深夜〇時。日付が変わる瞬間、枕元のスマートフォンが短く震えた。
俺はベッドの上で跳ね起きた。脚本の執筆に行き詰まり、布団に潜り込んでから三十分。眠気なんてとっくに吹き飛んでいた。
画面をタップする指が、少しだけ震える。通知のポップアップには、シンプルな名前が表示されていた。
『氷室流星』
俺は息を呑んで、トーク画面を開いた。
『起きてるか?』
たった一言。スタンプもない、素っ気ないメッセージ。でも、俺の胸は早鐘を打っていた。
生徒会長である彼と連絡先を交換したのは、つい三日前のことだ。「業務連絡用だ」と言って、彼は事務的にQRコードを差し出してきた。それ以来、送られてくるのは「明日の集合時間」や「資料の確認」といった、本当に業務的な内容ばかりだった。
こんな時間に、用件のないメッセージが来るなんて初めてだ。
『起きてます。どうかしましたか?』
送信ボタンを押すと、すぐに「既読」がついた。吹き出しの向こうに、彼がいる。あの広い屋敷の自室で、手袋を外した素手で、スマホを握っている彼がいる。
そう想像するだけで、画面越しの光が温かく感じられた。
『いや、特に用はない。……ただ、眠れなくてな』
流星先輩からの返信に、俺は目を丸くした。あの完璧超人の「氷の王子」が、眠れない夜を過ごしている? 学校では決して見せない弱音。それを、俺にだけ漏らしている。
『俺もです。脚本の第二幕、どうしても台詞が決まらなくて』
『あの、主人公がヒロインを拒絶するシーンか』
『はい。「近づくな」という言葉の裏にある、本当の想いをどう表現すればいいか……』
そこから、俺たちの「夜の密会」が始まった。通話ではない。文字だけのやり取り。けれど、その文字の羅列は、どんな会話よりも雄弁だった。
『拒絶は、最大の防御だ。傷つきたくないから、先に傷つけるふりをする』
『先輩も、そうですか?』
『……ああ。俺の言葉は、いつも氷の刃だ。人を遠ざけるために研ぎ澄ませてきた』
画面に表示される文字が、ポツリポツリと増えていく。昼間の彼は、冷徹で、隙がなく、完璧な生徒会長だ。けれど、夜の彼は違う。迷い、悩み、そして驚くほど繊細な感性を持っている。
『お前の書く文章は、静かだな』
『静か、ですか?』
『ああ。雪が降り積もる夜みたいだ。冷たいのに、どこか温かい』
わずかな間。
『読んでいて、落ち着く』
その言葉に、俺は顔が熱くなるのを感じた。布団に顔を埋め、足をバタつかせたくなるような、むず痒い嬉しさ。俺の言葉が、彼の安らぎになっている。
誰かを傷つける凶器だと思っていた俺の才能が、この人を癒やしている。
『俺も……先輩と話していると、怖くありません』
勇気を出して、そう送った。すぐに既読がつく。けれど、返信はなかなか来ない。
変なことを言っただろうか。不安になりかけた時、ポン、と通知音が鳴った。
『俺もだ。お前と話していると、時間を忘れる』
わずかな間。
『こんな感覚、初めてだ』
その一文を見た瞬間、俺の世界から音が消えた。心臓の音だけが、うるさいほどに響いている。
「初めて」。
その言葉の特別さが、俺の胸を締め付けた。
それ以来、深夜のLINEは俺たちの日課になった。
昼間は、他人のふり。学校という社会の中で、彼は雲の上の生徒会長、俺は地味な一般生徒。廊下ですれ違う時も、彼は取り巻きの生徒会役員たちに囲まれ、冷ややかな表情で前を見据えている。
俺のことなんて、視界に入っていないかのように。
ある日の昼休み。俺が図書室へ向かう廊下で、向こうから流星先輩が歩いてきた。隣には副会長の女子生徒がいて、熱心に何かを報告している。周囲の生徒たちが、憧れの眼差しで道を空ける。
俺もまた、壁際に寄って頭を下げた。透明人間らしく。彼に迷惑をかけないように。
流星先輩は、俺の前を通り過ぎる。その視線は、真っ直ぐ前を向いたまま。
やっぱり、学校では住む世界が違うんだ。
少しだけ胸が痛んだ、その時だった。
すれ違う一瞬。彼の視線が、ほんのコンマ数秒だけ、俺に流れた。そして、その形の良い唇が、音もなく動く。
『よ、る、に』
え?
