湖辺の音味しいレストラン


「シカノちゃん……どこだ……どこにいる……!」

 いつもなら明るすぎるくらいの真冬の月のくせに、今日に限っては月が雲に隠れている。そのせいで湖上は薄暗くて懐中電灯なんかじゃものの役にも立たない。
 
 そんな凍りついた湖の上。白い息を吐きながら、僕はかつてないほどに耳を澄ませていた。
 氷上を歩くというのは、こうも想像とかけ離れているのかと驚いている。
 スケートリンクのようなもの。勝手にそのようなイメージをもっていたけれど、実際は薄いガラスの板の上を歩いているような感覚だ。歩くたびにキリキリと胸の奥が冷めるような音が耳元を掠めてゆく。これはつまるところ、氷の悲鳴だろう。

「ここも危ないか」
 
 先週あたりから続く春のような日中の気温によって、分厚かったはずの氷が相当すり減っているようだ。僕は細身だけれど、油断したら湖面を踏み抜いてしまいそうになる。

「静かだな……」

 風も止んでいる。虫は息を潜めている。波は凍っている。
 あるのは自分の呼吸だけ。
 いま、おそらくこの広大な湖上にいるのは僕とシカノちゃんだけだ。
 ならば早く見つけなければ────


 *


「シカノが……! シカノが湖に……!」

 カミコちゃんはパニック状態だった。
 レストランの前で懸命に僕らを呼んでいた時には、すでにシカノちゃんは湖の上だったのだ。

「カミコちゃん、落ち着いて。シカノちゃんの姿が見当たらないんだね? どうして湖にいるって思うの?」
 
 『キッズケータイ』それが、カミコちゃんが妹の位置を把握している理由だった。
 簡単な連絡と現在地把握のためのGPSがついた程度の簡易的なものだが、犯罪防止のために守矢市では児童へのキッズケータイの携行が推奨されている。
 普段からカミコちゃんが口酸っぱくしてキッズケータイを持ち歩くよう諭していた結果、このような異常事態でも習慣として無意識に忍ばせて行ったのだろう。
 だが────

「でも……止まってるの。湖の上で……もしかしたら……水の中に……」

 カミコちゃんは泣きじゃくりながら続けた。

「家に……戻ってから。ずっと私に謝ってて……お姉ちゃんごめんなさいって……どうしてって聞いても……謝るだけで……」

 理由はわからない。
 例の伝説をまだ信じていて、対岸まで歩いて渡るつもりなのか。それとも────僕の脳裏に一瞬、昼間のシカノちゃんのあの思い詰めた顔が浮かんだ。あの時も嫌な予感がした。
 まさか自……いや、そんなはずない────!

「保護者には伝えたのか? 爺さんと婆さんには」

 モグリさん問いに、カミコちゃんは首を横に振って答えた。
 ということは、警察にもまだ連絡はしていない。当然か、以前警察に詰められて怖い思いをしたから。

「保護者にも警察にも連絡していないのは、むしろ好都合だよ。人が集まっていないということは、湖は静かな状態ってことだから」

 そう、つまり────オトノメトリーの聴力を活かすには最適ということ。
 ならばすべきことは決まっている。

「僕がいく。湖の上を歩いて、シカノちゃんを連れ帰ってくるよ」

 モグリさんも僕に続こうとする。

「俺もいくぜ。たぶん考えてることは同じだろ。けど、プレイヤー型の俺の方がお前よりも広い音を拾えるからな」

 僕は即座に否定する。

「ダメだ。行くのは僕だけだ。モグリさんはここに残っていてほしい」
「な、なんでだよ! ふたりで探す方が理に適ってんだろうが!」
「カミコちゃんを一人にしておけない」
「あっ……」

 カミコちゃんは泣き止まぬままずっと震えている。
 薪ストーブの前で暖に当てているが、きっとメンタルからくるものだ。目を離してしまったら、それこそ何をするかわからない。

「それと、今から僕はリキさんに連絡を入れてここに来てもらう。場合によっては、医療的な処置が必要になるかもしれないし、小さい子が行方知れずになったことが知れたら大騒ぎになる。リキさんなら、その辺の対応も心得ているはずだから」

 お願いだ、ここで待っていて。と、まっすぐにモグリさんの目を見てそう告げると、モグリさんは小さな声でわかった。とだけ呟いた。


 *


 冗談だろ。嘘だと言ってくれ。
 僕は月の光の下で立ち尽くし、頭を抱えていた。
 オトノメトリーの能力を活かすなどとタカを括っておきながら、結局僕はGPSの位置情報頼りの捜索を行なっていた。
 空気の揺らぎから“音を見つめる”ことも試みたが、振動の情報が少なすぎて糸のように手繰り寄せることができなかったのだ。
 そうしていま、僕は“その地点”に辿り着いたのだけれど……。
 
「GPSはここだって……」

 そこには何もなかった。キッズケータイが落ちているわけでも、シカノちゃん自身が尻もちをついているのでもない。ただ一面氷に覆われた湖の上だった。
 にも関わらず、スマホに表示されるGPSの示す地点に今の僕はぴったりと重なっている。

「いや……絶対にそんなことはない。そんなこと……」

 ────水の底に

「違うッ!」

 一瞬、縁起でもない考えが浮かんだが、僕は足元の氷を踏み鳴らしてよからぬ想像を振り払った。
 それは無様な自分への意趣返しに過ぎないはずだったが「疾風に勁草を知る」僕はそこに一縷の望みを見出すに至った。

「あれ……この音……」
 
 ゴポポ……と氷の下の空気が押し出されて移動したのか、少し離れた地点で水音が僕の耳を掠めたのだ。
 これだ!と、天啓を得た僕はトカゲのように湖面に張り付いて、いま一度精神を研ぎ澄ます。
 空気の振動じゃない。氷の下で動き続けている水の音を聞くんだ。
 閉じるのは目じゃない、耳だ。音を聞くのではなく見る……振動を立体として再構築するんだ。
 僕ならできる。そうやって訓練を積んできたはずだ。何年も何年も……。

 短歌の音の揺らぎから、情報の断片を抜き取って、糸を紡ぐように絡め取ってゆく。バラバラのピースを当てはめてゆき、頭と尾はやがてひとつになる……。
 ────ひとつの(レシピ)になる!

