守矢市の町並みが、夕焼けに赤く染まっている。
まだ夏本番前の7月の初頭とはいえ、日中は蒸し風呂のような暑さだ。それでも日が落ちるにつれて涼しい風がどこからとなく吹いてくれるのは、避暑地の特権とも言える
もっとも、今の僕の心を癒すには足りないのだが。
「モグリンに……捨てられ……た……?」
はぁぁぁ〜〜〜っと、かなぁ〜り大きなため息が商店街を潜水したスイマーみたいにすり抜けていった。
そうして八百屋さんの前で立ち尽くす僕の姿を、通り過ぎるお客さんたちがチラチラと見やる。
中には僕を指差す子どももいたりして、お母さんが「見ちゃダメよ」と手を引いていく。
「スイトの坊主よぉ、かれこれ1時間もそうしてるぜ? さぁ何を買うんでぃ。ここは八百屋だぜ。野菜買ってけ野菜!」
「大将……おすすめは……?」
「ったく、しょーがねえなぁ」
八百屋の大将がねじり鉢巻をキュッと結んで気合いを入れた。そしてパンッと手を叩いて道に繰り出しては客を呼び込む。
「さぁさぁ、みなさま見てご覧なさいよ。“カノジョ”にフラれて傷心中の若ぇのが、もうキャベツも買えねぇってんで、まぁ〜仕方ねぇやな。おいらも人の子だ。もってけ泥棒! ひと玉40円! 40円だよ! さぁさぁ早いもん勝ちだ。若ぇのが立ち直る前にかっさらっちまいなぁ!」
刹那、わっと押し寄せる人の波。山のように積まれたキャベツはダルマ落としのように消えてゆく。
どきな邪魔だよ!と主婦のパワーに吹き飛ばされ、僕は気づけば路上にうつ伏せになってマンホールと睨めっこしていた。
「うぅ……モグリン……ん? キャベツ?」
と、どデカい革靴。ゆうに僕の顔の2倍はありそうなサイズの靴がマンホームを押さえ込むように乗っかっていた。
僕の知る限り、こんな足の持ち主は一人しかいない。
ゆっくりと上を見上げてみれば……やっぱりだ。
「リキさん……」
道山リキ。
2mはあろうかという巨体は、スーツがはち切れんばかりの分厚い筋肉の鎧に覆われ、その強面は写した鏡がヒビ割れると言われるほどの顔面凶器。
無論、カタギではない。だが悪人では決してない。
彼は僕が何かと世話になっている────借金取りだ。
*
「給料よこせ……? なぜ……?」
あれは3日前のことだ。接客が終わり、店の片付けをしていたら、モグリンが音もなく近寄ってきた。
彼はキッチン用仕事着のメイド服に身を包んでいて、腰に巻いたエプロンをいじりながら、少し恥ずかしそうに顔を背けて僕に言ったのである。
「服……ほしい」
なんだ服か。
だが服が欲しいから給料を寄越せだなんて、とんでもない。うちはただでさえ借金まみれ。家計は火の車で万年自転車操業。それでいて客の入りは悪いことこの上ない。
ゆえに僕は秒で断りを入れた。
「ダメです」
「な……どんな服かって、聞いてからでもいいだろっ」
「だってモグリン、可愛い服いっぱい持ってるじゃないか」
「ちがっ……持ってないやつが欲しいんだよ!」
「どうしても?」
「そりゃあ……どうしても……だって…………」
「だって?」
「……お、ぉ前が…………み、み……みたぃ……」
「え、なんて? 聞こえないよ、モグリン」
それからのモグリンは、僕に何か言おうとしたが黙りこみ、俯いたままキッチンを出て自室に閉じこもってしまったのだった。
しばらくして、いつも寝る前に一緒に飲んでいるホットミルクも用意して部屋に持って行ったが、ドアをノックしてもモグリンは応答することはなかった。
*
「思い当るのはこれぐらいかな……ねぇ、リキさん、どう思う?」
八百屋さんでキャベツを貰ったあと、僕はリキさんをレストランに招き、ことの経緯を話した。
両親から受け継いだ店『レストラン・オトナシ』は、湖のほとりにぽつんと建っている。
水辺まで数歩、というほど近くはないけれど、窓を開けると、ちゃんと湖の気配がする場所だ。
長野県下最大の湖である守矢湖は、かつて信濃の海と呼ばれていたほどに広大な湖だ。
ひと度、水辺に立ったならば、その眺めはまさに“海”と呼ぶにふさわしい。
だから父は、うちの店を湖畔のレストランとは呼ばず、湖辺のレストラン。人にはそう伝えていたらしい。僕もまた、それに倣っている。
建物は小さくて、少し丸い。角が立っていないというか。
「絵本に出てくる家みたいだな」と、モグリンはそう言っていたけど。
看板も控えめだ。読もうと思って近づかないと、店だと気づかない人もいるだろう。
「な゛……な゛か゛よ゛く゛……」
テーブルからその巨体をはみ出しているリキさんが、しゃがれた声で言った。腰掛けている椅子が悲鳴をあげていて心配だ。だって買い替える余裕はないから。
「リキさん、なに言ってるかわかんないよ。ほら、AIに翻訳してもらって」
「お゛……す゛……す゛ま゛ね゛え゛……」
そう。リキさんはイカつい外見に加えて、声までイカつい。声帯を潰されたのかと疑うほどのガラガラ具合で、もはやまともに聞き取ることもできないほどだ。だから、AIの翻訳アプリを間に挟まなければ、人間とのコミニュケーションがまともに取れないのである。
《リキなのだ。こう思えばいいのだ。女の子が怒ってる時は120%男が悪いのだ。それでいいのだ》
リキさんの巨大な手のひらに乗っているスマホから答えが返ってきた。でもアプリの声が可愛らしい女の子の声なんだよなぁ……。
「ん〜? モグリンは男の子だよ?」
《見た目美少女だから女の子だと思った方がいいのだ。とりあえず謝るのだ》
「ふむ……いや、僕にも男のプライドがあるから」
《それ、一番必要ないやつなのだ》
古くは戦国時代から、守矢の地で仁義を貫いている任侠組織「歌傘組」の極道・リキさん。
両親が亡くなってから一度は他人の手に渡ったレストランを買い戻す際に、利子なしでお金を貸してくれた恩人だ。
いまでは、何かあるとこうして相談に乗ってもらっている間柄となっていて、僕にとっては兄のような存在と言っていい。
《どこに行ったか探しておいてやるのだ。見つかったらちゃんと迎えに行って謝るのだ》
「そう言われると……むしろ謝りたくなくなるんだが?」
────ブルッ
「それに……モグリンだって、ずっと僕の隣にいてくれるわけじゃない」



