報われていいはずだ。
こんなにも苦しんでいるのだから。こんなにも努力しているのだから。
そう信じていたのに────
志望校の合格発表の日。私は人生のどん底にいた。
高校3年間をひたすら勉強に費やしたにも関わらず、第一志望には落ち、例え私立でもここならばと受験した2つの大学にも落ちた。
そうして、結局引っかかったのが今の大学だ。本当に、ただの滑り止め。およそ、私の3年間の努力には到底見合わないレベルの大学だった。
私は絶望した。他ならぬ自分自身に。
優秀な兄たちとは違い、親も私には失望していたから、浪人をさせてほしいなんてことも言えなかった。
ならば仮面浪人を……と思ったけれど、その意気が続いたのも最初の2週間だけ。
大学生活で迎える最初のゴールデンウィークには、私は何に対しても熱を失ったゾンビみたいで。
毎日を、死んだようにしてただ生きていた。
そんな時のことだ。あなたが目の前に現れたのは────
*
ピンポン、ピンポン、ピンポン……ピィィィィンポォォォン!
「は? うるさ……」
けたたましく部屋のインターホンが鳴らされたのだ。迷惑の極みだった。どうせセールスか何かだろうと無視していたが、あまりにしつこいので怒鳴ってやろうかとドアを開けたのだ。
そこに女の子がひとり立っていた。とても可愛い子だな、そう思った。
「あ……あの、あたし、あたしのこと。わかる?」
「え? いや……ごめんなさい」
「リコです。同じ大学の相元リコ。とゆーか、水月さんと小中高も一緒だよ。高校はクラスも一緒!」
「あ……あぁ、相元……さん。ごめん、友達いなかったからわからないの。もういい?」
「ちょ、ちょっと待って。あのさ、今夜ヒマ?」
「まぁ、暇だけど」
「そっか。じゃあさ、うちで鍋パしない?」
「……はぁ?」
「あたしの部屋ね、隣なの。近っ。あははは────」
ドアを閉めた。これ以上聞く必要はないと思ったから。
「ねぇ、なんで閉めるの!? 水月さん、鍋パしようよぉー!」
ドアの向こうで、響くあなたの声。
まさか同級生とは、いよいよ最悪だ。そう思っていたけれど────
「ねぇ、水月さん。大学でも体育あるとかウケるよね。中学のジャージでいいのかな?」
「ねぇ、水月さん。子猫預かってくれって言われたの。ここってペットOKだっけ?」
「ねぇ、水月さん。バケツプリン作ったの。お裾分けするね。ってちょっと閉めないでよ!?」
ここに置いとくからね〜と。言い残して部屋に戻るあなた。
もう毎日のようにこれだ。鬱陶しくてしょうがない。
でも……さすがにプリンは放置したらヤバイよね、腐りそうだし。そう思ってドアを開けたら、本当にバケツに入ったプリンがドンと置いてあって。
「……はぁ? は……ふふ……なにこれ……」
……笑った。しかも手紙が添えてあったから……読まずに食べることにした。もう降参です。
部屋に戻って、私はそれをじっと見つめた。そうして、でっかいプリンをひたすら食べた。
それが妙に美味しくて、いくらでも食べれて。なのに……
「…………っ」
気づけば泣いていた。
誰も気にもしない私を、自分ですら見たくもない私なんかを、あなたは気にかけてくれていたんだと。私のために、こんなバカみたいなプリンを作っているあなたの姿を思い浮かべて……可笑しくて、嬉しくて……どうしようもなく、こぼれる涙を抑えることができなかった。
「……美味しかった。ありがとう」
深夜になって、私は空になったバケツを返しにいった。隣の部屋に。
時計を見ずに伺ったものだから、それが深夜だとは知らぬままの迷惑行為だったのに、寝ぼけまなこのあなたはぱっと咲いた向日葵みたいに笑って喜んでくれた。
*
「アスミとふたり鍋パは楽しいねぇー!」
「夏は……シンプルに暑いけどね」
夏になる頃には、もうすっかりこの調子だ。
しょっちゅうお互いの部屋を行き来してはご飯を一緒に食べて、課題をしたり映画を見たり。
両親とも仲のいいリコは一人で眠るのが苦手らしく、ことあるごとにふたりで一つのベッドを折半した。時にはベランダから侵入されたこともある。
あなたは高校時代から一軍女子の人気者。それは大学になっても変わらない。片や私は湿度高めの陰の者。見た目もノリも何もかも……正反対と言っていいくらいなのに。
「あたしさ、アスミと一緒にいるのがいっちばん好き」
「えー、なんかチャラ男みたいなセリフを。みんなに言ってるんでしょ?」
「なんだとー!? こいつわからせてやる!」
はじめて。
