氷の王子は、俺の「言葉」にだけ熱を宿す

 幸せな時間は、どうしてこうも脆いのだろう。積み上げるのには途方もない時間がかかるのに、崩れるのは一瞬だ。
 まるで、砂の城のように。
 文化祭まであと二週間を切った、ある日の放課後。俺はいつものように、生徒会室へ向かおうとしていた。鞄には、昨夜遅くまで推敲した脚本の原稿が入っている。
 流星先輩に見せるのが楽しみだった。彼がどんな顔をするか。また赤ペンで「好きだ」と書いてくれるだろうか。
 そんな浮かれた想像をしていた俺の足が、廊下の曲がり角で止まった。
「……有村」
 行く手を阻むように立っていたのは、桜庭海斗だった。クラスメイトであり、かつての親友。そして、俺が筆を折る原因となった、罪の証。
 海斗は、壁に寄りかかり、腕を組んで俺を見ていた。その茶色の瞳には、いつもの人懐っこい光はない。冷たく、濁った色が沈殿している。
「……海斗」
「ちょっと面貸せよ。話がある」
 拒否できる雰囲気ではなかった。俺は無言で頷き、彼の後についていった。
 向かった先は、校舎裏の焼却炉跡。今は使われておらず、生徒も教師も滅多に近づかない死角だ。
 海斗は立ち止まり、振り返った。夕暮れの赤黒い光が、彼の顔に濃い影を落としている。
「お前、最近調子乗ってんな」
 低い声だった。
「氷室先輩と、何してんの?」
「……何って」
「とぼけんなよ。生徒会室に入り浸ってるだろ。二人きりで」
 海斗が一歩、近づいてくる。俺は反射的に身構えた。
「……脚本を、書いてるんだ。文化祭の」
「は?」
 海斗の顔が歪んだ。嘲笑と、怒りが混じったような表情。
「また書いてんの? マジで懲りてねえのかよ」
「……」
「お前の書くものが、どういう結果招くか。まさか忘れたわけじゃないよな?」
 心臓を、冷たい手で鷲掴みにされたような感覚。忘れられるわけがない。二年前の夏。俺たちがまだ中学生だった頃の、あの事件を。

 あの日、俺は舞い上がっていた。初めて完結させた長編小説『檻の中の蝶』が、投稿サイトでランキング一位を取ったからだ。
 物語の主人公は、厳格な父親とヒステリックな母親の間で板挟みになり、逃げ場を失っている少年。彼が、文芸部の友人との交流を通じて、少しずつ自分を取り戻していく――そんなストーリーだった。
 俺は、その主人公に、海斗を重ねていた。
 当時、海斗とは毎日一緒にいた。彼が家庭のことで悩んでいるのも知っていた。父親からの過度な期待、母親のネグレクト。彼は学校では明るく振る舞っていたが、ふとした瞬間に見せる表情は、助けを求めて泣いている子供のようだった。
 俺は、彼を救いたかった。現実では何もできない無力な俺だけど、物語の中でなら、彼を救い出せると思った。
 だから書いた。彼の苦しみを、悲しみを、そして希望を。それは、俺なりのエールだった。
 だが、それは独りよがりな傲慢だった。
 小説が話題になると、すぐに学校で特定された。
 『これ、桜庭のことじゃね?』
 『うわ、親父が医者で母親が元モデルって設定、そのまんまじゃん』
 『桜庭の家って、こんなにヤバかったんだ』
 噂は瞬く間に広まった。そして、最悪の形で海斗の家族の耳に入った。海斗の父親が学校に乗り込んできたのだ。「息子のプライバシーを侵害された」「名誉毀損だ」と激昂して。
 それが引き金となり、元々冷え切っていた海斗の両親の関係は完全に崩壊した。泥沼の離婚劇。海斗は母親に引き取られ、転校することになった。
 転校する最後の日。海斗は俺の前に現れた。殴られると思った。罵倒されると思った。けれど、彼は静かだった。
 死んだような目で、俺を見ていた。
『お前の小説のせいで、俺の人生は壊れた』
 淡々としたその言葉は、どんな暴力よりも深く、俺の魂を切り裂いた。
『お前は、人の不幸をネタにして、自分が気持ちよくなりたかっただけだろ』
『救い? ふざけんな』
 彼の声が震える。
『お前がやったのは、ただの暴露だ。見世物にしたんだよ、俺の痛みを』
 彼は、俺がプレゼントした万年筆を――小説を書くようにと彼がくれたものだった――俺の目の前でへし折った。
『二度と書くな』
 折れた万年筆が、床に転がる。
『お前の言葉は、人を殺す』

