第三部
七月二十八日(火)
その夜、僕と真澄の関係は劇的な変化をとげることになった。
夕食を外で済ませ、鍵を開けてアパートの自室に入った途端に、僕の背筋に寒気が走った。寝室に見知らぬ女性が立っていた。彼女は、もう少しで肩に届くかという短い髪をした美しい女性だった。僕の生徒たちと比べると若干年上には思えたが、まだ二十歳そこそこといったところに見えた。しかし、彼女がこの世のものでないことは一目で分かった。彼女の体は、輪郭がかなり朧気で、その体を通して後ろの部屋の壁が透けて見えていた。
僕は、玄関で立ち尽くしたまま、どうにか冷静さを失うまいと必死になった。とりあえず一つ深呼吸をして、それから口を開いた。
「君は一体、誰なの?」
僕のうろたえた様子を見て彼女は申し訳なさそうに答えた。
「純さん、私の姿が見えちゃったのね」
真澄の声だった。
「もしかして、真澄さん?」
僕は半信半疑だった。
「そうです、ごめんなさい。私、嘘をついていました。でも、どうか信じて。私、純さんを怖がらせたくなかったの。だから、普通の人間だって、嘘をついたの、どうか、それだけは信じて」
真澄の言葉には切実な思いが感じられた。その言葉を聞いて、僕の背中にあった寒気が波が引くように消えていった。
「信じるよ」
僕がそう言うと、真澄は少し安心したように自分の正体を語った。
「私、幽霊なの。より正確には地縛霊という奴。成仏もできず、この部屋に縛りつけられたまま、どこにも行けないの」
「なるほど、そういうことだったのか」
僕が納得すると、真澄は更に謝罪の言葉を口にした。
「本当に、ごめんなさい。純さんの歌が、素敵だったので思わず声をかけちゃったの。まさか、聞こえるとは思わなかったから」
僕は何だか真澄が可哀そうになった。
「そのことは、もう、謝らなくてもいいよ。ああ、立ち話もなんだから、そっちに座ってよ」
僕はキッチンにあるテーブルを指差した。
「失礼します」
真澄は宙を浮いているかのような足取りで移動して、椅子を引くこともないまま、気づけば椅子に腰掛けていた。僕は靴を脱ぎ、真澄の向かい側に座った。
「真澄さん、よかったら、身の上話を聞かせてくれないかな。どうして、この部屋の地縛霊になってしまったのかという、そのいきさつを」
少し酷な気もしたが、知りたいという思いが勝った。
「うん、全部隠さずに話すわ。私には、その義務があると思うの。でも、どこから話したらいいのかな?」
真澄が話の進め方に少し困ったようだったので、話を進めやすいように、僕はとりあえず彼女の誕生日や出身地を聞いてみることにした。
「まずは、真澄さんの生年月日を教えてくれないかな」
「生年月日は昭和三十七年、西暦で言うと一九六一年七月六日です」
ちょうど両親と同じ年の生まれだったので、それが、五十四年前の日付だとすぐにわかった。しかし、真澄の姿も話しぶりも五十四才の両親とはおよそ異なり、二十歳そこそこにしか思えなかった。
「出身は何処なの?」
僕は予定通り次の質問をした。
「住所を言っても分からないと思うわ。要するに青森の山の中の小さな村よ」
「なるほど」
真澄の出身地の詳細は必要なかったので、僕は話の本題に近づくことにした。
「で、東京にはいつ来たの?」
「中学校を卒業して、すぐに来たの。私、中卒で近くの町工場に就職したの。実はこの部屋、会社が寮として借りていたものなの」
生きていれば真澄は五十四歳だ。だが、それでも中卒で上京して就職というのは、当時としてもかなり稀なケースに思えた。気になったので、僕は尋ねてみた。
「真澄さんは、どうして、中卒で、しかも遠く離れた東京で就職したの?」
真澄は一瞬ためらったような表情をしたが、すぐに答えた。
「私の母は十七歳で私を産んだの。母は、中学を卒業すると、すぐに家を飛び出して東京に行ったらしいの。荒れた暮らしをしていたみたい。突然、戻ってきた時には、お腹が大きくて、村では騒ぎになったって。堕胎が手遅れになってから、男に逃げられたらしいの。」
「結構、すごい生い立ちだね」
ドラマの中でしか聞いたことのないような話だと思った。
「小さな村だから、私の生い立ちなんて、みんなが知ってたの。だから、私は子供の頃から、周囲に白い目でみられていた。学校でも友だちなんて、ぜんぜんできなかった」
ふと、高校時代の自身のいじめ被害が頭をかすめた。
「それは、辛かったね」
同情から、そんな言葉が漏れたが、真澄の辛さは僕の比ではなかったのだろうと容易に想像がついた。
「うん、学校も辛かったけど、家にいる時の方が、もっと辛かった。母は、私からいうと祖父母の家に戻ってきてから、働きもせず、昼からお酒を飲んでた。育児も放棄してしまって、お祖母ちゃんが仕方なく私の面倒を見ていたの。母が、そんな風だったから祖父母も村では形見が狭かったみたい。私は、祖父母の厄介者だったから、あまり可愛がってもらえなかった。母は育児を放棄した癖に、機嫌が悪いと、よく私に暴力を振るったの。家は本当に針のむしろだったわ」
「そんな家だったら、確かに逃げ出したくなるね」
いじめにあっていた時期でさえ、僕には温かい家庭があったのだから、僕は真澄より遥かに幸せだったのだと思った。
「でもね、もっとひどくなったのよ。中学2年の時、祖父母の車が事故に合って二人とも亡くなったの。それからは、祖父母が残してくれたわずかばかりの保険金と貯金を食いつぶす生活で、母の暴力も激しくなったわ。だから、私は中学を卒業したら逃げ出すことにしたの。中学の先生も、私の事情はよく分かっていたから、東京での働き口を探してくれたの」
上京が真澄の人生の好転に結びつかなかったのは、すでに明らかだった。僕は、更に続く真澄の不幸な物語を聞くのが辛くなってきた。しかし、それでも、聞かずにはいられなかった。
「東京に来てからは、どんな生活をしていたの」
「私は働きながら都立の定時制高校に通ってたの。卒業後は、二部の大学に行きたかったから、節約して学費のための貯金をしてたわ。」
働きながら学費をためて二部の大学を目指す。当時はそんな生徒たちも珍しくはなかったのだろう。今どきの定時制高校生の実態とはおよそかけ離れた話だと思った。
しかし、そうまでして真澄が何を学びたかったのか、僕は是非知りたいと思った。
「大学で何を学びたかったの?」
ずっと暗かった真澄の口調が、その後、少しだけ明るくなった。
「笑わないでね。私、純さんのお姉さんみたいに国文科に行きたかったの。本が好きだったから、図書館司書とか、国語の先生とか、本に関わる仕事がいつかしてみたかったの。資格を取って、そういうしっかりとした仕事につけば、一人でも立派にやってゆけると思ったのもあるわ」
真澄が姉を羨んだ理由は、そこにもあったのかと思った。
「学費をためながらの生活は大変だっただろうね」
「うん、服なんて、ほとんど買ったことが無かったし、映画もろくに観られなかった、テレビとかも買えなかったから、図書館で本を借りて読んでた。あと、恥ずかしいけど、趣味で詩とか小説とか書いて懸賞とかに応募してたの。賞には、まったく縁がなかったけどね」
「なるほど、君も自分で詩とか書いていたんだね」
「そう、純さんが作った歌に興味が湧いたのは、そのせいもあると思う」
真澄がそう言った後、僕は次の質問に少しためらったが、聞いてみることにした。
「それで、聞きにくいんだけど、君が死んだのは何歳の時?」
「十九歳の時よ」
そう聞いて、真澄が二十歳そこそこに見える理由がわかった。
「どうして死んじゃったの?病気か何か?」
真澄は、やや俯いてから、か細い声で答えた。
「私ね、自殺しちゃったの」
それから、ゆっくりと真澄は自殺の理由を語りだした。その辛そうな声に、僕は心が痛んだ。聞かなければ良かったかと少し後悔した。
「母が借金をして、借金取りが私の所に来たの。私が学費のために貯めていたお金は、全部借金取りにもって行かれちゃった」
「ひどい話だね。それで、それを苦にして命を絶ったということ?」
僕の問いに答える真澄の声は、更に辛そうになった。
「ううん、それだけじゃないの。私は、もう一度頑張って、お金を貯めようとしたのよ、でも、悪いことは重なるもので、今度は勤めていた工場がつぶれちゃったの。この部屋は、会社が寮として借りていたものだったから、当然、立ち退きを迫られた。私は、住む場所も、仕事も、貯金も失って、誰一人頼る人もいない東京に投げ出されることになったの。私には帰る場所もなかったから、まったくの八方ふさがり。ああ、こんな人生もういやだと思って、この部屋で自ら命を絶ってしまったの」
正に不幸を絵に描いたような真澄の境遇に、僕はしばらく声が出なかった。
「辛い人生だったんだね。」
気分が沈み、月並みな言葉しか出てこなかった。しかし、その後の真澄の言葉は、更に僕を暗い水底へと突き落とした。
「うん、でも、死んだ後も辛かった。気がつくと、私は成仏もできず、この部屋に縛りつけられていたの。私が死んでから、色々な人がこの部屋で暮らし始めて、そして、去って行ったわ。でも、誰一人として、私がここにいることに気がつかなかった。死んでからの三十数年間、私は本当に孤独だった。純さんがここに来るまでは」
誰にも気づいてもらえず、ひたすら孤独に耐えるだけの三十数年間。わずかひと月足らずの僕に対する無視と嫌がらせなどとは比較にもならない辛い日々。しかも、その辛い日々には、終わるあてなどまるでなかったのだ。どれだけ辛かったのだろうか?想像もつかなかった。
