文化祭まで、あと一週間。
学園全体が祭りの前の浮足立った空気に包まれる中、俺と流星先輩は毎晩遅くまで生徒会室に籠もっていた。
脚本は、いよいよ大詰めを迎えていた。物語の中の王子と魔法使いは、互いの想いを通わせ、最後の奇跡へと向かっている。
それを書いている俺たち自身もまた、言葉にはしないけれど、同じ場所へ向かっているような気がしていた。
時刻は、日付が変わる頃。
静まり返った校舎。生徒会室だけが、孤島のように明かりを灯している。
キーボードを叩く音と、時計の秒針の音だけが響く。
「……ふぅ」
俺は、小さく息を吐いて、凝り固まった肩を回した。連日の執筆で、目も頭も限界に近い。文字が霞んで見える。
「雪」
向かいの席から、流星先輩の声がした。
顔を上げると、彼は書類から目を上げ、心配そうに俺を見ていた。
「今日はもう帰れ。顔色が悪いぞ」
「大丈夫です。あと少しで、ラストシーンの第一稿が上がるので……」
「無理をするなと言っているんだ。お前が倒れたら、元も子もない」
彼の声は厳しいけれど、その瞳は優しい。
俺は、強がって笑ってみせた。
「平気ですよ。先輩こそ、生徒会の仕事と演劇の準備で、寝てないんじゃないですか?」
「俺は慣れている。……だが、お前は違う」
流星先輩が、席を立った。
カツ、カツ、と足音が近づいてくる。彼は、俺のデスクの横に立った。
距離、30センチ。いつもの境界線。
「ほら、どこで詰まってるんだ。見せてみろ」
彼は、俺のノートパソコンの画面を覗き込もうと、身を乗り出した。
ふわりと、彼の香りがした。冷たくて清潔な、冬の朝のような香り。
その香りに包まれた瞬間、俺の意識がグラリと揺れた。睡魔と疲労が、一気に押し寄せてきたのだ。
「あ……」
視界が暗転し、身体が椅子から滑り落ちそうになる。
ガタッ!
「雪!」
流星先輩が、咄嗟に手を伸ばした。俺の肩を支えようとして――。
ビクッ。
彼の手が、俺の肩の直前で、弾かれたように止まった。
距離、わずか数センチ。俺の体温を感じられるほどの至近距離。
その瞬間、彼の顔が蒼白になった。瞳孔が開き、呼吸が荒くなる。
トラウマのフラッシュバックだ。泥水の記憶。暴力の痛み。それが、彼の手を凍りつかせる。
俺は、自力で体勢を立て直し、デスクに手をついた。
「……す、すみません。ちょっと眩暈が」
荒い息を吐きながら言うと、流星先輩は、ハッとして後ろに下がった。
距離、2メートル。
彼は、自分の右手――俺に触れようとした手を、左手で強く握りしめていた。白革の手袋が、悲鳴を上げるほどきつく。
「……すまん」
彼の声が、震えていた。
「とっさに……身体が、動かなかった。支えてやることも、できないなんて……」
深い自己嫌悪。
俺は、首を横に振った。
「いいえ。先輩が声をかけてくれたおかげで、目が覚めましたから」
「……嘘をつくな」
流星先輩は、苦しげに顔を歪めた。
「俺は、無力だ。全校生徒の前でお前を守るとか偉そうなことを言っておきながら、いざという時、お前の身体ひとつ支えられない」
彼は、窓際へと歩いていった。夜の闇に沈む校庭を、背中を向けて見つめている。
その背中が、あまりにも孤独で、小さく見えた。
俺は、立ち上がった。
このまま帰ってはいけない気がした。今、彼に言葉を届けなければ、二人の間に決定的な溝ができてしまう。
「……先輩」
俺は、彼の背中に呼びかけた。
「俺は、先輩が無力だなんて思いません」
「……慰めはいらない」
「慰めじゃありません。事実です」
俺は、一歩、また一歩と彼に近づいた。彼の背中まで、あと1メートル。
「先輩は、俺の心を支えてくれています。俺が筆を折って、死んだように生きていた時、俺を見つけてくれたのは先輩です」
流星先輩の肩が、微かに揺れた。
