「鞍馬スイト……お前とはこれっきりだ。こんな店、辞めてやんよ」
僕の住む街、長野県守矢市は湖を中心に四方を山で囲まれた、いわゆる盆地というやつだ。
だから夏でも朝霧が発生する。
陽が登るまでの僅かな時間、霧が湖畔を覆う。この幻想的な眺めの中に身を置き、コーヒーを飲むのが僕の毎朝の楽しみとなっている。
最近では、寝ぼけまなこで付き合ってくれる“相方”もできたので、ふたり分のカップを選んでいたところ……まさかの不意打ちだ。
しかも、いつもはまともに名前も呼ばず「おい雑魚」で済ませるくせに、フルネームで僕のことを『鞍馬スイト』なんて呼ぶものだから、危うくコーヒーの粉をこぼすところだった。
よし。まずは落ち着いて、この子を諌めなければ。
「生殺与奪のなんたらは店長にあるんだぞ、モグリン」
「モグリンていうな」
目を瞑って話したならば、少し低めな女の子の声と誤認するに違いない。
ならばと目を開けてみれば、これまた余計に勘違いしてしまう。
360度、どの角度から見てもキレイな女の子にしか見えない。目の前に立つ“彼”は、そんなちょっぴり変わった個性の持ち主だ。
金髪のおかっぱヘアに、色の抜けた白い肌。職場以外ではショートパンツ一択の生脚原理主義者。
おしゃれな服が好きなくせに、今日に限ってはシンプルな薄手のパーカーで済ませている。
お散歩でも行くの?と和やかに話しかけて返ってきたのが件のセリフ。
つまり、いつも僕の隣にいてくれる彼────モグリ(名字は知らない)が、一方的に辞表を突きつけてきたのだ。
“逃亡犯”である彼を僕の家で匿ってから半年ばかり。お互いまだまだ知らないことの方が多いけれど、こうして一つ屋根の下で寝食を共にしているのだから、それなりに絆が深まっていると思っていたのだが。
「なんで怒ってるの、モグリン?」
「当ててみろや」
「ん〜、映画に買い物、猫カフェ……一緒に行かないとコロスって言うから、僕は拒んだことないけどなぁ。この間の雨の日だって、一緒に寝てあげ────」
「やめろ」
可愛いお顔に似合わず、口が悪いのもいつもこと。
しかし、なぜこうも機嫌が悪いのか。
「辞めるってことは、ここを出ていくってことでしょ。行くとこあるのぉ? モグリンはさぁ……指名手配されてるんだよ? すぐ捕まっちゃうんだよ? 田舎の監視社会をあなどっちゃダメなんだよ?」
僕は脅し文句を並べたてた。まぁ事実だから仕方ない。
モグリンは、19歳の僕と同年代もしくは年下であろう少年だ。にも関わらず一体ナニをしたのか、絶賛指名手配中で、つい2週間前も駐在さんが「この顔にピンときたら110番」と挨拶がてらポスター持参で我が家まで来たほどだ。
ちなみに、モグリンのポスターは大人気らしく、高確率で盗難にあうため張り出すことができないという。さもありなん、これだけの美少年であれば。
「ふふ、わかったろ、モグリン。見つから────」
「ねーよ」
「へっ?」
「女装すればバレないって。お前に教えてもらったからな」
一昨日も豆腐買い出しに行ってバレなかったぜ。と不敵に笑い、彼は金髪のおかっぱヘアを指で払うようにしてなびかせた。
そうだった。僕の“アドバイス”以来、モグリンは24時間女装男子。カモフラージュは完璧だ。
「……ほんとに出ていくつもり?」
「つもり」
「もう週末のお客さんの依頼も届いてるんだよ? レコーディングに立ち会わないと、音味しい料理の仕込みが……」
「お前の“能力”があるだろ。俺は必要ねーんじゃねえの?」
「何言ってるんだよ。僕の能力ではそれができないから、モグリンと一緒に……」
ふぅ、小さくため息をつき、僕の方にまっすぐ向き直したモグリンはお辞儀するように、ゆるりと頭を下げた。その代わりに、ぐぐぐっと持ち上がってきたのは彼の右手。なんと中指がピンと立っていた。「これが答えだ」と言わんばかりに。



