リキさんが帰ったのち、僕はスキップしながら2階へと戻った。
いまの状況が深刻なのはわかる(わかっていない)が、僕の意識はただ一点、2階で寝ている彼にのみ向いている。
「プリン美味しかった?」
ドアを開けての第一声。彼はもう仰向けになり目を閉じていた。プリンは完食してくれたようで、それが何よりも嬉しい。
「これ、僕の手作りでさ。どうだった? 感想聞かせて」
「知らねー」
彼の回答はずっとこれだ。昨夜の一件から目覚めてのち、どんなものを口にしても「不味い」も「美味い」も言わず、ただひと言「知らねー」という。
なんというか、まるで本当に味がわからないかのようだ。
「悪いけど、俺はできねーぞ」
「え? なにが?」
「その……音味しい料理ってやつ。シェフがいなくて困ってんだろ」
リキさんとの会話が聞こえていた……いや、聞いていたのか。さすがプレイヤー型のオトノメトリーだ。
「感謝はしてる。お前は命の恩人だよ。でも……それとこれとは話は別だ。俺のカラダは……オトノメトリーは、俺のためにだけ使う。そう決めてんだ」
断られるのは毎度のこと。でも、こうして丁寧に言われると、やはり堪える。
僕はそっと彼の布団の位置を直し、落胆を悟られないように、できるだけ明るい声色で伝えた。
「話が聞こえてたなら、知ってるよね。いま、警察があちこちで警戒に当たってる。だから、もうしばらくはここでゆっくりしていけばいいよ」
彼は布団をさっとよけて、上体を起こした。そして探るような眼差しを僕に向ける。
「シェフにはならねえ。金はあったけど、ここに来る途上で落としちまった。だからやれるもんは何もねえ……それでお前に何の得があるんだよ」
「いいよ。何もいらない。ここに……いてくれたらそれで」
僕は部屋の隅に置いてあるレコードプレイヤーの前まで行き、いくつかレコードを手に取った。
これは父が作曲したものだ。父が音に”効能“をこめることができるオトノメトリーだったから、この曲を聴くと、カラダの自然治癒力が向上する。
僕はこれを、彼が眠っている間ずっと流していた。
「どうしてだよ? 意味がわからねえ。さてはなんか企んで────」
「寂しいから」
「えっ」
レコードをかける。それは子守唄のような優しい音色だった。いうなれば睡眠用BGMだ。
「ひとりぼっちはもう……辛くてさ。それだけ」
……なんて、情け無いセリフだろうかと。我ながら恥いってしまう。
思えば、こんな風に他人に弱みを見せたのははじめてかもしれない。両親が亡くなってからというもの、僕は自分自身と“心“を切り離して生きてきた。そうでもしないとつけこまれてしまうと考えて……独りになった僕を守ってくれる存在はもういなかったからだ。
そうして築き上げてきた砂の城は、湖の波にさらわれていともたやすく崩れてしまったようだ。
もはや、心を覆う城壁はどこにも無い。
「何を言ってやがる。昨日の今日会ったばかりじゃねーか。それに俺は犯罪者だぜ?」
「構わないよ。キミがどんな極悪人だったとしても、ここで匿ってあげるから」
きっしょ。とひとこと悪態をつくと、彼は僕に背を向けて横になり、頭まで布団を被った。
僕は苦笑いし、空になったプリンの瓶とコーヒーカップを盆に乗せた。その際に、消え入りそうなほど小さな声で彼がこうつぶやいた。
「おまえ、名前は?」
僕は驚いてしまって、一瞬フリーズした。彼に僕の名前を告げようとしても「知る必要ねえ」といっていつも遮られていたし、逆に彼の名前を聞いても一切答えようとしなかったからだ。
だからかもしれない。肩が強張って喉が詰まったのは。
答えるのにワンテンポ遅れたものの、背中を押すようにしてそっと口を開く。
「……スイト。鞍馬スイト」
彼は布団を被ったまま、ぶっきらぼうに答えた。
「スイト。変な名前だな」
続けて、彼は自身の名を教えてくれた。
「……モグリ。名字はない」
それを最後に、会話は途切れた。
できることならもっと話がしたかったが、彼……モグリさんも休みたいだろうと思い、僕は退室すべく盆を持ってドアノブに手をかけようとした。すると、彼が“おまけ”を背中にぶつけてくれるのだった。
「プリン。ありがとな」
僕は聞いていないフリをした。
綻ぶ口元は、まったくもって隠せなかったが。



