俺は透明人間だ。
いや、正確には「透明人間になろうとしている」。クラスでも、廊下でも、誰の視界にも入らないように息を潜めて生きている。制服のブレザーを少し大きめのサイズにして、背中を丸め、気配を消す。高校に入ってからの、俺の処世術。
理由は単純だ。二年前、俺が書いた小説が、親友の人生を壊したから。
言葉は刃物だ。不用意に振り回せば、大切な人を傷つけ、再起不能にしてしまう。あの日、親友だった海斗に「お前のせいで人生が狂った」と告げられた瞬間、俺の中で何かが決定的に砕け散った。
だから俺は、筆を折った。もう二度と、物語なんて書かないと誓った。
今日も放課後の図書室。西日が長く伸びる一番奥の席で、俺は古い文学全集のページをめくっていた。活字を目で追っている時だけが、唯一、息ができる時間だ。
もう小説は書かない。書けない。
だけど、言葉だけは、まだ俺の中で呼吸している。捨てようとしても捨てきれない「何か」が、胸の奥で燻り続けている。
そんな時だった。静寂に満ちた図書室の空気が、不意に張り詰めた。
「――見つけたぞ」
低く、凍てつくような声。心臓が跳ねた。顔を上げると、そこに立っていたのは、この星陵学園で知らぬ者はいない有名人。生徒会長――氷室流星だった。
窓から差し込む夕陽が、彼の黒髪を縁取り、整いすぎた顔立ちに陰影を落としている。彫刻のような美貌。けれど、その瞳は氷のように冷たく、他者を一切寄せ付けない。そして、その両手には、季節外れの白革の手袋。
「氷の王子」。全校生徒が彼をそう呼び、畏怖し、遠巻きに憧れる。
そんな雲の上の人が、なぜ、図書室の隅にいる「透明人間」の俺を見下ろしているのか。
流星先輩は、俺の席に近づいてきた。カツ、カツ、とローファーの音が響く。俺は逃げ出すこともできず、ただ固まっていた。
彼は、俺の机の前で足を止めた。距離、約50センチ。手を伸ばせば届く距離。だが、彼はそれ以上踏み込んでこない。まるで、見えない壁があるかのように。
「有村雪だな」
名前を呼ばれただけで、背筋が凍るような威圧感。
「は、はい……」
「生徒会室に来い。話がある」
有無を言わさぬ命令口調。俺は戸惑った。生徒会に呼び出されるようなことをした覚えはない。そもそも、目立たないように生きてきたのだから、生徒会長に認知されていること自体が異常事態だ。
「あの、俺、何か……」
「来れば分かる」
彼はそれだけ言うと、踵を返した。拒否権はないらしい。俺は震える手で本を閉じ、逃げるように彼の背中を追った。
放課後の生徒会室は、静まり返っていた。他の役員はいない。広い部屋に、俺と氷室先輩の二人きり。整理整頓されたデスク、磨き上げられた窓ガラス。塵一つ落ちていないその空間は、彼の潔癖さを象徴しているようだった。
流星先輩は、会長席には座らず、会議用テーブルの向かい側に立った。やはり、距離がある。彼は手袋をはめた手で、一台のタブレットを操作し、テーブルの上に滑らせた。
「これを見ろ」
画面に表示されていたのは、見覚えのあるSNSの画面だった。黒い背景に、白い文字だけで綴られた詩。アカウント名は『Snow』。
俺の、心臓が止まりかけた。
「……これ、は」
「お前だろう? この詩を書いたのは」
氷のような青い瞳が、俺を射抜く。バレている。いや、そんなはずはない。このアカウントは完全匿名だ。学校の誰にも教えていないし、個人情報に繋がるようなことは一切書いていない。ただ、日々の鬱屈や、言葉にならない感情を、詩という形で吐き出していただけの、秘密の場所。
「ち、違います。俺じゃ……」
反射的に否定した。知られたくない。俺がまだ「言葉」にしがみついていることを。ましてや、こんな恥ずかしいポエムを書き散らしていることを。
「誤魔化すな」
流星先輩の声が、鋭く響いた。
「調べたわけじゃない。だが、俺には分かる」
彼は、テーブルに手をつき、身を乗り出した。それでも、俺との距離は保たれている。
「お前の『魂の波長』は、この詩と完全に一致している」
「……魂の波長?」
何を言っているんだ、この人は。オカルトか何かか? 俺が呆気にとられていると、彼は真剣な眼差しで続けた。
「俺は、言葉には匂いがあると思っている。書き手の魂が放つ、固有の匂いだ」
流星先輩の視線が、俺を貫く。
「お前の纏っている空気は、この『Snow』の文章と同じ匂いがする。冷たくて、寂しくて、でもどうしようもなく美しい匂いだ」
美しい。その言葉に、俺は息を呑んだ。
俺の言葉が、美しい? 人を傷つけ、親友を壊した、この俺の言葉が?
