月と笛

 
 漆黒を 丸く くり抜く 黄金色



 今夜の月は、作りものみたいに綺麗。

 なのに――……。

 ドンッと低い音がして、視界から月が消えた。車窓に反射した自分と目が合う。今にも泣きだしそうな、沈んだ顔。
 外の景色を見ていたいのに、トンネルのせいで見たくもない現実と向き合わなきゃいけない。
 あきらめて、座席にもたれかかった。ため息が、新幹線のエンジン音に溶けていく。

――ごめん、もう無理。

 忘れようとすればするほど、鮮やかに再生される言葉。別れを予感させるものなんて、何もなかったはずなのに。
 他に好きな人ができたの?
 遠距離恋愛に耐えられなくなったの?
 理由を聞いても、ごめん、それしか返してくれなかった祐樹(ゆうき)
 こんな風に終わる恋愛もあるのかな……。
 楽しかった思い出のひとつひとつが傷に変わっていく。
 早く、はやく、この新幹線が進むはやさで全部忘れてしまいたい。
 
 外に視線を移すと、田んぼが切り絵のように並んでいた。車内の明かりを映してきらめく水面が、暗黙に揺らいでいる。

 あれ? なにかある?

 田んぼの近くに佇むものに目が留まる。
 夜の闇に溶け込まない、白いもの。
 次の瞬間、景色が黒く染まった。またトンネルか、と思ったあと。



 わたしは外にいて、
 過ぎゆく新幹線を眺めていた。



 空気は冷たくも熱くもなく、風が葉を揺らす音がする。
 右手に握られた提灯が、ぼんやりと道を照らしていた。
 さっき眺めていた新幹線も、高架さえ見当たらない。

 
 わたし、どうしてここにいるの?
 知らない場所なのに、懐かしい感じがする……。


「会いたかった」


 背後で澄んだ声がした。振り向くと、中学生くらいの子どもが立っていた。
 白地に赤い花の刺繍がされた着物姿。肩にとどくくらいの髪が、さらさらと揺れている。
 新幹線から見えた白いものが……この子?
 提灯を持ち上げて顔を照らす。
 浮かび上がる、つるりとした肌と潤んだ瞳。見たこともない、綺麗な子。だけど今にも泣き出しそう。
 震える口元を見ると、唇の端と手の甲が、薔薇の花を散らしたような真紅で染まっている。
 怪我してる? 手を伸ばそうとしたとき、ふっと空気がほどけた。

「『満月の日に会おう』って約束してから、ずっとこの日を夢見てた。会えるか不安だったけど……ちゃんと会えて嬉しい。ねぇ、みて。もらった笛、これだけはいつも持ってるんだよ」

 右手に横笛が握られている。差し出された横笛に手を伸ばしたとき、視界にうつる小さな手を見て、初めて自分が少女の体になっていることに気がついた。思わず手をひっこめ、手元の提灯で自分の姿を照らす。仕立ての良さそうな着物姿の子ども……。

「わたし…は……」

 震える声は聞き慣れた自分のものではなくて、高く細い少女の声だった。
 おそろしくて言葉が続けられない。

「……いいよ、こわがらないで。俺のこんな姿を見て、平静ではいられないよね。でもごめん、今は何も聞かないで……」

 俺……? 男の子なの?
 小刻みに震える体を抱きしめる姿は、女の子にしかみえない。
 彼は、どうして……。

 そのとき、ふと彼が顔を上げた。
 しばらく黙ったあと「やつらがくる。戻らないと」消え入りそうな声で呟く。
 そして何度か咳払いをし、真っ直ぐにわたしを見つめた。

「俺はもうすぐ声変わりする。歌えなくなったら、前に話していたとおり、笛を吹くことにするよ。夜に響く笛の音を耳にしたら、それは俺だよ。俺は生きる。会えてよかった。もし、また会えたら……次の、満月の日に」

 そう告げると、わたしの返事を待たずに走り出してしまった。
 月の輝くほうへと遠ざかる背中を見つめていると、ひとりでに涙が溢れてきた。
 行ってほしくないと、わたしの中の誰かが叫んでいる。
 追いかけなきゃ……!

