湖辺の音味しいレストラン


 職業体験も今日を除けば残すところ2日だ。
 昨日の一件で、もしかすると姉妹は来なくなるんじゃないかと思ったが、ふたりはいつも通り一緒にレストランに現れた。そしてエプロンを巻いて、三角巾をつけて、いつものように元気よく客の前に立つ。
 ただ……ひとつだけ異なる点があった。

「シカノ。もっと大きな声だして。それじゃ聞こえないでしょ?」
「私の後ろに隠れないで。邪魔だから」
「しっかりお礼して。ほら、頭下げるの」

 カミコちゃんの妹に対する態度が、明らかにキツくなっているのだ。
 引っ込み思案な妹を鍛えるため……と言えないこともないが、シカノちゃんなりに頑張っていることは知っているので、なんとも心が痛む光景ではある。

「やんわりと注意してみようか?」
「余計なことすんなよ。お前は自分の仕事しとけ」

 モグリさんは黙認する方針のようだ。
 ただ、お客さんの中には義憤に駆られる人も少なからずいるようで。

「お姉さんなんだろ。あんな小さな子にも優しくできないのか」
「ねぇ店長さん、ちゃんと叱りなさいよ。妹ちゃんが可哀想じゃない」
「親の顔が見てみたいね。そもそも教育とは────」

 皆が皆、カミコちゃんに聞こえるように言うのだ。
 そういった“正義の声”が届くたび、カミコちゃんの表情は一瞬曇る。
 あんなにも懸命に生きている10歳の女の子に、誰が正しさを語る権利があるというのか。
 やっぱり、こういう不特定多数の人が往来する店は、僕の考えるレストランじゃない。
 例え生活が苦しくても、定食屋としての営業はこれっきりにしよう。僕はそう決心した。


 *


 その夜、僕はヤクザの組長から受け取った短歌を読み解いて、作曲の仕事に取り組んでいた。
 音味しい料理のレシピを作るのは久しぶりだ。レストランの開店当初は、チーちゃんがシェフとして手伝ってくれていたので、指導を受けつつ作曲ができていたけれど。
 それでも思った以上に順調に作業は進み、日を跨ぐ前にレシピの試作は出来上がっていた。
 うんと背伸びして、仕事部屋として使ったキッチンから廊下に出る。
 すると、僕を待っていたのは労いの言葉と一杯のホットミルクだった。

「お疲れさん。これ、ホットミルク。よかったらやるよ」

 パジャマ姿のモグリさんだ。
 昼間のように女装姿ではないためウィッグではなく、地毛の金髪ベリーショート。僕はこの髪型の彼もかなり好きなのだということに最近気づいた。

「ありがとう。僕のために作ってくれたの?」
「残念、俺のためだよ。寝る前に飲むのが習慣なんだわ。お前のはついでな」

 そう言いつつもホットミルクから真新しい湯気が立ち上っているのを見るに、作曲が終わる頃を見計らって作ってくれたのかもしれない。
 いじらしいな、こういうの。そんなことを思いながらカップの中を覗いていたら、もうモグリさんは目の前からいなくなっていた。2階の寝室に戻ったのだろう。僕もまたリビングへと向かう。寝室はモグリさんにあげたので、僕はリビングのソファで寝起きしているのだ。

「なんか全然眠くないな……」

 薪ストーブの暖にあたりながら、ホットミルクを冷めないうちに。それも最後の一口になってしまった。モグリさんに感謝しつつ飲み干したなら、もう手持ち無沙汰だ。

「もしかして、繋がるかな?」

 地球の反対側にいるはずのあの人に、僕は電話をかけてみることにした。
 どうせ出るわけないと思いつつも。

「おう、どしたんや?」
「あ……繋がった。もしもしチーちゃん、僕です。弟子のスイトだよ」

 まさか一発で電話に出るとは思わなかったから驚いた。
 こんなことは初めてだ。それをチーちゃんに伝えると、笑いながら最近ハマっているという占星術で僕を占ってくれた。

「なんや、ここんとこ随分と大変だったみたいやな。まあそれも今日で終いやて占星術はいうてる。明日からは瀬戸内海みたいに穏やかな運気の波が続くで〜」
「瀬戸ぉ……? 僕、長野県から出たことないからなぁ」
「そやったな。でもしゃーない、運命の人を待ちぼうけしとる以上はな」
「あ……えっとぉ……それがさ……」
「え、なんやねん! 誰か見つかったんか? 嘘やろ────!?」

 僕は最低限の情報のみに絞っていまの状況を伝えたのだが、根掘り葉掘り聞いてくるチーちゃんの圧に負けて、2階で匿っている“彼”のことを聞き出されてしまった。
 できることなら、チーちゃんには隠しておきたかった。なぜって、ふたりは明らかに“同じ種族“だからだ。

「性癖捻じ曲げてもうて……すまんのっ」

 わてのせいやんな? と電話越しでも、チーちゃんがペロリと舌を出している顔が目に浮かぶ。
 絶対そう言われるから教えたくなかったのだ。

「同じって言っても、彼は師匠(せんせい)と違って”おじさん“じゃないから」
「おう、言うたなコラ。意外と歳イってたからて、後で吠え面かくなよ?」

 気兼ねない師弟のやりとり。こういうのも久しぶりだ。
 両親亡きあと、チーちゃんは親代わりだったから(といっても、フラっと姿を消すことが往々にしてあったが)、こうして電話越しに声を聞くと、まるで実家にいる親と話している気分になる。
 あぁ、そうか。と僕は気づいた。
 あの姉妹────カミコちゃんとシカノちゃんには、こうして遠慮なしに頼れる大人がいないのではないかと。
 それは、とてつもなく心細い旅路を歩むようなものではないのか。水場がどこにあるかもわからず、砂漠を彷徨うような。幼い姉妹のふたりだけで。

「どしたんや? そない年齢が気になるんか?」
「あ、いや……そうじゃなくてさ。いま、小学生の姉妹のことで────」

 師匠の回答はこうだ。
 できることはない。ただそのひと言。
 相手が子どもとはいえ、大人ヅラして”人の道”を説くようなことはするなと釘を刺された。所詮、俗世に生きる凡夫ごときが口にするそれは“外道”に過ぎないからと。

「音味しい料理なら、なにか助けになるかな?」
「無理やろな。あないな手品は拗らせたモンにだけ食わせたらええねん。ま、雨が降るのを待ってみるのがええんちゃう?」
「いまは雪しか降らないけど」
「そやな。当分は平和やて占いでいうてるし」

 ほな、数日後には“カノジョ”の顔拝んだるでー。と軽口を土産に、チーちゃんは電話を切った。

「占いか……」

 オトノメトリーとして“全ての型”を備える天才。
 そんなチーちゃんであっても、どうやら占いの才能はまるで無いようだ。
 穏やかな日々どころか、僕はこれより怒涛の日々を送ることになるのだから────