湖辺の音味しいレストラン


 最終日は、もう営業をしないことに決めた。
 晴れて、飯どころ・音無は閉店だ。
 これは名取姉妹のいる前で決定し、その場でふたりにも伝えた。
 明日は仕事はないが、代わりにみんなでお疲れパーティーを行う運びとなっている。

 パーティーとはいえささやかな催しだ。それでもできる限り心を尽くしたいと思って準備に勤しんでいたら、時計の針が「11」に差し掛かっていた。つまり今は夜の23時、いつもなら夢の中にいる時間だ。
 
「モグリさん、試作品できたよ。ぶんぶくたぬきケーキ!」

 パーティーに出すケーキは無論手作りである。
 ぶんぶくたぬきケーキ。でっぷりと太ったたぬきをイメージした可愛いらしいスイーツだ。
 我ながらいい出来と言える。これならモグリさんも舌鼓を打ってくれることだろう。

「さぁさ、モグリさん。食べてみて感想聞かせて。キミのひと言で、たぬきの未来が変わるかもしれない……!」

 リビングのソファに腰掛けているパジャマ姿のモグリさん。
 彼は目の前に置かれたケーキを前にしても、なかなか手をつけようとしない。
 二又のフォークを指でつまんでぷらぷらさせているだけだ。

「あのぅ……モグリさん? 可愛くて食べれないやつ? いいんだよ。遠慮なく虐殺(たべ)てもらって……」

 彼は答えない。
 ケーキを切り取るでもなく、ただ宙を泳いでいたフォークの先端を口に咥えて、すっと抜き取る。
 その様は、まるで食べる真似(パントマイム)をしているかのようだ。

 僕の予感は、たぶん当たっている。
 彼がなかなか手をつけない理由も、もし口にしたとしても出てくる感想がいつも同じなのも。
 そして、彼がいま自らの口で“秘密”を明かそうとしているだろうことも。

「俺さ……」
「味がわからない?」

 僕は彼の代わりに答えた。
 不意打ちを喰らったモグリさんが、珍しく驚いたように目を見開いている。

「たぶん……そうじゃないかな。とは思ってた。確信はなかったけど」
「そっか。じゃあ話は早いな。試食はなし。でも明日は食べるぜ。ふたりが心配するしな」

 正直、当たってほしくなかった。
 味覚がないなんて。美味しいがわからないなんて、その苦しみがどれほどのものか想像もできないからだ。
 何より、彼と同じ美味(よろこび)を共有できないことが、僕は悲しかった。

「病気とか……それとも生まれつき……?」

 モグリさんは、フォークの先端でたぬきケーキをつっつきながら答える。

「いや、カラダをちょっとな……いじられて……消されたって感じかな」
「消された? どうやって……」
「俺みたいなタイプのオトノメトリーにはな、そういうことができんのさ。エグいこと考えるよな、ほんと」

 彼はそう言うと、眉尻を下げて作り笑いを浮かべた。

「……できるよ」

 僕の声に呼応するように、パキッ!とストーブの火にくべられた薪の弾ける音がした。

「僕ならできる。モグリさんの味覚を……元に戻せる」

 僕が冗談でもなんでもなく、本気で言っているのだとモグリさんにも伝わったのだろう。
 僅かに開いた口元がきゅっと閉じて、彼の喉がコクリと鳴った。

「どうやって……?」
「音味しい料理。それなら、きっと……いや、絶対に治せるよ」

 オトノメトリーに奪われたものなら、オトノメトリーによって取り戻すことができる。
 僕は確信していた。
 間違いなくやる価値はある。たとえ今この場でできずとも、師匠が到着してから意見を伺ってもいい。
 いずれにせよ、最適解は僕の手のひらに乗っている。

「やろう。モグリさん。いや……お願いします。僕は絶対にやり遂げてみせるから」

 モグリさんは両手をぎゅっと握って視線を落とした。
 少しそわそわしているのは、きっと心が揺れ動いているからだ。

「何を……食べてもさ。同じなんだ」

 彼はそっと語りだした。
 味わうことのできない世界に置かれた自分のこと。味わうことができないと知りながら、それでもカラダが食事を求めること。その苦しみ……。
 僕は、じっと黙って聞いていた。その間、胸が痛くて仕方なかったけれど、抱えたものを吐き出さねば一歩踏み出すこともできないだろうから。