こんなに楽しい時間は。こんなふうに人と戯れ合って、人の体温に触れて。
幸せだ。楽しい。ずっと……ずっと続けばいい。
あなたとふたりの時間が……ずっと。
*
「彼氏……?」
「えへへ。そうなんだよー」
大学2年の晩秋、リコに彼氏ができた。むしろ遅すぎるくらいだ。こんなにも可愛くていい子なのだから。
「あたし、重い女だからさ。未だに高校時代の恋愛を引きずってるわけよ。それにほら、大学生の恋愛のノリがなんか好きになれなくて。だけど、あの人は────」
おめでとうのひと言も出てこなかった。その時の私は、ある感情が湧き立ってきてのぼせてしまっていたからだ。
────劣情
私には“そういった欲求”がないものだと思っていたのに。この時の私は、掻きむしりたくなるほどに、気が狂いそうなほどに駆り立てられていた。
何が引き金になってそうなったのかは言うまでもなかったけれど。必死に目を背けた私は、気づけばアプリをダウンロードしていて、見知らぬ誰かにメッセージを送っていた。
いかに身を焦がれようと、男なんかに触れられたくない。私が送った相手は女性だ。そういう人のためのアプリだったから。
だから、驚くほどにスムーズだった。相手も最初から“そのつもり”だ。
ホテルに着いて、部屋に入って。私は特に緊張もなく、まるで他人を眺めるかのように自分の行動に無関心だった。別にどうなってもいいと、そう思っていたのだと思う。
けれど、私はすぐに目が覚めてしまうことになる。
相手の女の子にハグをされて、そっと耳元で囁かれたのだ。
「ねぇ、このままする?」
その瞬間、風船が弾けたように私の中の“痒み”が消えた。
あれほど狂おしかったのに。もはや何も感じない。
「ごめんなさい、私────」
女の子を払いのけ、私は脱兎のように駆けた。ホテルを飛び出し、何度か転んでも、擦りむいて血が出ても構わずひたすら走った。
いく当ては一つしかない。自分の部屋だ。あなたの隣の、あの狭い部屋へ────
「あれ、アスミ〜。なんかキレイな格好してるぅ。どこか行ってたの?」
ちょうどマンションのエントランスのあたりで、あなたとすれ違った。
けれど私は顔を背け、知らんぷりをして自分の部屋に駆け込んだ。いま目を合わせてしまったら、もう二度と言葉も交わせなくなりそうだったから。
まるで、追っ手から逃れるようにしてドアの鍵を閉めた。カーテンで一切の光を遮り、布団をかぶって丸くなった私は、呪文のようにひたすら繰り返していた。誰でもない、自分自身に向けて。
「気持ち悪い気持ち悪い…………気持ち悪い……!」
気づいてしまった。私は、女の子が好きなわけじゃないんだ。
私が好きなのは、私が欲しいのは────
*
私の膝枕に頭を横たえたリコに、耳かきを施す。
耳垢を取ることが目的ではなく、耳の奥を優しく掻いてもらうのがリコは好きだから。
この日久しぶりに、私はあなたの耳に竹でできたヘラをそっと入れていた。
なんて幸せなんだろう、なんて可愛いんだろう。おくびにも出さないが、胸は張り裂けるほどに高鳴っている。
「私なら、リコを泣かせたりしない。絶対に」
「え、イケメンすぎん?」
「……ちょっと恥ずかしいこと言ったかも」
「ふふっ、聞いたもんね。アスミぃ、だい好きだよ〜」
幸か不幸か、リコの恋は長く続かなかった。
春を迎える頃には、また私たちふたりの時間は元へと戻ってゆく。全くの元通りではないけれど。
「んふふ、アスミの触り方エロいって〜」
「へっ、あ……あぁ……ごめん……」
私はリコの耳たぶをいじるのが好き。こんなふうに、いつも通りのスキンシップにも、無意識に“情”が乗るようになってしまった。
あの日から。いや、もしかするともっと以前から。私はリコのことを────
「ぅ……」
ふいに口元を押さえた。
「アスミ? 大丈夫? 具合悪いの?」
「ん……ちょっとね。大丈夫……」
気持ち悪い。こんな自分が、どうしようもなく気持ち悪い。
だからこそ、絶対にリコに知られるわけにはいかない。
この吐き気を催すような劣情も、どんな名前とて当てはまらない“愛“も。
なにもかもが、あなたにとっては害悪以外の何ものでもないはずだから。
「携帯めっちゃ鳴ってるよ」
テーブルの上、私の携帯に着信があった。バナーに表示された『明後日なら会えます』のメッセージを見て、慌てて携帯の電源を消した。
「バイトの……人からだった」
「そっか。バイトといえば、あたしさぁ、パン屋さんで働いてみたいな〜って」
