氷の王子は、俺の「言葉」にだけ熱を宿す

 脚本の執筆が始まって数日後の土曜日。
 俺は、駅前の待ち合わせ広場で、落ち着きなくスマホを握りしめていた。
 今日は、流星先輩と二人で「取材」に行くことになっている。
 行き先は、隣町のプラネタリウム。『星空のシーンを書きたいが、イメージが湧かない』という俺の呟きを拾った先輩が、『なら、見に行けばいい』と即断したのだ。
 デート、ではない。
 あくまで取材だ。脚本執筆のための、真面目な資料収集。
 そう自分に言い聞かせても、心臓は朝からうるさいほど鳴っている。
 学校以外で彼と会うのは初めてだ。制服じゃない先輩は、どんな格好で来るんだろう。いつもの白い手袋をしているんだろうか。それとも――。
「……待たせたな」
 不意に、凛とした声が降ってきた。
 顔を上げると、そこには雑誌から抜け出してきたようなモデル――いや、氷室流星が立っていた。
 黒のタートルネックに、仕立ての良いグレーのロングコート。シンプルだが、素材の良さが一目で分かる。首元のマフラーは、アイスブルーの瞳と同じ色。
 そして、その手には――いつもの白革の手袋ではなく、コートに合わせた黒い革手袋がはめられていた。
 カッコいい。
 そんな陳腐な言葉では表現できないほど、圧倒的に美しかった。
「せ、先輩……」
「なんだ、その顔は」
 彼は、少し首を傾げた。その仕草さえ絵になる。
「いえ、その……カッコよすぎて、直視できません」
 思わず本音が漏れると、先輩は少し目を見開き、それからフッと口元を緩めた。
「……お前も、悪くない」
 彼は、俺の着古したパーカーとデニムを一瞥して言った。
 絶対にお世辞だ。彼のコート一着で、俺の全身の服が何着買えるだろう。
 でも、その一言だけで、俺の体温は急上昇した。顔が熱い。冬なのに、汗ばんでくる。
「……行くぞ」
 彼は、俺の返事を待たずに歩き出した。
 俺は慌てて、その背中を追いかけた。私服姿の先輩の後ろ姿は、いつもより少しだけ柔らかく見えた。
   
 休日の駅前は、人で溢れかえっていた。
 若いカップル、家族連れ、買い物袋を抱えた主婦たち。皆、思い思いの休日を楽しんでいる。
 その雑踏の中で、流星先輩の存在感は異様なほど際立っていた。
 すれ違う女性たちが、振り返る。ヒソヒソと囁き合う。スマホのカメラを向けようとする人さえいる。
 先輩は、それらの視線を完全に無視していた。だが、その表情は険しい。
 潔癖症の彼にとって、この人混みは地獄のはずだ。
 案の条、彼のアイスブルーの瞳は険しく細められ、眉間には深い皺が刻まれている。すれ違う人々と接触しないよう、神経を尖らせているのが手に取るように分かった。
「先輩、大丈夫ですか? タクシー使いましょうか」
 俺が心配して聞くと、彼は首を振った。
「いや、電車で行く。……社会勉強も必要だ」
 強がりだ。明らかに辛そうなのに、俺との約束を守ろうとしている。
 その健気さが、愛おしくて、切ない。
 彼は強がって改札を抜けた。
 だが、ホームに降りると、さらに状況は悪化した。休日のホームは混雑していて、行き交う人の肩がぶつかり合っている。
 到着した電車は、満員に近かった。
 ドアが開く。吐き出される人波。乗り込む人波。体臭、香水、整髪料の匂いが混ざり合う。
 流星先輩の顔色が、見る見る青ざめていく。
 彼の手が、微かに震えている。
 他人の体臭、服の擦れる音、無遠慮な視線。その全てが、彼の小学生時代のトラウマを刺激しているのだ。
 友人だと思っていた奴らに裏切られ、暴力を受けた日。泥だらけの制服。壊された持ち物。そして、何より傷ついた心。
 あの日以来、彼は人間不信になり、潔癖症を発症した。
「先輩、やっぱり……」
