氷の王子は、俺の「言葉」にだけ熱を宿す

 文化祭当日。
 星陵学園は、一年で最も熱い空気に包まれていた。
 校舎の窓には極彩色の垂れ幕が下がり、グラウンドには模擬店のテントがひしめき合っている。行き交う生徒たちの笑顔、呼び込みの声、焼きそばのソースの匂い。
 その全てが、今の俺には眩しかった。
 俺は、講堂の舞台袖に立っていた。心臓が、痛いほど早鐘を打っている。
 幕の向こうには、全校生徒と保護者、そして一般客を含めた千人近い観客がいる。かつて、俺の言葉を「毒だ」と罵った世界が、そこにある。
「……緊張しているか」
 背後から、凛とした声がかけられた。
 振り返ると、衣装に身を包んだ流星先輩が立っていた。中世の王子を模した、純白の軍服。肩には金のモール、腰には儀礼用の剣。そして、その手には白革の手袋。
 息を呑むほど美しかった。「氷の王子」というあだ名が、これほど似合う姿は他にないだろう。
「……はい。正直、逃げ出したいです」
「安心しろ。お前の脚本は完璧だ」
 流星先輩は、俺の横に並んだ。距離、20センチ。
 袖の暗がりの中で、彼のアイスブルーの瞳が強く光る。
「俺が保証する。今日の舞台は、伝説になる」
 その自信に満ちた言葉に、俺の震えが少しだけ収まる。
 そうだ。この人は、俺の「最初の読者」であり、「最強の味方」なのだ。
 ブザーが鳴り響く。開演の合図だ。
「行ってくる」
 流星先輩は、俺に短く告げると、光の当たる舞台へと歩み出していった。
 その背中を見送りながら、俺は祈るように両手を組んだ。
 届け。俺たちの言葉よ、届け。
   
 演目名『触れられない二人の物語』。
 物語の舞台は、魔法が存在する架空の王国。主人公は、呪いによって「触れたものを凍らせてしまう」孤独な王子。彼は塔の上に幽閉され、誰とも関わらずに生きていた。
 そんなある日、彼は風に乗って運ばれてきた一枚の紙片を拾う。そこには、名もなき魔法使いが書いた、美しい詩が綴られていた。
 舞台上の王子――流星先輩が、その詩を読み上げる。
「『孤独な魂よ、氷の檻に閉ざされた者よ。お前の沈黙は罪ではない。凍てついた手を、いつか誰かが解かすだろう』」
 静まり返った講堂に、彼の美声が朗々と響く。
 それは演技ではなかった。彼自身の、魂の叫びだった。観客たちが、息を呑んで舞台に引き込まれていくのが分かる。
 物語は進む。
 王子は、詩の作者である魔法使いを探し出し、塔に招く。魔法使い役は、演劇部のエースである二年生が演じている。俺の分身だ。
 二人は、ガラスの壁越しに交流を深めていく。触れられないもどかしさ。言葉だけで心を通わせる切なさ。
 俺と先輩が、生徒会室で過ごしたあの日々が、そのまま舞台上で再現されていく。
 観客は、完全に物語に没入していた。咳払いひとつ聞こえない。
 そして、クライマックス。
 魔女の呪いが強まり、王子が永遠の氷に閉ざされそうになる場面。王子は、魔法使いを拒絶する。
「来るな! これ以上近づけば、君まで凍ってしまう!」
 流星先輩の迫真の演技。苦悩に歪む顔。伸ばしかけて引っ込める手。
 それは、あの夕暮れの校門前で、俺に見せた表情そのものだった。
 魔法使いは、それでも引かない。彼は、王子のために書き上げた「最後の詩」を詠唱する。
 それは、俺がこの脚本のために――いや、流星先輩のために書き下ろした「返歌」だ。
 舞台上の魔法使いが、叫ぶ。
「『凍える夜は、もう来ない! なぜなら、あなたには私がいるから!』」
 その台詞と共に、照明が変わり、舞台が暖かなオレンジ色の光に包まれる。魔法使いの言葉が、王子の氷を溶かしていく演出。
「『私の言葉が、あなたの熱になる。私の声が、あなたの盾になる。触れられなくても、魂は繋がっている。だから――愛する人よ、恐れないで』」
 その言葉は、俺から先輩への、公然のラブレターだった。
 俺の言葉は、人を傷つける刃じゃない。あなたを守る、盾なんだ。あなたを温める、炎なんだ。
 舞台上の王子が、顔を上げる。その瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。
 彼は、魔法使いに向かって、ゆっくりと手を伸ばした。魔法使いも、手を伸ばす。
 指先と指先が、触れ合う寸前で止まる。スポットライトが、その「隙間」を照らし出す。
 触れていない。けれど、そこには確かに、世界で一番強い絆が見えた。
「……ありがとう」
 王子が、震える声で言った。
「君の言葉が、僕を救った」
 暗転。静寂。
 一拍置いて。
 ドッ、と講堂が揺れるほどの拍手が巻き起こった。
   