「身体を支えることより、心を支えることの方が、ずっと難しいはずです」
「……」
「それに……俺は、先輩が触れられないことを、不幸だとは思っていません」
「……なぜだ」
「だって、そのおかげで、俺たちは『言葉』で繋がれたから」
俺は、自分の胸に手を当てた。
「触れ合えないからこそ、俺たちは必死に言葉を探しました。相手に届くように、誤解されないように、心を込めて。……その積み重ねが、今の俺たちを作ったんです」
流星先輩が、ゆっくりと振り返った。
月光が、彼の顔を照らす。その瞳は、濡れているように潤んでいた。
「……お前は、強いな」
彼が、掠れた声で言った。
「俺は、弱い。……お前が眩しくて、時々、どうしようもなく怖くなる」
「先輩?」
「なあ、雪」
彼が、俺の名前を呼んだ。LINEの文字ではなく、肉声で。
低く、甘く、切ない響き。
心臓が、ドクンと跳ねた。
「お前は、俺のことを……どう思ってる?」
唐突な問い。
でも、その瞳を見れば、それが単なる世間話ではないことは分かった。彼は、答えを求めている。俺たちの関係に、名前をつけるための答えを。
俺は、息を呑んだ。
何て答えればいい? 尊敬する先輩? 恩人? 共犯者?
どれも正しい。でも、どれも足りない。胸の奥で渦巻いているこの熱い感情は、そんな既存の言葉じゃ収まりきらない。
「……俺は」
言葉に詰まる俺を見て、流星先輩は、自嘲気味に笑った。
そして、覚悟を決めたように、一歩踏み出した。
「俺は、お前のことが好きだ」
時が、止まった。
世界から音が消えた。ただ、彼の言葉だけが、鼓膜の奥で反響し続ける。
好きだ。好きだ。好きだ。
「……え?」
間抜けな声が出た。
流星先輩は、もう一度、はっきりと言った。
「恋愛感情なんて、俺には無縁だと思っていた。人に触れられない俺が、誰かを愛する資格なんてないと思っていた」
彼は、切なげに眉を寄せた。
「……でも」
彼は、自分の胸を強く掴んだ。
「お前の言葉が好きだ。お前の声が好きだ。お前の、その傷つきやすくて、でも誰より優しい魂が、どうしようもなく好きだ」
彼の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「触れられない。抱きしめられない。キスもできない。……普通の恋人みたいなことは、何一つしてやれない」
一拍。
「それでも……俺は、お前が好きだ」
それは、氷の王子が初めて見せた、溶けるような恋情だった。
「こんな俺でも……お前を、好きになっていいか?」
その問いかけに、俺の理性が吹き飛んだ。
いいに決まってる。ダメなわけがない。俺だって、ずっと、ずっと――。
「……俺もです!」
俺は、叫んでいた。
「俺も、先輩が好きです! ずっと前から……先輩の言葉に救われたあの日から、ずっと!」
流星先輩は、目を見開いた。そして、くしゃりと顔を歪めて、笑った。
泣きながら、笑った。
「……そうか。……そうか」
彼は、窓の方へ歩いた。そして、窓の鍵を開け、ベランダへと出た。
冷たい夜風が吹き込んでくる。
彼は、ガラス戸を閉めた。そして、ガラスの向こう側から、俺を手招きした。
俺は、窓辺に歩み寄った。
透明なガラス一枚を隔てて、俺たちは向かい合った。
距離、ガラスの厚さ分だけ。数ミリ。今までで一番、近い。
流星先輩が、手袋を外した。素手を、ガラスに押し当てる。
白くて、綺麗な、男の手。
「……手を」
ガラス越しに聞こえる、くぐもった声。
俺も、自分の手を、ガラスに押し当てた。彼の手のひらに、自分の手のひらを重ねる。
ヒヤリとした、ガラスの冷たさ。
けれど。その向こうから、確かに「熱」を感じた。
彼の体温。彼の鼓動。彼の想い。ガラス越しでも、その全てが伝わってくる。
「……温かいですね」