「だめです。戻りましょう」

 うしろから強く腕を掴まれた。
 見上げたさきにいたのは、別れたはずの彼氏、祐樹だった。





 寝間着だといわれた白い浴衣に着替え、畳の上に敷かれた布団に横たわる。
 遠くで「おやすみなさい」と声がして、戸が閉まる音がした。さっきの彼が帰っていくのだろう。
 彼は祐樹ではなく、真太郎(しんたろう)というらしい。どう見ても、高校生のころの祐樹にしかみえないけれど。

 家へと戻る道で、真太郎の話からわかったことは……。
 わたしの名前は小夜(さよ)といって、去っていった男の子は幼馴染の(たく)。真太郎も含めて小さいころから仲が良かったけれど、拓の家が没落し、一家は離散。拓は別の家の子どもになったという。
 真太郎は、わたしの家庭教師もしているらしい。夜に抜け出して拓と会っていたことを、お父さんには話すことなく、うまくごまかしてくれた。
 ちなみに小夜のお父さんも、どことなく自分の父親に似ていた。すごい剣幕で怒られているのに、コスプレをした父親を目の前にしてるようなものだから、笑いをこらえるのに必死だったな……。
 小夜も、中学生だったころの自分に似てる気がする。右目尻のほくろなんてそっくりだ。

「どうしてこんなことに……」

 天井に向けて手をかざす。細くて小さな子どもの手。
 両手で頬をぱちんと叩く。手の甲をつねってみる。
 何度やっても変わらない。痛いという感覚だけがリアルで、それはこの世界こそがホンモノってことだろう。
 いったい今は何時代なの? ぱっと見た感じ明治っぽいけど、なんでこんなところに来ちゃったわけ?
 小夜は前世のわたしなの? 真太郎は祐樹の前世で、それじゃあ拓って誰?
 暗くてよく見えなかったけど、あんな顔見たことない―― 

「あーもう! こんな気持ちじゃ眠れないよ!」

 夜風にでもあたろうと体を起こす。障子窓を開けると、月が飛び込んできた。高台に建つこの家の二階からは、遠くの景色がよく見える。
 山あいに、ほのかに光る集落を見つけた。拓が走っていった方向。彼は、あそこにいるのだろうか。

――拓。

 頭の中で声がした。心がちぎれそうなくらいの、かなしい叫び。
 拓と別れたときに感じたさみしさといい、今の痛みといい、小夜という少女がわたしの中で今も生きていることがわかる。
 体も心も、半分は自分じゃないみたい。ぞくっとして、思わず体を抱きしめた。小さくて細い体、なんて頼りないんだろう……。
 ふと、部屋の隅に置かれた机が視界に入った。その上にある箱に目が留まる。
 近寄って箱を開けると、1冊の本と筆が入っていた。

「これ……日記帳?」

 そっとページをめくる。ところが。

「なにこれ、読めない……」

 現代とは仮名遣いがちがうらしく、全く読むことができない。かろうじて「拓」という文字を見つけた。それはどのページにも書かれていて、小夜のそばにいつも拓がいたことがわかる。
 最後のページに書かれた文字を指でなぞっていたら、ふいに頭の中で声がした。

――拓 わたしの いとしい人。
――わたしの かたわれ。わたしの いのち。
――おねがいだから 拓をかえして。
――真太郎の家なら 拓をもらってくれるかもしれないのに
――わたしのおねがいをきいてくれない。
――どうして?


「小夜……?」

 辺りを見回しても誰もいない。でも、たしかに聞こえてきた。
 いま聞こえてきたことが、ここに書かれていることなら……拓が行ってしまったことの原因のひとつに、真太郎がいるってこと?
 祐樹によく似た真太郎。たしか、明日も同じ時間に勉強をみます、と言ってたっけ……。
 ゆるやかに眠気がやってきて、灯りを消した。布団に横たわる。
 明日、真太郎に聞いてみよう。
 だけど願わくば、目が覚めたら新幹線のなかにいますように。
 
 目を閉じる。
 月のほうへと走る、拓の後ろ姿が見えた気がした。
 



 揺れながら色を変える、ぬるい水の中をたゆたっていた。

――……。

 音が聞こえてきた。聞こえる、というより、鼓膜を直接震わせてくる振動にちかい。よく響くのに、くぐもっていて掴めない。

――……けて。

 誰だろう。なにか言ってる?

