湖辺の音味しいレストラン


 新宿駅、10番線のホームに停車している電車の中で、私は深くため息をついた。
 ここから長野県守矢市までは、特急あずさで2時間半ほどの距離だ。乗り換えなし、あっという間に着いてしまうだろう。
 レストランの予約は18時。いまからだと向こうに着くのはギリギリだけど、どうしても余裕を持った乗車などできなかった。

「やっぱり、やめようかな……」

 未だに、迷っているからだ。レストランに行くことを。
 腕時計を見る、顔を見上げる、また腕時計を見る。
 その繰り返しだ。
 どうしようどうしようと反芻して立ち上がっては、トイレに行ったフリをしてまた席へと戻った。

「どうせなら縛り付けてよ……」

 さきほど携帯に着信した1通のメッセージ。リコからだ。
 ────待ってるから
 ただそのひと言。
 この週末の予約日が来るまで、隣同士の部屋で息の詰まるような時間を過ごしたというのに。

「そうまでして、私のココロを知りたいの……?」

 オカルトに決まってる。そうに決まってる。
 だけど、どこかで私は望んでいるような気がしていた。
 ────同性愛者だから?
 そうかもしれない。でもそうじゃない。私にとってあなたは……!

 座席から振動が伝わった。次いでカラダが後方に引っ張られるような圧を感じる。
 電車が、発進したのだ。
 もう戻れない。それはわかっているのに、結局私は到着までの2時間あまりをほとんど立ったまま過ごしたのだった。


 *


「ここかな……」

 守矢駅を降りてすぐにタクシーに乗った。行き先を告げると、若い運転手さんは首を傾げながらナビを操作していたが、結局『レストラン・オトナシ』を見つけることはできなかったようで、年輩の方が運転するタクシーに移されてようやくお店へ向かうことができた。
 電車が遅れたこともあり、時刻はすでに20時に差し掛かっている。携帯には、リコからの着信はない。

 足下に敷かれた石畳が歩くたびに乾いた音を立てる。リコはきっと店内にいるだろうと思うと、私は足音を立てるのさえ躊躇してしまっていた。
 そして立ち止まる。気づけば、カラダはもう回れ右していた。

「やっぱりダメだっ」

 もう限界だ。これ以上はムリだ。
 レストランの入り口ドアまであと数歩といったところで、私の心は臨界点を迎えた。メルトダウンした“逃げ”の感情は抑えることなどできない。できるだけ遠くへ、遠くへと離れるしかない。
 リコが上海へ行くというのなら、もうそれっきりになる。もうそれで────

「アスミ────!」

 どうしてか、知らぬ誰かが私の手を引いた。
 いや、わかっていた。この少しひんやりとした柔らかな手の感触を、私は知っているからだ。

「リコ……」
「……ごめんね」

 えっ?と、間の抜けた声が口から漏れた。そんなセリフが飛び出してくれとは思わなかったからだ。
 諌められるものと決めつけていたから。怒気を孕んで、ヒステリックに。そうしてくれたならきっと、私は立ち止まることもなく、今頃は東京への帰路についていただろうに。

「レストランなんて……いいの。本当はね、ただ時間がほしかっただけ。アスミと……あなたと話がしたかっただけ」

 リコは声を詰まらせながら、懸命に言葉を紡いでいた。その大きな瞳は溢れそうな涙で歪んでいる。
 心が痛くなって、直視することはできなかった。

「リコ……私は……言えないんだよ。だって……本当の私は……」
「あはは。いいよ、いいんだよ。レストランなんてやめちゃおう。ね、だからさ。言えないことは閉まったままでいいから。だから……」

 リコはそう言って、一緒に帰ろうと手を引くのだった。しかし……

「おいコラ、お客さま」

 足が止まった。
 私たちに投げかけたであろうその声が、あまりにも不機嫌なゆらぎで怯んでしまったからだ。

「逃さねえぞ。キャンセル料金だけじゃ買いたいもんも買えねーだろうが」

 その声の主は、刺々しい言い方とは裏腹な、はっとするような“美少女”だった。
 メイド服にエプロンをかけ、金髪のおかっぱ頭にはホワイトブリムをちょこんと乗せている。通せんぼのつもりか、腕組みして仁王立ちしている姿も凛々しいというよりは可愛らしい。

「モ、モグリン、だめだよ。お客様に失礼しちゃ……」

 今度は傍からひょっこりと出てきた青年。執事のようなデザインの給仕服に身を包んでいる彼は、メイド服の美少女を諌めながらも、こちらにペコペコと頭を下げている。
 そして咳払いをひとつ。彼は姿勢を正し、私たちを見据えてこう言った。

「お待ちしておりました。ご予約いただきました、水月アスミ様と、相元リコ様でお間違いありませんね?」

 その問いかけに、私は会釈で。リコは小さく「はい」と答えた。

「この度はご来店いただき、誠にありがとうございます。わたくしは、オーナーの鞍馬と申します」
「モグリです。シェフやってます」

 丁寧なお辞儀をする青年。
 そして相変わらずぶっきらぼうながら、スカートをつまみ、膝を折って礼をする美少女。これはたしか、カーテシー? だったかな。

「どうぞ、店内にて待ちください。これより、音味しい料理をお作りいたします。お客様の想いをこめて────」