「……買いかぶりです。俺は、そんな高尚な人間じゃありません」
「謙遜はいらない。俺が欲しいのは、お前のその才能だ」
流星先輩は、単刀直入に本題を切り出した。
「今年の文化祭。生徒会主催で演劇をやることは知っているな?」
「……はい。確か、伝統の」
「その脚本を、お前に書いてもらいたい」
俺は耳を疑った。星陵学園の文化祭における生徒会演劇は、毎年最大の目玉イベントだ。脚本は文芸部の部長か、プロの劇作家に依頼するのが通例だと聞いている。
それを、なぜ俺に?
「無理です」
俺は即答した。
「俺は文芸部の幽霊部員ですし、脚本なんて書いたことありません。それに……」
言葉が詰まる。――俺が書くと、不幸になる。その言葉を飲み込み、俺は視線を落とした。
「とにかく、無理です。他を当たってください」
俺は席を立とうとした。だが、流星先輩の次の言葉が、俺の足を縫い止めた。
「『アスファルトに雪が降る。溶けて、消えて、染みだけを残す。俺もあの雪になりたい。冷たく、静かに、誰の記憶にも残らずに』」
それは、俺が昨夜、投稿したばかりの詩だった。流星先輩は、タブレットを見ずに、空でそれを暗唱していた。一言一句、間違えずに。
その声は、普段の冷徹な響きとは違い、まるで大切な宝物を扱うように、優しく、熱を帯びていた。
「……どうして」
「全部、覚えている」
彼は、俺を見た。その瞳に、揺らめくような熱情が灯っているのを、俺は見た。氷の仮面の下にある、溶岩のような熱。
「二年前。俺が人間不信で、誰とも口を利けず、この手袋の中で腐りかけていた時。偶然、お前の詩を見つけた」
「……え?」
「お前の言葉は、俺の代弁者だった。誰にも言えない孤独を、お前だけが言葉にしてくれていた」
流星先輩の拳が、わずかに震えている。
「俺は、お前の言葉に、二年間、救われ続けてきたんだ」
俺は、言葉を失った。俺の言葉が、救い? ただの自己満足で、誰にも届かないと思っていた、暗い独り言が? しかも、学園の頂点に立つ、この完璧な「氷の王子」を救っていたなんて。
「他の奴じゃダメなんだ」
流星先輩の声が、切実に響く。
「プロの作家だろうが、文芸部長だろうが、関係ない。俺が演じたいのは、俺の心を震わせる言葉だけだ」
彼は、胸に手を当てた。白革の手袋が、制服の胸元を握りしめる。
「お前の言葉でなければ、意味がない」
「頼む。俺のために、書いてくれ」
生徒会長が、一介の生徒に頭を下げる勢いだった。そこにあるのは、命令ではない。魂からの、渇望。
俺の心臓が、早鐘を打っていた。怖い。また書くことが、怖い。海斗の顔が脳裏をよぎる。「お前のせいで」という呪いの言葉が蘇る。
でも。
目の前にいるこの人は、俺の言葉を「必要だ」と言ってくれた。「救われた」と言ってくれた。その事実は、俺の凍りついた自尊心を、じんわりと温めていた。
誰にも読まれていないと思っていた言葉が、たった一人、この人には届いていた。それが――少しだけ、嬉しかった。
俺は、拳を握りしめた。まだ、「イエス」とは言えない。過去の傷は、そう簡単には癒えない。けれど、拒絶することも、できなかった。
「……考えさせて、ください」
絞り出すように、そう答えた。それが今の俺にできる、精一杯の譲歩だった。
すると、流星先輩は、ふっと表情を緩めた。初めて見る、彼の微笑み。それは、氷が溶けて水になり、光を反射して輝くような、危険なほどに美しい笑みだった。
「ああ。待ってる」
彼は、俺の瞳を覗き込んだ。
「お前の返事を。――そして、お前の『言葉』を」
その視線に射抜かれ、俺は逃げるように生徒会室を後にした。廊下を歩きながら、自分の心臓がうるさいほど鳴っているのに気づく。
透明人間だったはずの俺の世界に、強烈な色彩が飛び込んできた。氷室流星。触れられない氷の王子。
彼との出会いが、俺の止まっていた時間を、再び動かそうとしていた。
いや、正確には「透明人間になろうとしている」。クラスでも、廊下でも、誰の視界にも入らないように息を潜めて生きている。制服のブレザーを少し大きめのサイズにして、背中を丸め、気配を消す。高校に入ってからの、俺の処世術。
理由は単純だ。二年前、俺が書いた小説が、親友の人生を壊したから。