俺は顔を上げた。流星先輩はもう、何事もなかったかのように通り過ぎていく。その背中は、完璧な「氷の王子」そのものだ。
けれど、俺は確かに見た。あの冷たい瞳の奥に、悪戯っぽい少年のような光が宿っていたのを。
「夜に」。
それは、俺たちだけの秘密の合言葉。俺は、こみ上げてくる笑みを噛み殺すのに必死だった。
誰も知らない。あの冷徹な生徒会長が、夜になると俺だけに甘い言葉をくれることを。この優越感と背徳感が、俺の日常を鮮やかに彩っていく。
その夜のLINEは、いつもより少し早かった。二十三時。俺が机に向かって脚本の推敲をしていると、スマホが光った。
『お前、今日の放課後、少し疲れてたな』
ドキリとした。今日は文芸部の部室に顔を出した後、すぐに帰ったはずだ。彼とは会っていない。
『……気づいてたんですか?』
『気づかないわけがない。お前のことは全部、見てる』
文字で見ると、少し怖い。でも、その裏にある不器用な心配りが、俺には分かってしまう。彼は、遠くからでも俺を探し、俺の様子を伺ってくれているのだ。
『変な意味じゃない。お前が無理してないか、心配なんだ』
わずかな間。
『顔色が、少し悪かった』
『ありがとうございます。ちょっと、考え事をしていて』
『海斗のことか?』
鋭い指摘に、指が止まる。今日、廊下で海斗と目が合った。彼は俺を睨みつけ、すぐに逸らした。その視線の冷たさが、ずっと心に刺さっていたのだ。
『……はい。少しだけ』
『あいつが何かしてきたら、すぐに言え。俺が守る』
「守る」。
その言葉の強さに、俺はスマホを握りしめた。彼は生徒会長だ。権力もある。でも、そういうことじゃない。彼個人として、俺を守ろうとしてくれている。
『先輩に迷惑はかけられません』
『迷惑じゃない』
入力中のマークが点滅する。
『お前は俺の――』
入力中のマークが、長く表示される。俺は息を止めて待った。彼は、何を言おうとしているんだろう。
俺の、何?
後輩? 共犯者? それとも――。
数秒後。送られてきたのは、短い一文だった。
『……なんでもない。忘れてくれ』
言いかけた言葉を、飲み込んだ。その躊躇いに、俺の胸は締め付けられた。
彼もまた、怖がっているのかもしれない。この「名前のない関係」に、名前をつけてしまうことを。近づきすぎて、傷つけ合うことを。
『はい』
わずかな間。
『おやすみなさい、流星先輩』
『ああ。おやすみ、雪』
画面を閉じても、胸の高鳴りは収まらなかった。
「雪」。
文章の中だけで呼ばれる、俺の名前。音声ではないのに、彼の低い声で囁かれたような気がして、耳が熱い。
俺たちは、触れ合えない。30センチの距離は、まだそこにある。けれど、言葉だけは、壁をすり抜けて心に触れてくる。
それは、物理的な体温よりもずっと熱く、俺の凍った心を溶かしていく。
でも、幸せであればあるほど、不安もまた大きくなる。こんな日々が、いつまで続くんだろう。俺の過去が、いつかこの温もりを壊してしまうんじゃないか。
深夜三時。ふと目が覚めてスマホを見ると、一件の通知が残っていた。流星先輩からだ。送信時間は、俺が寝た直後。
『お前がいなくなったら、俺はまた凍りつく』
わずかな間。
『だから、頼む。ずっと、そばにいてくれ』
その悲痛なほどの懇願に、俺の目から涙が溢れた。彼は、強い人じゃない。誰よりも寂しがり屋で、誰よりも温もりを求めている、ただの男の子だ。
俺は、画面を胸に抱きしめた。
誓うよ、先輩。俺は、どこにも行かない。あなたの氷を溶かすのは、俺の言葉だけだ。たとえ、世界中が敵に回ったとしても。
窓の外では、冷たい秋の雨が降り始めていた。それは、やがて訪れる嵐の予兆のようだった。
俺はベッドの上で跳ね起きた。脚本の執筆に行き詰まり、布団に潜り込んでから三十分。眠気なんてとっくに吹き飛んでいた。
