文化祭直前。
演劇の練習は、大詰めを迎えていた。
放課後の講堂。舞台上では、衣装を着たキャストたちが通し稽古を行っている。
俺は客席の最前列で、演出担当と共にそれを見守っていた。
全体的な完成度は高い。照明、音響、衣装、全てが上手く噛み合っている。
だが、一箇所だけ、どうしても解決できない問題があった。
ラストシーン。
王子役の流星先輩が、魔法使い役の男子生徒に手を伸ばす場面。
そこで、どうしても演技が硬くなってしまうのだ。
「……カット!」
演出の生徒が、また声を上げた。
「会長、もっと感情を入れてください! そこは、愛する人に初めて触れようとする、感動のシーンなんですよ!」
「……分かっている」
流星先輩は、苦渋の表情で額の汗を拭った。
白い手袋をした手で、強く目を押さえる。
手袋をしていても、他人に近づくことへの拒絶反応が出てしまう。
身体が強張り、表情が能面のようになってしまう。声も硬い。
相手役の二年生も、困惑している。彼は何も悪くないのに、申し訳なさそうな顔をしている。
「すみません、会長。俺、何か変なことしてますか?」
「いや、お前のせいじゃない。……俺の問題だ」
流星先輩は、自分を責めるように呟いた。
「休憩にしよう」
重苦しい空気の中、演出が休憩を告げた。
キャストたちが、バラバラと舞台を降りていく。
流星先輩は、逃げるように舞台袖へと消えていった。
俺は、彼の背中を見送りながら、胸が締め付けられた。
彼は、俺のために、この脚本を演じてくれている。
自分のトラウマと戦いながら。
だったら、俺にも何かできるはずだ。
その夜。
俺は、誰もいなくなった生徒会室に、流星先輩を呼び出した。
『話があります。生徒会室に来てください』
送信してから5分後、ドアが開いた。
流星先輩が、疲れた顔で入ってくる。彼は、机に突っ伏した。
「……俺には、無理かもしれない」
弱気な声。
こんな彼を見るのは、初めてだった。
「頭では分かっているんだ。演技だって。相手は俺を傷つけるつもりなんてないって」
彼は、顔を上げずに続けた。
「でも、身体が動かない。相手が近づくと、どうしても吐き気が……小学生の時の記憶が、フラッシュバックするんだ」
その声が、震えている。
「俺は、お前の脚本を台無しにしてしまう」
「先輩」
俺は、彼の前に立った。
机に突っ伏したままの彼の頭の上から、声をかける。
「練習しましょう。俺と」
流星先輩が、顔を上げた。
その瞳に、希望の光が灯る。
「お前と?」
「はい。俺が、魔法使い役をやります」
俺は、脚本を片手に言った。
「俺なら、怖くないですよね?」
流星先輩は、ゆっくりと立ち上がった。
彼は、俺の目を真っ直ぐに見つめた。
「……ああ。お前なら、平気だ」
その言葉に、俺の胸が熱くなる。
特別だ、と言われている気がした。
俺たちは、部屋の照明を落とした。
月明かりだけが、窓から差し込んでいる。
机をどかして作った即席の舞台。
俺と先輩が、向かい合う。
彼はまだ手袋をつけている。でも、表情はもう硬くない。
俺を見つめる瞳には、舞台上とは全く違う、柔らかな光がある。
「じゃあ、ラストシーンから」
俺は、脚本を開いた。
魔法使いの台詞。俺が流星先輩のために書いた、返歌。
「『凍える夜は、もう来ない』」
俺は、魂を込めて読み上げた。
「『なぜなら、あなたには私がいるから』」
流星先輩が、一歩近づく。
その瞳が、俺を捉えて離さない。
「『私の言葉が、あなたの熱になる。私の声が、あなたの盾になる』」
俺の声が、震える。
演技なのか、本音なのか、自分でも分からなくなってくる。
「『触れられなくても、魂は繋がっている。だから――愛する人よ、恐れないで』」
流星先輩が、また一歩近づく。
距離、30センチ。
彼が、手を伸ばした。
白い手袋をした手が、ゆっくりと俺の方へ。
昼間はあんなに強張っていた手が、今は滑らかに、吸い寄せられるように俺へと近づいてくる。
距離、10センチ。
5センチ。
3センチ。
寸前で止まる。
でも、そこには拒絶はない。
あるのは、触れたいという切実な願いと、愛おしさだけ。
「『……ありがとう』」