言葉は刃物だ。不用意に振り回せば、大切な人を傷つけ、再起不能にしてしまう。あの日、親友だった海斗に「お前のせいで人生が狂った」と告げられた瞬間、俺の中で何かが決定的に砕け散った。
だから俺は、筆を折った。もう二度と、物語なんて書かないと誓った。
今日も放課後の図書室。西日が長く伸びる一番奥の席で、俺は古い文学全集のページをめくっていた。活字を目で追っている時だけが、唯一、息ができる時間だ。
もう小説は書かない。書けない。
だけど、言葉だけは、まだ俺の中で呼吸している。捨てようとしても捨てきれない「何か」が、胸の奥で燻り続けている。
そんな時だった。静寂に満ちた図書室の空気が、不意に張り詰めた。
「――見つけたぞ」
低く、凍てつくような声。心臓が跳ねた。顔を上げると、そこに立っていたのは、この星陵学園で知らぬ者はいない有名人。生徒会長――氷室流星だった。
窓から差し込む夕陽が、彼の黒髪を縁取り、整いすぎた顔立ちに陰影を落としている。彫刻のような美貌。けれど、その瞳は氷のように冷たく、他者を一切寄せ付けない。そして、その両手には、季節外れの白革の手袋。
「氷の王子」。全校生徒が彼をそう呼び、畏怖し、遠巻きに憧れる。
そんな雲の上の人が、なぜ、図書室の隅にいる「透明人間」の俺を見下ろしているのか。
流星先輩は、俺の席に近づいてきた。カツ、カツ、とローファーの音が響く。俺は逃げ出すこともできず、ただ固まっていた。
彼は、俺の机の前で足を止めた。距離、約50センチ。手を伸ばせば届く距離。だが、彼はそれ以上踏み込んでこない。まるで、見えない壁があるかのように。
「有村雪だな」
名前を呼ばれただけで、背筋が凍るような威圧感。
「は、はい……」
「生徒会室に来い。話がある」
有無を言わさぬ命令口調。俺は戸惑った。生徒会に呼び出されるようなことをした覚えはない。そもそも、目立たないように生きてきたのだから、生徒会長に認知されていること自体が異常事態だ。
「あの、俺、何か……」
「来れば分かる」
彼はそれだけ言うと、踵を返した。拒否権はないらしい。俺は震える手で本を閉じ、逃げるように彼の背中を追った。
放課後の生徒会室は、静まり返っていた。他の役員はいない。広い部屋に、俺と氷室先輩の二人きり。整理整頓されたデスク、磨き上げられた窓ガラス。塵一つ落ちていないその空間は、彼の潔癖さを象徴しているようだった。
流星先輩は、会長席には座らず、会議用テーブルの向かい側に立った。やはり、距離がある。彼は手袋をはめた手で、一台のタブレットを操作し、テーブルの上に滑らせた。
「これを見ろ」
画面に表示されていたのは、見覚えのあるSNSの画面だった。黒い背景に、白い文字だけで綴られた詩。アカウント名は『Snow』。
俺の、心臓が止まりかけた。
「……これ、は」
「お前だろう? この詩を書いたのは」
氷のような青い瞳が、俺を射抜く。バレている。いや、そんなはずはない。このアカウントは完全匿名だ。学校の誰にも教えていないし、個人情報に繋がるようなことは一切書いていない。ただ、日々の鬱屈や、言葉にならない感情を、詩という形で吐き出していただけの、秘密の場所。
「ち、違います。俺じゃ……」
反射的に否定した。知られたくない。俺がまだ「言葉」にしがみついていることを。ましてや、こんな恥ずかしいポエムを書き散らしていることを。
「誤魔化すな」
流星先輩の声が、鋭く響いた。
「調べたわけじゃない。だが、俺には分かる」
彼は、テーブルに手をつき、身を乗り出した。それでも、俺との距離は保たれている。
「お前の『魂の波長』は、この詩と完全に一致している」
「……魂の波長?」
何を言っているんだ、この人は。オカルトか何かか? 俺が呆気にとられていると、彼は真剣な眼差しで続けた。
「俺は、言葉には匂いがあると思っている。書き手の魂が放つ、固有の匂いだ」
流星先輩の視線が、俺を貫く。
「お前の纏っている空気は、この『Snow』の文章と同じ匂いがする。冷たくて、寂しくて、でもどうしようもなく美しい匂いだ」
美しい。その言葉に、俺は息を呑んだ。
俺の言葉が、美しい? 人を傷つけ、親友を壊した、この俺の言葉が?