「具体的に……その……何をすればいいんだ?」
「僕がレシピを作曲して、キミがその曲に乗って料理をする。ウォークマンでBGMを聴いて手術をしたよね? 感覚はそれと同じだと思う。身を委ねてくれさえすれば、あとはモグリさんのカラダが料理をしてくれるよ」

 ふむ。と顎に手を当ててモグリさんは考えこんだ。
 そのポーズのまま、ジトっとした目つきで僕を見据えて言う。

「お前、変な条件とか付けんなよ?」
「条件……?」
「味覚を戻してやるから、シェフになれ。とか」
「あぁ…はは。それいいね。そうしようかな。ちょっと契約書持ってくるよ!」
「てめっ、ふざけんな! 無条件でやれや!」

 そうしてはじまるリビングでの鬼ごっこ。
 生来身体能力が高いのだろう。飛びかかったモグリさんに後ろをとられ、リアネイキッドチョークをキメられて、すももの匂いに包まれながら僕は落ちる寸前だ。
 この体勢のまま、モグリさんは話しかけてくる。

「つーか、(レシピ)ってどうやって作るんだよ。いまいち謎なんだが……材料とか」
「ぐぐ……えっとね……」

 僕は首を絞められながら、作曲のプロセスを説明した。
 このあたりは僕の生まれ持ったオトノメトリーの型による感覚で行っている部分が多いため、言語化は難しかったが、短歌を用いて記憶抽出する。ということをそれとなく伝えた。

「……記憶って。お前が俺の記憶を覗くってことか?」
「そうだね。味覚に繋がりそうな記憶を辿らせて────」

 パッと張られた紐を手放したように首に巻かれた腕から力が抜けた。
 僕が呼吸を整えて二、三度咳き込んでいる間に、モグリさんはもうリビングから立ち去ろうとしている。

「ちょ、ちょっとどこいくの?」
「……なしだ」
「えっ?」
「音味しい料理は……なしだ」

 背を向けたままそれだけ言って去ろうとするモグリさん。僕は追いすがって彼の腕を掴んだ。

「どうしてだよ、モグリさん! 味覚を取り戻したいんでしょ? なのになんで……」

 彼は俯いたままの横顔を向けてそっと口を開いた。

「見られたくない。俺の記憶……何をしていたかなんて……お前に知られたくない」
 
 薪ストーブの暖気に当てられて揺れる長いまつ毛が、その瞳に憂いを帯びさせる。

「知ったらきっと……お前は俺のこと嫌いになる……絶対に」
「そんなこと……そんなことないよ」
「なんで言い切れるんだよ」
「だって、カミコちゃんに言ってたじゃないか。どんなに嫌われ者でも、世の中には味方がいるって……それが僕だよ、キミにとっての」
「……てめぇ……盗み聞きしてんじゃねえよ!」

 モグリさんが僕の手を振り払おうとするが、僕は離さない。

「離せコラ! 腕へし折るぞ!」
「離さないよ。絶対に。キミの味覚を治すって決めたんだ。キミの苦しみをとってあげられるなら、僕はなんだってする。そう決めたんだ!」
「……なんで…………」

 会話が途切れた。
 いま、この場を支配しているのは、古時計が時間を刻む音。熱せられた薪の弾ける音。そして、胸が詰まりそうなほど高鳴る心臓の音……ただ、それだった。

 ────さん!
 ──────ん!

「えっ?」

 何か耳を掠めたような……たぶん人の声だと思うけれど。

「おい、聞こえたか?」
「モグリさんも? 女の子の声だと思うけど」
「……カミコだ」

 言い終えるよりも先、モグリさんがレストラン側の扉へと駆け出してゆく。
 僕も後を追った。
 廊下へ出てると、いっそう声は鮮明に聞こえる。それは切り裂かれるような悲痛な叫びだった。

 ────店長さんッ!
 ──────モグリちゃんッ!

 扉を開け放つと、やはりそこに立っていたのはカミコちゃんだった。
 泣き腫らしてぐしゃぐしゃに顔を歪めている。寒い中を走ってきたのだろう、カラダは停止している箇所がないほどに震えていた。
 そして何度となくしゃくりあげながら、絞り出すようにして彼女は必死の形相でこう叫んだ。

「シカノがッ────!」