 過去の記憶が、フラッシュバックする。へし折られた万年筆の音。海斗の冷たい目。
 息が苦しい。
「……ごめん」
 俺は、震える声で謝った。それしか言えなかった。
「謝って済むと思ってんの?」
 海斗が、俺の胸倉を掴んだ。ドン、と背中がフェンスに当たる。
「俺の家族はバラバラになった。親父は俺を捨てた。お袋は毎日泣いてた」
 海斗の拳が震えている。
「全部、お前のせいだ」
「……うん」
「なのに、お前はまた書いてる。今度は誰をネタにするつもりだ? 氷室先輩か?」
 ドキリとした。図星だった。俺は今、流星先輩の孤独をモデルに、脚本を書いている。『触れられない呪いを持つ王子』。それは、流星先輩そのものだ。
「……違う。先輩のことは、傷つけない」
「ハッ、笑わせんな」
 海斗が、俺を見下ろす。
「お前はそういう奴なんだよ。人の心の傷を嗅ぎつけて、それを綺麗な文章にして、消費する」
 一拍。
「無自覚な化け物だ」
 海斗の言葉が、グサグサと刺さる。化け物。そうかもしれない。俺は、人の痛みを見ると、それを「物語」として再構築したくなってしまう。
 それは、業(ごう)のようなものだ。
「氷室先輩も、お前の本性を知ったら絶望するだろうな」
 海斗の声が、さらに冷たくなる。
「自分が信頼してた後輩が、自分のトラウマをネタにして楽しんでたって知ったら」
 やめろ。それだけは。
「あいつに関わるな。これ以上、被害者を増やすな」
 海斗は、俺を突き放した。俺はその場に崩れ落ちた。
「……これは警告だ。もし脚本を書き続けるなら、俺にも考えがある」
 海斗は冷たく言い捨てて、去っていった。残された俺は、立ち上がることもできず、ただ地面を見つめていた。
 俺は、間違っていたのか。
 流星先輩に「救われた」と言われて、舞い上がっていた。でも、それは俺のエゴだったのかもしれない。
 俺が書けば、また誰かが傷つく。流星先輩の、あの綺麗なガラスのような心を、俺が壊してしまうかもしれない。
 怖い。書くことが、怖い。
 鞄の中の原稿が、急に重く感じられた。それは、物語なんかじゃない。誰かを傷つけるための、凶器の塊に見えた。

 その日は、生徒会室に行けなかった。体調不良という嘘のメールを送って、逃げるように家に帰った。
 部屋に閉じこもり、ベッドに潜り込む。スマホが震えた。流星先輩からのLINEだ。
『大丈夫か? 無理をさせたな。今日はゆっくり休め』
 優しい言葉。昨日までなら、胸が温かくなったはずの言葉。でも今は、その優しさが痛い。
 俺は、この人を騙している。彼の孤独を、彼の痛みを、勝手に物語にして、消費している。海斗の言う通りだ。俺は化け物だ。
『何か必要なものがあれば言え。家の前に置いておく』
 続けて届いたメッセージに、涙が滲んだ。彼は、どこまでも優しい。潔癖症で、人に触れられないのに、心だけはこんなにも近くに寄り添ってくれる。
 そんな彼を、俺は傷つけようとしている。
 返信ができない。指が動かない。「ありがとうございます」とも、「ごめんなさい」とも打てない。
 俺はスマホの電源を切った。世界との繋がりを、断ち切った。
 暗い部屋の中で、俺は一人、膝を抱えた。透明人間に戻ろう。誰とも関わらず、誰の記憶にも残らず、ただ息をするだけの存在に。
 それが、俺に許された唯一の贖罪だ。
 でも。
 目を閉じると、浮かんでくるのは流星先輩の顔だった。『お前の言葉は、温かい』と言ってくれた、あの微笑み。『ずっと、そばにいてくれ』という、切実な願い。
 会いたい。会って、声を聞きたい。
 でも、会えない。俺が近づけば、彼を汚してしまうから。
 矛盾する感情が、俺の中で暴れ回る。俺は、泣きながら夜を明かした。
 それは、二年前のあの日と同じ、絶望の夜だった。