氷の王子は、俺の「言葉」にだけ熱を宿す

 夜風が、二人の間を吹き抜ける。
 屋上のフェンス越しに見える校庭では、キャンプファイヤーの炎が揺らめき、フォークダンスの曲が微かに聞こえてくる。笑い声、歓声、祭りの終わりを惜しむ声。
 世界は賑やかで、楽しげだ。
 けれど、俺たちの周りだけは、真空のような静寂に包まれていた。
 目の前には、差し出された流星先輩の右手。
 白く、長く、美しい指。月光を受けて、まるで大理石の彫刻のように浮かび上がっている。
 いつも彼を外界から遮断していた白革の手袋は、もうない。
 無防備な素肌。生身の人間の証。
 その手が、微かに震えている。
「……先輩」
 俺は、掠れた声で彼の名を呼んだ。
「大丈夫なんですか? 無理は――」
「怖いさ」
 流星先輩は、正直に答えた。その声にも、震えが混じっている。
「今でも、吐き気がするほど怖い。触れられたら、また裏切られるんじゃないかって、身体が拒絶してる」
 彼の瞳が、俺を真っ直ぐに見据えた。
「でも、それ以上に……お前に触れたい」
 その言葉に、俺の心臓が跳ね上がる。
「お前の脚本を演じて、分かったんだ。俺はもう、ガラス越しじゃ満足できない」
 流星先輩は、震える右手を、さらに俺の方へ差し出した。
「お前となら――お前だけなら、触れられる気がする」
 その瞳に、迷いはなかった。
 恐怖がある。トラウマがある。でも、それを全部ねじ伏せるほどの、俺への渇望がそこにあった。
 俺は、息を止めた。
 心臓が、肋骨を叩き割るような勢いで脈打っている。
 この距離を埋めるのに、どれだけの時間がかかっただろう。
 どれだけの言葉を重ね、どれだけの夜を越えてきただろう。
 LINEでの深夜の会話。生徒会室での静かな共作。全校集会での庇護。ガラス越しの告白。
 全てが、この瞬間のためにあった。
 俺は、震える自分の右手を、ゆっくりと持ち上げた。
 彼の指先へと近づけていく。
 5センチ。3センチ。1センチ。
 空気が熱を帯びる。互いの体温が、触れる前から伝わってくるようだ。
 流星先輩の瞳が、俺を捉えて離さない。
 その瞳には、恐怖と、それを上回る愛情が渦巻いていた。
「……雪」
 彼が、俺の名を呼んだ。
 愛しさと切なさが入り混じった、完璧な発音。
 その声に導かれるように、俺は最後の壁を越えた。
 トン。
 俺の指先が、彼の指先に触れた。
   
 ビクリ、と流星先輩の全身が跳ねた。
 俺も、息を呑んだ。
 電気が走ったような衝撃。静電気よりもずっと強烈な、魂の共鳴。
 だが、彼は手を引っ込めなかった。
 俺も、逃げなかった。
 指先から、手のひらへ。
 俺はおずおずと、彼の手を包み込むように握った。冷たい。外気に晒されていた彼の手は、氷のように冷えていた。
 けれど、その奥に、確かな熱がある。
 脈打つ血液の温度。生きている人間の、命の熱。
 彼もまた、俺の手を握り返してくる。
 ギュッ。
 強い力。痛いほどに、強く。まるで、離したら二度と掴めないとでも言うように。
「……あ……っ」
 俺の喉から、声が漏れた。
 温かい。
 想像していたよりもずっと、熱くて、硬くて、そして優しい。
 これが、人の体温。
 これが、氷室流星という人間の、生身の温度。
「……温かい」
 流星先輩が、震える声で呟いた。
 彼は、信じられないものを見るような目で、繋がれた俺たちの手を見つめている。
「人の手って……こんなに、温かいのか」
 その声が、掠れている。
 彼の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
 それを見た瞬間、俺の涙腺も決壊した。
