「釣れますか? 無理ですねぇ」
真冬の月夜に釣りを嗜む。なんてオツなのだろうか。
釣り糸を垂らしている湖面は一面凍りついている。魚など釣れるはずもない。
ヤクザの件で追い詰められて気が狂ったのか? いや、これが僕のルーティンなのだ。
────湖の上を歩いてくる。
母が最後に言ったあの言葉を、僕はいまでも信じている。
と言っても件の一文は実のところ、守矢市に伝わる「神話」のエピソードだったのだ。
その昔、戦に敗れた「チギリ」という神が守矢の地に封じられた。罰として守矢から出ることを許されなかったが、その妻である「ヤクモ」という女神はどうしても夫に会いたい気持ちを抑えられなかった。そこで、ヤクモは守矢湖が凍りつく冬の間だけ、湖の上を歩いてこっそりとチギリに会いに行ったのだという。
この神話にちなんで、凍った湖の上を歩いて対岸まで渡れば、そこに“会いたい人”が待ってくれているという尾鰭のついた都市伝説まで生まれたらしい。
僕がこのことを知ったのは、学年が上がり読める文字が増えてからのこと。当時8歳の僕には、ただ闇雲に母の言葉を信じるしかなかった。もっとも、それが心の支えになったのは確かなのだが。
だからこそ、わずかな希望と天国にいる母への“反抗期”として、このように太公望を模したスタイルで時間を無駄にしているわけだ。
船着場の木杭は、いまや僕の指定席となっていて、今日も今日とてここに腰掛けて「対岸から歩いてくる誰か」を待っているのである。
「あとは、チーちゃん頼みか……」
メッセージアプリ、メールに電話。地面に向かって名前を叫ぶ(ブラジルにいるかも)。
ありとあらゆる手段を講じたが返事はない。
それでもまだ10日ある。短歌はいずれ“客”から届くはずだから、作曲だけでも済ませておけば大丈夫だ……たぶん。
「肝心の料理が作れないんじゃなぁ」
チーちゃんの元で、10年間学んだ……音の口説き方を。
それでも結局、僕はプレイヤー型の能力を獲得することはできなかった。
────種がなければ花は咲かない。
僕には“才能”が無かったのだ。母と同じプレイヤー型の素質が有りさえすれば、今頃こんな借金まみれにもならずに、立派に店を切り盛りできていた……そんな気がしている。
たった半年でこんな状況に追い込まれているのだ。この先、僕は本当にやっていけるのだろうか。
僕は大丈夫だよ。大丈夫……母の最期に立ち会った時の作り笑顔が、いつしか呪いのように張り付いてしまっている。本当は不安で仕方ないけれど、弱みを見せられる人もいない。
「あぁ……そういうことか」
だから僕はいまも、母の言葉を信じてここで待っているのだろう。
寂しくて仕方がないのだ。ひとりはもう、いやなんだ。
「会いに来てくれないかな……」
鏡のような湖面に映る月に向かってポツリと呟いた。
誰に向かって言ったのでもない。答えは期待していない。いつものことだ。
そのはずだったけれど────
「来てやったぞ」
返事が聞こえた。
それは風に乗らずに届いた、やけに輪郭のはっきりした声だった。言うなれば、そっと耳元で囁かれたかのような。
右でも左でもない。下は氷だ。ならばと僕は顔を天に向ける。お月様が下手人かと思ったからだ。
「なんてな。誰か待ってんのかよ、こんなとこで」
────正解は、真正面。
かぐや姫の姪っ子が寝ぼけて、月から落っこちてきたようだ。
けれどおそらく人間だろう。氷の上に立っている。
いや、立っているというより、そこに「置かれて」いるみたいな立ち方だった。
白い息。細い肩。ベリーショートに整えられた淡い色の髪。この寒空の下だというのにショートパンツ姿……短いソックスに足元はローファーで。上着はセーラー服だろうか。
顔は小さくて、頬の線が柔らかい。睫毛がやけに長くて、つい僕のも触ってしまった。
「女の子……」
そう思った瞬間、胸の奥が、ひとつだけ遅れて鳴った。
差し迫った孤独も、不安も、やるせなさも、いったん全部ほどけて、その子だけが風景の中心にいる。
僕は、見惚れていた。生まれて初めて。
情けないほど、正直に。
「男の子……な」
ん?いまなんか聞こえたような……。
「そんなに釣りが好きなのかよ。凍ってんぞ?」
「あぁ、いや……これは魚じゃなくてね、人間という名のサカナを釣ろうと思ってさ」
「へぇ、じゃあ見事に釣れたな。俺は食えないサカナだけど」
釣ったんだから引き上げてくれよ。と冗談ぽく言うと、少女は片足を前にだした。
魚の骨のようにさっきの「男の子……」のひと言が胸に引っかかって取れないでいる僕を尻目に、彼女は一歩、一歩と湖面を進んで近づいてくる。
「……っ?」
(なんだろう……妙な水音がする……彼女の足元から?)
僕が不審に眉を顰めた次の瞬間、彼女のカラダがふっと傾いた。
倒れる────!
と思った瞬間、僕は勝手に動いていた。桟橋を踏み込んで湖へと飛び込み、腕を伸ばす。
すると、彼女は体重のないものみたいに、僕の腕の中へ崩れ落ちた。
「大丈夫!?」
「ぅ……」
「なんだこれ……冷たい……」
肌が温もりがない、まるで金属だ。息も浅く、途切れ途切れで。
(あ、でもかわいい……)
睫毛が濡れて、唇が青いが、間近で見るその顔は、やはり途轍もない美少女だ。
そして、遅れて「匂い」が来た。それまでの腑抜けた情感が一瞬で泥臭くなる。
鉄……血だ。辿ってゆけば太もものあたりから、じわり、と熱じゃないものが滲んでいる。さきほどの水音の正体はこれか。
見れば、湖面に赤黒い足跡が残されていた……とんでもない出血量じゃないか……!
僕は息を呑んだ。文字通り、ゴクリと喉が鳴るほどに。
────こんな重傷────命が────病院?────いや、警察に────
「湖の上を歩いてくる」
パニックになり思考を手放したゆえか、僕は母の遺言を口にしていた。
そして次の瞬間には、僕のハラは決まっていた。
なぜだかわからないけれど、これから下す僕の判断は絶対に間違っていない。そう、確信していた。
「僕の家に、連れていくよ」
釣り針でTシャツを引っ掛けて裂いた切れ端で、少女の太ももをキュッと縛り止血の真似事をし、僕は彼女を抱えて走った。
行き先は月が照らしてくれている。レストラン・オトナシへと────