流星先輩が、王子の台詞を紡ぐ。
その声は、舞台上とは全く違った。
感情が溢れている。震えている。本物だ。
「『君の言葉が、僕を救った』」
その瞬間、俺は脚本を床に落とした。
「……すごい」
俺は、思わず呟いた。
「完璧です、先輩。その表情、その声……」
「相手がお前だからだ」
流星先輩は、伸ばした手を下ろさずに言った。
その手が、俺の頬の数センチ横で止まっている。
「他の奴じゃダメなんだ。お前じゃないと、俺の心は動かない」
彼は、俺の顔の横の空気を、愛おしげに撫でた。
触れていない。でも、撫でられている気がする。
「本番では、相手役をお前だと思って演じる」
彼の声が、一段低くなる。
「……俺の目には、お前しか映っていない」
その言葉に、俺の心臓が跳ねた。
これは、ただの稽古じゃない。
愛の告白だ。
「……はい」
俺は、彼を見上げた。
「俺も、袖からずっと見ています。先輩だけを」
俺は、彼の手の数センチ下に、自分の手を添えた。
触れない。でも、手のひらの温度が伝わってくる。
「先輩が舞台に立っている時、俺の視界には先輩しかいません」
流星先輩が、目を細めた。
そして、もう片方の手も伸ばし、俺の両頬を包み込むような仕草をした。
触れていない。でも、包まれている気がする。
「……雪」
「はい」
「もう一度だ」
彼は、少し笑った。
「今度は、アドリブありで頼む」
「え?」
「台詞じゃなくて、お前の本音を聞かせてくれ」
彼の瞳が、悪戯っぽく光る。
俺は、苦笑して頷いた。
脚本を完全に捨てる。
これからは、台本のない、俺たちだけの物語。
「じゃあ……」
俺は、深呼吸をして、彼を見つめた。
「先輩、好きです」
ストレートに。
流星先輩が、少し目を見開く。
それから、笑った。
「俺もだ。お前が好きだ」
「いつから、ですか?」
「図書室で見つけた時からだ。お前の詩を読んだ時から、ずっと」
彼の手が、俺の頬の近くで震える。
「お前に触れたいと思った。初めて、人間に触れたいと思ったんだ」
俺の目から、涙が溢れそうになる。
「俺も……初めて、誰かに触れてもらいたいと思いました」
「なぜ泣く?」
「嬉しいからです。先輩が、俺を選んでくれたから」
流星先輩は、俺の涙を、指先で拭う真似をした。
触れていない。でも、拭われた気がする。
「お前は、俺の全てだ」
彼が囁く。
「お前の言葉が、俺を生かしている。お前の存在が、俺の理由だ」
「先輩……」
「卒業しても、大学に行っても、その先も――」
彼は、俺の額に自分の額を近づけた。
触れる寸前で止まる。でも、呼吸が混ざり合う距離。
「ずっと、一緒にいてくれ」
「……はい」
俺は、目を閉じた。
「ずっと、一緒です」
その言葉と共に、彼の額が俺の額に触れた。
初めての、額同士の接触。
熱い。温かい。
これが、触れ合うということ。
これが、愛し合うということ。
俺たちは、月明かりの中で、しばらくそのままでいた。
額を合わせたまま、互いの呼吸を感じながら。
言葉は要らなかった。
この距離が、全てを語っていた。
やがて、彼が顔を離した。
「……ありがとう」
彼は、少し照れたように言った。
「お陰で、本番はいける気がする」
「はい。絶対に成功させましょう」
俺たちは、もう一度、最初から通した。
今度は、完璧だった。
流星先輩の演技は、命を吹き込まれたように生き生きとしていた。
彼の視線、声、全身から溢れる愛情。
それは、演技を超えていた。
この夜の秘密のレッスンが、翌日の「伝説の舞台」を生むことになる。
それは、俺たち二人だけの、甘い秘密。
誰にも教えたくない、大切な時間。
窓の外では、文化祭前夜の準備で、まだ学校に明かりが灯っている。
でも、この生徒会室だけは、俺たちだけの世界だった。
月明かりと、言葉と、触れない温もりに包まれた、特別な場所。
流星先輩が、最後にもう一度、俺の手に自分の手を重ねた。
手袋越し。でも、確かに感じる、彼の体温。
「明日、頑張ろう」
「はい」
俺たちは、誰もいない生徒会室で、小さく微笑み合った。
明日の舞台が、楽しみだった。
そして、その先に待っている未来が、楽しみだった。