――たすけて。拓のこと、助けて。

 拓? よくわからないし、わたしは誰かを助けることなんてできないよ。

――どうして?

 だってわたし、もう疲れたの。うまくやってたつもりだったことも、最後はぜんぶだめになった。祐樹のことだって、いろんなこと我慢してたのにフラれるなんて思わなくて……。

――だから、だよ。だから、助けてあげて。拓を、真太郎を、あなた自身を。そうしたら、きっと……。

 何を言ってるの? 意味がわからない。
 あなた、誰……?





 
 やわらかな光と、鳥の声に呼ばれる。
 目を覚ますと、見慣れない天井の装飾に驚く。飛び起きて、きょろきょろと辺りを見回す。
 そうだった。わたし、どこかの世界に飛んで行っちゃったんだった……。
 変わらない小さな手のひらを見つめて、深いため息が漏れた。
 それにしても変な夢だった。『助けてあげて』って、あれは小夜からのメッセージだったんだろうか。拓以外に、真太郎とわたしもって言ってたけど、どうして……?
 でもそうすれば、わたしは元の世界に戻れるの?

 ふすまの前に誰かが座る気配があった。

「おはようございます。小夜さん、起きてますか」
「はぁい、起きてます」

 答えると、ふすまが開けられた。お手伝いさんらしき人が、にっこりと笑っている。

「今日は早いのですね。お布団をたたみにまいりました」
「たたみにって……これくらい自分でやります」
「え?」

 掛け布団と敷布団をたたむ。子どもの体なので重く感じたけれど、できないほどではなかった。

「大丈夫でしたか? それに、これはわたしたちの仕事なので……」
「いやいや……。一体、小夜ってどんだけお嬢様だったの」
「え?」
「あ、ごめんなさい、なんでもないです。えっと、着替えないと」

 危ない、わたしは小夜なんだった。
 着替えようとしても、着る物がどこにあるのかわからないことに気づく。

「今日のお着物はこちらです。朝ごはんのあとは、いつもどおり真太郎さんとのお勉強になりますので」
「わかりました。ありがとうございます」

 花の刺繍がされた橙色の着物を着せられ、大きな屋敷のなかを食堂へと向かう。すれ違うお手伝いさんたちと挨拶を交わす。
 屋敷の大きさといい、お手伝いさんの多さといい、小夜ってお嬢様なんだな。そんな家系だなんて知らなかったよ……。これがわたしの前世だったらって話だけど。
 いいにおいをたどっていくと、ひときわ大きな部屋につきあたった。

「おはよう」
「お、おはようございます」

 テーブルの端に、昨日会ったお父さんが座っている。おかしいやら懐かしいやら、不思議な気持ちを抱えながら席につく。
 そういえば、お母さんはいないのかな? 昨日も見かけなかったけど……。

「眠れたか?」
「えっと、はい。それなりには……」
「それはよかった。昨晩のことは、もう怒っていないから」
「はい……」

 お父さんが満足そうに頷くと、朝ごはんが運ばれてきた。
 緊張から箸が進まないかと思ったけれど、食事はどれも美味しく、夢中で食べてしまった。どうやらとてもお腹が空いていたらしい。

「……」

 何か言いたげな顔で見つめられ、箸を置く。

「あの……なにか……」
「……いや、朝食の席で言うことではないが……真太郎くんのこと、どうだ」
「真太郎のこと?」
「ああ。小夜の婚約者として、正式に考えておくれ」
「ええええ!!」

 大声を聞きつけ、お手伝いさんが集まってくる。

「こらこら、落ち着きなさい」
「はい……すみません……」

 落ち着いてなどいられるものか。小夜ってまだ中学生くらいなんでしょう。結婚だなんて……。
 それに、小夜は拓が好きなんだよね? 真太郎と結婚できるはずないじゃない。