私はまだこんなことをしている。
アプリで女の子を見つけて、メッセージをして、会う約束をして……逃げる。その繰り返しだ。
バカらしくてやってられない。でもどうしようもない。
だってこうでもしないと私は────
後悔している。本当はこの時に止めるべきだった。アプリを消しておくべきだった。
そうすれば……知られることもなかったのに。
*
「ちょ……アスミ、顔引き攣ってる。もう片方の口角も上げないと」
大学4年生になり、卒業後の進路が決まった女子メンバーで温泉旅行に行こうという話になって、特段仲良くはない私もリコに誘われて参加した。というのも、クーポンの適用条件に人数が必要だったから。
その数、10人ほど。ちょっとした学級みたいな規模だ。
正直、コミュ障陰者の私にとってはなかなかにキツイ。特にセルフィーは拷問に等しい。
「ごめんね。アスミまで巻き込んじゃって」
「ううん。卒業旅行とか行かない予定だったから、そのつもりでいるよ」
「えー、そんなことないでしょ。じゃあふたりで行こうよ、卒業旅行。イタリアとか」
私と話していても「リコー、一緒撮ろ〜」と、あなたは常に引っ張りだこだ。そんな中でもちょこちょこ輪から抜け出しては私に構ってくれるあなたに心がくすぐられた。
2泊3日なんてすぐだ。少し息苦しいけれど、リコと旅行をしていると思えば他の人間など気にならない。なんと思われようと、気色悪がられても。
ひとしきり観光スポットを回り、しこたま写真やら動画やらを撮って疲れた一行は旅館に帰還した。なるほど、これはクーポンの大幅割引を利用しないと泊まれないであろうことを思わせる豪華な夕食に舌鼓を打ったのち、みなでぞろぞろと部屋に戻る。
その中にひとり、下手なお酒の飲み方で酔いの回ってしまった子がいた。それを見たメンバーの一人が、私にこう言った。
「水月さん、お水買って来てもらっていい? その子、海外の水しか飲めなくてさ。エビアンが一階の売店にあったから、そこまで行ってきてほしいんだぁ」
……なんで私が。しかも海外の水?
そんなわけないだろうに。まぁ、嫌がらせだろう。
そういえばリコの姿がない。なるほど、それを見計らってのことか。
「わかった、エビアンね。他に何か買って来ようか?」
そうだとしても別に構わない。ここで波風たててリコの顔に泥を塗るわけにもいかないから。
私はできるだけ朗らかに承って、部屋を後にした。引き戸を閉めてすぐに「アイツ邪魔すぎん?」「いや湿度高いて」などと絶妙に聞こえるくらいの声で陰口を叩かれていた。
別にどうだっていい。彼女たちからこの身を遠ざけけたくて、私は早足でエレベーターまで向かった。
「……私にはリコがいるから」
そうだ。リコがいてくれればいい。リコさえ、あなたさえいてくれたら。
……じゃあ、リコがいなくなってしまったら?
また彼氏ができたら? 結婚したら? 隣に住んでいなかったら?
────そもそも、私なんて
「リコにとっては……」
「あれ、アスミぃ〜。お風呂いくの?」
やんちゃなシャム猫みたいなゆらぎの声。
はっとして顔を上げると、あなたがそこにいた。エレベーターがここまで上がってきたのだ。
酒に酔ってしまった子はもうひとりいたようで、リコはその子に肩を貸している。
*
「ごめんね。アスミに嫌な思いさせちゃって」
エレベーターで一階まで降りる。私とあなたのふたりで。
酔った子を部屋まで送ったあと、リコは私の買い物について来てくれたのだ。
「ほんと言うとね、あの子たち苦手なんだ。だからアスミにいて欲しくて……」
先ほど介抱していた女の子だけだという、仲がいいのは。その子に誘われて断れなかったものの、一人では心許なかったのだ。
「そんなに私を……?」
「うん。言ったでしょ。あたしはね、アスミと一緒の時間がいっちばん好きなの」
あなたの言葉……灰色に染まっていた心にぽっと陽が灯る。
あたたかくて、いつしか私は泣いていた。
「アスミ……泣いてるの?」
「ん……ごめっ……ごめん……」
「そんなに辛かった? あぁ、どうしよう……」
「ちがう……私……リコがだい好きだから……ダメなのに……」
「なにそれ。もう、泣かないでよ……なんか……なんか、あたしまで……」
それからふたりで、もう子どもみたいにわんわん泣いた。
私は積み重なったものが溢れてしまって。あなたはあなたで、私の泣き顔をはじめて目にして。それが辛くて悲しくて仕方なかったと言っていた。