演劇の練習は、大詰めを迎えていた。
放課後の講堂。舞台上では、衣装を着たキャストたちが通し稽古を行っている。
俺は客席の最前列で、演出担当と共にそれを見守っていた。
全体的な完成度は高い。照明、音響、衣装、全てが上手く噛み合っている。
だが、一箇所だけ、どうしても解決できない問題があった。
ラストシーン。
王子役の流星先輩が、魔法使い役の男子生徒に手を伸ばす場面。
そこで、どうしても演技が硬くなってしまうのだ。
「……カット!」
演出の生徒が、また声を上げた。
「会長、もっと感情を入れてください! そこは、愛する人に初めて触れようとする、感動のシーンなんですよ!」
「……分かっている」
流星先輩は、苦渋の表情で額の汗を拭った。
白い手袋をした手で、強く目を押さえる。
手袋をしていても、他人に近づくことへの拒絶反応が出てしまう。
身体が強張り、表情が能面のようになってしまう。声も硬い。
相手役の二年生も、困惑している。彼は何も悪くないのに、申し訳なさそうな顔をしている。
「すみません、会長。俺、何か変なことしてますか?」
「いや、お前のせいじゃない。……俺の問題だ」
流星先輩は、自分を責めるように呟いた。
「休憩にしよう」
重苦しい空気の中、演出が休憩を告げた。
キャストたちが、バラバラと舞台を降りていく。
流星先輩は、逃げるように舞台袖へと消えていった。
俺は、彼の背中を見送りながら、胸が締め付けられた。
彼は、俺のために、この脚本を演じてくれている。
自分のトラウマと戦いながら。
だったら、俺にも何かできるはずだ。
その夜。
俺は、誰もいなくなった生徒会室に、流星先輩を呼び出した。
『話があります。生徒会室に来てください』
送信してから5分後、ドアが開いた。
流星先輩が、疲れた顔で入ってくる。彼は、机に突っ伏した。
「……俺には、無理かもしれない」
弱気な声。
こんな彼を見るのは、初めてだった。
「頭では分かっているんだ。演技だって。相手は俺を傷つけるつもりなんてないって」
彼は、顔を上げずに続けた。
「でも、身体が動かない。相手が近づくと、どうしても吐き気が……小学生の時の記憶が、フラッシュバックするんだ」
その声が、震えている。
「俺は、お前の脚本を台無しにしてしまう」
「先輩」
俺は、彼の前に立った。
机に突っ伏したままの彼の頭の上から、声をかける。
「練習しましょう。俺と」
流星先輩が、顔を上げた。
その瞳に、希望の光が灯る。
「お前と?」
「はい。俺が、魔法使い役をやります」
俺は、脚本を片手に言った。
「俺なら、怖くないですよね?」
流星先輩は、ゆっくりと立ち上がった。
彼は、俺の目を真っ直ぐに見つめた。
「……ああ。お前なら、平気だ」
その言葉に、俺の胸が熱くなる。
特別だ、と言われている気がした。
俺たちは、部屋の照明を落とした。
月明かりだけが、窓から差し込んでいる。
机をどかして作った即席の舞台。
俺と先輩が、向かい合う。
彼はまだ手袋をつけている。でも、表情はもう硬くない。
俺を見つめる瞳には、舞台上とは全く違う、柔らかな光がある。
「じゃあ、ラストシーンから」
俺は、脚本を開いた。
魔法使いの台詞。俺が流星先輩のために書いた、返歌。
「『凍える夜は、もう来ない』」
俺は、魂を込めて読み上げた。
「『なぜなら、あなたには私がいるから』」
流星先輩が、一歩近づく。
その瞳が、俺を捉えて離さない。
「『私の言葉が、あなたの熱になる。私の声が、あなたの盾になる』」
俺の声が、震える。
演技なのか、本音なのか、自分でも分からなくなってくる。
「『触れられなくても、魂は繋がっている。だから――愛する人よ、恐れないで』」
流星先輩が、また一歩近づく。
距離、30センチ。
彼が、手を伸ばした。
白い手袋をした手が、ゆっくりと俺の方へ。
昼間はあんなに強張っていた手が、今は滑らかに、吸い寄せられるように俺へと近づいてくる。
距離、10センチ。
5センチ。
3センチ。
寸前で止まる。
でも、そこには拒絶はない。
あるのは、触れたいという切実な願いと、愛おしさだけ。
「『……ありがとう』」