「拓くんとのことは、残念だがもう忘れなさい。あそこに行ったらもう、彼は戻ってこない。真太郎くんなら、拓くんと小夜の仲もよく知ってる。おまえの心の傷もわかってくれるだろう。真太郎くんの家は代々医者の家系だし、家柄もいい。小夜の婚約者として申し分ない」
「はぁ……。あの……真太郎さんは、そのことは知って?」
「まだだ。まずは小夜の気持ちからだ。今日も来てくれるんだろう。彼のこと、そういう存在として考えてみてくれ」
「はぁ……」
 
 どうしよう。小夜ではないわたしに、真太郎との結婚を承諾できるはずもない。
 だけど、そもそもわたしは戻れるんだろうか……。
 重い気持ちでいっぱいになってしまい、それ以上朝ごはんを食べることができなくなってしまった。


♦︎

 どうしよう、どうしよう……。
 自分の部屋で、ああでもない、こうでもないと考えていると、名前を呼ばれた。

「真太郎さんがみえました」
「あ!……はい」

 そろそろとふすまが開かれ、お手伝いさんの後ろから真太郎が現れた。

「小夜さん、おはようございます」
「おはようございます……」

 彼は学生服のようなものを着ていた。明るいなかで見る真太郎は祐樹そのもので、いやでも反応して胸が鳴る。切なくなる。

――真太郎くんを、婚約者として

 お父さんの言葉が浮かんで、顔と体が熱くなっていく。

「……どうかしました?」
「いや、なんでも! なんでもないです!」

 ぶんぶんと首を横に振り、あははと笑ってごまかした。首を傾げて微笑む真太郎。祐樹もよくしていた仕草に、胸がときめいてしまう。

 真太郎が教えてくれたのは、いわゆる算数だった。やはり文字が読めず、真太郎に読んでもらいながら問題を解く。計算をするために必要だとそろばんを渡されたものの、筆算をつかったり暗算で解いたら目を丸くして驚かれた。

「そんなことができるなんて……まるで別人だ……」
「まさか~! なんだか今日は調子がいいみたい♪」
 
 ぎくりとしたのをごまかすように、大げさに笑ってみせた。
 
「文字が読めなくなったという不思議はあるけど、算術の勉強において、撲はもう必要ないのかもしれません」

 微笑みながらも、どこか寂しげに呟く。
 胸の奥がざわついて、何か言わなきゃと口を開いた。

「真太郎は、小夜のことどう思ってる?」
「え?」

 戸惑って揺れる瞳を見て、自分が言ってしまったことの意味に気がついた。
 わたしは今、小夜なんだってば!

「いえ、あの、ごめんなさい! 今朝、お父さんが『真太郎のことを婚約者として考えてくれ』なんていうから、真太郎のほうは小夜のことをどう思ってるのかな?って」
「……」 

 話せば話すほど墓穴を掘ってる気がする……。
 慌てるわたしとは対照的に、真太郎は落ち着いていて、あきらめたような視線を投げかけてくる。

「……僕の気持ちより、小夜さん、あなたはまだ拓のことを想っているのでは?」
「それは……そう、です。好きなのは拓で――」
「じゃあ、僕との結婚など無理でしょう」

 かぶせるように言われ、話は終わりだというように、鞄の中から教科書を取り出した。
 でもまだ、話さなくちゃいけないことがある。

「なんで、真太郎の家は拓を養子にできないの」

 もらうイコール養子にするのだと、わたしは理解していた。教科書をめくる真太郎の手は止まらない。特別驚きもしない様子をみると、小夜との間に幾度となく出た話題で、その度に断られていたことがわかる。
 一瞬ひるんだものの、今わたしは小夜ではなくて『わたし』なのだと奮い立たす。彼女じゃ聞けなかったことが聞けるかもしれない。

「きっと何か事情があって、わたしの家では拓を引き取ることができないんでしょう。でも、真太郎の家ならできるかもしれない。拓のことはよく知ってるでしょ。助けてあげようって思わないの? 真太郎のほうから頼んだら、ご両親だって心動かされるかもしれない。こんなこと、わたしがお願いすべきじゃないけど、真太郎しか頼める人がいないの。お願いします」

