湖辺の音味しいレストラン


 目の前に置かれたグラタン。
 いましがた焼き上がったところだ。立ち昇る湯気がタンゴを踊る足下で、淡く焦げたチーズがふつふつと手拍子している。
 見た目は、普通に美味しい料理。だが、これは違う。

 ────音味(おい)しい料理だ。

 他ならぬ、俺が作ったもの。いや、アイツに作らされた(・・・・・)というべきか。

「まんまとハメられたな」

 さてどうする。と、キッチンの壁に備え付けられた鏡に映る自分に問いかけた。
 この夏が終わる前に、またどこか違う街へ流れてゆく。そのつもりで……別人になるつもりで選んだ黒いロングヘアのウィッグのせいか、いまの俺はまるで大人の女みたいだ。アイツが見たらきっと「おかっぱ美少女なモグリンに戻って」と騒ぐに違いない。なんたってガキだし。

 気づけば、ふっと口元が綻んでいた。
 視線は自ずと下へ向かう。その先にあるのは、未だ冷めることを知らないキツネ色のグラタン。

「どうしようか……」

 別れも告げずに消えるつもりでいた。
 もしも、引き留めるような手紙でも置いていたなら読まずに捨てただろう。
 突き放すような書き置きなら、そっとポケットに忍ばせたはずだ。
 そのいずれでもない。テーブルには一首の短歌が置かれていて、つい読み上げてしまったが最後。何処からか音楽が聴こえてきたかと思ったら、俺のカラダは笛で操られた毒蛇みたいに自由を失って……作らされてしまった────音味しい料理(このグラタン)を。
 
「……しゃーねえな」

 そうまでして食べさせたいわけか。降参だ。
 とはいえ、俺自身、他人の記憶を食べるのは初めてだ。

 音味しい料理。それには魔法のチカラがある。
 食べた人の脳裏にミュージックビデオが流れ、あたかも“走馬灯体験”を味わえるから。
 ……ではない。
 アイツが言うには「想いを、誤解なく伝えることができる」こと。
 それこそが、音味しい料理の魔法だという。

 誰も本音を言わなくなった世界では、言えなくなった時代では……アイツの言う通り。それこそが魔法なのかもしれないと、いまは思う。

「いただきます」

 カボチャとキノコの和風グラタン。

 スプーンの重みに、焼けたチーズが悲鳴をあげる。掬い上げれば、ホワイトソースでおめかししたカボチャとキノコが腰を折って挨拶をしてきた。こちらも軽く頭を垂れたなら、鼻先をくすぐるお出汁の香り。そうなれば、あとは(いざな)われるだけだ。

 アイツの“想い”を、これから食べる。

「ん……」
 
 口に含んだ刹那。味が、香りが、旨みが……まるで打ち上げ花火のように散華した。そうかと思えば、糸を紡ぐように一箇所に収束してゆく────脳へと。

 イントロが流れだした。
 “予感”を漂わせるピアノの単音から静かに始まる。
 
 これは料理が音に変換されたことによるものだ。
 視界に映る景色もまた、今いるキッチンから此処じゃないどこかへと、まるで万華鏡のように移り変わってゆく。

 油の海に落とされた生卵が、撹拌されてマヨネーズになるように。
 俺という存在が……モグリという視点の存在が曖昧になって混ざり合い、ミュージックビデオの中のアイツとひとつになってゆくのがわかる。

 ────おまえ、名前は?
 ────スイト。変な名前だな

 俺の声。
 他人にはこんな風に聞こえてるんだな。
 なんとも性別が曖昧な、いい声してんじゃん。
 
 なんて、どうでもいいことがよぎったのを最後に、俺の意識は溶けて消えた。
 ほんの一瞬だけ見えたのは、月夜に浮かぶ小さなレストラン。
 やっぱり……絵本の挿絵みたいだなと、俺は思った。