「いらっしゃい、モグリン」
「おう、いらっしゃった」
寝室のドアを開けると、そこにお気にの枕を抱いたパジャマ姿のモグリンが立っていた。
そろそろ寝ようかと思ったあたりで雨音が屋根を打ち鳴らしていたのに気づいて、そろそろくるかなと思っていたらやはり来た。
彼は雨の日は一人で眠ることができない。だから雨が降ると必ず枕持参で僕の寝室までやってくるのだ。
その場合、ベッドは毎回折半する。モグリンの定位置はベッドのど真ん中だから、僕は毎回落ちるギリギリのところで朝まで耐えることになるわけだ。当初はベッドを譲るから(僕は床で寝る)と彼に提案したのだが、どうしても同じベッドで寝たいとゴネるのでこのスタイルに落ち着いている。
「めっちゃ眠い……」
「いまにも寝落ちしそうな勢いだね。ホットミルクはどうする?」
「ん。飲む……」
「わかった。じゃあ作ってくるね」
枕を抱っこしたまま半分眠った状態のモグリンをベッドに座らせ、僕はキッチンへと向かう。
さてさて、ホットミルク専用の銅のお鍋を用意してと。
ちなみに使用するミルクは牛乳ではなく「ヤギミルク」だ。ヤギミルクは人間の母乳と組成が似ているため消化吸収しやすい利点がある。寝る前にホットミルクを飲むのがルーティンのモグリンのお腹の健康のために、僕は市内のヤギ牧場から毎日新鮮なヤギミルクを仕入れているのだ。
兎にも角にも、火加減だ。膜を作らせないように弱火でじっくりかき混ぜること。
「焦んなよ、焦んなよ。コトコトゆっくり……コトコト……ん?」
ふと、目についた。
今日のお客さんに出した音味しい料理のブルスケッタだ。
ふたりとも一切れだけ食べて、あとは手をつけず帰ってしまった。
────こういうことは往々にしてよくある。
音味しい料理が見せるミュージックビデオは、美しいものや優しいもの、楽しい可笑しい面白い……そればかりでは決してない。食べたお客さんが、これ以上見たくない、つまり食べたくない。と言って手をつけず“お残し”して店を後にすることはざらにあるのだ。
今日のふたりは、もう見たくない。というよりも「咀嚼しきれない」と言った風だったけれど。
「……一個足りない…………」
たしか6等分したはずだ。お皿の上に残されているのは3切れ。
お客さんは一切れずつしか口にしなかったはずだから……。
*
「おまたせー。あれ、ちゃんと起きてた」
ホットミルクをふたつ、お盆に乗せて2階に上がった。
待ちきれず眠りこけているかなと思ったけれど、モグリンは窓際にもたれかかって外を眺めていた。というより、雨音に耳を傾けていた。と言った方が似合いそうだ。
「いつもわりーな。ありがとっ」
「いえいえ。僕もやりたくてやってるから」
モグリンのいる窓際まで持っていき、ホットミルクを手渡す。
いつも熱すぎない温度に調整してあるから、カップもほどよく温かくて心地よいのだろう。彼は包み込むように両手でカップを持って伏目がちに立ち上る湯気を見つめている。
モグリンは気取ったことはしない。どれを取っても自然体で、素直で直情的で。
それでいて、ふとしたしぐさに垣間見える危うさにも似た色香を見るにつけ、僕はつい酔っ払ってしまいそうになる。
「怒っていいぞ」
唐突にモグリンがそう言った。
雨足が強まったようで、屋根が叩かれる音に声がかき消されそうだ。
「おまえも気づいてんだろ。俺が今日きた客の音味しい料理に手をつけたって」
そうだよな。
当然、この家には、僕と彼しかいないのだから。
「怒らないよ。まあ、できればつまみ食いは遠慮してほしいけど」
モグリンはそれまで口をつけずに見つめていたホットミルクを、今度は朝の通勤前にカラダに流し込むかの如くに一気飲みした。
そして空になったカップをお盆の上に置いて、そのままベッドに横になり、夏毛布に頭までくるまって繭玉みたいになってしまった。
モグリンが眠るなら、僕も寝よう。そう思って、ホットミルクを飲み干そうとカップに口をつけたあたりで、モグリンの声が聞こえた。
「俺、決めたよ」
「なにを?」
「この街を出ていく」
えっ。と僕の口から漏れ出た間の抜けた声は、彼には届かなかったことだろう。
雨は下手くそなドラマーのように容赦なく屋根を叩きつけているのだから。