 彼は、ずっと孤独だったんだ。
 小学生の頃に友人たちから裏切られて以来、誰の手も握れず、誰の温もりも知らず、凍えるような世界で一人、戦ってきたんだ。
 その氷を、今、俺が溶かしている。
「……はい」
 俺は泣きながら、笑った。
「温かいです、先輩。すごく、温かい」
 流星先輩が顔を上げた。
 その頬を、月光に照らされた涙の筋が流れている。
「雪……」
 彼は、繋いだ手を強く引き寄せた。
 俺の身体が、彼の方へ引き込まれる。
 もう、30センチの壁はない。20センチも、10センチも、ない。
 彼は、空いた左手も伸ばし、俺のもう片方の手を掴んだ。
 両手で、しっかりと。
「離さない」
 彼の声が、夜空に響く。
「もう二度と、離さない」
 その必死な響きが、俺の胸を締め付けた。
 俺も、彼の手を強く握り返した。
「離れません。……何があっても」
 星空の下、俺たちは両手を繋いで向かい合った。
 冷たかった彼の手が、だんだんと温まってくる。俺の体温が伝わっていく。
 いや、違う。
 彼自身の体温が、蘇ってきているんだ。
 凍てついていた彼の心が、溶け始めている。
   
 下界から聞こえてくる音楽が、ゆったりとしたワルツ調に変わった。
 後夜祭のクライマックス。フォークダンスの時間だ。
「……踊るか?」
 流星先輩が、涙を拭って、悪戯っぽく微笑んだ。
 その笑顔は、いつもの完璧な生徒会長ではなく、ただの年相応の少年のものだった。
「え? ここで、ですか?」
「ああ。特等席だろ?」
 彼は、俺の手を引いて、ステップを踏み出した。
 右手と右手。左手と左手。四本の手が絡み合ったまま、俺たちは屋上の真ん中で回り始めた。
 ダンスなんて習ったこともない。俺の動きはぎこちなくて、何度も彼の足を踏みそうになった。
 でも、彼がリードしてくれるから、不思議と転ぶことはなかった。
 星空の下で。
 男二人、手を取り合って回る。
 滑稽かもしれない。笑われるかもしれない。
 でも、今の俺たちには、これが世界で一番美しい舞踏会だった。
 一回転。また一回転。
 回るたびに、繋いだ手が熱くなっていく。汗ばんだ手のひら同士が、ぴったりと密着する。
 気持ち悪いはずなのに、流星先輩は手を離さなかった。
 むしろ、もっと強く握りしめてくる。
 やがて音楽が途切れ、俺たちは足を止めた。
 息が上がっている。顔が火照っている。
 顔を見合わせて、どちらからともなく笑った。
「ははっ、俺、下手すぎますね」
「いや……」
 流星先輩は、俺の目を真っ直ぐに見つめた。
「悪くない。お前のリズムは、心地いい」
 彼は、繋いだ手を離さず、ゆっくりと距離を詰めてきた。
 5センチ。3センチ。
 彼の吐息が、俺の頬にかかる。
「雪」
「……はい」
「好きだ」
 直球の、告白。
 ガラス越しではない。距離ゼロで、肌で感じる言葉。
 その振動が、繋いだ手を通して全身に伝わってくる。
「俺も……」
 俺は、喉の奥が詰まるような感覚を堪えて、言葉を紡いだ。
「俺も、先輩が好きです。大好きです」
 流星先輩が、目を細めた。
 そして――。
 繋いでいた手を離し、俺の背中に腕を回した。
 抱擁。
 全身が、彼の身体に密着する。
 広い胸板。しっかりとした肩幅。制服越しに感じる、硬い筋肉。
 ドクン、ドクンという彼の心臓の音が、俺の胸に直接響く。
 彼の匂いが、俺を包み込む。甘くて、少し苦い、大人の香り。
「……っ!」
 俺も、彼の背中に腕を回した。
 しがみつくように、強く。
 彼の体温が、服越しに伝わってくる。温かい。生きている。
 俺たちは今、確かにここにいて、互いを求め合っている。
「先輩……温かい……」
「ああ……お前も、温かい」
