名前は知らない。
ただ、寒い国だったのは覚えてる。だからって着る物があるわけじゃない。それを服と呼べるのかもわからないようなボロ切れを幾重にも着て、ただただ彷徨っていた。
母と子とふたり。陽の当たらないような路地裏で────
物を乞うて、ゴミを漁って、人に蹴られて唾を吐かれ。そんな毎日だった。
どんなに薄汚れていても、持って生まれた見てくれの良さを、めざとく見抜くやつはいるらしい。
大人の半分ほどの背丈の時分に、俺は母親に売られた。いくらで買ったのかは知らない。通貨も円じゃないだろうしな。ただ、生まれてはじめて目にした母親の嬉しそうな顔だけは今でも覚えている。
まずは風呂に放り込まれて、カラダを綺麗にしてもらい、髪まで切ってくれて。おかげで生まれ落ちて以来じゃないかってくらいこざっぱりした。
お次は、ご飯が出てきた。ガリガリすぎて”色気“がないからとにかく食えってことらしい。
なんのこっちゃわからんけど、温かい食事にありついたのははじめてで、ここは天国なんじゃないかって最初は思っていた。
まぁ……最初だけだ。
俺はずいぶん高値で買った”商品“だったらしい。
理由はふたつ────
「オトノメトリーな上に、これだけの美少年。いくらでも元が取れるねぇ」
「その子は日本に売るんだ。言語を日本語に変えとけよ?」
「あの館が欲しがってるのかよ。まったく似たようなのばかり集めやがって。ま、高く買う方に売るわな」
「カラダの成長はいくつで止めとく?」
「16かねぇ。先方は18でってことだけど、それだと男に寄りすぎちまうよ」
プレイヤー型ってのは本当に便利なカラダをしていると我ながら思う。
いままで口にしていた言語は、ヘッドホンをつけた次の瞬間には日本語に置き換わっていた。あたかも、それが母国語であるかのように。
そして次に頭に流し込まれたのは、知りたくもない”知識“だった。これから俺がやらされる仕事に必要なんだと言われて。
その意味を知った時、なんてところに来ちまったのかと思った。
だからといって、どうすることもできなかったわけだが。
*
俺はすぐ”返品“になった。
新しい買い手のところに行くらしい。その前にもう一度、セッティングのし直しだ。問題点は明らかだから、そこを修正するという。
「この子はすぐに吐くってねぇ。客の前で粗相するんじゃ、そりゃ使いもんにならないさ」
「味覚がやたら敏感なようだ。どうする?」
「オトノメトリーだろ。消せばいいじゃねえか」
……そうして、俺の味覚は消えた。
唯一の楽しみだった。ご飯を食べることは。
それすらも、俺の前からは消えたってわけだ。
*
“館”と呼ばれる場所に、俺は売られた。
そこは前とは違って、なんというか学校みたいな所で、みんな同じ格好をしていた。セーラー服に短パンに、足元はローファーで。そういうのが客の趣味なんだろう。
おまけに、バカには客がつかないというから、昼間は授業まで受けさせられた。
こっちは夜中の仕事で疲れてんのに、居眠りしようもんなら折檻を受ける。ったくやってらんねーよ。
名前は番号が割り振られた。
俺は19番。ジュークって呼ばれてた。
「僕はナナ。よろしくね、ジューク」
館には、お兄様制度とかいう謎のしきたりがあって、俺のお兄様は7番の「ナナ」だった。
背がすらっと高くて、どいつもこいつも女の子みたいな見た目の中で、ナナはわりかし“男っぽい”雰囲気があって、館のみんなからけっこうな人気があったらしい。
だから俺は……やっかみの標的にあった。いい迷惑だ。
「またいじめられたの? アザができてる」
「あんたのせいでな。お兄様ってどこに言ったら代えてくれんだ?」
「残念。ずっと僕がキミのお兄様だよ。いつかキミがお兄様になるまでね」
「……いつまでここにいなきゃいけねーんだよ」
「18歳まで。そう聞いてるよ」
ナナはいつだってそばにいた。
そういう制度だからって言えばそれまでだけど、仕事のあとは妙にアイツの元に行きたくなるのは、きっと安心するからだと思う。
「ジューク。味がわからないって本当?」
別に知られたからどうってことはないけれど、ナナに知られて少し胸が痛んだ。
アイツはご飯を食べる時は、いつも「美味しい、美味しい」って子猫みたいに鳴きながら食べるから、俺もつい釣られてしまって「美味しいね」って返してた。
つまり、嘘をついてたわけだ。
それを知られた。嫌われたかな……と思ったけれど。
「ね、いい考えがあるんだ。今日のお昼、時計台まで持ってきて。そこで一緒に食べよう」
