しい物語にしたくなってしまう。海斗が言った通りだ。無自覚な化け物なんです」
 俺は、両手で顔を覆った。
「だから……先輩のことを、傷つけたくない。先輩の綺麗な心を、俺の言葉で汚したくないんです」
 告白した。
 全部、吐き出した。
 これで、終わりだ。
 彼は俺を軽蔑するだろう。突き放すだろう。それでいい。それが正しい。
 沈黙が落ちた。
 風の音だけが、ゴウゴウと鳴っている。
 そして。
 カツ、カツ、カツ。
 革靴の音が近づいてくる。
 俺は身を竦めた。
 足音は、俺の目の前で止まった。
 顔を上げる。
 流星先輩が、立っていた。
 距離、20センチ。
 彼が自ら設定した「30センチ」のルールを破って、俺のパーソナルスペースに踏み込んでいる。
「……顔を上げろ」
 彼の声は、静かだった。
 俺が顔を上げると、流星先輩の瞳が、真正面から俺を捉えていた。
 その瞳は、夕陽よりも熱く、燃えていた。
「お前は、何も悪くない」
 予想していなかった言葉だった。
「え……?」
「お前の書いた物語が、友人の傷を抉ったのかもしれない。それは事実だろう」
 流星先輩は、ゆっくりと言葉を続けた。
「だが、その物語は、俺を救った」
 俺は息を呑んだ。
「俺は二年前、お前の詩に出会った。匿名アカウント『Snow』。あの詩がなければ、俺は今ここにいない」
 彼は、胸に手を当てた。白い手袋が、夕陽に照らされて輝いている。
「小学生の時、裏切られてから、俺は人間を信じられなくなった。誰にも触れられず、誰の言葉も信じられず、ただ凍りついた心で毎日を生きていた」
 流星先輩の声が、震える。
「そんな時、ネットの海でお前の詩を見つけた。『檻の中の蝶』も読んだ。……あの主人公の苦しみは、俺の苦しみだった。あの孤独は、俺の孤独だった」
 彼の瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。
「お前が書いた『言葉』が、凍りついた俺の心を溶かしてくれた。『こんな俺でも、理解してくれる人間がいるんだ』って、初めて思えたんだ」
 俺の視界が、涙で歪む。
「お前の言葉は、毒じゃない。薬だ。少なくとも、俺にとっては」
 流星先輩が、さらに一歩近づいた。
 距離、10センチ。
「他の誰が何と言おうと、俺はお前の言葉を信じる。世界中がお前を否定しても――」
 彼は、右手を伸ばした。
 白革の手袋に包まれた手が、俺の頬へと近づいてくる。
「俺だけは、お前の最初の読者であり続ける」
 彼の手が、俺の頬の5センチ手前で止まった。
 触れそうで、触れない。
 その僅かな空間に、彼の体温を感じる。
 流星先輩の指が、小刻みに震えていた。
 触れたいのだ。でも、触れられない。彼もまた、トラウマと戦っている。
「触れたい」
 彼が、掠れた声で囁いた。
「今すぐお前に触れて、抱きしめて、『大丈夫だ』と言ってやりたい。『お前は間違ってない』と、何度でも言いたい」
 彼の手が、空中で何かを掴もうとするように震える。
「でも、まだできない。俺は……弱い」
 その言葉に、俺の胸が張り裂けそうになった。
 弱いのは、俺の方だ。
 この人は、こんなにも強く、優しく、俺を受け入れようとしてくれているのに。
「だから、せめて――」
 流星先輩が、俺の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「せめて、お前の『言葉』に触れさせてくれ」
 それは、命令ではなかった。
 魂からの、懇願だった。
「もう一度、俺のために書いてくれ。お前の言葉で、俺を救ってくれ」

 俺の中で、何かが音を立てて崩れ落ちた。
 俺は化け物なんかじゃない。
 俺の言葉は、誰かを救うこともできる。
 海斗を傷つけたことは、消せない。その罪は、一生背負っていく。
 でも、それで終わりじゃない。俺の言葉を必要としてくれる人が、ここにいる。
「……はい」
 俺は、涙を拭いながら頷いた。
「書きます。先輩のために。俺の全部を使って、書きます」
 流星先輩が、ふわりと微笑んだ。
 夕陽の中で、彼もまた泣いていた。
「……ありがとう」
 彼の手が、ゆっくりと降りてくる。
 触れることはできないけれど、その手は確かに、俺の存在を包み込んでいた。
 夕陽が沈み、空が群青色に染まり始めた頃。
 俺たちは屋上のベンチに並んで座っていた。
 間には、いつもの30センチの隙間。
 でも、もうその隙間は冷たくない。互いの温もりを感じ合うための、大切な空間だった。
「なあ、雪」
 流星先輩が、初めて俺の名前を呼んだ。
 名字じゃなく、名前。
 心臓が、ドクンと跳ねる。
「お前が書く脚本の結末は、ハッピーエンドにしてくれ」
 彼は、紺碧の空を見上げながら言った。
「俺は、悲劇が嫌いだ。現実はクソみたいに辛いことばかりだ。だからせめて、物語の中くらいは、救いがあってほしい」
 俺は少し考えてから、答えた。
「……それは、約束できません」
「なに?」
 流星先輩が、驚いたように俺を見る。
「物語は、作者が勝手に決められるものじゃないんです。キャラクターたちが動き出して、彼らが選んだ道が、結末になる」
 俺は、隣にいる彼を見た。
「だから……彼らが幸せになりたいと願えば、きっとハッピーエンドになります」
 流星先輩は一瞬きょとんとして、それからクスクスと笑った。
「なるほどな。作家先生の理屈は難解だ」
 そして、彼は真剣な眼差しで俺を見つめた。
「じゃあ、俺たちの物語は?」
 ドキリとする。
「俺たちの物語も、登場人物が決めるのか?」
「……そう、ですね。俺たちが、どうしたいか、次第です」
 流星先輩は満足げに頷き、手袋をした手を、ベンチの板の上に置いた。
 俺の手の、すぐ隣に。
「なら、俺はハッピーエンドを選ぶ」
 彼の小指が、俺の小指に触れた。
 布越しの、微かな感触。
 それだけで、電流が全身を駆け抜けた。
「お前と一緒なら、どんな結末でも、きっと幸せだから」
 その言葉は、どんな愛の告白よりも甘く、俺の胸を満たした。
 俺は、夜空を見上げた。
 一番星が、瞬いている。
 過去の影は消えない。海斗との確執も、まだ解決していない。
 でも、隣にこの人がいてくれるなら、俺は何度でも立ち上がれる。
 俺は、そっと自分の小指を、彼の小指に寄せた。
 触れるか、触れないか。
 そのギリギリの距離が、今の俺たちには、何よりも愛おしかった。
「先輩」
「ん?」
「俺も、ハッピーエンドを選びます」
 流星先輩が、優しく微笑んだ。
「……ああ。一緒に、掴もう」
 夜風が、二人の間を吹き抜けた。
 でも、もう寒くはなかった。