流星先輩が、王子の台詞を紡ぐ。
その声は、舞台上とは全く違った。
感情が溢れている。震えている。本物だ。
「『君の言葉が、僕を救った』」
その瞬間、俺は脚本を床に落とした。
「……すごい」
俺は、思わず呟いた。
「完璧です、先輩。その表情、その声……」
「相手がお前だからだ」
流星先輩は、伸ばした手を下ろさずに言った。
その手が、俺の頬の数センチ横で止まっている。
「他の奴じゃダメなんだ。お前じゃないと、俺の心は動かない」
彼は、俺の顔の横の空気を、愛おしげに撫でた。
触れていない。でも、撫でられている気がする。
「本番では、相手役をお前だと思って演じる」
彼の声が、一段低くなる。
「……俺の目には、お前しか映っていない」
その言葉に、俺の心臓が跳ねた。
これは、ただの稽古じゃない。
愛の告白だ。
「……はい」
俺は、彼を見上げた。
「俺も、袖からずっと見ています。先輩だけを」
俺は、彼の手の数センチ下に、自分の手を添えた。
触れない。でも、手のひらの温度が伝わってくる。
「先輩が舞台に立っている時、俺の視界には先輩しかいません」
流星先輩が、目を細めた。
そして、もう片方の手も伸ばし、俺の両頬を包み込むような仕草をした。
触れていない。でも、包まれている気がする。
「……雪」
「はい」
「もう一度だ」
彼は、少し笑った。
「今度は、アドリブありで頼む」
「え?」
「台詞じゃなくて、お前の本音を聞かせてくれ」
彼の瞳が、悪戯っぽく光る。
俺は、苦笑して頷いた。
脚本を完全に捨てる。
これからは、台本のない、俺たちだけの物語。
「じゃあ……」
俺は、深呼吸をして、彼を見つめた。
「先輩、好きです」
ストレートに。
流星先輩が、少し目を見開く。
それから、笑った。
「俺もだ。お前が好きだ」
「いつから、ですか?」
「図書室で見つけた時からだ。お前の詩を読んだ時から、ずっと」
彼の手が、俺の頬の近くで震える。
「お前に触れたいと思った。初めて、人間に触れたいと思ったんだ」
俺の目から、涙が溢れそうになる。
「俺も……初めて、誰かに触れてもらいたいと思いました」
「なぜ泣く?」
「嬉しいからです。先輩が、俺を選んでくれたから」
流星先輩は、俺の涙を、指先で拭う真似をした。
触れていない。でも、拭われた気がする。
「お前は、俺の全てだ」
彼が囁く。
「お前の言葉が、俺を生かしている。お前の存在が、俺の理由だ」
「先輩……」
「卒業しても、大学に行っても、その先も――」
彼は、俺の額に自分の額を近づけた。
触れる寸前で止まる。でも、呼吸が混ざり合う距離。
「ずっと、一緒にいてくれ」
「……はい」
俺は、目を閉じた。
「ずっと、一緒です」
その言葉と共に、彼の額が俺の額に触れた。
初めての、額同士の接触。
熱い。温かい。
これが、触れ合うということ。
これが、愛し合うということ。
俺たちは、月明かりの中で、しばらくそのままでいた。
額を合わせたまま、互いの呼吸を感じながら。
言葉は要らなかった。
この距離が、全てを語っていた。
やがて、彼が顔を離した。
「……ありがとう」
彼は、少し照れたように言った。
「お陰で、本番はいける気がする」
「はい。絶対に成功させましょう」
俺たちは、もう一度、最初から通した。
今度は、完璧だった。
流星先輩の演技は、命を吹き込まれたように生き生きとしていた。
彼の視線、声、全身から溢れる愛情。
それは、演技を超えていた。
この夜の秘密のレッスンが、翌日の「伝説の舞台」を生むことになる。
それは、俺たち二人だけの、甘い秘密。
誰にも教えたくない、大切な時間。
窓の外では、文化祭前夜の準備で、まだ学校に明かりが灯っている。
でも、この生徒会室だけは、俺たちだけの世界だった。
月明かりと、言葉と、触れない温もりに包まれた、特別な場所。
流星先輩が、最後にもう一度、俺の手に自分の手を重ねた。
手袋越し。でも、確かに感じる、彼の体温。
「明日、頑張ろう」
「はい」
俺たちは、誰もいない生徒会室で、小さく微笑み合った。
明日の舞台が、楽しみだった。
そして、その先に待っている未来が、楽しみだった。