 そう言って頭を下げた。
 真太郎の手が止まり、しばらくの間があった。

「……今日は随分と大人びた口調ですね」

 これでも中身は18歳ですから、と内心おもう。
 真太郎がため息をつく。

「拓とはもう会えないよ。永遠にね」 

 温度のない冷めた声だった。顔を上げる。

「どういうこと……?」
「あそこは、そういうところさ。僕が、僕の家がどうのこうのって話じゃない。それに――」

 言いかけた真太郎が、はっとした顔つきに変わる。うつむき、首を横に振ったあと、こちらを見たときには微笑みに変わっていた。

「失礼。小夜さん、拓のことは僕も胸が痛い。弟のように思っていたからね。でも、この世の中には理不尽なこと、正常じゃないことはあり得るんだよ。残念ながらね。小夜さんが拓のことを忘れられないのは、わかる。だから、僕との結婚なんて考えなくてもいいよ。わかったかな?」
「……」

 真太郎の言葉に言い返す隙がなく、でもわかりましたと言いたくなくて黙っていた。それを納得したものと捉えられたのか、目の前に教科書が開かれた。

「次はこの問題だよ。少し難しいけれど、解けるかな?」

 祐樹と同じだ。言い争うことはしない、というスタンス。
 ふいに、頬に触れられた。

「……小夜さん、拓のことを忘れられなくて悲しいときは言ってください。いつでも話を聞きます。お願いだから、ひとりで泣かないで」

――菜々美(ななみ)。ひとりで泣かないで。俺がいるよ

 デジャブだ。先輩にふられたとき、祐樹がかけてくれた言葉。この言葉がきっかけで、わたしは祐樹に惹かれていった。
 真太郎が、あの日の祐樹に重なる。
 その優しい微笑みと、温かい手に身を委ねたくなる。もう戻らないとあきらめた日に帰れるかもしれない。
 鉛筆を走らせる音に、甘いため息が重なった。


♦︎


 運命って、あるのかな。何度生まれ変わっても、出会って恋に落ちる人っているのかな。
 小夜がわたしの前世の姿だとして、祐樹が真太郎で。この世で小夜と真太郎が結ばれたら、現世でも、わたしと祐樹は結ばれるってことなの?
 じゃあ、拓の存在って――

 流れていく人のなかに、白い着物に赤い花の着物を見つけた気がして立ち止まる。

「小夜さん? どうかされましたか?」
「あ、ううん……」

 拓ではなく、少女だった。よく見ると、着物の色も柄も違う。

 今日は町へ買い物に来ていた。真太郎が、お母さんへの誕生日の贈り物を選ぶために町へ出ると言ったので、一緒に連れて行ってとお願いしたのだ。
 映画の中に入ったみたい。和風のお屋敷と洋風の建物が入り混じっていて素敵。行き交う人の服装もさまざまで、歩いているだけで楽しい。

「楽しいですか?」

 真太郎の問いかけに頷くと、優しげな微笑みを返される。学校のない日とかで、今日の真太郎は和服だ。
 そういえば、今の真太郎と同じくらいの歳に、祐樹と夏祭りに行ったな。わたあめやラムネを買って、射的やボールすくいをした。
 楽しかった……。なんで、わたしたち終わっちゃったんだろう。そういう運命だったってこと?