館でもっとも高さのある建物、時計台。
その頂上に集合ということで、食事の乗ったお盆を持って階段を登るのはなかなかにキツかったけれど、俺は言われた通り時計台を登り切った。
ナナはちゃんと待っていた。ニコニコしながら。
「持ってきたけど。どうすんの、これ」
「ふふふ……リメイク……しようぜッ!」
バサっとマントでも翻すかのように、ナナが地面に被せてあった布を取り去ると、そこには調理器具がズラリと並んでいた。
フライパンにガスコンロ。ノンフライヤーなんてのもある。調味料はプロ顔負けの品ぞろいだ。
「どうしたんだよ、これ……」
「僕のことが大好きなお客様がくれたんだよー」
「かぁー、客に媚び売ってよぉ。情けねぇお兄様だぜ」
「キミねぇ。そんなこと言ってるから固定客がつかないの。もっと愛嬌を身につけないと」
固定客がつくと、こういうの買ってもらえるんだな。別に欲しくないが。
それでもナナはとても嬉しそうで、その笑顔に釣られて俺も口元が綻んだ。
「で、ここで何するってんだ? リメイクとか言ってたけど」
「言った通りだよ。リメイクして一緒にたべようっ」
「味わかんねぇって。俺は」
「うんうん。だから好都合だよ。不味いのができても食べてもらえるしさ」
「あ……前に料理に挑戦してみたいって……結局、自分のためじゃねーか!」
その日、ナナが作ったのは真っ黒に焦げた謎の物体。
それをふたりで食べた。味なんてわかるはずもなかったけど、顔をしかめながら食べているアイツを見て、俺は大笑いした。
だから次の日も、そのまた次の日も。時計台に上がってああでもない、こうでもないと言い合いながら一緒に料理もどきをした。
時計台なら、調理の煙もニオイも心配ないから気楽なものだし。いい場所を見つけたなと感心していた。
さしずめ、秘密基地といったところだった。
「よく笑うようになったね、ジューク」
「え、そうかな?」
季節がふたつほど変わって夏になった。
時計台の3の文字盤のあたりに隙間があるのを発見してからは、そこに足をだしてプラプラしながらおしゃべりするのが、俺たちのおきまりの“ダベり”だった。
金属の歯車がガチャガチャと鳴るその真横でするおしゃべりは、なんだか非日常で言えないことまで全部言える気分にさせられた。
「僕はね、ジュークの笑顔が大好きだよ」
「んだそりゃ、口説き文句みたいできしょいんだよ」
「みたいじゃないから」
「いや、近いてっ」
楽しかった。味もわからないはずのランチタイムが、何よりも待ち遠しくて。
「18歳になったら、ここを出られるだろ。そうしたらさ、一緒に暮らそうよ、僕と一緒に。どこか海の見える街か……大きな湖のある街がいいな。ね、どう?」
「……わかったよ。んじゃ約束な」
「約束。そうだ、血を飲み合うっていうの。やってみよっか」
「重っ。まぁ、せっかくだしな。やるか」
忘れるほどだった。自分がどんな場所に置かれているのかさえ。
夢なんて、叶うはずもないということでさえ。
*
ナナが死んだのは、楓が紅く色づく頃のことだった。
客に酷い乱暴をされて、館の医務室に運ばれた時にはもう虫の息で。
大した処置もしてもらえずに、ただほっとかれて……死んだ。
病院になんて連れて行かない。俺たちは人形……ヒトじゃない。
代わりはいくらでもいる。
ナナが死んだ翌月には、俺はお兄様と呼ばれていた。
あぁ、ここではこれがひとつのサイクルなんだと。俺はようやく真理に気づいた。
「ねぇ、お兄様。噂で聞いたんですけど、オトノメトリーの組織があるってこと。ここを抜けて、参加しませんか。僕たちも」
98番……キュッパと呼ばれる俺の“弟”が言うには、構成員すべてがオトノメトリーで固められた組織が存在するという。
本来、オトノメトリーがこんな場所で搾取されているのはおかしい。だから脱走しようと、そう誘ってきたのだ。
正直、どうでよかった。
心はもう死んでいる。生きていたって笑顔を手向けたい相手はこの先できっこない。
「お兄様、お願い。僕と一緒に逃げてください……」
ならば流されていけばいい。どうせ行き着く先は決まっているのだから。
館を出て、組織に入り、また抜けて。
逃げて隠れて戦って……気づけば“そこ”に立っていた。
「大きな湖のある街……か」
眼下には一面凍りついた広大な湖。
ふと目に入った立て看板になにやら書いてあった。
────凍った湖を歩いて渡れば、約束の人が待っている