 流星先輩が、俺の髪に顔を埋めた。
 首筋にかかる彼の吐息が、くすぐったくて、愛おしい。
「怖くないんですか?」
 俺が聞くと、彼は低く笑った。
「怖いさ。今でも、心臓が破裂しそうだ」
 彼の腕に、さらに力が込められる。
「でも、お前となら……大丈夫だ」
 その言葉に、俺は目を閉じた。
 彼を抱きしめる腕に、力を込める。
「これから、どんな物語を書く?」
 彼が、耳元で囁いた。
「……先輩と俺の、ハッピーエンドの物語を」
 俺が答えると、彼は喉の奥で低く笑った。
 その振動が、心地よく俺に伝わる。
「なら、俺がその物語の、最高の読者になる」
「……はい。一番最初に、先輩に読んでもらいます」
「約束だ」
 俺たちは、星空の下、長い間抱き合っていた。
 寒空の下のはずなのに、身体の芯から熱かった。
 言葉だけじゃない。
 体温で、鼓動で、魂で。
 俺たちは、ようやく一つになれたんだ。
   
 それから、二ヶ月が過ぎた。
 季節は冬。1月の半ばを過ぎ、受験シーズンが本格化していた。
 三年生は自由登校期間に入り、学校は少し寂しくなっていた。
 だが、俺の毎日は、以前とは比べ物にならないほど鮮やかだった。
 放課後の生徒会室。
 俺は、新しい小説のプロットを練っていた。ノートパソコンの画面には、タイトルが表示されている。
『氷の王子と言葉の魔法使い』
 もちろん、モデルは俺たちだ。
 あの文化祭から始まった、俺と流星先輩の物語。触れられない距離が、ゼロになるまでの軌跡を、もう一度、言葉で紡ぎ直そうと思う。
 今度は、誰かを傷つけるためじゃない。
 俺たち自身を祝福するために。そして、いつか誰かの「希望」になるために。
 コンコン。
 ドアがノックされた。
「どうぞ」
 返事をすると、ガラリとドアが開く。
「待たせた」
 私服姿の流星先輩が入ってきた。
 ロングコートにマフラー。相変わらず、モデルのように様になっている。髪には、外の寒さで溶けかけた雪の結晶が残っている。
 ただ一つ、以前と違うのは――。
 彼の手に、手袋がないことだ。
 素手のまま、マフラーを緩めながら、彼は俺の元へ歩み寄ってくる。
「お疲れ様です、先輩」
「ああ。……進んでるか?」
「まあまあです」
 彼は、俺の隣に椅子を引いて座った。
 距離、ゼロ。肩と肩が触れ合っている。
 最初はビクビクしていた彼も、今ではこうして俺に触れることが当たり前になっていた。
 彼曰く「お前は俺の一部だから、触れても平気」らしい。恥ずかしいことを真顔で言う人だ。
 俺に対してだけは、潔癖症が発動しない。
 それが、嬉しくて、誇らしい。
「寒かったでしょう?」
 俺が聞くと、彼は肩をすくめた。
「ああ。今年は例年より冷え込むらしい」
 そう言いながら、彼は自分の両手を見つめた。少し赤くなっている指先。
「……手袋、つけなくてよかったんですか?」
「お前に会うのに、手袋は邪魔だ」
 流星先輩は、あっさりとそう言って、俺の手を取った。
 冷たい。外の寒さで、氷のように冷えている。
「冷たっ」
「悪い。……温めてくれ」
 彼は、俺の手を両手で包み込んだ。
 俺も、彼の手を温めるように握り返す。
 だんだんと、互いの体温が混ざり合っていく。
「……で、卒業したらどうするんですか?」
 俺は、繋いだ手を見つめたまま聞いた。
 彼は、春から大学へ行く。推薦で、都内の名門私立に決まっている。
 俺はまだ高校二年生。あと一年、ここに残る。
 会える時間は、確実に減ってしまう。
「大学に行く」
 流星先輩は、即答した。
「……そして、お前が卒業したら、お前も同じ大学に来い」
 彼は、俺の方を向いた。
