長野県の夏は、涼しい。
特に夜から朝方にかけてぐっと気温が下がるから、油断していると目覚めはクシャミと共にやってくる。
「ぃ……くっしゅん」
こんな具合に。
次に伝わるのは、ひんやりした地面の感触。畳でもフローリングでもない。これはキッチンの床だ。
昨夜、音味しい料理のレシピを作曲している内に寝落ちしてしまったのだろう。よくあることだ。
それでも、いつもなら倒れている僕に薄い毛布をそっとかけてくれる優しい“あの子”がいたのだが────
「あれ?この毛布……」
そんなはずはない。僕の肩からはらりと滑り落ちた毛布を見てそう思った。
だってモグリンは家出したはず。
毛布を優しく拾い上げてしばし見つめたあと、おもむろに嗅いでみる。
────すももの匂いがした。
「モグリン……!」
僕は毛布を握りしめたまま勢いよく立ち上がった。地面に散らばった譜面が羽毛のようにぶわっと浮き上がる。
周囲をキョロキョロと忙しなく見渡すが、紙やら本やらでデコレーションされたキッチンにその姿は見当たらない。ならばと廊下に出てみれば、僕の鼻先をくすぐったのは、日本人の心を本能的に和ませる“お味噌汁”の香りだった。
「レストランからだ」
店内へと繋がるドアの前に立った途端、妙に緊張して生唾を飲み込んでしまった。
ふと身だしなみが気になって、ピンと跳ねた寝癖を押さえ込むも無駄な足掻きのようで、もういいやと逸る気持ちを抑えられずに僕はドアノブをひねった。
────いた。
モグリンだ。
カウンターの向こうで、こちらに小さな背中を向けて立っている。
ラフなTシャツにショートパンツ姿。金髪のおかっぱヘアは一つに結ばれ、露になったうなじには金色の後れ毛がふわふわと揺れていた。
何かを作っているようだ。腰紐は結ばれていないが、エプロンをかけている。
「おはようさん。ねぼすけさん」
モグリンは背を向けたまま言った。
「お、おはよう……ございます」
「なぁ、エプロン結んでくれよ。いま手ぇふさがってんだ」
「エプロン? あぁ、うん」
蝶結びにしてくれ。ということだろう。
僕はモグリンに歩み寄り、背後に立って彼のエプロンの腰紐を手に取った。長いタイプの紐だ。いったんカラダをぐるりと一周させる必要がある。
「し、失礼します……」
結ぶ過程で一時的とはいえ、後ろからハグするような形になってしまうから。僕は断りを入れてから紐を前に通した。
すると、彼はふっと笑った。
「許さねえ」
「……まだ、怒ってる?」
「あほ。怒ってたら、こんなもん作らねーよ」
「こんなもん?」
肩ごしに、彼の手元を見やった。
「おむすび。腹減ってるだろうから」
「え、僕のために?」
「いや、俺のためだけど。まぁ恵んでやらんこともない」
つーか、いつまでそうしてんだよ。とおちょくるように言われ、僕ははっとしてカラダを離した。
ついでに紐まで手放してしまって、結局僕は再度断りを入れるのだった。
*
「レシピ、ちょっと覗かせてもらったわ」
お味噌汁をすすりながら、モグリンは言った。
カウンターの椅子に隣同士で腰掛けて、ふたりでモグリン作『耽美な男の娘が素手で握ったおむすび』に舌鼓を打っている。
もち麦が3割含まれ、プチプチとした食感が楽しい塩むすびだ。
「今回の料理。こんな感じかな〜って、俺は思ってる」
モグリンは簡単なスケッチを僕に見せた。
最近では、モグリンは断片でしかないレシピの譜面を見ただけで料理の完成形をおおまかだがイメージできるようになっている。譜面を見ながら鼻歌で音を浮かび上がらせれば、あとはカラダが勝手に動くらしい。
そのイメージに合わせて、食材の調達や仕込みを行うのだ。
「さすがだね、モグリン。お、これは……」
フランス……いや、イタリア料理だろうか。
「フランスパンみたいなやつをカットしてベースにして、あとはキャベツと小女子を使う」
「コウナゴ?」
「魚だよ。ちぃーっこい魚。ちょっと人からもらったんだ。今回のイメージにピッタリ合うから使おうと思ってさ」
「へぇ……」
「なんだよ?」
つい口元が綻んでしまった。
モグリンが活き活きしている顔が見れたからだ。
「いい顔してるなぁって。うちの専属シェフは素敵だろって自慢したいよ。指名手配されてなければ」
そう言われたモグリンは何も答えず、大きな口を開けておむすびを放り込むと、ハムスターみたいにほっぺたを膨らませたまま、レストランの出口まで歩いてゆく。
そして背を向けたまま僕に言った。
「かふぃはひ、ひっふぇふる」
……買い出し行ってくる。かな?
僕のいってらっしゃいを待つこともなく、モグリンはドアを開けて出かけていった。
その華奢な背中を見送って、僕も気合を入れる。
「よし、やるか!」
レシピの作曲を急ごう。
早ければ、明日にでも試作品ができそうだ。