泣きじゃくっている女の子がふたり。そんな姿を見れば誰だって心配になる。一階の売店に辿り着く頃には、「なにか事件ですか?」と、部下を引き連れた旅館の偉い人に声をかけられるほどだった。
大事になってはまずい。弁明のため、私たちは泣きながら平謝りだ。それがどうにも可笑しくて、今度はふたりして笑った。
そういえばパシリ中だったことを思い出し、ついでの買い物もしたりして私たちはすっかり平静を取り戻した。
その間もあなたはずっと私の手を握ってくれていて、違う意味で私の心は乱れていたけれど。
「もうさ、あたしたちふたりで来ましたってことにしよ? はい、カメラみて」
「セルフィーは……苦手……」
泣き腫らした後でも可愛いあなたと、旅館に憑いた地縛霊みたいな表情の私が、写真に収まったワンショット。
自分史上、一番カワイイ……気がした。
「ほら、アスミのスマホでも撮ろうよ」
「あ……私、忘れて来ちゃった」
私はこの時、小さなミスを犯していた。携帯を置いて来てしまったのだ。充電を始めたばかりで、取り外すのが面倒だったから。
……この時の判断を、私は死ぬほど後悔している。でも考えもしなかったのだ。
まさか、他人のスマホを……勝手に覗く人がいるなんて。
*
「エビアンなんてないじゃんね。ほんと嫌な子たち」
「いいよ別に。なんか……楽しかったから」
「えへへ。ねぇ、アスミ。今度は絶対ふたりきりで旅行しようね」
「う、うん……そうだね」
イヤミ返しで、売店にある水を全種類買ったものだからけっこうな重さだ。
ビニール袋に入れて持って来ていたが、途中で破れてしまって、いまや薪みたいに両手に重ねて運んでいる。
「木こりアスミ。写真撮っちゃお」
「ちょ……上にこれ以上乗せられると……」
部屋のある階でエレベーターを降りると、妙に騒がしい声が廊下に響いていた。
キャーキャーと女の子の声で大盛り上がりだ。
「うわ、うるさ。宴会?」
「これ私たちの部屋じゃないかな?」
大当たりだ。部屋に近づくほどに、その騒ぎは大きく聞こえる。
そして、ドアを開けたならハッキリとわかってしまった。いったいなにが楽しくてそんなに盛り上がっているのかを────
「つーかなんで水月のスマホ覗けんの?」
「パスコードちら見よ。1313だったわ」
「えぐ。やっぱ指紋認証しか勝たん」
「それよりもさ。なに、そんなエロいメッセージしてんの?」
「いや、内容はフツーだけどさ。こいつ友達いねーのかよってくらいアプリの女とばっかり。あとはリコだけ」
「アプリって、マチアプ?」
「性欲モンスターやん。同じ部屋で寝るの怖すぎん?」
「いやー、うち無理。このあとお風呂いくんキツいて」
「ねぇ、待って。一番危ない子に教えてあげた方がよくない? だって……」
────リコのこと。絶対狙ってるよアイツ
足下に水が落ちた。
重いペットボトルだ。指にも当たっているはずなのに、なんの痛みもない。
寒い……血がさっと引いていく。無意識に肩を抱いて身をすくめた。
震えが止まらない。目の前も真っ暗だ。
いや、私なんかどうでもいい。そうじゃなくて、私じゃなくて────
「アスミ……」
あなたが、私を見ていた。
「あ……あぁ……リコ……ぁぁ……」
*
それからのことは、よく覚えていない。
あなたは何度も私を呼び止めようとしてくれていたように思うけれど。
気がついた時、私は東京行きの電車に乗っていて。膝を抱えたまま、ひとり泣いていた。
たぶん、あの場から逃げ出したのだと思う……なにも告げずに。
その行動がもはや、なによりのメッセージだったことだろう。
彼女たちの言っていることが事実だと。
もう、あなたの顔を正面から見ることはできないだろう。
言葉は幾重にも濾過してからでないと口にも出せなくなるだろう。
できることなら死んでしまいたい。でもそんな勇気はない。
それならば、内臓を全部引きずりだして、キレイに洗って。それからでないとカラダの中に閉まっておけない。
気持ち悪い。
わかってる。気持ち悪いって、ちゃんとわかってる。わかってるけど。
でも────
どうしたって、私にはできない。
友情と恋の線引きが、私にはできない。
欲しくなってしまう。一緒にいればいるほど。あなたの笑顔に触れるほど。
だから私は何度でも、すり切れるくらいに同じ言葉を心の中でつぶやいている。
それは陳腐でありふれていて、なにも面白くないけれど。
告げることのできない私にとっては、あたりまえでは決してないから。
「愛しています」
誰でもない。ただ、あなただけを────