 割れんばかりの拍手喝采。
「ブラボー!」「すげえ!」「泣ける!」
 歓声が、波のように押し寄せてくる。俺は、袖で立ち尽くしていた。震えが止まらなかった。
 届いた。俺の言葉が、届いた。
 誰も傷つけず、誰も不幸にせず。ただ、感動を生んだ。
 涙が溢れて、視界が滲む。
 二年前、海斗に「お前の言葉は人を殺す」と言われて以来、ずっと俺を縛り付けていた呪いが、音を立てて砕け散っていくのを感じた。
 俺は、書いてよかったんだ。生きていて、よかったんだ。
 幕が下りる。
 興奮冷めやらぬ舞台上に、キャストたちが集まってくる。その中心に、流星先輩がいた。
 彼は、額の汗を拭うこともせず、真っ直ぐに袖の俺の元へと歩いてきた。
「……雪」
 彼は、俺の目の前に立った。その顔は、達成感と、そして深い愛情に満ちていた。
「聞いたか、あの拍手を」
「……はい」
「あれは、お前への拍手だ。お前の言葉が、あいつらの心を動かしたんだ」
 流星先輩は、俺を見下ろして微笑んだ。
「証明できたな。お前の言葉は、最高だ」
 俺は、涙を拭って頷いた。言葉が出なかった。胸がいっぱいで、声にならなかった。
 周囲の生徒会役員や演劇部のメンバーが、俺たちを取り囲む。
「有村くん、すごかったよ!」
「あの台詞、マジで泣いた!」
「天才じゃん!」
 かつて俺を遠巻きにしていたクラスメイトたちも、興奮した様子で話しかけてくる。そこにはもう、軽蔑も恐怖もなかった。
 あるのは、純粋な称賛と、仲間としての親愛だけ。
 俺は、透明人間じゃなくなった。有村雪という、一人の書き手として、ここに立っている。
 ふと、人垣の向こうに、海斗の姿が見えた気がした。
 彼は、出口の扉の前に立っていた。俺と目が合うと、彼は少しだけバツが悪そうに視線を逸らし、それから――小さく、拍手をした。
 パン、パン、と二回だけ。そして、背を向けて去っていった。
 許されたわけじゃないかもしれない。でも、認めてはくれたのかもしれない。
 それだけで、十分だった。
   
 文化祭の喧騒は、夜まで続いた。
 俺は、クラスの出し物の手伝いや片付けに追われていた。流星先輩とは、演劇の後、別行動だった。彼は生徒会長として、閉会式の準備や来賓の対応で忙殺されている。
 すっかり日が暮れ、校庭では後夜祭の準備が始まっていた。キャンプファイヤーの櫓が組まれ、フォークダンスの音楽がテストで流されている。
 俺は、教室の窓からそれを眺めていた。祭りの後の寂しさと、心地よい疲労感。
 ブブッ。
 ポケットのスマホが震えた。流星先輩からのLINEだ。
『今、どこだ』
『教室です』
『抜け出せるか?』
『はい、もう片付けも終わったので』
『よし。……後夜祭、来い』
 短いメッセージの後に、場所が送られてきた。校庭ではない。
 『屋上』
 俺は、スマホを握りしめた。
 屋上。俺たちが初めて本音をぶつけ合い、ガラス越しに愛を誓った場所。
『待ってる』
 最後の一言に、心臓が高鳴る。
 俺は教室を飛び出した。階段を駆け上がる。一段飛ばしで、息を切らして。
 屋上の扉を開ける。夜風が、火照った頬を撫でた。
 満天の星空の下。フェンスのそばに、彼がいた。
 舞台衣装のままの、王子様。彼は、俺の足音に気づいて振り返った。月光を背負ったその姿は、この世のものとは思えないほど美しかった。
 俺は、彼に歩み寄る。そして、気づいた。
 彼の手。いつもはめられている、あの白革の手袋がない。
 白く、長い指が、夜気に晒されている。素手だ。
「……先輩」
「来たか」
 流星先輩は、穏やかに微笑んだ。その笑顔には、もう迷いはなかった。
「手袋……外したんですか」
「ああ」
 彼は、自分の右手を見つめた。
「お前の脚本を演じていて、思ったんだ。……いつまでも、ガラス越しじゃダメだって」
「でも、大丈夫なんですか? 無理は……」
「怖いさ。今でも、吐き気がするほど怖い」
 彼は正直に言った。微かに、指先が震えている。
「でも、それ以上に……お前に触れたい」
 彼のアイスブルーの瞳が、俺を射抜く。
「お前となら、大丈夫な気がするんだ。お前の言葉が、俺の呪いを解いてくれたから」
 彼は、俺に向かって右手を差し出した。ダンスを申し込むように。あるいは、魂を差し出すように。
「雪。……おいで」
 その声に、俺は吸い寄せられた。
 もう、言葉はいらない。俺たちの物語の、ラストシーン。それは、言葉を超えた「体温」で綴られるべきだ。
 俺は、震える手を伸ばした。彼の指先まで、あと数センチ。
 心臓が、破裂しそうだ。下界からは、後夜祭の音楽が微かに聞こえてくる。
 この瞬間が、永遠に続けばいいと思った。でも同時に、早く触れたいとも思った。
 俺の指先が、彼の指先に近づく。あと、5センチ。3センチ。1センチ。
 流星先輩の瞳が、揺れている。恐怖と期待が、せめぎ合っている。
 けれど、彼は手を引かなかった。俺を信じて、そこに留まっていてくれた。
 そして――。
 俺たちの指先が、触れた。