僕が少し落ち着きを取り戻した時、一つの疑問が浮かんだ。僕は、すぐさまそれを真澄に向けた。
「ねえ、どうして、今まで誰も君に気づかなかったのに、僕だけが気づいたのかな?」
真澄は、俯きがちだった顔を上げて僕の方を見た。それから、自信なさげに自らの考えを口にした。
「純さんには、たぶん、弱いけど霊感があるのよ。お姉さんの姿が見えて、声が聞こえたのも、そのお陰だと思う。どんな霊でも見られるわけではなくて、身近な存在にだけ反応する場合があるんじゃないかな?」
「なるほどね」
僕は、その時、僕よりも姉に愛されていた茂樹さんに姉の姿が見えなかった理由がようやく飲み込めた。
「辛い話をさせて、御免ね」
僕が謝ると、真澄は小さく首を横に振った。
「いえ、謝らなければいけないのは私の方よ、純さんが出て行くまで、私、屋根裏にでもいますから」
いかにも申し訳なさそうな口ぶりで真澄は更に続けた。
「私が、ここから出ていけたらいいんだけど」
それきり、真澄は俯いて黙り込んでしまった。それから、僕が次の言葉を発するまで、少し気まずい沈黙が続いた。
「どうして、僕が出て行くことになるの?」
沈黙を破って出てきた僕の言葉は、ひどく真澄を驚かせたようだった。跳ね返るように顔を上げた真澄は、まっすぐに僕の方を見た。
「だって、純さん、幽霊のいる部屋でなんか暮らしたくないでしょう」
僕は、真澄の視線を正面から受け入れて、真澄の言葉をきっぱりと否定した。
「いや、僕は出てゆくつもりはないよ。僕はぜんぜん気にならないよ、真澄さんがここにいても」
そう言ったものの、その言葉には少々嘘があった。幽霊と共に暮らすなんて、まったく何の迷いも無く出来るものではなかった。でも、真澄を見捨てて、一人で逃げ出すのは、あまりにも可愛そうな気がした。
「そんな、純さんの好意に甘えることなんて出来ないわ」
「いいんじゃないかな甘えても。君は十九歳、まだ未成年だろう。一応、僕はもう成人した社会人だからね」
「でも」
真澄は泣きそうな顔をしていた。
「別に真澄さんといると、僕が呪われる訳でもないんでしょ、今まで、ここに住んでいた人たちが、そういう目にあったことがあるの?」
真澄は大きく左右に首を振った。
「無いわ。近くに大学が出来てからは、ほとんどが学生さんだったけど、みんな元気に旅立っていったわ」
そういう不安がまるで無かったわけではなかったので、僕は少し安心した。
「じゃあ、問題は無い訳だ」
「だけど」
真澄は本当に申し訳なさそうにしていた。
「ああ、その代わりに、真澄さんにお願いがあるんだ。僕の歌作りを手伝って欲しいんだ。実は、八重山の九つの島の歌を全部作りたいと思うんだけど、まだ、出来ているのは三曲だけだから、あと六曲も作らなきゃいけない。真澄さんの意見も聞かせて欲しいんだ。真澄さんだって小説や詩を書いていたんだから、きっと貴重なアドバイスをもらえると思う」
その言葉を聞いた時、初めて真澄の顔が少し嬉しそうな表情に変わった。
「純さんの歌作りの手伝いができるなんて、夢見たいな話だけど、本当にいいの?私、純さんの傍にいても何もしてあげられないのよ。掃除も、洗濯も、炊事も、何も出来ないのよ」
「いいよ」
「私は、奈々さんの代わりにも、お姉さんの代わりにもなれないのよ」
その時、僕は、自分でも気づいていなかった気持ちを言い当てられたような気がした、確かに、僕は姉を失い、突然、初めての一人暮らしを始めた心の隙間を、真澄で埋めようとしているのかも知れなかった。
「真澄さんが、どうしても屋根裏に居たいというなら、無理にとは言わないけど」
僕は少しずるい言い方をした。
「私、屋根裏になんて居たくない。私、純さんの歌作りの手伝いをしてみたい」
暗かった真澄の目が生者の輝きを取り戻したように見えた。
「じゃあ、決まりだね」
「すみません、よろしくお願いします」
真澄は目いっぱい低く頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくね」
こうして、生きている僕と、幽霊の真澄の、奇妙な同居生活が始まった。
七月二十九日(水)
「おかえりなさい」
夜、食事を済ませ部屋に戻ると、僕は真澄の言葉に迎えられた。キッチンに立つ真澄の姿は、朝見た時よりも輪郭が少し明確になり、体の透明度も下がっているような気がした。僕がリュックを机の上に置くと、早速、真澄がリクエストをしてきた。
「純さん、今のところできている、もう一つの島の歌を聴かせて」
「ああ、いいよ」
僕は、ガラス戸の前に二つ座布団を並べてから、三線をケースから取り出し腰を下ろした。
「真澄さんはこっちに座って」
僕は自分の右側の座布団を示した。
「うん」
真澄は、やはり宙を歩くような足取りで移動すると、僕の隣に腰を下ろした。
「竹富と鳩間の歌を聴いてもらったけど、今のところできているのは、あとは小浜島の歌だけなんだ」
「小浜島って、前にも少し純さんの話に出て来たよね」
「ああ、そうだね。繰り返しになるけど、小浜島は八重山諸島のちょうど真ん中にあって、大岳(うふだき)という山の頂上に上ると、与那国を除く八重山の島が全て見えるんだ。あと、有名なのはシュガーロードっていうサトウキビ畑の中の一本道かな。小浜島は、昔、朝のドラマの舞台になったので、いくつか縁の地もあるね」
「それで、小浜島の歌にはどんな背景があるの」
僕を見た真澄の目が輝いていた。真澄は、小浜の歌にも興味深い裏話があるのを期待しているようだった。
「残念ながら、小浜の歌には竹富や鳩間みたいな深い背景はないんだ」
「へえ、そうなんだ」
真澄は少しがっかりしたようだった。そして、僕は真澄の期待を裏切るような、さして面白くもない歌の背景を語った。
「僕が大学3年から4年の間の春休みのことだったんだけど、石垣島でいつも泊っているティダヌファハウスという宿で知り合った人たちと、三人でレンタカーを借りて島を回った時の話なんだ。一人は、三十くらいの普通の会社員の女性で、もう一人は、十八歳で高校を卒業したばかりの女の子だった。」
「お姉さんの話の時もそうだったけど、八重山では、知らない人と一緒に行動することってよくあることなの?」
「ゆんたく」という茶話会のようなものがよくある八重山の宿の雰囲気を知らない真澄にすればもっともな質問だった。
「そうだね、珍しい話ではないね。」
「そうなんだ」
真澄は自分には未知の世界があるのだという口ぶりだった。
僕は、深い話を期待していた真澄のテンションを更に下げるような話を続けた。
「歌のヒロインのイメージは主に女子学生の方、やたら明るい子だったね。ティダヌファハウスで会った子だったこともあって、歌のタイトルは『ティダヌファー太陽の子』にしたんだ。でも、僕はその子に対しても、もう一人の女性に対しても恋愛感情を持っていたわけじゃないんだ。僕たち三人は、たくさんおしゃべりをしながら島を回って、良い思い出になったよ。天候にも恵まれて海も奇麗だったしね」
「ということは、前の二曲と比べると明るい歌ってことね」
「そういうこと。まあ、とにかく聴いてみてよ」
「うん」
僕は、三線の糸を巻くとイントロを弾き始めた。「ティダヌファー太陽の子」は他の二曲と比べるとテンポも速くメロディや歌詞も明るく作ってあった。イントロが過ぎ、耳を澄ましている真澄の隣で僕は歌い始めた。
石垣の宿で会った君は正にほんのひと時の旅の道連れ
離島桟橋から君と船に乗って波しぶき浴びて行った小浜島
大岳に登り島影を数えてキビ畑抜けて着いた砂浜
瑠璃色に輝く海から寄せる波、白い砂の上に続く足跡
八重山の空の太陽にように明るく笑う君はティダヌファ
港で手を振る君が小さくなる、二人で登った山が遠くなる
この船が立てる白い波はやがてあの砂浜で届くだろうか
君が砂に書いた僕たちの名前は波がすぐに消してしまったけれど
心に消えない旅の思い出を描いてくれた君はティダヌファ
聴き終わると、真澄は確認を求めた。
「二人の女性との思い出を一つにしちゃったわけね?」
「そういうこと」
「でも、砂に名前書くなんてあたりはちょっと作り過ぎじゃない?」
一般的に言えば、真澄の言う通りだった。
「そう思うのは無理もないね。でも、これ、いかにも嘘っぽいけど実話なんだ。十八歳の子は、本当に僕たちの三人の名前を砂浜に書いたんだ。すぐに波で消えたのも本当の話」
「へえ、そんなこともあるんだ。現実の世界も捨てたもんじゃないわね」
真澄の声には、まだ半信半疑という雰囲気がこもっていた。たぶん、この歌を聴いた誰もが、実話だと思う人はいないだろうと僕自身も思っていたので、それは気にはならなかった。真澄の態度からして、高評価は期待できないと思ったが、僕は一応感想を聞いてみることにした。
「それで、どう思ったこの歌」
「うん、悪くないと思うな。」
前の二曲に比べると極めて淡白な真澄の反応を受けて、僕は褒められているのか、けなされているのかよくわからなかった。そんな僕の様子にはお構いなしに真澄は次の要求をしてきた。
「純さん、とりあえず、純さんが今までに作った歌。全部聴かせてくれないかな?八重山のアルバムのお手伝いをするために聴いておきたいの」
「ああ、もちろん。」
答えた後、僕は、それまでに作った歌を次々と真澄に歌って聞かせた。その中には、島そのものの歌とは言えないが八重山を舞台にした歌、勤務先の学校の卒業生を送る会用に作った歌、その他諸々が含まれていた。真澄は「じゃあ、次をお願い」と言うだけで、感想を感口にすることなく、ただただ僕に歌うことを求めた。僕が自作の歌を全て歌い終わると、真澄は宙を見つめてつぶやいた。
「純さんの歌の世界。ちょっとわかったような気がする」
「ありがとう。それで、どう思ったの?」
気になったので尋ねたが、はぐらかされた。
「今日はもう、遅いから、その話は明日にしましょう。じゃあ、おやすみなさい」
真澄は立ち上がるとキッチンの方に行ってしまい、その後は姿を見せなかった。
七月三十日(木)
帰宅時、アパートのドアを開けると、「おかえりなさい」という真澄の声が聞こえた。「ただいま」と答えながら、僕は靴を脱いだ。
真澄はキッチンのテーブル前に置かれた椅子に座っていた。僕はテーブルを挟んで、真澄と向かい合って座った。
「さて、早速だけど、僕の歌を全部聴いた感想を聴かせてくれないかな?」
「うん、基本的にはどれもみんな良い歌だと思った」
僕を見る真澄の目には嘘の色は見えなかった。しかし、「基本的には」という言葉がかなり気になった。
「ということは、良い歌ばかりだけど問題もあるということだね」
一瞬ためらったような表情を浮かべてから真澄は口を開いた。
「気を悪くしないでね。一つ一つの歌に問題があるわけじゃないの。歌詞もメロディーも、みんな良くできていると思う」
「じゃあ、どこが問題なのかな?」
僕には真澄の意図するところが良くわからなかった。
「純さんの歌は、切ない歌詞のスローバラードが多いでしょう。それは悪いことじゃないと思うの。だけど、九つの島の歌でアルバムを作るなら、歌詞もメロディーもバラエティが必要だと思うの」
「なるほど」
確かに真澄のいう通りだと僕は思った。かつて自らも創作に携わっていただけに、的確な指摘だった。真澄の意見は更に続いた。
「今までの聴かせてもらった三曲は、どれも良い歌だけれど、全部が旅での出会いと悲しいお別れの歌でしょ。だから、残りの六曲の中では、そうじゃない歌を増やしていく必要があると思うの。そうね・・・」
真澄は少し考えてから問いを投げかけてきた。
「ねえ、純さん、旅で出会った人と楽しく再会したこととか無いの?」
思い返してみると、そういうことが一度だけあった。しかし、それはたぶん、真澄が期待するような再会ではなかった。
「無くはないかな」
「それ、どんな話?聞かせてみてくれない?」
「いいよ」
僕は、その時の話を真澄にすることにした。しかし、それは真澄にとって興味深いとは思えないすぐに終わる話だった。
僕が大学三年の夏休み、ティダヌファハウスの「ゆんたく」で、たまたま僕を含む二人の男子学生と二人の女子大生が出会った。隆彦君と早苗ちゃんは大学一年生、真由美さんは大学三年生で、みんな一人旅だった。
四人ともみな東京の大学生でということもあり、話が弾んだ。僕の三線に合わせて沖縄系の歌を一緒に歌ったりもして、すっかり大学の合コンのようなノリになっていた。その最中、まだ、原付の免許しか持っていなかった早苗ちゃんが、翌日、スクーターで石垣を一周するつもりだと言い出した。それならば、四人でレンタカーを借りて島を回ろうという話になった。
翌日、僕たちはレンタカーで島を回った。移動中の車内も、あれこれと話が尽きずにぎやかだった。川平湾、玉取崎、平久保﨑など主だった観光地を巡った。女子二人のリクエストにより、景色の良いジェラート屋や、美味しいという評判のケーキ屋にも立ち寄った。平久保﨑でもソフトクリームを食べたりと、男子としてはかなり甘ったるい旅でもあった。
その当時、僕と真由美さんには、それぞれに交際相手がいたが、隆彦君と早苗ちゃんは共にフリーで、旅の最中に二人は急速に接近しているように見えた。
その晩は、一緒に居酒屋に行った。南の島で過ごす大学生の夏休みということもあり、僕たちはかなり浮かれていた。そして、そのノリで一週間後に東京で飲み会をする約束までしてしまった。
一週間後、東京で再会した僕らは、八重山の思い出話を中心に色々な話に花を咲かせった。その後、カラオケにも行った。僕は相変わらず沖縄系の歌を歌っていたが、他の三人はそれぞれ自分の好きな歌を歌っていた。
歌に優劣はないと僕は思っている。しかし、サウンドが優先で歌詞にあまり意味がなかったり、妙に甘ったるい表現が出てきたり、頻繁におかしな英語が出てくる最近の歌の多くは僕の好みではなかった。しかし、それらの歌は、みんな売れているのだから、僕が作った誰も知らない歌に比べれば、遥かに優れていると言わざるを得ないこともまた事実だった。
もちろん、カラオケの最中にそんなことを考えていた訳ではなく、カラオケも、その前の飲み会も楽しかった。四人で石垣を回ったとことも、再会の宴を楽しんだことも、間違いなく僕にとっては良い思い出だ。
隆彦君と早苗ちゃんは、もうすっかり恋人同士という感じがした。しかし、僕たち四人が顔を合わせたのはそれが最後で、その後は連絡を取り合うことはなかった。だから、隆彦君と早苗ちゃんがどうなったのか僕は知らない。
「というわけで、楽しかったけど。全然、ロマンチックじゃない再会だったんだ」
「そうね、純さんにとってはね」
真澄は悪戯っぽく僕の顔を見た。
「でも、隆彦君と早苗ちゃんにとっては感動の再会だったわけでしょ」
確かに真澄の言う通りだった。
「だから、隆彦君と早苗ちゃんをモデルにして石垣の歌は作ってみたらどうかしら?」
なるほど、それは面白いアイディアだった。しかし、それに続く真澄の提案は、僕にすればかなり大胆な内容だった。
「悪いことじゃないんだけど、純さんの歌は、どれもみな真面目なものばかりでしょう。だから、たまには、もっと甘ったるくて、馬鹿っぽい歌詞を書いてみても良いと思うの。実際にはなかったことや、ロマンチックな脚色もたくさん入れてね。曲もアップテンポのノリの良い曲にするの。つまり、純さんの好みと正反対のような歌を作ってみたらどうかしら」
そういう歌を作ろうと思ったことは無かったが、真澄の意見には頷けるところがあった。
「そういう歌を作って、ちょっと殻を破るっていうか、違う方向性を探してみるのも良いんじゃないかな。そして、そういう試みは、残りの五つの島の歌を作るのにも生きてくるんじゃないかしら」
少し身を乗り出して、まっすぐに僕を見つめる真澄の目には妙に説得力があった。
「そうだね。じゃあ、早速とりかかってみるよ」
「うん、頑張ってね」
真澄の励ましの言葉を受けてから、僕は立ち上がり、寝室にあるデスクの前に腰を落ち着けた。しばらく創作に没頭して、ふと振り返ると、もう真澄の姿はキッチンにはなかった。
七月三十一日(金)
夜、八時ごろ、僕は寝室のデスクに置いたPCに最後の音符のデータを入力した。
出来上がったメロディーを聴き終えてヘッドフォンを外すと。背中で真澄の声がした。
「できたのね」
真澄の姿はかなり輪郭がはっきりとしていて、後ろの壁も微かに透けて見える程度になっていた。
「ああ、できたよ」
「聴かせてくれる?」
「ああ、もちろん。じゃあ、あそこに座って」
僕は、ガラス戸の前に置いたままになっていた座布団を示した。移動する真澄の足取りは、もう宙に浮いたような感覚はなく、ごく普通の歩き方に見えた。僕はケースから三線を取り出すと真澄の隣に座った。調弦を済ませた後も、僕は歌いだすのを少し躊躇してしまった。
「どうしたの?」
真澄に聞かれた。
「なんだか、聴いてもらうのが恥ずかしい気がするんだ」
「良いんじゃないかしら。ちょっと変わった歌ができたってことでしょう」
「まあ、そうだけど」
「聴かせて」
真澄に急かされて、僕は覚悟を決めてイントロを弾き始め、そして歌に入った。
風を感じたいからスクーターにしよう
石垣で出会った君が言うから
熱い日差し浴びて街並みを抜け
峠を越えて、やってきました川平湾
安い青春ドラマみたいに君と
砂浜を歩いてゆく、でもこれは夢じゃない
光る青い空も寄せる波の音も
潮の香りも君の手の温もりも
平久保崎に立つ灯台の下で
サトウキビソフトを食べたその後
ずっと海を見てた目が合った時
すごく自然に唇を重ねた二人
アイドルの歌の歌詞、みたいに馬鹿な
台詞口にしたならば君に笑われるかな
さっき食べたアイスよりも甘かったよ
君と今交わした初めてのキス
明日のお昼ごろには東京へ向かう
翼に身を委ね君は旅立つ
思い出を肴にオリオンの生
島の泡盛、今日は朝まで飲み明かそう
白黒の古い映画みたいに君と
石垣で過ごしてきた日々はもう終わるけど
束の間の出会いじゃ終わらないドラマの
続きはまた来週、舞台は東京
「私、この曲、結構、好きだな」
聴き終わると、真澄が明るく笑った。
その時、僕は初めて真澄の笑顔を見た。ずっと悲しそうな、そして申し訳なさそうな顔をしていた真澄が、この時、初めて笑った。その後、真澄はこう続けた。
「純さんにしては、なかなかの大冒険だね」
「まあ、真澄さんに言われなかったら、こんな曲、一生作らなかったかもしれないな」
褒められたものの、僕は恥ずかしさばかりが先に立った。真澄は、そんな僕の様子が可笑しくてたまらないという顔で更に僕の歌を褒めた。
「でも、やっぱり、こういう歌もあった方がいいよ。もしかしたら、九曲の中で一番好きという人も出るかもしれないね」
「それはないと思うけどな」
僕は極めて悲観的だったが、真澄は妙に前向きだった。
「少なくても、隆彦君と早苗ちゃんにとっては、一番のお気に入りになるんじゃないかな。いつか聴いてもらえると良いね」
「そうだね、もし二人がうまくいっていて、また会うことがあったら、その時は聴いてもらおうかな」
そうは言ったものの、僕は、とても人前でこんな恥ずかしい歌が歌えるとは思わなかった。
「ところで、この歌のタイトルは?」
真澄の問いに対する答えを、僕は用意していなかった。
「ああ、考えてなかった。真澄さんはどんなタイトルが良いと思う?」
真澄が決めてくれるとありがたいと思った。嬉しいことに、真澄はすぐにアイディアを出してくれた。
「そうね。『ドラマ』という言葉が二度出てくるし、石垣でドラマチックな出会いをするわけだから、『ドラマチック石垣』なんてどう?」
「ああ、いいね。それでいこう」
肩の荷が下りたような気分になった。僕は立ち上がりキッチンに向かった。冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、一気に半分くらい飲み干した。旨かった。正に解放感に満ちた味だった。
ふっと息をつくと、真澄の鼻歌が聞こえてきた。真澄は「ドラマチック石垣」の最後のフレーズをなぞっていた。振り向くと、真澄の顔はどこか嬉しそうだった。
僕にとっては、「ドラマチック石垣」は九曲の中で、最下位になりそうな気がしていた。しかし、初めて真澄と一緒に作った歌が、初めて真澄を笑顔にした。それだけで、もう十分、この歌を作ったことに意味はあると僕は思った。
八月一日(土)
「おはよう、純さん」
僕が目を覚ますと、真澄はキッチンのテーブル前に置かれた椅子に腰を下ろして僕の方を見ていた。
「おはよう、真澄さん」
僕は、開いたばかりの目をこすりながら真澄の方を見て少し驚いた。真澄の体は、輪郭がほぼ完全に整っていた。透明度もかなり落ちて、気をつけて見なければ背後はすでに透けて見えないくらいだった。
「今日は仕事もお休みかしら?」
真澄に言われて、初めて僕はその日が土曜日だと気づいた。
「うん」
「じゃあ、歌を作る時間がたっぷりあるね」
真澄は、すでに意欲満々だった。起きたばかりの僕は、まだ頭が少々ぼやけていたというのに。
朝食を済ますと、僕たちはさっそくキッチンのテーブルで五曲目の歌の打ち合わせを始めた。
「次は西表の歌を作ろうと思うんだけど、何か良いアイディアはないかな?どんな曲が良いかな、それに合わせて歌詞は書こうと思うんだけど」
「そうね」
真澄はテーブルの上に組んでいた腕をほどくと、右手の人差し指をこめかみに当てて少し考えた。
「今のところ『鳩間島巡礼』だけが三拍子で、他の三曲は四拍子だから、次は三拍子にしてみたらどうかしら」
四拍子ばかりにならないようにするというのも、変化を付けるには良い考えだと思った。
「三拍子か。それで、どんな雰囲気の曲にすれば良いと思う?」
「そうね、『鳩間島巡礼』と同じにならないようにしないといけないから、テンポが速めの明るい曲にすれば良いんじゃない」
確かに的確な意見だった。僕は、すぐにそうしようと決めて、歌詞の方に話を移した。
「そうすると、当然、歌詞も明るい内容にしないといけないね」
「そうなるわね」
「どんな話にすれば良いんだろう」
正直、僕にはまるで考えがなかった。そんな僕とは裏腹に、真澄はまた良いアイディアをひねり出してきた。
「『鳩間島巡礼』は別格としても、他の三曲はみんな旅の出会いの歌だよね、だから、次はそうじゃない歌詞にしないとね。うーん、現地の人になるのはちょっと想像がつかなくて難しそうだから、恋人同士の旅の話なんてどうかしら」
「それいいね」
僕はすぐに真澄の提案に飛びついた。
「じゃあ、歌詞はその線で決まりね。もしかしたら、もっとアドバイスができることがあるかもしれないから、純さんが西表でしてきたことを話してくれないかな?」
「いいよ。でも西表にもロマンチックな思い出なんてないよ」
「いいわ、別に。ああ、できたら写真も見せてくれないかな?」
「ああ、そうだね。その方が話が早いね」
それから、僕は寝室のテレビにパソコンをつないだ。テレビの前に座布団を二つ並べて、二人で腰を下ろしてから、僕の紙芝居のような思い出話が始まった。
河口から続く仲間川のマングローブの森は、満潮時は木々の根元が水中に沈み、干潮時には不思議な形の根が姿を現す。中流の展望台から見た仲間川は、深いジャングルの中を蛇行し、まるでアマゾンのようだ。
近づくと物凄い速さで砂の中に潜ってしまうカニの群れ。水辺近く陸の上をおぼつかない足取りで移動するムツゴロウの仲間の魚たち。川面を埋め尽くして流れてゆく白いサガリバナの群れ。岸辺で一斉に鋏を振って手招きをするシオマネキ。西表の川には、たくさんの興味深い動物たちがあふれていた。
陸に目を向ければ、奇麗な緑色をしたキノボリトカゲ、まるで怪獣のようなキシノウエトカゲもいた。
ピナイサーラを初めとするいくつもの滝は、豪快なものから優雅なものまで様々だ。
海は上も下も美しい色に満ちていた。見たこともないような色の水面、色とりどりの魚たちがカラフルな珊瑚の上を行き交う水中。どちらも正に別世界だ。
そんな西表の写真の数々を、真澄は目を輝かせて見つめるばかりで、何も言ってこなかった。ようやく真澄が口を開いたのは、シーカヤックに乗る僕の写真を見た時だった。
「純さん、カヌーにも乗れるの?」
「ああ、それはカヌーの一種なんだけど、シーカヤックって言うんだ」
「シーカヤック?聞いたことないな。どんな物なの?」
そう聞かれて、僕は少し返答に困ったが、なんとか説明をしてあげた。
シーカヤックとは何か。言葉だけで説明するのは少々困難だ。だが、おそらく、誰もが次のような光景を目にしていることは間違いないだろう。細い船体の真ん中に開いた穴から上半身だけを出した人が、一本の棒の両側に水を掻くブレードが付いたパドルを操り、川の急流を下って行く姿だ。普通、人がカヌーと呼ぶこれにはリバーカヤックという名前もある。つまり、それの海版がシーカヤックだ。シーカヤックはリバーカヤックに比べると船体が長い。舵の付いているものといないものがあり、付いている場合は、船の中にある左右のペダルを足で踏むことで操舵を行うようになっている。僕がツアーで利用しているのは、もっぱら舵付きのものだった。
「なるほど、良く分かったわ。なかなか面白そうな乗り物ね」
「そうだね、いろいろなツアーがあってね。遊覧船では行けないマングローブの森の奥まで行ったり、珊瑚の奇麗な所まで漕いで行ってシュノーケリングをしたりもできるんだ」
「西表、なんか、私も行ってみたいな」
そう呟いて真澄はため息をついた。その次の瞬間に、僕の頭に浮かんだ考えをそのまま口にしてしまった。
「連れてってあげようか?」
「え!」
真澄の表情が曇った。まずいと思い、僕はすぐに次の言葉をつないだ。
「ああ、もちろん歌の中での話だけどね。歌詞に合った写真を選んで、歌と連動して画面が変わってゆくビデオを作ろうと思うんだ」
「つまりカラオケビデオみたいのを作るわけね」
「そう、真澄さん、西表に行ったら何がしたい?」
「そうね」
考えている真澄の顔には、すでに明るさが戻っていた。
「はい、先生!」
真澄は指の先までまっすぐにして右手を挙げた。
「はい、玉木さん」
「私、シーカヤックでマングローブの奥まで行きたいです」
「よろしい。許可します」
真澄は少し嬉しそうな顔をしてから、また右手を挙げた。
「はい、先生!」
「はい、玉木さん」
「私、サガリバナを見に行きたいです」
「却下します。サガリバナの歌はこの前に聴いたでしょう」
真澄は少し口を尖らせたが、すぐにまた右手を挙げた。
「はい、先生!私、シーカヤックで珊瑚を見に行きたいです」
「よろしい。許可します。では、もう一つだけ希望を言ってください」
真澄は少し考えてから、また手を挙げた。
「はい、先生!私、ピナイサーラの滝の上に行ってみたいです」
「よろしい。許可します」
やりたいことが揃ったというのに、真澄はまた手を挙げた。
「はい、先生、質問があります。おやつはいくらまでですか?」
僕は笑いそうになったが、真澄のジョークにちゃんと応えた。
「五百円までです」
真澄は懲りずに、また手を挙げた。
「はい、先生。バナナはおやつに入りますか?」
「入りません。好きなだけ持ってきてください」
「分かりました、先生。ありがとうございます」
真澄が言い終わると、僕たちは二人とふき出してしまった。この世のものでない真澄と、こんなバカなやり取りをしていることが、僕にはとても不思議なことに思えた。
八月二日(日)
「じゃあ、行ってくるね」
「行ってらっしゃい」
真澄の声に送られて僕は勤務先の学校に向かった。僕のリュックの中には、パソコンと、その他必要な機材が収まっていた。完成するまではビデオの内容を真澄には知られたくなかった。だから、僕は学校で作業をすることにしたのだ。
夏休み中の日曜日ということもあり、学校には誰もいなかった。僕は放送室にこもり、一人黙々とビデオの制作に励んだ。
僕は、まずは歌の方を完成させることにした。歌の部分、ギターとベースの伴奏の音符はすでに入力を済ませていた。次に必要なのは、僕が入力した音符通りにパソコンが再生してくれる伴奏に合わせて、僕自身が歌う歌を録音することだった。パソコンにマイクとヘッドフォンをつないだ後、僕は放送室の壁に歌詞を印字した紙を貼りつけた。ヘッドフォンを被り、マイクを手にして録音の準備が完了した。
歌の録音自体にはそれほど時間はかからなかった。五回目には満足のゆく歌が録音できた。しかし、その後が厄介だった。歌と伴奏の音が心地よく聞こえるように調整するのに時間が掛かったのだ。
しかし、それ以上に時間が掛かったのが歌詞に合った写真選びと、選んだ写真をビデオ編集ソフトで使えるようにするための調整だった。音と画像のデータがどうにかそろった頃には、もうお昼時になっていた。僕は買っておいたサンドイッチを食べてから、その次の段階の作業に入ることにした。
昼食後、僕はビデオ編集ソフトに歌の音声データと写真のデータを読み込ませた。後は、歌に合わせて写真が切り替わってゆくようにすれば良いのだ。しかし、こちらも思った以上に多くの手間と時間が必要だった。
結局、僕が学校を出たのは夕方近くになってしまった。僕は、真澄の待つアパートに帰る前に、少し早めの夕食を取った。実は、翌日から二泊三日の予定で与那国島に行くことになっていたのに、まだ、ろくに準備をしていなかった。真澄にビデオを見てもらったら、すぐに準備にかからなければならかった。
「ただいま」
僕がドアを開けると、真澄は、まるでずっとそこで待っていたかのように戸口に立っていた。
「お帰りなさい。ずいぶん、遅かったわね。私、待ちくたびれちゃった」
「ごめん、ごめん。思ったより作業に時間が掛かったんだ」
僕は靴を脱ぐと、さっそく寝室のテレビの前に向かった。座布団は、まだ前日のままテレビの前に並んでいた。僕はパソコンをテレビにつなぎ、ビデオを再生する準備をした。完了したところで真澄に声を掛けた。
「お待たせしました。上映の開始です」
真澄は小走りでやって来ると僕の隣の座布団に腰を下ろした。
「いよいよ二人で西表に出発ね。なんかすごく楽しみだな」
「あんまり期待しないでね」
僕は、そう言い置いてからビデオの再生を始めた。
まず、真っ黒な画面から「いるもて紀行」というタイトルが浮かび上がってきた。「いるもて」は西表の古い呼び名だ。イントロの開始と共に、画面は石垣行の飛行機の出発時間の表示、飛行機の機体、西表行きの高速船の出発時刻の表示、それから高速船の船体へと変わった後、歌が始まった。
二人で初めて旅に出た南の島の西表
マングローブの仲間川、カヤック漕いで遡り
細い支流に入ればそこは、二人ぼっちの音のない国
君の背中に川面から返す光が揺れている
鏡のように凪いだ海、二人でカヤック漕いでゆき
フィンとマスクを身に着けて飛び込む海は別世界
ティダの光を受けてきらめく色とりどりの珊瑚や魚
君と二人で見てるのが、なぜだかとても嬉しくて
遠くに鳩間を見下ろせるピナイサーラの滝の上
少し日差しが傾いて旅の終わりが忍び寄る
あっと言う間に旅も終わりね、つぶやく君の肩抱き寄せる
この旅はもう終わるけど、また何度でも来ればいい
ビデオが終わると、食い入るように画面を見つめていた真澄が大きな拍手をした。
「すごい、純さん。もう本当に感動しちゃった。西表に連れて行ってくれてありがとう」
「どういたしまして」
余りにも褒められたので、僕は少々照れ臭くなった。
「ねえ、純さん、もう一度再生してくれない。」
真澄は、僕が作ったビデオがひどく気に入ったようだった。
「いいよ」
僕は、すぐにビデオを再生してあげた。真澄は目を輝かせて画面に見入っていた。その様子を見て、僕は少し複雑な気分になった。僕は真澄を実際に西表に連れていった訳ではなかった。ただ、真澄がやりたいことのリクエストを取り入れてビデオを作っただけだった。しかもビデオの制作はかなりのやっつけ仕事で、僕に言わせれば、かなりクオリティーの低いできだった。それなのに、なんで真澄はこんなにも喜んでいるのだろうか。僕にはよくわからなかった。だが、ふと気づいた。こんな不出来なビデオでさえ嬉しいくらい、真澄が過ごしてきた時間は暗かったのだ。
相変わらずビデオに心酔している真澄の目が輝けば輝くほど、僕は真澄が哀れに思えてならなかった。できることなら、本当に真澄を西表に連れて行ってあげたいと思った。そんな日は永久に来ないことなど、わかりきっているというのに。
八月三日(月)
「じゃあ、行ってくるね」
与那国に旅立つ朝、背中に小さなリュックを背負い、キャスターで三線のケースが入ったもう一つのリュックを引きながら、僕はアパートの玄関に立った。
「ちゃんと帰って来てね」
なぜか、真澄が少し不安げな顔をしたような気がした。
「当たり前じゃないか、じゃあね」
「いってらっしゃい」
僕は見送られて部屋を出た。約三ヶ月ぶりの八重山行きだというのに、僕の心はいまひとつ浮き立っていなかった。真澄を、また独りぼっちにして、自分だけが旅に出てしまうのが、なんとなく後ろめたかった。
日本最西端の島である与那国島に行くのは、実に久しぶりだった。他の八重山の島々へは、石垣から高速船で渡れたが、与那国島だけはそうはいかなかった。フェリーはあるにはあったが、四時間もかかる上に揺れがひどく、誰もが死ぬほどの船酔いをすることで有名だった。そんなわけで、僕は飛行機を利用した。与那国島から台湾まではわずか百二十キロ、正に国境の島だった。
与那国島に着くと、僕はレンタカーを借りて島を回った。与那国島が他の八重山の島々と違うところは、石垣からの距離以外にもあった。与那国島は基本的に断崖絶壁の島で、カイジ浜のような広い砂浜がないのだ。与那国馬という日本在来馬がいるのも、その一つだ。島の東端にある東崎(アガリザキ)の辺りでは、馬や牛が平気な顔をして一般道をあるいるという不思議な光景も見られる。
僕は、島の西側、久部良の集落にある宿を予約していた。近くには「日本最西端の碑」や、「日本最後の夕陽が見える丘」があった。
夕暮れ時、僕は「日本最後の夕陽が見える丘」に行ってみた。そこには、僕以外誰も来ていなかった。その日、与那国の日没は十九時時三十一分。真澄のいる東京では、四十五分も前に日が沈んでいるはずだった。ふと、僕は真澄のことを考えた。暗い部屋で電気もつけず、いや、つけることもできずに、何を考えているのだろうかと思った。三十数年ぶりに得た話し相手を失った孤独の大きさは、想像すらできなかった。今の時代、普通なら離れていても携帯はつながる。メールのやり取りもできるし、旅の写真を見て楽しむこともできる。しかし、真澄はそれさえもできないのだ。日本最後の夕陽を見ながら、そんなことを考えている自分が、なぜだか不思議に思えた。
その夜、僕は宿の近くの居酒屋で夕食を取った。与那国でしか作られていないアルコール度数六十度の泡盛も味見をしてみた。イルカの肉などという珍しいものもあり、僕は沖縄料理を堪能した。真澄にも食べさせてあげたかったなとも少し思った。
宿に戻ると、僕はリビングルームで三線を弾くことにした。調弦をしていると、十五人ほどの学生のグループが飲み会から帰ってきた。そのうちの一人が、酔った勢いで僕に有名な沖縄のバンドの曲のリクエストをしてきた。快く答えてあげると、彼らは一緒に歌いだし、リビングは一気に宴会モードになってしまった。
彼らはリビングのソファ、あるいは、床に直接腰を下ろして、次々とリクエストをしてきた。応えられる限りのリクエストにはすべて答えた。彼らの中には、更に缶ビールを持ち出してくるものもあり、正に宴会モードは最高潮になった。
オリジナル曲はないのかと尋ねられ、調子に乗った僕は、それまで作った八重山の歌を全て歌ってしまった。どれも大きな拍手をもらった。単なる成り行きではなく、本当に評価してもらえたのだと感じた。
「鳩間島巡礼」を歌った時、彼らの内の一人が涙をこぼしていた。創作の経緯を話した訳ではないので、全くの偶然だったが、彼の姉も最近、病に倒れたという話だった。その話を聞いて、僕は姉の死を歌にしたことに対する罪悪感が解けていくのを感じた。
目の前で、彼らが僕の歌を評価してくれるのは、すごく嬉しく思えた。しかし、僕の心の中に一抹の寂しさがあった。それは、目の前に真澄がいないということだった。
八月四日(火)
その日、僕はダイビングに行った。与那国のすぐ近くには、通称「海底遺跡」と呼ばれる有名なダイビングスポットがあった。その時の僕の旅の主な目的は、その「海底遺跡」を見ることだった。
「海底遺跡」は簡単に言えば、城の土台がすっかり海底に沈んでしまったようにも見える不思議な地形だった。まるで、どう見ても人が作ったとしか思えないような階段状やアーチ状の岩があったり、岩の表面に、これまた人が彫ったように見える模様があったりで、何かの遺跡ではないかと思われても不思議ではなかった。
ネット上の百科事典には、「海底遺跡」は自然の造形であると科学的には結論付けられていると書いてあったが、人工であろうとなかろうと、とにかに「海底遺跡」は僕の心を魅了した。
しかし、参加者が僕一人だったせいもあるのか、僕は一抹の寂しさも感じていた。この光景を真澄にも見せてあげたかったと何度か思った。後で写真を見せることはできたが、やはり実物の持つ魅力が伝えられるとは到底思えなかった。
その夜、宿は静まり返っていた。三線を弾くきも起こらず、僕は早々に眠りについた。
八月五日(水)
旅の最終日、与那国空港で飛行機を待ちながら、僕は初めて感じる気分を味わっていた。いつもなら、帰りたくないという気持ちになるところだった。しかし、今回は、ここまで来てしまったからには早く帰りたいと思っていた。僕は、早く真澄に会いたいと思っていた。旅で経験したことを話したかった。撮った写真を見せたかった。そんな気持ちになっている自分に、僕自身ひどく驚いていた。
「おかえりなさい」
アパート戻ると、真澄が笑顔で僕を迎えてくれた。帰って来たのだと思った。
「ただいま」
幾度となく旅をしてきたが、家に帰ってほっとした気分になったのは初めてだった。真澄の姿は、もはやほとんど普通と変わりなくなっていた。あえて言えば、どことなく、存在感が薄い気がするという程度でしかなかった。
「純さん、旅はどうだった?」
「楽しかったよ。念願の『海底遺跡』も無事に見られたしね。でも、真澄さんの顔が見られなくて、ちょっと寂しかったかな」
「そう。とりあえず、荷物を下して。楽にしたら」
真澄に促されて僕は荷物を下した。そして、ベランダに続くドアの所に置かれたままになっていた座布団に腰を下した。真澄も隣に座るとぽつりと言った。
「私もね、純さんがいなくて寂しかったわ」
「ごめんね」
本当に申し訳ないことをしたという思いでいっぱいだった。
「そんなこと、純さんが謝ることじゃないよ。私はオバケなんだから仕方がないわ」
僕は、そういう卑屈な台詞を口にして欲しくなかった。だから、少し口調がきつくなってしまった。
「自分のことオバケなんて言うなよ」
真澄は俯くと、ぽつりとつぶやいた。
「純さんは本当に優しいね」
優しくなんかないと僕は思った。
「そんなことないよ。真澄さんを置いて、一人で旅に出たりしたんだから」
「でも、ちゃんと帰って来てくれたわ。私ね、本当は、純さんはもう帰って来ないかもしれないって思ってたの」
意外な言葉が飛び出し、僕は少し慌てた。
「そんなことあるわけないじゃないか」
僕はすぐさま真澄の空想を否定した。
「そうかしら、やっぱりオバケと一緒に暮らすのが嫌になったとか、旅先で良い人に出会ったとか、ここに帰りたくないと思う理由ができても不思議ではないし」
僕は真澄の言葉に少しだけ腹が立った。
「だから、自分のことオバケなんて、もう言うなよ」
少しきつくなってしまった僕の言葉に、真澄は泣きそうな声で答えた。
「うん、もう言わない」
僕は真澄が可哀そうになり、明るい方向に話題を変えたいと思った。だから、僕はなるべく明るい口調で真澄に尋ねた。
「真澄さんは、僕がいない間、他に何を考えていたの?」
「そうね。純さんは今、何をしているのかなとか、与那国の歌は、もうできたのかなとか、そんなことかしら」
僕の意図に気づいたようで、真澄も明るい声で答えてきた。
「そうなんだ」
僕は少しほっとしたが、その後の真澄の言葉は、必ずしも明るい話ではなかった。だが、そこには悲しみや苦しみの匂いはなかった。
「私ね、ここから夕陽を見ていたら、なんだか切なくなっちゃった」
「どうして」
尋ねると、真澄はどちらかと言えば明るい口調で答えた。
「与那国島って、日本で最後に日が沈む場所なんでしょ。『ああ、この夕陽はこれから純さんのいる場所に行くんだな』なんてことを思ったの」
そう答えた真澄は、どこか遠くを見るような目をしていた。
「そうか、僕もね、旅の間に、何度か真澄さんのことを考えたんだ。真澄さんに見せてあげたいと思った景色がたくさんあったよ」
「私がちゃんと生きていれば、電話もメールもできたし。写真だって送ってもらえたのにね」
真澄は言った後、すぐに後悔したような表情を浮かべたが、僕は気づかないふりをして、あえて一般論で答えた。
「ああ、そうだね。今は離れていても簡単に人と繋がれる時代だものね」
「でも、やっぱりお互い傍にいるのが一番だと思うな」
真澄は僕の方を見ていた。
「確かにそうだね。僕は、遠くにいる人を思う気持ちというのを初めて経験したよ」
「そう、それって幸せなことだと思うな」
少し気になる台詞だった。だから、何気なくさらっと尋ねることにした。
「真澄さんはどうなの。故郷にいる誰かを思うことはなかったの?」
「まったくなかったと言えば嘘になるけど、まあ、ほとんどなかったわね」
そう言った後、真澄は急に思いついたことを口にした。
「ねえ、純さん。与那国の歌は、望郷の歌にしたらどうかしら?そうすれば他の歌の歌詞とは違った感じを出せるんじゃないかしら」
「でも、僕は東京の出身だよ」
話が歌作りの方向に向かうとは思わなかったので、不意を突かれたような気がした。
「そうね、でも歌は実話である必要はないし」
「まあ、そうだけど」
戸惑う僕を尻目に、真澄は楽しそうに歌詞の構想を語り始めた。
「純さんは、与那国にいて、私のことを思ってくれたんでしょ」
「まあね」
そう答えると、真澄は更に嬉々として続きを話した。
「私は、ここで夕陽を見ながら純さんのことを考えていた。だから私たちの立場を逆にしてしまえばいいのよ。」
「どういうこと?」
真澄の意図が少し分かりかねたので聞くと、真澄はすぐに答えた。
「純さんは、ここで夕陽を見ながら、与那国にいる私のことを考えてくれたことにするの」
「なるほど。でも、僕は東京出身だから、与那国にいる真澄さんのことを考えても望郷の歌にはならないよ」
僕は、そう言ったが、真澄の中ではすでに問題は解決済みだった。
「そうね。だから少し手を加えるの。純さんは与那国から東京に出てきて、故郷に残してきた恋人を思っているという設定にすれば、良い歌ができるんじゃないかしら」
「確かに、それは良いアイディアだね」
「そうでしょ」
真澄は少し得意げな顔をした。
「その線でいってみることにするよ」
僕が答えると、真澄は曲に関してもかなり具体的なアイディアを出してきた。
「それじゃあ、メロディーは全部でなくて良いけれど、沖縄の音階を使ってみたらどうかしら。このところ四拍子の歌が多かったから、三拍子で作ってみるのも悪くないと思う。結構ユニークな歌になるかもしれないわね」
「ああ、確かに、それは面白そうだね」
「良かった。私、少し役に立てたね」
真澄は天井の方を見上げて嬉しそうに笑った。
八月六日(木)
「おかえりなさい」
帰宅した僕を玄関の近くで迎えた真澄を見て、僕は驚いた。真澄の姿は、もう完全に普通の人と同じに見えた。
「ただいま」
僕は、とりあえずリュックをデスクの上に置いてから、改めて真澄の元に近づいた。僕は確かめてみたかった。
「あの、真澄さん、ちょっと手を出してくれないかな?」
僕は、真澄の方に向けて、自分の掌を胸の高さぐらいに挙げて見せた。真澄は僕の意志をくみ取ったのか、左手の掌を挙げた。
「ちょっと触れてみてもいいかな?」
「うん」
真澄の答えは、決して嬉しそうな様子ではなかった。
真澄と合わせようとした僕の掌は、そのまま真澄の掌を通り越した。
「見え方は普通の人と変わらないのに、やっぱり触れることはできないんだね」
「そうみたいね」
真澄は、初めからそうなることが分かっていたようだった。
「外は暑かったでしょう。シャワーでも浴びたら?」
真澄が気まずい雰囲気を破ろうとしたので、僕もそれに乗ることにした。
シャワーを浴びながら、僕は考えた。鳩間島では、姉の姿は初めからはっきり見えていたし、声も聞こえた。しかし、真澄は最初、声しか聞こえなかったし、姿もおぼろげにしか見えていなかった。僕は相変わらず、姉と真澄以外の幽霊の姿など、一度も見たことがなかった。もし真澄の説が正しいなら、見え方に限って言えば、真澄はすでに姉と同じくらい身近な存在になったということなのかと思った。
八月七日(金)
その日の夜、与那国の歌はできあがった。真澄から良いアイディアをもらっていたので、歌詞はすんなりと完成していた。しかし、曲の方は少し難しかった。後半で転調する前は、沖縄の音階を使ったのだが、西洋音階のようにドレミファソラシドの八音ではなく、ドミファソシド六音でメロディーを作るのは少々骨が折れた。だが、その甲斐あって出来上がった歌は、三線にもよく馴染んだし、他の歌とは歌詞も曲の雰囲気も違った味わいを出すことができた。
出来上がった歌を真澄に聞いてもらうために、僕たちはいつものようにベランダ側に並べた座布団に腰を下した。そして、僕は三線のイントロに続けて望郷の歌を歌い始めた。
与那国島は西の果て
最後に夕陽沈む島
遠く離れて東京で
故郷思い見る夕陽
ビルの谷間に、今、沈み
これから島に行くのなら
ティダンよ心伝えてよ
島で待ってるあの人に
今日は台湾見えました
写真の付いたメール見て
すぐに返事は書けるけど
切なさ添付できません
寂しさ募るこんな夜は
花酒飲んで寝てしまおう
島へ帰れるその日まで
頑張れ少しあと少し
「とっても良い歌ね。こんな歌を贈られたら私、何十年でも待てる気がする」
歌が終わると、真澄が感想を聞かせてくれた。
「大袈裟だな」
「そんなことないよ」
褒めてはもらったものの、僕には少々気になることがあった。
「でも、東京出身の僕が歌って、なんか嘘っぽく聴こえなかった」
「ううん。『いつも八重山に行きたい』って思っている純さんの気持ちがこもっているから、すごく自然に聴こえたわ」
「そうか、それなら良かった」
ほっとした気分に浸っていると、真澄に尋ねられた。
「それで歌のタイトルは決めたの?」
「三拍子だから『望郷ワルツ』とかでどうだろう」
そのタイトルには少し納得がいかないといった表情を浮かべて、真澄は自分の考えと共に質問を繰り出してきた。
「この歌の雰囲気だったら、カタカナじゃなくて日本語の方が良いと思うな。ワルツって日本語でなんて言うの?」
「輪舞曲だったかな」
「じゃあ『望郷輪舞曲』で良いんじゃない」
真澄のアイディアは悪くないような気がした。
「そうだね、そうしよう」
僕が同意すると、真澄は更に少し歌に対する感想のようなものを付け足した。
「でも、私、この歌好きだな。純さんのいない時に口ずさんでしまいそう」
そう言って、真澄は少し照れたように笑った。
八月八日(土)
朝食が済むと、僕たちは、キッチンのテーブルで次の曲の打ち合わせを始めた。土曜日なので、たっぷり時間が取れるのが嬉しかった。
「次は黒島の歌を作ろうと思うんだ」
「黒島ってどんな島なの、前に少しだけ話は聞いたことがあるような気がするけど」
真澄が黒島の話を覚えているとは思わなかった。しかし、前回はわずかに触れただけだったので、もう少し詳しく話をすることにした。
「そうだったね。黒島は石垣から船で三十五分くらいで行ける小さなハート形の島なんだ」
「確か、人より牛が多い島だったよね」
僕は真澄の記憶力に少々感心した。
「よく覚えているね。そう、そうなんだ。とにかく人にはあまり会わないし、食事ができるところが少ないうえに、お休みが多くてね」
「あまり観光地化されていないのね」
真澄は八重山の島々の状況にかなり理解が深まってきたようだった。
「そうだね、僕はよく行くけど、確かに、あまり見どころの多い島ではないね」
「じゃあ、どうして、純さんはよく行くの?」
真澄は不思議そうな顔で僕を見つめた。
「それは、海がすごく奇麗だからかな」
「なるほどね。そんなに奇麗なら私も見てみたいな。ねえ、純さん、黒島の写真見せてくれない?」
真澄は俄然、黒島の海の色に興味が湧いたようだった。
「ああ、もちろん。じゃあ、パソコンの置いてある方に行こうか」
「うん」
僕たちは立ち上がり、寝室に置かれたデスクの方に向かった。とりあえずパソコンの電源を入れ、キッチンに真澄の分の椅子を取りに帰った。
「はい、どうぞ」
僕はデスク用の椅子の脇にキッチンの椅子を置いた。
「ありがとう」
真澄は一言礼を言うと椅子に身を預けた。
それから、僕は黒島の写真をためたフォルダを開き、まずは石垣からの船が大きく左折して黒島港に入る直前の海を見せてあげた。青とも緑ともつかぬ、その澄んだ美しい色は、なんとも例えようがなく、真澄の望み通り写真を見せたのは正解だったと思った。僕が次々と写真を表示すると、真澄はその度に感嘆の声を上げた。船から撮った写真を見終わったところで、僕は真澄に黒島の交通事情を説明してあげた。
「黒島はね。小さくて平らな島なんだ。レンタカーなんてないから、移動はもっぱら自転車だね」
「そうなんだ」
真澄がそう答えた後、今度は港の防波堤から撮った写真を見せることにした。
「次は港の防波堤に登って撮った写真。対岸の小浜島との間の海がすごく奇麗だろう。濃いスカイブルーって言えばいいのかな。僕は勝手に『黒島ブルー』って名前を付けているんだ」
さっきまでは、うるさい位の声を上げていた真澄は、一転して、食い入るように画面をのぞき込んだままで、何も言ってこなかった。真澄は、まるで写真の中の神秘的とさえ言える海の青に魂を奪われているかのように見えた。
次に、僕は西の浜で撮った写真の数々を真澄に披露した。実際に自転車で西の浜に行くのは少々厄介だった。港の近くから民宿の脇を通る未舗装の道の轍にそって自転車を漕がなければならなかった。轍以外の部分は結構背の高い草が生えていた。標識も何もない場所で右に入り、坂を上りきったところで自転車を止める。そこから、ほとんど草に埋もれた獣道のような細い道を下ると浜に出る。右に折れて、映画に登場する巨大なカメの怪獣のような岩を通り越すと、大きな眺望が開ける。「黒島ブルー」は右端に小さくなるが、西表や小浜との間の海は、澄み切った美しい色をしていた。真澄は相変わらず黙って写真を見つめるばかりだった。
その次に見せたのは伊古桟橋の写真だった。伊古桟橋は、竹富島の西桟橋と似ていたが、長さは西桟橋と比べるとかなり長かった。西桟橋では、小浜島の後ろに入り西表島が重なって見えたが、伊古桟橋では正面に見えるのは小浜島だけで、西表は左手に見えた。伊古桟橋は干満による景色の変化が大きいので、時間を選んで来ないといけないのが難点だった。
その他、島のほとんどを占める牧場、灯台、新城島を間近に望む仲本海岸の写真などを見せたが、真澄は終始無言で写真に見入っていた。写真を見せ終わると、ようやく真澄が感想を洩らした。
「海がすごく奇麗な、とても素朴な島なのね」
「そうだね。泊ったことは一度しかないし、とにかく人と会うことが少ない島だから、この島では人との関りは、ほぼゼロに近くてね。そんなわけで、ロマンチックなエピソードなんて全くなし」
僕は、言い訳めいた前置きをしてから、少し前から頭に浮かんでいた提案を持ちかけることにした。
「そこで、相談があるんだけど」
「何かしら?」
「真澄さんの初恋の話を聞かせてくれないかな?」
「ええ、どうしてそこに話がつながるの?」
真澄は、怒っているとまではいかないまでも、かなり不機嫌な返答をした。僕は、少々ひるんだが、引き下がる余裕はなかった。
「いや、少しネタに詰まっているだよね。だから、自分のことじゃなくて、他人の話から何かをつかみ取れないかと思ってね」
予想はしていたが、真澄の反応は相変わらず芳しくなかった。
「前にも言ったけど、私の昔の話なんて、ひどい話ばかりよ」
「でも、やっぱり、まるで恋をしなかった訳でもないでしょ」
真澄の辛い過去を知っているだけに、追及の手を緩めなかったのは少々酷な気がした。
「ええ、それはまあ」
真澄は少し恥ずかしそうな顔をした。
「じゃあ、聞かせてよ」
僕はもう一押ししてみた。
「もう、まったく冴えない話だから、歌のモチーフにはならないと思うけど」
真澄は、まだ少しためらっていた。
「まあ、それは僕が考えることだから、とにかく話してみてよ」
僕はあと一息だと思った。
「じゃあ、しょうがないわね」
ようやく、真澄は話す気になったようだった。
「相手はどんな人だったの?」
僕は、真澄が話し出す道筋をつけるために尋ねた。
「彼はね、中学の同級生だったの。地元では結構な名門の家柄の長男でね。成績は学年でトップ。ハンサムで運動神経もよかったわね」
「なんか典型的な初恋の相手タイプだね」
「そうね、正にその通り」
覚悟を決めたせいか、遠い日のことを語る真澄の眼差しは、心持か優しくなったような気がした。
「で、彼とはどんな仲だったの?ただ見てるだけで終わりってパターンかな?」
「そうでもないの。結局、お互い口には出さなかったけど、彼も私のことを好きでいてくれたと思う」
真澄は少し嬉しそうな顔をした。少しだけ嫉妬心が湧いた。
「なんか昔の演歌の歌詞みたいな話だね」
「そりゃあ、そうよ。だって正真正銘、三十年以上昔の話だもの」
真澄を促すために、僕は次の質問を投げかけた。
「ところで、二人はどんな風に仲良くなったの」
「中学二年の時にね。私たちは図書委員になったの」
「図書委員同士の恋か。なんか、そんな映画二つぐらいみたような気がするな。図書委員同士って定番なのかな」
「さあ、どうかしらね」
「うちのクラスの図書委員って誰だったかな。うーん、あいつらは付き合っている様子はないな」
「ねえ、私の初恋の話じゃなかったっけ」
真澄が僕をからかった。
「ごめん、そうだったね。続きを聞かせて」
一瞬、呆れたような表情を見せてから、真澄は、また話し始めた。
「知っての通り、図書委員って昼休みとか放課後とかに貸し出し当番があるでしょ」
「そうだね」
「田舎の学校はクラスが少ないから、当番が回ってくるペースも速かったの。だから、私たちは結構一緒に過ごす時間が多かったわけ」
「でも、ただ一緒にいる時間が長かったからって恋に落ちるってものでもないでしょう。何か共通の話題とかあったのかな」
恋に落ちるきっかけ、それは重要な要素だから押さえておくべきだと思った。いざ、聞いてみると、真澄は案外すらすらと二人の馴れ初めを話し始めた。
「私たちはね。二人とも小説が好きだったの。だから、いつも小説の話をしていたわ」真澄は少し夢を見ているような目をした。
「それで、二人はどんな小説を読んでいたの」
「ジャンルにこだわらず色々なものを読んでいたわね。でも、昔の田舎の中学の図書館なんて、本の数も少ないし、置いてあるのは、いわゆる文学作品がほとんどで、新しい本はほとんど入ってこなかったわ」
「じゃあ、古い本ばかり読んでいたの」
「ううん、彼の家はお金持ちだったから、彼は次々と新しい本を買ってたわ。私は、彼が読み終わった本をいつも借りて読んでたの」
「なるほどね」
「二人で同じ本を読んで感想を語り合ったりして、とても楽しかったわ」
遠い昔の話なのに、歳をとらない真澄の顔は恋する少女の面影を残していた。その恋の行方を知るべく、僕は次の質問をした。
「それで、二人はデートとかしていたの?」
三十数年前の田舎の村のデート、僕には想像もできない話だった。
「デートなんてしたことないわよ。今とは時代が違うのよ。その頃の田舎の中学校にはデートなんてしてる人はいなかったわ」
「そうなんだ」
「それに、彼は名門の家柄で、私は悪名高き母親が生んだ私生児だから、登下校で一緒に歩くことさえなかったの、そんなことをしたら、村中が大騒ぎになるのが目に見えていたから」
少し前までの夢を見るような真澄の目は、少し暗いものに変わっていた。
「なんだか辛い話だね」
「そうね、私たちは教室では全く話もしなかったのよ。私たちが話すのは当番の時だけだったの」
身分の違う二人の図書室限定の恋。昭和の古い小説にはなっても、令和の時代の歌の歌詞には直結しない話だった。だが、それとは裏腹に、真澄がどんな初恋をしていたのか、それに関する興味はむしろ深まっていた。
「なんか寂しい話だね。もしかして、手をつないだこともないの」
「ないわ」
真澄はきっぱりと言い切った。なのに、僕は追い打ちをかけるような質問をしてしまった。
「もしかして、お互いに触れ合うことって一度もなかったの?」
「一度だけあったわ。触れ合うって程のことでもないんだけどね」
些細なことかもしれないが、聞きたいと思った。
「何があったの?」
真澄は、また少し夢をみるような目をして話を続けた。
「中二の夏休みにね。臨海学校という行事があったの」
『臨海学校』、最近ではあまり耳にしない行事だった。
「臨海学校って、みんなで海水浴に行く行事だよね」
「うん。バスで移動して、二泊三日だったの」
山間の中学生の海への旅、何かが起こりそうなシチュエーションに思えた。
「もしかして、夜中に二人で抜け出したりしたの?」
「まさか、そんなことできるわけないじゃない」
僕の想像はあっさり否定された。
「じゃあ、何があったの」
「今の人から見れば、つまらないことよ」
真澄は少し照れくさそうな顔をした。僕は続きを話すように真澄を急かした。
「笑ったりしないから話してくれないかな」
「本当につまらないことなのよ。」
同じような前置きをして、真澄は続きを話し始めた。
「今で言ういじめというほどではないけれど、私は、なんとなく敬遠されてたから、バスでは、私の班の女の子は、誰も私の隣に座りたがらなかったの。彼は、しかたがないからみたいな振りをして、私の隣に座ってくれたの。私は、とても嬉しかったんだけど、クラスメートのいる所で彼と親しく話すことができないから、私たちは、行きも帰りもずっと黙ったままだったの」
真澄は、どこか遠くを見るような目で語り続けた。
「帰りのバスの中では、クラスメートはみんな疲れて眠ってしまったの。起きていたのは、私と彼だけだったけど、それでも、怖くて彼とは話はできなかったの。私は窓側に座ってたんだけど、仕方なく窓の外を見ていたら、素晴らしい景色が見えてきたの。段々畑の続く道に夕陽が差し込んで、とても綺麗だったわ。私が見惚れていたら、彼が不意に言ったの『きれいな景色だね』って。その時、私、思ったの。『彼と一緒に、この美しい景色をずっと見ていたいな』って」
真澄の目は、古いアパートの先の遠い空を見つめていた。真澄にとって数少ない美しい思い出を眺めていた。
「その後、私、うっかり眠ってしまったの。目が覚めた時には、心臓が口から飛び出そうだった。私、彼の肩にもたれて眠ってたの」
真澄の目には、自らの命を断ったアパートは見えていなかった。真澄は、ただ、遠い美しい時間だけを見ていた。
「私は、慌ててまっすぐに座りなおしたの。眠気なんて完全に吹っ飛んでいたわ。そうしたら、彼が言ってくれたの『なんだ、起きちゃったのか、ずっと寝ていればよかったのに』ってね」
真澄の目は再び、今を、そして僕の顔を映した。
「それだけのこと。たったそれだけのことなのよ。たぶん、彼は、そんなこと覚えていないと思うわ。私だけが、そんな思い出を大切にしてるなんて馬鹿みたいね」
「そんなことないよ」
暗闇の中で、たった一つだけ微かな光を放つ思い出。それを語る真澄を馬鹿だとは欠片も思わなかった。
「ありがとう。やっぱり純さんは優しいわね」
僕は、その後の話を聞いても良いのか少し迷った。だが、やはり最後まで聞いてみたかった。
「それで、その後、二人の関係はどうなったの」
真澄は、すでに割り切ったというようにスラスラと答えた。
「別にどうもならないわよ。変化なし。三年も同じクラスで、やっぱり図書委員だったけど、同じ状態が卒業まで続いただけ。二人の関係には未来なんてないことはわかっていたけど、それでも、私は彼といられて嬉しかったな」
やはり、その初恋が、真澄にとっての唯一の故郷の美しい思い出のようだった。
「でもね、最後にちょっとだけ冒険をしたのよ」
真澄は少し嬉しそうな顔をした。
「卒業式の日にね。初めて彼と二人で歩いたの」
「そうだったんだ」
そこで何があったのか、僕はすごく気になったが、問いただすことはしなかった。しかし、真澄はその顛末をきちんと聞かせてくれた。
「卒業式が終わって教室に戻って、クラスメートはみんな、名残惜しそうにしていたんだけれど、ふと、彼が一人になった瞬間があったの。私はね、一大決心をして彼に言ったの『帰ろう』って。そうしたら彼、黙って私についてきてくれた」
「それでどうなったの」
僕は、すぐに話の続きを聞きたいと思った。真澄は躊躇せずに話を続けた。
「私たちは一緒にバス停まで歩いたの。でもね、お互いに何も言えなかったの。学校からバス停までは少し距離があったんだけど。結局、二人とも黙ったままバス停に着いてしまったの」
「それで」
話を急かしてばかりいる自分が、なんとなく恥ずかしくなってきた。
「すぐにバスが来て、二人で一緒に乗ったけど、やはり黙ったままだったの。私のバス停の方が近かったから、私が先にバスを降りたの」
「それから」
僕は懲りずに、また真澄を急かしてしまった。
「私ね、彼に飛び降りてきて欲しかったの」
真澄の言葉が一瞬途切れた。
「でも、彼は飛び降りてきてはくれなかった。ずっと私の方を見ているだけだった。バスのドアが閉まった後も、彼はずっとガラス越しに私の方を見ていたの。でも、結局、飛び降りてきてはくれなかった。私は、ただ、彼の姿が遠ざかってゆくのを見ているだけだった。バスの後を追いかけたりはできなかったの」
一つ疑問が浮かんだ。
「真澄さんは、自分から告白するつもりじゃなかったの」
「ううん。そんな勇気はなかったわ。私はずるかったの。私ね、彼に『好きだった』って言ってほしかったの。過去形で良かったの」
「どうしてそう思ったの」
「だって、私たちには未来なんてないことは、お互いによく分かってたから。彼は地元の進学校に行って、行く行くは名門の跡取りになる。私は東京に行って工場で働く。今みたいに携帯もメールもない時代には、青森と東京は遠すぎたし、時代劇みたいだけど、私たちの身分は違いすぎたのよ」
真澄は少し俯いてから話を続けた。
「でもね、『好きだった』って言ってほしかった。その言葉があれば、一人で東京で生きてゆく勇気が持てるような気がしたの」
淡い初恋と呼ぶには過酷な話だと僕は思った。
「それで真澄さんの初恋はジ・エンドになったんだね」
「ううん、まだ少し続きがあるの」
それは僕にとってかなり意外な言葉だった
「え、何があったの」
真澄の話を急かしてばかりいる自分が、すでに情けなく思えていた。
「二年後にね、彼に再会したの。ああ、再会とは言えないかな」
「彼には何処で会ったの」
「東京でね。その日は会社の創立記念日でお休みだったの。どうしても観たい映画があったから、珍しく出かけたの。映画館に向かって歩いていたら、通りの反対側に修学旅行の高校生のグループがいてね。その中に彼がいたの。彼は私と同じ方向に歩いていたの」
真澄は、その後を話すのが少し辛そうだった。
「私はね、全力疾走して横断歩道を渡って、前の方から彼に近づいたの。声を掛けようとした時に、彼が女の子と手をつないでいるのが見えたの」
真澄の言葉が、また一瞬途切れた。
「私は慌てて顔を背けたの。彼は私に気が付かずに、そのまま行ってしまったわ。それが彼を見た最後」
真澄は、しばらく沈黙を続けた後、思い出したように、また話し始めた。
「私、その時ね、ああ、これで私には完全に故郷はなくなったんだなと思ったの。たとえ二度と帰らなくても、自分のことを好きでいてくれる人がそこにいるかぎり、そこは、まだ故郷だと思っていたの。もちろん彼が私のことを思い続けているなんて信じていたわけじゃないのよ。でも、そう思うようにしていたの。でも、東京で彼を見かけた時、現実を突きつけられたの。自分のことを好きでいてくれた彼は、もういないんだって。だからもう、自分には帰る場所はないんだって」
僕は、もう何も言うことができなかった。
「もう三十年以上も前の話なのにね」
真澄は大きくため息をついてから更に続けた。
「でも、こんな冴えない話が歌のモチーフになるのかしら」
すぐには答えることができなかった。
「ごめん。頼んでおいてなんだけど。正直、今はよくわからない。でも、今の話、聞かせてもらって良かったと思っている」
「そうならいいけど」
真澄は、ふっきれたように明るく笑った。
その時、僕は、まだ真澄の初恋の話をどうやって黒島の歌につなぐか、考えなどまるでなかった。しかし、今、隣にいる真澄を、せめて歌の中だけでも幸せにしてあげたいと強く思っていた。
八月十日(月)
黒島の歌が無事に出来上がり、いよいよ真澄に聴いてもらう時がやってきた。僕たちは、いつものようにベランダへの扉の前に座布団をしいて並んで座った。
「なんてタイトルなの」
真澄がたずねた。
「『黒島ブルー』にしたよ。黒島の海は格別に青いからね」
「聴くのが楽しみだわ」
真澄の笑顔には、いつも以上に歌への期待が感じられた。
「あんまり期待しないでね。ああ、それと、これは真澄さんの初恋をモチーフにしているけど・・」
「わかっているわよ。モチーフにしただけだって言うんでしょう」
真澄が僕の言葉を遮った。
「じゃあ、聴いてくれる」
「うん」
僕は三線でイントロを弾き始めた。「黒島ブルー」は僕の歌に多い四拍子のスローバラードで、メロディー的にはやや明るい曲に仕上がっていた。イントロに続けて、僕は真澄の初恋からヒントを得た歌詞を歌い始めた。
ハート型の黒島、その沖にしか
ない海の青に惹かれた二人はあの日
伊古桟橋で出会い、共にそこから
自転車漕ぎたどり着いた西の浜へと
住む場所も暮らしも何も違う二人の
出会いに続きなんてないと思っても
時が許す限り君と見ていたかった
空よりなお青く光る海の色黒島ブルー
浅い眠りに落ちた君の横顔
その向こうに流れてