「モグリさん、具合はどう?」
軽食を乗せた盆を持って寝室のドアを開ける。
ベッドの上で静かに目を閉じているモグリさんの姿を見て、僕はどうしようもなく胸がいたんだ。
彼がいま伏せっているのは、僕のせいだから。
あの夜から2日経った。
水の中に落ちたのは僕だけで、シカノちゃんは無事だった。あのあと、リキさんたち歌傘組の皆さんが助けに来てくれたのだ。
けれど、水に落ちた僕を救助するため、極寒の湖に飛び込んだのは……モグリさんだった。
彼は例のウォークマンに内蔵されている“BGM”を使って、僕を水の中から引き上げてくれたのだ。
だが、その代償は少なくなかった。
太ももの傷が開いてしまったのである。それもそのはず、あのBGMは一般人の肉体に超一流アスリートの動きを付与するのだから、その負担は計り知れないものがある。
結果として、モグリさんは絶対安静となり、ここ2日間は寝たきりだ。
「味わかんねーけど、腹減ったぁ」
「うん。そう思ってサンドイッチ作ってきたよ」
上体を起こしたモグリさんの肩にカーディガンをかけてあげた。
ちょっとしたことでも、彼の助けになりたいのだ。
「そんな気に病むなよ。別にお前のせいじゃないって」
「ごめん……」
「あー、ダリぃなお前。おら、サンドイッチ食え。俺の代わりに感想言えや」
そう言って卵サンドを僕の口に捩じ込むモグリさん。
彼の味覚はもちろん、戻っていない。
あの夜、モグリさんの味覚を戻すんだと意気込んでいた僕はどこへ行ってしまったのだろうか。と自分でも不思議に思う。
治すどころか、僕の不手際で傷を負わせてしまった……そんないまの僕に、治療を語る資格などないのかもしれない。
でも、こうして一緒に同じものを食べていると、やはり考えてしまう。もしも「美味しいね」って言い合えたら、どんなに幸せだろうかと。
「モグリさん、音味しい料理は……やっぱり無理そう?」
つい、聞いてしまった。口にしてから後悔している。
「俺さ、お前に聞きたいことがあるんだ」
モグリさんが改まって言う。僕は背筋が伸びた。
「俺とお前……出会ってほんの一週間だぜ。なのにさ、お前はなんで……そんなに俺に構うんだよ?」
肩にかけたカーディガンをそっとさすり、目を少し伏せながら彼は言う。
心を映すかのように、長いまつ毛が柳のように揺れた。
「俺は指名手配犯だ。匿ったのがバレたらお前もヤバイ。それだけで十分危ないってのに、お前はずっとここにいろって言う。なんでだ? 俺のために……なんでもするだなんて……なんでそんなこと言えるんだ?」
僕はコーヒーをひとくち啜った。
本当はモグリさんのために持ってきたものだけど、どうしたって喉が渇いたから。
「僕は、10年前に両親を亡くしたんだ。それからずっとひとりぼっち。別にね、寂しさを紛らわせるだけなら、正直誰でもいいと思ってた……だけどね、母さんが今際の際に言ったんだ。いつか、湖の上を歩いて、僕に会いにきてくれる人がいるって」
モグリさんが僕の手からコーヒーカップを奪って、ひと口飲んだ。喉がコクリと鳴る。
「俺はそんなんじゃねえよ」
ポツリとつぶやき、コーヒーカップを僕に押し付けると、モグリさんは背を向けて横になった。僕はそっと彼のカラダに布団をかけてやった。
去り際、彼が背を向けたまま僕にこう言い残した。
「お前はいいやつだよ。だから俺なんかに構うのはやめろ。いつかきっと、本物がお前に会いにきてくれるだろうから」
僕はキミがいい。そう伝えられない自分がどうしたって悔しくて、ドアを閉めたあと、残ったコーヒーを一気に飲み干した。本当はブラックは苦手だけれど。
*
渡しそびれたケーキがある。例のぶんぶくたぬきケーキだ。
試作としては、あの夜に作ったものだが、本来はみんなで食べようと考案したものだった。だから完成品はけっこうデカい。
「子どもなら、おっきい方が喜ぶよね」
そうして出来上がったバスケットボールほどの大きさの、ぶんぶくたぬきケーキ。
これからやってくるふたりへのプレゼントだ。
特に“小さい方”は、軽い風邪をひいたから、これは快復祝いでもある。
「ごめんくださーい」
女の子の声がキッチンまで伝わってきた。ほんの数日前までこのレストランでは聞き慣れていた声だから、それが誰であるかすぐにわかった。
「こんにちは、カミコちゃん」
レストランの扉をあけると、そこにいたのは髪を短くしたカミコちゃんだった。
たぶん、モグリさんのベリーショートに影響されたんだと思う。お見舞いに来たとき、彼はウィッグを脱いでいたから。
そして、姉の影に隠れているのは────
「シカノちゃんも。元気になったみたいだね」
