氷の王子は、俺の「言葉」にだけ熱を宿す

 翌日の放課後。俺は再び、生徒会室のドアの前に立っていた。
 昨夜は、ほとんど眠れなかった。目を閉じると、夕陽に染まった流星先輩の顔と、「俺のために書いてくれ」という切実な声が蘇ってくるからだ。
 ――俺の言葉が、救いだった。
 その事実は、俺の足枷を外すには十分すぎるほどの熱を持っていた。怖くないと言えば嘘になる。また失敗するかもしれない。また誰かを傷つけるかもしれない。
 それでも、俺は「書きたい」と思ってしまった。あの人のために。あの人の孤独を埋めるために。
 深呼吸をして、ノックをする。
「入れ」
 昨日と同じ、短い応答。ドアを開けると、流星先輩は窓辺に立って外を眺めていた。俺が入ってきた気配に気づき、ゆっくりと振り返る。
 その表情は硬い。まるで、判決を待つ被告人のようだ。
「……答えは」
 単刀直直入な問い。俺は、拳を握りしめて答えた。
「やらせてください。脚本、書きます」
 一瞬、流星先輩の目が大きく見開かれた。そして、ふっと肩の力が抜ける。
「そうか。……よかった」
 その声の安堵の色に、俺の胸が締め付けられる。この人は、本当に俺を待っていてくれたんだ。
「ただし、条件があります」
「なんだ? 金か? それとも単位か?」
「違います。……俺が書くのは、あくまで『原案』です。先輩と一緒に作り上げたいんです」
 一人で背負い込むのが怖い。これは、俺なりの防衛策でもあった。だが、流星先輩は満足げに頷いた。
「いいだろう。共犯関係、というわけだ」
 共犯。その響きが、妙に心地よく耳に残った。

 その日から、放課後の生徒会室での執筆作業が始まった。
 広い会議用テーブル。俺が下座に座り、流星先輩が上座――ではなく、俺の斜め向かいに座る。距離は、約1メートル。ノートパソコンを広げた俺の横に、彼が資料を置く時も、決してその距離は縮まらない。
「悪いが、俺の半径30センチ以内には入らないでくれ」
 作業の初めに、彼はそう告げた。冷たい拒絶の言葉。だが、その時の彼の瞳は、どこか怯えているように見えた。
「……潔癖症、なんですよね」
「ああ。他人が近くにいると、吐き気がする」
 彼は白革の手袋をはめたまま、自分の腕をさすった。噂には聞いていた。「氷の王子」は誰も寄せ付けない、と。だが、実際に目の当たりにすると、それは傲慢さというより、もっと切実な「防衛本能」のように感じられた。
「分かりました。この線からは入りません」
 俺はテーブルの木目を指でなぞり、境界線を引くふりをした。流星先輩は、少しだけ申し訳なさそうな顔をして、それから小さく頷いた。
 脚本のテーマ決めは難航した。文化祭の演劇。恋愛もの、ファンタジー、ミステリー。ありきたりな案を出しては、二人で首を捻る。
「もっと、切実なものがいい」
 流星先輩が言った。
「演じる俺たちが、嘘をつかなくていい物語だ」
「嘘をつかなくていい物語……」
「例えば――『触れ合えない二人』の話はどうだ」
 俺は顔を上げた。彼のアイスブルーの瞳が、俺を真っ直ぐに見つめている。
「互いに惹かれ合っているのに、呪いか何かで、決して触れることができない」
 流星先輩が、わずかに息を呑む。
「……俺と、お前のように」
 ドキリとした。俺たちは惹かれ合っているわけじゃない。ただの先輩と後輩、依頼主と書き手だ。でも、彼の言う「触れられない」という設定には、強烈なリアリティがあった。
「……どうして、そこまで接触を拒むんですか?」
 気づけば、聞いていた。踏み込みすぎだとは分かっていた。でも、彼の「物語」を知らなければ、脚本は書けない気がした。
 流星先輩は視線を落とし、手袋をした両手をきつく握り合わせた。
「……汚いからだ」
「え?」
「人は、裏切る。笑顔で近づいてきて、泥を塗りたくる」
 彼は、ポツリポツリと語り始めた。小学5年生の頃の話。資産家の息子である彼は、周囲からチヤホヤされていた。だが、ある日、信頼していた「親友」グループに裏切られた。
 放課後の教室。彼らは豹変し、「金持ちなんだから奢れよ」と彼を囲んだ。拒絶した彼に、彼らは暴力を振るった。
 掃除用具入れの泥水をかけられ、大切にしていた万年筆を折られ、制服を汚された。
 『お前なんか、金がなきゃただのガリ勉だろ』
 嘲笑う声。触れてくる汚れた手。
「あの日から、人の肌が怖くなった。誰かが近づくと、あの泥水の臭いがする気がして……」
 流星先輩の声が、わずかに震える。
「息ができなくなる」
 彼は、自分の手袋を見つめた。
「この手袋は、最後の砦だ。これがあれば、俺は世界と直接触れ合わずに済む」
 自嘲するような笑みを浮かべる。
「俺は、誰とも本当の意味では繋がれない欠陥品なんだよ」
 俺は、胸が詰まった。この人は、傲慢なんかじゃなかった。ただ、傷ついて、怖がって、必死に自分を守っているだけの、小さな男の子だったんだ。
「……書きます」
 俺は言った。
「その痛みも、孤独も、全部物語にします」
 流星先輩が顔を上げる。
「先輩が、その役を演じることで、少しでも救われるような……そんな結末を書きます」
 その瞳が、潤んでいるように見えた。
「……頼む」

