湖辺の音味しいレストラン


 火力だ。もっと火力がいる!

 家のドアを蹴破るようにして帰宅した僕は、抱えた少女をリビングまで運んだ。
 そっとソファに寝かせ、何が必要かもわからないまま、包帯代わりにタオルの山を積み上げる。

「薪を……あぁ、もうこれしかないのか」
 
 普段は節約のため、せこせことしか消費できない薪であるが、今日ばかりは惜しげもなく放り込む。
 カラダを温めること。そのことで僕のアタマはいっぱいだったからだ。

「何度も移してごめんね」
 
 再び少女のカラダを抱え、薪ストーブの前に寝かせるようにして熱に晒した。
 すると効果があったようで、少女の唇はだんだんと赤みを帯びてきてほっと胸を撫で下ろしたのだが、それも束の間。今度は太ももの裂傷から出血が再発した。血の流れもまた復活したということだろう。
 これには狼狽してしまった。僕は手近なタオルを掴んで押し当てるくらいしかできない。
 気づけば、スマホを手にして「119」をコールしていた。

「もしもし、あの────」

 プツッと通話が切れた。見ると、少女のか細い指先が画面をタップして通話を切断したのだ。

「ダメだ……病院はなしだ。警察も……」

 朧げな眼差しながら、その目の奥には光がある。

「でも、キミは重傷を負ってるんだよ? すぐに手術しないと」
「俺の……カバンは?」

 カバン。きっと少女が肩に提げていたサコッシュのことだろう。いまはソファの上に投げ出されているそれを手に取り、僕は少女に渡した。

「このまま……俺のカラダを支えててくれ……」

 そう言うと、少女は僕を座椅子のようにしてもたれかかり、サコッシュの中を弄る。
 中から取り出したのは小さな裁縫箱のような入れ物だった。
 少女はそこから、釣り針のような形状の何かを取り出した。ついで手に取ったのは幾重にも重ねて巻かれた髪の毛のような物体……糸だろうか。

 ふぅ、と息を整え、ひと息で糸を針に通すと、今度はイヤホンを耳にはめる少女。手にはウォークマンが握られている。
 こんな時に音楽を……?
 僕はただ単に疑問に思うだけだったが、少女は真剣な……というより鬼気迫る表情で曲を選択している。

「……あった」

 僕はチラリとウォークマンの画面を覗いた。そこには「緊急用BGM・外科手術」との文面が踊る再生画面が表示されていた。

「おい」

 少女がカラダを預けている僕に語りかける。僕ははっとして「な、なんですか?」と答えた。

「抱いてくれ」
「へっ?」
「動かないように……抱きしめてくれ……」

 とても冗談には思えなかった。
 薪ストーブの熱のせいだろうか、それとも高鳴る胸がそうさせるのか。のぼせそうになる頭をどうにか振り払って、僕はそっと彼女を抱きしめた。
 その時、鼻先をくすぐったのは懐かしい香りだった。
 ────すももの匂い
 師匠と……チーちゃんと同じ匂いだ。僕はふと、そのことに気がついた。それはつまり────

「あの、もしかしてキミはオト────」

 僕の声は遮られた。
 言葉によってではない。この少女……いや、もう気づいている。この”少年“が執った行動が、僕から声を奪ったのだ。

「く……くぅぅッ!」

 なんと────彼は自分自身で太ももの手術を行なっていたのである。
 裂傷に指を突っ込み“中”を縫っているようだ。麻酔など一切なしに、おそらくは指先の感覚だけで。

「ぅぅ……ふぅぅぅッ────!」

 見ていられない。僕は目を瞑り、彼に言われたまま、そのカラダをぎゅっと抱きしめていた。
 彼の背中から伝わってくる、痛みに耐える悲痛な声が僕の心を抉ってゆく。
 早く……早く終わってくれ……!

「ぁ────」

 僕の願いが届いたのだろうか。彼は小さく“鳴いた”かと思うと、糸が切れた人形のように頭をもたげて気絶した。
 まだカラダを抱いたままだ。死んでしまったのではないかと、僕は恐る恐る目を開ける。
 地面に転がっている手術針が鈍く光り、血で染まった彼の白い太ももは妙に艶かしい。
 見事に縫合されている裂傷を見届けて、ようやく僕は彼のカラダから手を離すことができた。
 そして、いまだ再生中のウォークマンの停止ボタンを押す。
 僕はもう、全てを察していた。

「オトノメトリー」
 
 それも、母さんと同じプレイヤー型。
 さっきの手術も、この楽曲によって行うことができたのだろう。
 僕の持ちえなかった個性。それはつまり、レシピさえあれば“料理もできる”ということ。

「湖の上を歩いてくる……歩いてきた」

 母さんの言葉を少しいじった。今はもう僕のものだ。
 酸っぱいような血の匂いに包まれて、あまりロマンチックではないけれど。
 彼の額に浮かぶ汗をそっと拭いてみれば、この時間がもっと続けばいいのにと望んでいる僕がいることに気がついてしまう。
 平凡なはずの僕にも、いや、だからこそか。ほんの少しだけ、道を踏み外したような心持ちがした僕は、その妙な心地よさから、またそっと彼の汗を拭うのだった。