俺が呟くと、流星先輩は頷いた。
「ああ。……お前の熱が、伝わってくる」
俺たちは、ガラス越しに指を絡ませるように動かした。触れられない指先が、ガラスを擦る音だけが響く。
もどかしい。でも、狂おしいほどに愛おしい。
「お前となら……触れられなくても、幸せになれる気がする」
流星先輩が、ガラスに額を押し当てた。
俺も、額を合わせる。至近距離で、視線が絡み合う。
「俺も……触れられなくても、先輩の隣にいられるなら、それで十分です」
本心だった。このガラス越しの熱だけで、俺は生きていけると思った。
だが、流星先輩は首を横に振った。
「いや、十分じゃない」
「え?」
「俺は、欲張りだ」
彼の瞳に、強い光が宿る。
「いつか必ず、このガラスを壊す。手袋を捨てて、お前に触れる。お前を抱きしめて、お前の全部を確かめる」
それは、プロポーズのような誓いだった。いつか、トラウマを乗り越えて、本当の意味で俺に触れるという約束。
「その日まで、待っていてくれ」
俺の目から、涙が溢れた。
待つよ。いつまでも。
「……待ちます。何年でも」
俺たちは、ガラス越しに口づけを交わすように、唇の位置を合わせた。
触れることはない。でも、魂が口づけをしたのが分かった。
月明かりの下、二人の影が一つに重なっていた。
翌朝。
登校中の俺のスマホに、LINEの通知が届いた。流星先輩からだ。
『昨日は、ありがとう。お前の「好き」が、俺を生かしてる』
その一文を見た瞬間、世界が輝いて見えた。
灰色の通学路が、鮮やかな色彩を帯びる。俺は、スマホの画面を胸に抱きしめた。
俺たちは、恋人になった。触れられない、奇妙な恋人同士。
でも、世界中の誰よりも、深く繋がっている自信があった。
さあ、書こう。俺たちの物語の、最高のクライマックスを。
文化祭まで、あと一週間。
俺の言葉で、彼の呪いを解くんだ。そして、いつか――本当の意味で、彼に触れるんだ。
俺は、青空に向かって走り出した。
学園全体が祭りの前の浮足立った空気に包まれる中、俺と流星先輩は毎晩遅くまで生徒会室に籠もっていた。
脚本は、いよいよ大詰めを迎えていた。物語の中の王子と魔法使いは、互いの想いを通わせ、最後の奇跡へと向かっている。
それを書いている俺たち自身もまた、言葉にはしないけれど、同じ場所へ向かっているような気がしていた。
時刻は、日付が変わる頃。
静まり返った校舎。生徒会室だけが、孤島のように明かりを灯している。
キーボードを叩く音と、時計の秒針の音だけが響く。
「……ふぅ」
俺は、小さく息を吐いて、凝り固まった肩を回した。連日の執筆で、目も頭も限界に近い。文字が霞んで見える。
「雪」
向かいの席から、流星先輩の声がした。
顔を上げると、彼は書類から目を上げ、心配そうに俺を見ていた。
「今日はもう帰れ。顔色が悪いぞ」
「大丈夫です。あと少しで、ラストシーンの第一稿が上がるので……」
「無理をするなと言っているんだ。お前が倒れたら、元も子もない」
彼の声は厳しいけれど、その瞳は優しい。
俺は、強がって笑ってみせた。
「平気ですよ。先輩こそ、生徒会の仕事と演劇の準備で、寝てないんじゃないですか?」
「俺は慣れている。……だが、お前は違う」
流星先輩が、席を立った。
カツ、カツ、と足音が近づいてくる。彼は、俺のデスクの横に立った。
距離、30センチ。いつもの境界線。
「ほら、どこで詰まってるんだ。見せてみろ」
彼は、俺のノートパソコンの画面を覗き込もうと、身を乗り出した。
ふわりと、彼の香りがした。冷たくて清潔な、冬の朝のような香り。
その香りに包まれた瞬間、俺の意識がグラリと揺れた。睡魔と疲労が、一気に押し寄せてきたのだ。
「あ……」
視界が暗転し、身体が椅子から滑り落ちそうになる。
ガタッ!