 それから数日、執筆は順調に進んだ。俺がプロットを書き、流星先輩がそれを読んで意見を出す。彼は、俺の文章のファンだと言うだけあって、俺の意図を驚くほど正確に汲み取ってくれた。
 ある日の夕方。根を詰めてキーボードを叩いていると、不意に甘い香りが漂ってきた。
 顔を上げると、デスクの端――俺の手が届くギリギリの場所に、マグカップが置かれていた。湯気を立てる、ホットココア。
「……これ」
「疲れた顔をしてたからな。糖分補給だ」
 流星先輩は、もう自分の席に戻って書類を見ていた。素っ気ない態度。でも、俺は知っている。自販機にはコーヒーもお茶もある中で、わざわざココアを選んでくれたことを。
 俺が甘党だなんて、一度も言っていないのに。
「……ありがとうございます。俺、ココア大好きなんです」
「知ってる。お前、昼休みに購買で甘いパンばかり買ってるだろ」
 見ていたのか。ストーカーじみた観察眼に少し引くべきところかもしれないが、不思議と嫌ではなかった。
 俺のことを、そこまで見てくれている。透明人間だった俺に、輪郭を与えてくれている。
 ココアを一口飲む。温かくて、甘い。張り詰めていた神経が、ふわりと緩む。
「ここ、いいな」
 流星先輩が、俺が印刷した原稿用紙を指差した。彼の手には赤ペンが握られている。ダメ出しだろうか、と身構えると、彼が丸で囲んでいたのは、主人公の独白部分だった。
『世界はガラスの壁で隔てられている。叩いても、叫んでも、こちらの声は向こうには届かない』
 その横に、流星先輩の端正な字で、こう書き込まれていた。
 『この表現、好きだ。俺の気持ちそのままだ』
 修正指示ではない。ただの、感想。共感。赤ペンは、採点のためではなく、俺へのラブレターのように見えた。
 胸の奥が、ココアよりも熱くなる。
 その時だった。急いでココアを飲んだせいで、気管に入ってしまった。
「げほっ、ごほっ……!」
 激しく咳き込む。苦しい。涙目になる。
 ガタッ、と椅子が倒れる音がした。
「おい、大丈夫か!?」
 流星先輩が血相を変えて駆け寄ってくる。俺の背中をさすろうと、手が伸びてくる。
 ――来る。触れられる。
 そう思った瞬間。
 ピタリ。
 彼の手が、空中で止まった。俺の背中から、わずか30センチの距離。そこに見えない壁があるかのように、彼の手は凍りついていた。
 彼の顔を見る。そこには、痛々しいほどの葛藤が浮かんでいた。
 助けたい。背中をさすってやりたい。でも、できない。触れるのが怖い。汚れるのが、汚すのが怖い。
 伸ばされた指先が、小刻みに震えている。
「……すまん」
 彼は、苦しげに呻いて、手を引っ込めた。代わりに、自分のデスクから箱ティッシュを持ってきて、俺の前にドンと置いた。
「使え」
 それだけ言って、彼は逃げるように窓際へ歩いていった。背中を向けたまま、拳を握りしめているのが分かる。
 俺はティッシュで口元を拭い、呼吸を整えた。咳は治まったけれど、胸の痛みは消えなかった。
 俺の咳のせいじゃない。あの人の、悲しい背中のせいだ。
 触れたいのに、触れられない。そのもどかしさが、彼を傷つけている。そして、そんな彼を見て、俺も傷ついている。
 帰り支度を終え、俺はドアの前で立ち止まった。流星先輩は、まだ窓の外を見ていた。
「……お疲れ様でした」
 声をかけると、彼は振り返らずに言った。
「お前の言葉は、温かいな」
 独り言のような、掠れた声。
「触れられなくても、お前の文章に触れると……」
 わずかな間。
「俺の凍った心が、溶ける気がするんだ」
 俺は、ドアノブを握りしめた。何も言えなかった。ただ、深く頭を下げて、部屋を出た。
 廊下を歩きながら、俺は自分の手を見つめた。彼の手袋の白さが、目に焼き付いている。
 あの手袋を外して、彼の手を握り返せる日が、いつか来るのだろうか。この物語の結末で、二人が触れ合えるように。
 俺たちの関係も、ハッピーエンドになればいいのに。
 そんな、身の程知らずな願いが、俺の中で芽生え始めていた。