 その瞳は、出会った頃と同じように、俺を射抜くような強さを持っていた。
 でも、そこにあるのは冷たさじゃない。
 溶けるような、甘い独占欲だ。
「……それって」
「俺から離れるなと言っているんだ」
 彼は、繋いだ手をさらに強く握った。
「俺には、お前の言葉が必要だ。お前の体温が必要だ」
 彼の声が、一段低くなる。
「一生、俺のそばで書いてくれ」
 それは、プロポーズに等しい言葉だった。
 俺は、胸がいっぱいになって、微笑んだ。
「……はい」
 迷いなんて、なかった。
「離れません。ずっと、一緒です」
 俺が答えると、彼は満足げに目を細めた。
 そして、繋いだ手を引き寄せて、俺の手の甲にキスをした。
「先輩……っ」
「約束だぞ、雪」
 彼は、真剣な目で俺を見つめた。
「俺は、お前以外に触れられない。お前がいなくなったら、俺はまた凍る」
「……分かってます」
 俺は、彼の頬に手を伸ばした。
 彼は目を閉じて、その手に頬を預けてくる。
「俺も、先輩がいなくなったら、もう書けません。だから――」
 俺は、彼の額に自分の額を押し当てた。
「ずっと、一緒にいます」
 窓の外は、夕暮れ。
 茜色の光が、生徒会室を染めている。
 俺たちの影が、床の上で一つに重なっている。
 流星先輩が、俺の顔を両手で包み込んだ。
 その顔が、ゆっくりと近づいてくる。
 俺は、目を閉じた。
 唇に、柔らかい感触が触れる。
 甘くて、優しい、誓いのキス。
 あの屋上の夜以来、何度目かのキス。でも、何度目でも、心臓は壊れそうなほど高鳴る。
「……先輩、好きです」
 唇が離れた瞬間、俺は囁いた。
「ああ、俺もだ」
 彼は、俺の頭を撫でて、もう一度、深く口づけた。
 今度は、少し長い。舌が絡み合う。甘い吐息が混ざり合う。
 俺たちは、夕日の中で抱き合った。
 外は寒い冬だけど、ここはとても温かい。
 俺は透明人間じゃなくなった。
 氷の王子は、もう凍えていない。
 俺たちの物語は、ここから始まる。
 言葉と、熱と、愛に満ちた、最高のハッピーエンドへ向かって。
   
 ノートパソコンの画面に、俺は最後の一行を打ち込んだ。
『――そして、二人は永遠に、言葉で繋がれた』
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 流星先輩が、俺の肩越しに画面を覗き込んだ。
「……完成か?」
「はい。第一稿ですけど」
「読ませてくれ」
「今すぐですか?」
「ああ。俺は、お前の最初の読者だからな」
 彼は、嬉しそうに微笑んだ。
 俺は、ファイルを彼に送信した。彼のスマホが、受信音を鳴らす。
 彼は、画面を開いて読み始めた。
 真剣な横顔。ページをスクロールする指。時折、口元が緩む。
 俺は、彼の反応を見ながら、心臓を高鳴らせていた。
 やがて、彼は顔を上げた。
「……最高だ」
 その一言に、俺の目から涙が溢れた。
「ありがとう、ございます……」
「泣くな」
 彼は、俺の涙を指で拭った。
「お前の言葉は、もう誰も傷つけない。ただ、俺たちを祝福してる」
 彼は、俺を抱き寄せた。
「これからも、書き続けろ。俺が、ずっとそばにいるから」
「……はい」
 俺は、彼の胸に顔を埋めた。
 温かい。生きている。愛している。
 全てが、ここにある。
 夕日が、二人を包み込んでいた。
 生徒会室の窓から見える校庭では、部活動に励む生徒たちの姿が小さく見える。
 世界は、いつも通り回っている。
 けれど、俺たちの世界は、確かに変わった。
 氷が溶けて、言葉が熱を宿して、二つの魂が一つになった。
 それは、奇跡なんかじゃない。
 必然の、ハッピーエンドだ。
 ――だって、俺たちは、言葉で繋がっているんだから。
(了)