「雪!」
流星先輩が、咄嗟に手を伸ばした。俺の肩を支えようとして――。
ビクッ。
彼の手が、俺の肩の直前で、弾かれたように止まった。
距離、わずか数センチ。俺の体温を感じられるほどの至近距離。
その瞬間、彼の顔が蒼白になった。瞳孔が開き、呼吸が荒くなる。
トラウマのフラッシュバックだ。泥水の記憶。暴力の痛み。それが、彼の手を凍りつかせる。
俺は、自力で体勢を立て直し、デスクに手をついた。
「……す、すみません。ちょっと眩暈が」
荒い息を吐きながら言うと、流星先輩は、ハッとして後ろに下がった。
距離、2メートル。
彼は、自分の右手――俺に触れようとした手を、左手で強く握りしめていた。白革の手袋が、悲鳴を上げるほどきつく。
「……すまん」
彼の声が、震えていた。
「とっさに……身体が、動かなかった。支えてやることも、できないなんて……」
深い自己嫌悪。
俺は、首を横に振った。
「いいえ。先輩が声をかけてくれたおかげで、目が覚めましたから」
「……嘘をつくな」
流星先輩は、苦しげに顔を歪めた。
「俺は、無力だ。全校生徒の前でお前を守るとか偉そうなことを言っておきながら、いざという時、お前の身体ひとつ支えられない」
彼は、窓際へと歩いていった。夜の闇に沈む校庭を、背中を向けて見つめている。
その背中が、あまりにも孤独で、小さく見えた。
俺は、立ち上がった。
このまま帰ってはいけない気がした。今、彼に言葉を届けなければ、二人の間に決定的な溝ができてしまう。
「……先輩」
俺は、彼の背中に呼びかけた。
「俺は、先輩が無力だなんて思いません」
「……慰めはいらない」
「慰めじゃありません。事実です」
俺は、一歩、また一歩と彼に近づいた。彼の背中まで、あと1メートル。
「先輩は、俺の心を支えてくれています。俺が筆を折って、死んだように生きていた時、俺を見つけてくれたのは先輩です」
流星先輩の肩が、微かに揺れた。
「身体を支えることより、心を支えることの方が、ずっと難しいはずです」
「……」
「それに……俺は、先輩が触れられないことを、不幸だとは思っていません」
「……なぜだ」
「だって、そのおかげで、俺たちは『言葉』で繋がれたから」
俺は、自分の胸に手を当てた。
「触れ合えないからこそ、俺たちは必死に言葉を探しました。相手に届くように、誤解されないように、心を込めて。……その積み重ねが、今の俺たちを作ったんです」
流星先輩が、ゆっくりと振り返った。
月光が、彼の顔を照らす。その瞳は、濡れているように潤んでいた。
「……お前は、強いな」
彼が、掠れた声で言った。
「俺は、弱い。……お前が眩しくて、時々、どうしようもなく怖くなる」
「先輩?」
「なあ、雪」
彼が、俺の名前を呼んだ。LINEの文字ではなく、肉声で。
低く、甘く、切ない響き。
心臓が、ドクンと跳ねた。
「お前は、俺のことを……どう思ってる?」
唐突な問い。
でも、その瞳を見れば、それが単なる世間話ではないことは分かった。彼は、答えを求めている。俺たちの関係に、名前をつけるための答えを。
俺は、息を呑んだ。
何て答えればいい? 尊敬する先輩? 恩人? 共犯者?