画面をタップする指が、少しだけ震える。通知のポップアップには、シンプルな名前が表示されていた。
『氷室流星』
俺は息を呑んで、トーク画面を開いた。
『起きてるか?』
たった一言。スタンプもない、素っ気ないメッセージ。でも、俺の胸は早鐘を打っていた。
生徒会長である彼と連絡先を交換したのは、つい三日前のことだ。「業務連絡用だ」と言って、彼は事務的にQRコードを差し出してきた。それ以来、送られてくるのは「明日の集合時間」や「資料の確認」といった、本当に業務的な内容ばかりだった。
こんな時間に、用件のないメッセージが来るなんて初めてだ。
『起きてます。どうかしましたか?』
送信ボタンを押すと、すぐに「既読」がついた。吹き出しの向こうに、彼がいる。あの広い屋敷の自室で、手袋を外した素手で、スマホを握っている彼がいる。
そう想像するだけで、画面越しの光が温かく感じられた。
『いや、特に用はない。……ただ、眠れなくてな』
流星先輩からの返信に、俺は目を丸くした。あの完璧超人の「氷の王子」が、眠れない夜を過ごしている? 学校では決して見せない弱音。それを、俺にだけ漏らしている。
『俺もです。脚本の第二幕、どうしても台詞が決まらなくて』
『あの、主人公がヒロインを拒絶するシーンか』
『はい。「近づくな」という言葉の裏にある、本当の想いをどう表現すればいいか……』
そこから、俺たちの「夜の密会」が始まった。通話ではない。文字だけのやり取り。けれど、その文字の羅列は、どんな会話よりも雄弁だった。
『拒絶は、最大の防御だ。傷つきたくないから、先に傷つけるふりをする』
『先輩も、そうですか?』
『……ああ。俺の言葉は、いつも氷の刃だ。人を遠ざけるために研ぎ澄ませてきた』
画面に表示される文字が、ポツリポツリと増えていく。昼間の彼は、冷徹で、隙がなく、完璧な生徒会長だ。けれど、夜の彼は違う。迷い、悩み、そして驚くほど繊細な感性を持っている。
『お前の書く文章は、静かだな』
『静か、ですか?』
『ああ。雪が降り積もる夜みたいだ。冷たいのに、どこか温かい』
わずかな間。
『読んでいて、落ち着く』
その言葉に、俺は顔が熱くなるのを感じた。布団に顔を埋め、足をバタつかせたくなるような、むず痒い嬉しさ。俺の言葉が、彼の安らぎになっている。
誰かを傷つける凶器だと思っていた俺の才能が、この人を癒やしている。
『俺も……先輩と話していると、怖くありません』
勇気を出して、そう送った。すぐに既読がつく。けれど、返信はなかなか来ない。
変なことを言っただろうか。不安になりかけた時、ポン、と通知音が鳴った。
『俺もだ。お前と話していると、時間を忘れる』
わずかな間。
『こんな感覚、初めてだ』
その一文を見た瞬間、俺の世界から音が消えた。心臓の音だけが、うるさいほどに響いている。
「初めて」。
その言葉の特別さが、俺の胸を締め付けた。
それ以来、深夜のLINEは俺たちの日課になった。
昼間は、他人のふり。学校という社会の中で、彼は雲の上の生徒会長、俺は地味な一般生徒。廊下ですれ違う時も、彼は取り巻きの生徒会役員たちに囲まれ、冷ややかな表情で前を見据えている。
俺のことなんて、視界に入っていないかのように。
ある日の昼休み。俺が図書室へ向かう廊下で、向こうから流星先輩が歩いてきた。隣には副会長の女子生徒がいて、熱心に何かを報告している。周囲の生徒たちが、憧れの眼差しで道を空ける。
俺もまた、壁際に寄って頭を下げた。透明人間らしく。彼に迷惑をかけないように。
流星先輩は、俺の前を通り過ぎる。その視線は、真っ直ぐ前を向いたまま。
やっぱり、学校では住む世界が違うんだ。
少しだけ胸が痛んだ、その時だった。
すれ違う一瞬。彼の視線が、ほんのコンマ数秒だけ、俺に流れた。そして、その形の良い唇が、音もなく動く。
『よ、る、に』
え?