「見えたッ────!」

 ────シカノちゃんの姿!
 
 水の中になんていない。どこをどう歩いていったか、まるで投射された鏡像のように湖上にその姿が浮かび上がっている。
 もはや見失うまでもない。辿っていけばいいだけだ────


 *


「シカノちゃん!」

 見つけた。
 僕は叫びながら彼女に走り寄った。途中、滑ってしまい転倒する。足元の氷がミシリと嫌な音を立てた。
 シカノちゃんは僕を見るや、大きく目を見開いて逃げるように走り出した。僕はというと情けないことにすっ転んでしまったため、距離は開いてしまう。
 それでもやはり、大人と子どもでは勝負にならない。僕は容易に追いつくと、シカノちゃんを捕まえることに成功した。
 バタバタと暴れて抵抗するシカノちゃんをどうにか抑え込み、とりあえずはワケを聞いてみることにした。

「シカノちゃん、みんな心配してるんだよ。カミコちゃんはずっと泣いてる。キミのせいだ。わかるよね?」

 シカノちゃんは俯いたまま、小さな声でごめんなさいを繰り返している。

「どうしてこんなことするんだ。言っただろ? 湖に入っちゃいけないって」
「ごめんなさい……」
「そんなに、お母さんとお父さんに会いたかったの?」
「ごめんなさい……」
「……シカノちゃん。ご両親が好きなのはわかるけど」
「きらい」

 えっ、と間の抜けた声が漏れた。
 シカノちゃんから混じり気のない嫌悪が発せられたのだ。それも僕にではない。
 ────彼女たち姉妹の、両親に対してだ。

「おとうさんも、おかあさんも……きらい。だいきらい」
「じゃあ……なんで会いに行こうと……」
「おしえてあげたくて」
「教える……?」
「おねえちゃん……いっぱいがんばってるから。なきたくてもなけないから。だから……」

 シカノちゃんは鼻をすすった。やがて肩を振るわせながら懸命に言葉を紡いでゆく。

「おしえてあげないとって……みせてあげないとって……おねえちゃんのこと、だれもほめてくれないから……!」

 彼女の話し方は、まるで追いすがってくる涙から駆け足で逃げるかのようだった。
 ゆえに言い終えてのち、シカノちゃんはわっと泣いた。
 彼女がずっと抱えていたのは、ひとり頑張る姉への想いだったのだ。だから湖を渡ろうとした。自分たちを捨てた両親。嫌いなはずの両親に、姉がこんなにも立派なのだと告げるために。

「カミコちゃんを、褒めてほしかったんだね……」

 僕ならできるだろうか。
 寒空のもと、薄暗い夜にひとり、命の危険を顧みずに湖の上を歩くことなど。
 ただ姉を褒めてやってほしいというささやかな願いのために。

「シカノちゃん。帰ろう? 僕が必ず、連れてきてあげるから……お父さんもお母さんも。そして必ず褒めさせてみせるよ。カミコちゃんのことも、シカノちゃんのことも」

 だから帰ろう。レストランで、みんな待ってるから。
 そう語りかけ、僕は泣いているシカノちゃんの手をそっと握った。なにしろ身長が僕の半分なんだ。少し屈まないと手が届かない。
 陸地にあがるまでこの体勢はなかなかキツそうだな。と苦笑いを浮かべた。

 ────ピキキ

 危険だ。反射的にそう思った。その“音”を聞いて。
 気づけば僕はシカノちゃんを突き飛ばしていた。虐待ではない────命を救うためだ。
 
 シカノちゃんが小さい悲鳴をあげて湖面に倒れ込んだ頃、僕のカラダはもう水に呑まれていた。
 足元の氷が、砕け散ったのである。
 それもけっこうな範囲が連鎖的に。とっさだったが、思い切り突き飛ばしたおかげでシカノちゃんがいま倒れている場所までは氷は崩壊していない。
 ただ、僕の方は正直────

「やばいなこれ……」

 水の温度が突き刺さるように冷たい。
 かけどもかけども、カラダを縛り付けられているかのようにまるで前に進まない。靴のせいか……長靴なんて履いてくるんじゃなかった。
 とにかく氷の上に登らないと。だが、掴んだ氷は手が滑りよじ登れない。足をばたつかせるのがやっとなのに、それも限界に近づいてきた。この低音の水が急速に熱と体力を奪っているのだ。
 まずい……まずい……このままじゃ……!
 パニックになる。こうなるともう藁をも掴む勢いだが、抵抗虚しく。僕は最後の息継ぎをしてのち、水の中へと沈んでいった。

 やり残したことへの悔恨だとか、世話になったひとへの感謝だとか、もう一度食べたいあの味だとか。
 あらゆる未練が消え去ってゆく中で、命への執着だけが残り、やがてそれすらも手放したあたりで……僕は見た。
 あの日、満月の下で目にした“かぐや姫の姪っ子“の姿を。
 どうしてか水の中にいて、僕の手を掴んでいる。
 おかしいな。と思った時には、僕の意識はぱったりと消えていた。