ぺこりと頭を下げるシカノちゃん。
相変わらず引っ込み思案だけれど、冒険を経て彼女の中で何かが変わったことは事実だろう。
ふたりの間にあったわだかまりも解消されたようで、姉妹の絆はよりいっそう強まったはずだ。
「これ、ふたりにプレゼントだよ。職業体験学習のお疲れ会で渡すはずだったんだけどね」
僕はぶんぶくたぬきケーキを手渡した。
巨大なたぬきケーキに大喜びするかと思ったけれど、なんか微妙に引かれていた。
「あの、店長さん。モグリちゃんは……」
「よぉ、ふたりとも。なんか背伸びたんじゃねえか? 2日ほど会わんうちに」
カミコちゃんが僕に問いかけたと同時くらいに、背後からモグリさんが現れた。
足を引きずっているところをみるに、まだ無理はできないはずだ。
「モグリちゃん……大丈夫?」
「あぁ。ピンピンしてんぜ。それよか髪切ったのか? いい感じじゃねーか。ま、俺の次くらいにな」
モグリさんの軽口に、カミコちゃんたちはパッと笑顔になった。
お見舞いに何度も足を運んでくれていたけれど、2階で寝ている姿しか見ていなかったからよほど心配していたのだろう。
「これ、モグリちゃんに。私とシカノで作ったんだよ」
そう言ってカミコちゃんが風呂敷から取り出したのは、これまた大きな白い塊だった。
バレーボールくらいはありそうだ。あ、これってたしか────
「うちの和菓子屋の名物なの。閻魔大福って言うんだよ!」
閻魔大福。
その昔、名取さんちの和菓子屋を後に創業することになる一人の若者が、ちょっとした事故で一度は死んだのだという。
テンプレ通り、閻魔大王の前で詰められるのだが、そこで懐に閉まっていた手作りの大福を閻魔大王にあげたところ、これが大変な美味だったようで。
これを気に入った閻魔大王が若者を蘇生させて和菓子屋を開くように諭した。
といった逸話にちなんでいるとのこと。
「閻魔大福はね、食べると怪我が治るんだって。だからモグリちゃんに食べてほしくて、ふたりで作ってきたの」
「モグリちゃん……げんきになってほしい」
はい!とニコニコしながらモグリさんに超巨大大福を手渡すふたり。
もしかして……と思ったけど、悪い予感は当たってしまうものだ。
「モグリちゃん、いま。いま食べて。閻魔大福は作ってすぐがいいんだよ!」
「おいしいかどうか……ききたい」
僕はモグリさんを横目で見やった。
ふたりはもちろん、彼が味覚障害であることを知らない。純粋な好意で、感想を聞きたがっているだけだ。それはわかるのだが────
どうにかフォローをいれようかと悩んでいるうちに、モグリさんが大口を開けて大福に齧り付いていた。
そして大きく削り取ると、ハムスターみたいに口一杯に詰まった大福をよく咀嚼してからのみこんだ。
「うん。めっちゃ美味い。ありがとな、ふたりとも」
そう言って、モグリさんはふたりに優しい笑みを浮かべたのだった。
*
夜の帷が降りる頃。僕はキッチンで頭を抱えていた。
何か大切なことを忘れているような気がするのだ……なんだったっけ?
ここのところ色々ありすぎて(特にモグリさんのことで)、僕の脳の処理速度が追いついていないようだ。
あれ……なにか命に関わるような……
「なぁ、ちょっといいか?」
あと一歩で思い出しそう。というところで、モグリさんに声をかけられ霧散した。また忘却の彼方だ。
「なに、モグリさん」
「お前と……ゆっくり話したいんだけど……」
なんだろうと思いつつ、僕らはリビングのソファに腰掛けた。
パジャマ姿のモグリさんは寒かろうと思い、カーディガンを用意すると、彼は大人しく肩を差し出すのだった。
「お前さ、どう思った?」
「どうって?」
「昼間のこと。でっかい大福食べたろ……その時のこと」
あぁ、やっぱり気にしてたんだ。
モグリさんは本当に優しい人だ。だから胸が痛んだのだろう。嘘をついたということに。
「あれは、嘘としてカウントしなくていいと思うよ。ふたりは喜んでたし」
「そう言うと思ったよ」
モグリさんは眉尻を下げて微笑んだ。
これは作り笑顔の証だ。腹の中には、なにか僕に伝えたい本心があるはず。
きっとそれは……たぶん、僕の予想は当たっていると思う。
「味覚。取り戻そうよ」
はっきりと伝えた。彼の目を見てまっすぐに。
薪の弾ける音が響く。まるで講談師がハリセンを叩くように、それを合図に場の空気が変わった。
「……ひとつ約束してくれるか?」
モグリさんは震えた声で言った。切なくなるほどに弱々しく。
「俺の記憶を見た後で……どう思ったか。嘘は言わずに答えるって。約束してくれ」
わかった。とだけ、僕は答えた。



