湖辺の音味しいレストラン



《……中央本線。特急あずさ21号、新宿行き。次は甲府、甲府に停車いたします》

 通路側の席に座る私と、隣の窓側に座るリコ。

 あのあと、音味しい料理を食べてからレストランを出て、帰りの特急に乗るまで……ひと言もリコは発していない。
 ただ、電車の指定席に座ると同時、彼女はそっと私の手を握った。それから今に至ってもずっとだ。ずっと手を握っている。こちらは見ずに、窓の外を見たまま。

 不思議と、心が軽い。
 たぶん……あの時。音味しい料理を口にしてからの数分間。私たちは同じ景色を同じ目線で見ていたはずだ。
 他の誰でもない。私がリコに抱いていた感情の全てを────
 死んだ方がマシだ。見られるくらいなら、知られるくらいなら、そのはずだったのに。

 《甲府。甲府ゥ────お降りのお客様はお忘れ物なきよう────》

 やがて甲府へと着いた。最終便にも関わらず、ホームへと人波がぞろぞろと降りてゆく。
 その中に、小学生くらいの女の子ふたり組の姿があった。
 大きなリュックを背負い、手を繋いでニコニコしながら何やらしゃべっている。

「ねぇ、アスミ。覚えてる?」

 すると、リコが視線を窓の外に向けたまま語りかけて来た。その声は小さくて震えていて、けれどどこか力強さも感じさせる不思議なゆらぎだった。

「いや、覚えてないか……」
「いいよ、リコ。話して。ちゃんと聞くから」

 リコはぐすっと鼻をすすった。握る手にも力がそっと加わる。

「小学生の頃ね。あたしさ、いじめられてたんだ。覚えて……ないよね?」

 いわれてみれば。朧げに、そんなこともあったような記憶はある。

「ほんとうに、何も変わらない一日を過ごしたのにね。次の日学校に行ったら、もうあたしの居場所はなくってさ。無視なんて当たり前で、大切なランドセルも刃物で穴だらけにされて。椅子にね、画鋲を置かれたりしてさ。それがお尻に刺さるの。痛かった……怖くてさ……もう死んじゃいたかった」

 小学校という場所は決して牧歌的な空間ではない。無垢であるがゆえに残酷な小鬼たちの狩場だ。
 子どもたち自身も当然理解しているから、自分たちは「子ども」という免罪符を持っていることを。ゆえに加減を知らない。だからこそ恐ろしいのだ。

「ごめんね。私……リコを守ってあげられなくて」

 ふふっとリコは私を見ることなく笑った。

「……覚えてないよね。やっぱり」
「え、もしかして私……リコをいじめたり……してた?」
「……逆だよ」
「え……?」

 はぁ。と、リコは長くため息をついた。昂る感情を抑え込むような声色だ。

「アスミだけはね、絶対にいじめに加わらなかったの。ボスみたいな子に、お前もやれって脅されても絶対に……」

 リコが言葉に詰まっている。身を丸めるように縮め、左手で顔を押さえて震えていた。

「あの頃のアスミはね、メガネ……かけててさぁ。いつ見てもへの字口でムスっとしてて……ふふっ。かっこよかったな……あたしのヒーローだった。あの頃から。ずっとあなたと……友達になりたくてさ」

 リコはもう抑えが効かなくなっていた。感情が溢れ出し、握っていた手も解いて、いまや両手で顔を覆って泣きじゃくっている。
 あの時みたいに。旅館で一緒に、泣いた時みたいに。

「あぁ……あたしの料理も……お願いすればよかったな……全然うまく伝えられないや。どんなに……あたしがどんなに、アスミのことを大切に思ってるか……伝えたいなぁ……伝えたい……!」

 あのレストラン高すぎるんだもん……と泣きながらも冗談を言うリコの背中をそっと撫でる。するとリコがカラダを預けてきたので、私は彼女を、包み込むようにして抱いた。
 ポツリ、ポツリと。リコの服に雫が落ちてゆく。誰か知らないけれど、無礼者がどこかにいるみたいだ。この車両にはいま、私たちしかいないはずなのに。

「ねぇ、アスミ」
「うん。聞いてるよ」
「これから先、どうやって生きていこうか……もう決めてる?」
「ううん。なにも……なにもわからないままだよ」
「そっか。うん……そっか。じゃあさ……じゃあ……」

 ──── 一緒に見つけよう

「あなたを、ひとりにはさせないから」

 もしも、ひとつだけ魔法が使えるとするのなら────
 この一瞬を、私は閉じ込めることだろう。
 永遠とは言わない。あとほんの数分だけでいいから、時間を止めて。この世界から私たちだけを切り離してほしいと願うことだろう。

 足下から伝わる振動。車輪の回転に軋む歯車の音。
 時よ止まれ、時よ止まれ、と唱えても、止まることなど決してない。
 ならばせめて、この手のひらに伝わる温もりだけは忘れないでいよう。

 きっとあなたを思い出す、いつかの私のために。