 俺が引き返そうと言いかけた、その時だった。
 ドンッ、と後ろから誰かに押された。
 乗車の波に飲まれた俺の身体が、よろめく。前方にいた女性の背中に、ぶつかりそうになる。
 その瞬間。
 ガシッ、と強い力で腕を引かれた。
 俺の身体は、流星先輩の方へと引き寄せられた。
「……っ!」
 ぶつかる、と思った。
 だが、俺の身体は彼の胸の数センチ手前で止まった。
 彼が、自分の身体と俺の間に、片腕で壁を作っていたからだ。黒い革手袋をはめた腕が、俺の胸の前に水平に伸びている。
 その腕に阻まれて、俺は彼に触れずに済んでいる。
 電車が動き出す。揺れる車内。さらに乗客が押し寄せてくる。
 流星先輩は、俺をドア横の壁際のスペースに押し込め、その前に立ちはだかった。
 両手を壁につき、俺を囲い込むような体勢。
 いわゆる「壁ドン」の形。だが、甘いシチュエーションではない。
 彼は、満員電車の圧力から、俺を物理的に守ってくれているのだ。
 周囲の乗客が、彼の威圧感に気圧されて距離を取る。彼の視線が鋭い。近づくな、と全身で語っている。
 俺と先輩の間には、30センチの空間が保たれている。
「……先輩、近いです」
 俺が小声で言うと、彼は俺の目を真っ直ぐに見つめた。
「黙ってろ。離れると、他の奴らに触れる」
 彼の顔が、すぐ目の前にある。
 整った鼻筋。引き締まった唇。そして、汗が滲んでいる額。
 彼は必死だった。
 自分自身が一番辛いはずなのに。周囲の人間の気配に吐き気を催しているはずなのに。
 それでも、彼は俺を守ることを優先している。
 周囲の人間が自分の結界内に入ってこないよう、全身で威圧感を放ちながら、その内側にいる俺だけを守っている。
「俺の半径30センチにいれば、安全だ」
 彼が、俺の耳元で低く囁いた。
 その声に、俺の胸は締め付けられた。
 ああ、この人は本当に強いんだ。
 自分の恐怖よりも、俺の安全を優先できる。それが、どれほど凄いことか。
「……はい」
 俺は、彼が作ってくれた小さな聖域の中で、小さく頷いた。
 彼のコートから、微かに冬の香水が香った。柑橘系の、爽やかで少し甘い匂い。
 それは、どんな人混みの臭いよりも鮮烈に、俺の記憶に刻まれた。
 揺れる車内。彼の腕が、時折俺の肩の近くを掠める。触れない。でも、守られている実感がある。
 この30センチの距離が、今の俺たちには完璧だった。
 この人と一緒なら、どこへでも行ける。
 そう思えた瞬間だった。
   
 プラネタリウムのドーム内は、静寂に包まれていた。
 満員電車の喧騒から解放され、流星先輩の表情も少し和らいでいる。
 リクライニングシートに深く身を沈める。隣には、流星先輩がいる。
 暗闇の中なら、彼は手袋を外すかもしれないと少し期待したが、黒い革手袋はそのままだった。
 まあ、仕方ない。焦らなくていい。
 俺たちには、時間がある。
 照明が落ちる。ざわめきが消える。
 上映が始まった。
 ドームいっぱいに、満天の星空が広がる。
 天の川が白く輝き、無数の星々が瞬いている。オリオン座、カシオペア座、北斗七星。冬の星座たちが、手を伸ばせば届きそうな距離に輝いている。
 美しいナレーションと、静かな音楽。
 俺は、星を見上げながら、隣の気配を感じていた。
 流星先輩は、微動だにせず星空を見つめている。その横顔が、星明かりに照らされて浮かび上がる。
「……昔」
 不意に、彼が囁いた。
 ナレーションにかき消されそうな、小さな声。
「昔、眠れない夜は、ずっと星を見ていた」
 俺は、そっと彼の方を向いた。
 暗闇の中で、彼の瞳が星明かりを反射して光っている。アイスブルーの瞳が、今は深い青に沈んでいる。
「星はいい。綺麗で、静かで……そして、絶対に触れてこない」