どれも正しい。でも、どれも足りない。胸の奥で渦巻いているこの熱い感情は、そんな既存の言葉じゃ収まりきらない。
「……俺は」
言葉に詰まる俺を見て、流星先輩は、自嘲気味に笑った。
そして、覚悟を決めたように、一歩踏み出した。
「俺は、お前のことが好きだ」
時が、止まった。
世界から音が消えた。ただ、彼の言葉だけが、鼓膜の奥で反響し続ける。
好きだ。好きだ。好きだ。
「……え?」
間抜けな声が出た。
流星先輩は、もう一度、はっきりと言った。
「恋愛感情なんて、俺には無縁だと思っていた。人に触れられない俺が、誰かを愛する資格なんてないと思っていた」
彼は、切なげに眉を寄せた。
「……でも」
彼は、自分の胸を強く掴んだ。
「お前の言葉が好きだ。お前の声が好きだ。お前の、その傷つきやすくて、でも誰より優しい魂が、どうしようもなく好きだ」
彼の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「触れられない。抱きしめられない。キスもできない。……普通の恋人みたいなことは、何一つしてやれない」
一拍。
「それでも……俺は、お前が好きだ」
それは、氷の王子が初めて見せた、溶けるような恋情だった。
「こんな俺でも……お前を、好きになっていいか?」
その問いかけに、俺の理性が吹き飛んだ。
いいに決まってる。ダメなわけがない。俺だって、ずっと、ずっと――。
「……俺もです!」
俺は、叫んでいた。
「俺も、先輩が好きです! ずっと前から……先輩の言葉に救われたあの日から、ずっと!」
流星先輩は、目を見開いた。そして、くしゃりと顔を歪めて、笑った。
泣きながら、笑った。
「……そうか。……そうか」
彼は、窓の方へ歩いた。そして、窓の鍵を開け、ベランダへと出た。
冷たい夜風が吹き込んでくる。
彼は、ガラス戸を閉めた。そして、ガラスの向こう側から、俺を手招きした。
俺は、窓辺に歩み寄った。
透明なガラス一枚を隔てて、俺たちは向かい合った。
距離、ガラスの厚さ分だけ。数ミリ。今までで一番、近い。
流星先輩が、手袋を外した。素手を、ガラスに押し当てる。
白くて、綺麗な、男の手。
「……手を」
ガラス越しに聞こえる、くぐもった声。
俺も、自分の手を、ガラスに押し当てた。彼の手のひらに、自分の手のひらを重ねる。
ヒヤリとした、ガラスの冷たさ。
けれど。その向こうから、確かに「熱」を感じた。
彼の体温。彼の鼓動。彼の想い。ガラス越しでも、その全てが伝わってくる。
「……温かいですね」
俺が呟くと、流星先輩は頷いた。
「ああ。……お前の熱が、伝わってくる」
俺たちは、ガラス越しに指を絡ませるように動かした。触れられない指先が、ガラスを擦る音だけが響く。
もどかしい。でも、狂おしいほどに愛おしい。
「お前となら……触れられなくても、幸せになれる気がする」
流星先輩が、ガラスに額を押し当てた。
俺も、額を合わせる。至近距離で、視線が絡み合う。
「俺も……触れられなくても、先輩の隣にいられるなら、それで十分です」
本心だった。このガラス越しの熱だけで、俺は生きていけると思った。
だが、流星先輩は首を横に振った。
「いや、十分じゃない」
「え?」
「俺は、欲張りだ」
彼の瞳に、強い光が宿る。
「いつか必ず、このガラスを壊す。手袋を捨てて、お前に触れる。お前を抱きしめて、お前の全部を確かめる」
それは、プロポーズのような誓いだった。いつか、トラウマを乗り越えて、本当の意味で俺に触れるという約束。
「その日まで、待っていてくれ」
俺の目から、涙が溢れた。
待つよ。いつまでも。
「……待ちます。何年でも」
俺たちは、ガラス越しに口づけを交わすように、唇の位置を合わせた。
触れることはない。でも、魂が口づけをしたのが分かった。
月明かりの下、二人の影が一つに重なっていた。
翌朝。
登校中の俺のスマホに、LINEの通知が届いた。流星先輩からだ。
『昨日は、ありがとう。お前の「好き」が、俺を生かしてる』
その一文を見た瞬間、世界が輝いて見えた。
灰色の通学路が、鮮やかな色彩を帯びる。俺は、スマホの画面を胸に抱きしめた。
俺たちは、恋人になった。触れられない、奇妙な恋人同士。
でも、世界中の誰よりも、深く繋がっている自信があった。
さあ、書こう。俺たちの物語の、最高のクライマックスを。
文化祭まで、あと一週間。
俺の言葉で、彼の呪いを解くんだ。そして、いつか――本当の意味で、彼に触れるんだ。
俺は、青空に向かって走り出した。