「……買いかぶりです。俺は、そんな高尚な人間じゃありません」
「謙遜はいらない。俺が欲しいのは、お前のその才能だ」
流星先輩は、単刀直入に本題を切り出した。
「今年の文化祭。生徒会主催で演劇をやることは知っているな?」
「……はい。確か、伝統の」
「その脚本を、お前に書いてもらいたい」
俺は耳を疑った。星陵学園の文化祭における生徒会演劇は、毎年最大の目玉イベントだ。脚本は文芸部の部長か、プロの劇作家に依頼するのが通例だと聞いている。
それを、なぜ俺に?
「無理です」
俺は即答した。
「俺は文芸部の幽霊部員ですし、脚本なんて書いたことありません。それに……」
言葉が詰まる。――俺が書くと、不幸になる。その言葉を飲み込み、俺は視線を落とした。
「とにかく、無理です。他を当たってください」
俺は席を立とうとした。だが、流星先輩の次の言葉が、俺の足を縫い止めた。
「『アスファルトに雪が降る。溶けて、消えて、染みだけを残す。俺もあの雪になりたい。冷たく、静かに、誰の記憶にも残らずに』」
それは、俺が昨夜、投稿したばかりの詩だった。流星先輩は、タブレットを見ずに、空でそれを暗唱していた。一言一句、間違えずに。
その声は、普段の冷徹な響きとは違い、まるで大切な宝物を扱うように、優しく、熱を帯びていた。
「……どうして」
「全部、覚えている」
彼は、俺を見た。その瞳に、揺らめくような熱情が灯っているのを、俺は見た。氷の仮面の下にある、溶岩のような熱。
「二年前。俺が人間不信で、誰とも口を利けず、この手袋の中で腐りかけていた時。偶然、お前の詩を見つけた」
「……え?」
「お前の言葉は、俺の代弁者だった。誰にも言えない孤独を、お前だけが言葉にしてくれていた」
流星先輩の拳が、わずかに震えている。
「俺は、お前の言葉に、二年間、救われ続けてきたんだ」
俺は、言葉を失った。俺の言葉が、救い? ただの自己満足で、誰にも届かないと思っていた、暗い独り言が? しかも、学園の頂点に立つ、この完璧な「氷の王子」を救っていたなんて。
「他の奴じゃダメなんだ」
流星先輩の声が、切実に響く。
「プロの作家だろうが、文芸部長だろうが、関係ない。俺が演じたいのは、俺の心を震わせる言葉だけだ」
彼は、胸に手を当てた。白革の手袋が、制服の胸元を握りしめる。
「お前の言葉でなければ、意味がない」
「頼む。俺のために、書いてくれ」
生徒会長が、一介の生徒に頭を下げる勢いだった。そこにあるのは、命令ではない。魂からの、渇望。
俺の心臓が、早鐘を打っていた。怖い。また書くことが、怖い。海斗の顔が脳裏をよぎる。「お前のせいで」という呪いの言葉が蘇る。
でも。
目の前にいるこの人は、俺の言葉を「必要だ」と言ってくれた。「救われた」と言ってくれた。その事実は、俺の凍りついた自尊心を、じんわりと温めていた。
誰にも読まれていないと思っていた言葉が、たった一人、この人には届いていた。それが――少しだけ、嬉しかった。
俺は、拳を握りしめた。まだ、「イエス」とは言えない。過去の傷は、そう簡単には癒えない。けれど、拒絶することも、できなかった。
「……考えさせて、ください」
絞り出すように、そう答えた。それが今の俺にできる、精一杯の譲歩だった。
すると、流星先輩は、ふっと表情を緩めた。初めて見る、彼の微笑み。それは、氷が溶けて水になり、光を反射して輝くような、危険なほどに美しい笑みだった。
「ああ。待ってる」
彼は、俺の瞳を覗き込んだ。
「お前の返事を。――そして、お前の『言葉』を」
その視線に射抜かれ、俺は逃げるように生徒会室を後にした。廊下を歩きながら、自分の心臓がうるさいほど鳴っているのに気づく。
透明人間だったはずの俺の世界に、強烈な色彩が飛び込んできた。氷室流星。触れられない氷の王子。
彼との出会いが、俺の止まっていた時間を、再び動かそうとしていた。