俺は顔を上げた。流星先輩はもう、何事もなかったかのように通り過ぎていく。その背中は、完璧な「氷の王子」そのものだ。
けれど、俺は確かに見た。あの冷たい瞳の奥に、悪戯っぽい少年のような光が宿っていたのを。
「夜に」。
それは、俺たちだけの秘密の合言葉。俺は、こみ上げてくる笑みを噛み殺すのに必死だった。
誰も知らない。あの冷徹な生徒会長が、夜になると俺だけに甘い言葉をくれることを。この優越感と背徳感が、俺の日常を鮮やかに彩っていく。
その夜のLINEは、いつもより少し早かった。二十三時。俺が机に向かって脚本の推敲をしていると、スマホが光った。
『お前、今日の放課後、少し疲れてたな』
ドキリとした。今日は文芸部の部室に顔を出した後、すぐに帰ったはずだ。彼とは会っていない。
『……気づいてたんですか?』
『気づかないわけがない。お前のことは全部、見てる』
文字で見ると、少し怖い。でも、その裏にある不器用な心配りが、俺には分かってしまう。彼は、遠くからでも俺を探し、俺の様子を伺ってくれているのだ。
『変な意味じゃない。お前が無理してないか、心配なんだ』
わずかな間。
『顔色が、少し悪かった』
『ありがとうございます。ちょっと、考え事をしていて』
『海斗のことか?』
鋭い指摘に、指が止まる。今日、廊下で海斗と目が合った。彼は俺を睨みつけ、すぐに逸らした。その視線の冷たさが、ずっと心に刺さっていたのだ。
『……はい。少しだけ』
『あいつが何かしてきたら、すぐに言え。俺が守る』
「守る」。
その言葉の強さに、俺はスマホを握りしめた。彼は生徒会長だ。権力もある。でも、そういうことじゃない。彼個人として、俺を守ろうとしてくれている。
『先輩に迷惑はかけられません』
『迷惑じゃない』
入力中のマークが点滅する。
『お前は俺の――』
入力中のマークが、長く表示される。俺は息を止めて待った。彼は、何を言おうとしているんだろう。
俺の、何?
後輩? 共犯者? それとも――。
数秒後。送られてきたのは、短い一文だった。
『……なんでもない。忘れてくれ』
言いかけた言葉を、飲み込んだ。その躊躇いに、俺の胸は締め付けられた。
彼もまた、怖がっているのかもしれない。この「名前のない関係」に、名前をつけてしまうことを。近づきすぎて、傷つけ合うことを。
『はい』
わずかな間。
『おやすみなさい、流星先輩』
『ああ。おやすみ、雪』
画面を閉じても、胸の高鳴りは収まらなかった。
「雪」。
文章の中だけで呼ばれる、俺の名前。音声ではないのに、彼の低い声で囁かれたような気がして、耳が熱い。
俺たちは、触れ合えない。30センチの距離は、まだそこにある。けれど、言葉だけは、壁をすり抜けて心に触れてくる。
それは、物理的な体温よりもずっと熱く、俺の凍った心を溶かしていく。
でも、幸せであればあるほど、不安もまた大きくなる。こんな日々が、いつまで続くんだろう。俺の過去が、いつかこの温もりを壊してしまうんじゃないか。
深夜三時。ふと目が覚めてスマホを見ると、一件の通知が残っていた。流星先輩からだ。送信時間は、俺が寝た直後。
『お前がいなくなったら、俺はまた凍りつく』
わずかな間。
『だから、頼む。ずっと、そばにいてくれ』
その悲痛なほどの懇願に、俺の目から涙が溢れた。彼は、強い人じゃない。誰よりも寂しがり屋で、誰よりも温もりを求めている、ただの男の子だ。
俺は、画面を胸に抱きしめた。
誓うよ、先輩。俺は、どこにも行かない。あなたの氷を溶かすのは、俺の言葉だけだ。たとえ、世界中が敵に回ったとしても。
窓の外では、冷たい秋の雨が降り始めていた。それは、やがて訪れる嵐の予兆のようだった。