 彼は、ドームを見上げたまま続けた。
「あの光は、何万年も前の過去の光だ。ここにはもう存在しないかもしれない星の、残像。……俺は、そんな幽霊みたいな光に、救われていたんだ」
 その言葉に、俺は胸が痛くなった。
 彼の孤独の深さを知った。
 人間を信じられず、触れ合うことを拒絶し、遥か彼方の星にしか心を許せなかった少年。
 塔の上の王子のように、孤独に閉ざされていた少年。
 その孤独が、今の彼を作っている。
 でも、もうそんな必要はないんだ。
「先輩」
 俺は、そっと囁き返した。
「俺は、ここにいます」
「……ん?」
「何万光年先じゃなくて、すぐ隣に」
 俺は、シートの肘掛けに置かれた彼の手の、すぐ横に自分の手を置いた。
 触れない。でも、体温を感じる距離。革手袋越しでも、彼の手の存在が伝わってくる。
「俺は、幽霊じゃありません。ちゃんと生きていて、ここにいます」
 俺は、自分の心臓の音を聞きながら続けた。
「俺は……先輩に触れたいです。いつか、その手袋を外して、先輩の手の温かさを知りたいです」
 大胆なことを言ってしまった。
 暗闇のせいだ。星空のせいだ。
 流星先輩は、しばらく黙っていた。
 俺は、言い過ぎたかもしれないと後悔し始めた。
 だが、やがて。
 彼の手が、少しだけ動いた。
 俺の手の方へ、ゆっくりと傾いていく。
 肘掛けの上で、二つの手が近づく。
 そして――。
 革の感触が、俺の小指に触れた。
 ピクリ、と俺の身体が跳ねる。
 彼の小指が、俺の小指に重なっている。手袋越し。でも、確かに触れている。
 この距離感が、今の俺たちの全てだ。
「……生意気だ」
 彼の声が、笑っていた。
「だが、悪くない」
 ドーム内の星空が、ゆっくりと回転していく。季節が移り変わる演出。
 春の星座、夏の星座、秋の星座、そして再び冬の星座。
 その間、俺たちの小指は、ずっと触れ合っていた。
 動かさない。離さない。ただ、互いの存在を確かめ合うように。
 手袋越しの、ささやかな接触。
 でも、俺の心臓は爆発しそうなほど高鳴っていた。顔が熱い。呼吸が浅い。
 上映が終わるまで、俺たちの小指は、触れるか触れないかの距離で、ずっと寄り添っていた。
 星空よりも、隣にある体温の方が、俺にはずっと眩しかった。
 何万光年先の光よりも、30センチ隣にいるこの人の方が、ずっと大切だった。
   
 プラネタリウムを出ると、外はもう夕暮れだった。
 街灯が灯り始め、商店街は帰宅する人々で賑わっている。
「……あのさ」
 俺は、隣を歩く流星先輩に話しかけた。
「今日、ありがとうございました。電車の中、先輩が守ってくれて……」
「礼なんていらない」
 彼は、前を向いたまま答えた。
「お前を守るのは、俺の役目だ」
 その言葉に、俺は立ち止まった。
 流星先輩も、気づいて足を止める。
「……どうした」
「先輩は、いつも俺を守ってくれますね」
 俺は、彼を見上げた。
 夕日に照らされた彼の横顔は、相変わらず美しかった。
「でも、俺も先輩を守りたいです。先輩が辛い時、俺が盾になりたい」
 流星先輩が、ゆっくりと俺を振り返った。
 その瞳に、驚きと、そして深い感動が浮かんでいる。
「……お前は」
 彼は、少し笑った。
「本当に、生意気だな」
 そう言いながら、彼は俺の頭に手を伸ばし――数センチ手前で止めて、空気を撫でるように動かした。
 触れてはいない。でも、頭を撫でられた気がした。
「帰るぞ」
 彼は、先に歩き出した。
 俺は、その背中を追いかけながら、心の中で誓った。
 いつか、この人の手袋を外してみせる。
 いつか、この人に触れて、温もりを分け合える日が来る。
 それまで、俺は言葉で、この人の心を温め続けるんだ。