 見つめていた和服が翻り、顔をのぞきこまれた。

「小夜さん、この中のものならどれが欲しいですか?」

 店先に、色とりどりの髪飾りが並べてある。花の形、蝶の形、金箔が貼ってあるもの、繊細に揺れるもの。

「わぁ……綺麗。迷っちゃう! どれがいいかな……」

 黄色い花が揺れるかんざしを手に取る。綺麗な黄色に、あの日みた月の輝きを思い出した。
 そういえば、次の満月の日はいつだろう。

「いいですね、小夜さんに似合いそう」
「……真太郎、次の満月の日っていつ?」
「満月の日?」

 無邪気に笑っていた顔が、わずかにくもる。

「拓と約束したの。『次の満月の日、また会おう』って」

 真太郎は空を仰ぎ、見定めるように目を細めた。

「3日後くらいかな……。でも、雨が降るかもしれませんね」

 灰色に染まった雲に目が留まる。もしかしたら、もうすぐ降り出すかもしれない。

「雨が降っていても行くのですか?」
「行く、とおもう」

 自分でも驚くくらい、すぐに答えが出た。
 拓を救えば、この問題を解決すれば、元の世界に戻れるかもしれないから。

「雨が降っても、それが満月の日なら。わたしは拓に会いに行く」
「……では僕も行きます。その日は、小夜さんをうちに招く、ということにしましょう。帰り道に拓に会えばいい。そうすれば、前回のように旦那さまにも叱られませんよ」
「ありがとう!」

 目を伏せた真太郎から、乾いた笑いが流れてきた。
 顔をのぞき見ようとすると、ふいと背中を向けられる。

「母への贈り物が決まりましたので、買ってきます。待っていてください」 

 振り向いた真太郎は、いつもの笑顔に戻っていたけれど、どこかはぐらかされた感じがいなめない。
 納得できない気持ちを隠して、口元だけで笑った。




 帰ろうと駅に向かっていたところで「忘れ物をしました」と言われ、広場で待つことになった。
 灰色に染まった空から、ぽつり、雨粒が落ちてきた。
 降ってきちゃった……。
 雨宿りできそうな場所を探そうとすると、頭上がわずかに暗くなり、雨が止んだ。

 なに?
 
 顔を上げて固まった。見知らぬ女性が傘に入れてくれていた。豪華な洋服を身にまとった、綺麗な女性。
 けれど視線は鋭く、わたしを刺すように見下ろしている。
 

 ドクン


 激しく胸が鳴った。

 背筋が凍る。
 冷や汗が流れる。
 息が、苦しい。

 なんだろう、なんだろう、この感じ。


 こわい――!


 そのとき、横から誰かに肩を抱かれた。

「……お久しぶりです」

 真太郎だった。守るようにわたしの肩を抱き、お店で買ってきたのだろう傘に入れ、女性と向かい合っている。かすかに震える声に、真太郎が動揺していることがわかる。
 一瞬、きょとんとした女性の顔に、不気味な笑みが広がっていく。まとわりつく湿気のように、べたべたとした笑顔。

「……岸川先生のとこの坊やだね。お久しぶり。元気そうじゃないの」

 濁ってしゃがれた声に驚いて、震えた。
 まるで魔女みたい。この人、いったい誰なの……。
 真太郎が答えないでいると、女性が続けた。

「うちの子たちも元気よ。拓も。あの子、すごく美しい顔をしているのね。そして、とても綺麗な声で歌う。うちの人も毎晩楽しそうでねぇ……。でも、もうすぐ声変わりみたい。残念」

 拓が、この人のところに――!

 口を開こうとしたところで、わたしの肩を抱く手の力が強まった。トンっと真太郎の胸に頬があたる。

――今は、何も言わないで

 そう聞こえた気がして、口をつぐむ。
 トクトクトク、早鐘のような鼓動が伝わる。

「良さそうな声の子がいたら紹介してちょうだいね。ではまた。先生によろしく」

 そう言って、女性は店の立ち並ぶほうへ歩いていった。

 姿が見えなくなって、やっと体の力が抜けた。その場に座り込みたいくらいに疲れていた。
 見上げた先に真太郎がいて、まだわたしの肩を抱いたままなことに気づく。

「失礼っ」

 ぱっと手を離された途端、ふらりときてしまい、わたしのほうから真太郎の腕を掴んでしまった。

「大丈夫ですか!?」
「えへへ、ごめんごめん。なんか疲れちゃって」
 
 それにしても、あの魔女みたいな人のところに拓がいるなんて。
 歌うってなに? 声変わりしそうだから残念って、どういうこと。
 お父さんも、真太郎も、あそこに行ったら拓はもう戻ってこないって言っていた。何がどうなってるの……。


 雨が傘を絶え間なく叩き続ける。
 不規則に響く雨音に、予測できない未来を重ねてしまう。
 どんよりと重い灰色の空には、わずかな光さえ見出すことができなかった。