湖辺の音味しいレストラン


 母が亡くなるその瞬間まで、僕はその手を握り締めていた。
 その少し前に父は亡くなっている。ゆえに母は今際の際にあってもなお、僕のことが心配で仕方ないという顔をしていた。母の気持ちが痛いほどわかっていたから、無理にでも笑顔を作って「僕は大丈夫だよ」と気丈に振る舞ったのを覚えている。

「湖……の上を……」

 母は消えゆく命の灯火を嵐から守るようにして、僕に何かを伝えようとしていた。
 その声は枯れ果てていて、きっと(オトノメトリー)でなければ聞き取れなかったことだろう。
 だからこそ響いてきた。僕の心に直接突き刺さるように。

「あ……歩い……て……くる」

 その言葉を最後に、焼けるように熱かった母の手から一瞬で体温が消え去った。
 あぁ、亡くなったんだな。それがわかってはじめて、僕はそっと泣いた。
 大袈裟には泣かない。母が教えてくれたから。
 僕はこの先、きっと誰かにめぐり合うのだと。ひとりぼっちではないのだと。

「よう頑張ったな、坊主。お母さんも安心して逝けたはずや」

 この顔を見ればわかる。と、僕の頭に手を置いて優しく語りかけてくれた人がいた。
 後に僕の師匠になる人、チサキ・メネンデス(チーちゃん)だ。
 父と母の古い友人で、同年代の男性……のはずなのだが、どう見ても美少女なのだ。お世辞ではなく、骨格から声から隅々まで。いうなれば”見た目美少女のおじさん“である。

「ここでお母さんとはお別れやで。ワケは聞いたやろ、わかっとるな」

 うん。と頷くと、チーちゃんはそっと僕の頭を撫でてくれた。
 指し示したように、白衣を着た大人たちが、母の亡骸が乗ったベッドを何処へと運んでゆく。

「ぼくも死んだら、けんきゅーざいりょーになるの?」
「坊主が望むんなら、そうなるやろな」

 病院を出て、僕とチーちゃんのふたり。湖のほとりを歩いていた。
 夜の帷はすっかり降りて。鈴虫があちこちで鳴き、蛍の光が亡くなった人の魂を運ぶかのようにゆらゆらと揺れている。

「ぼくは死んだほうがやくにたつの?」
「なんや、8歳児らしからぬ重たい問いやな」
「ぼく、やくにたちたいから。お父さんやお母さんみたいに」

 湖から吹く南風が僕らを通り抜けてゆく。
 ふいに鼻先をくすぐった”すももの匂い“を辿って、僕はチーちゃんを見上げた。

「どっちとも取れるな。生きて役に立ちたいんか、死んで役に立ちたいんか」

 チーちゃんが屈んで、僕と目線を合わせた。
 夜の闇の中にあってもその瞳はえもいわれぬ光を帯びていて、まるで僕の心の奥まで見透かしているようだった。

「お母さんがね、言ったんだ。いつか誰かとであうからって。だから死んじいけないんだって」

 そしたら決まりやな。と微笑み、チーちゃんはこう言った。

「坊主には……音の口説き方を教えたる」

 波の音が遠く聞こえた。
 いつか誰かが、湖の上を歩いて会いにくる。それはもしかすると、千年の昔からの約束のようにさえ、僕には思えた。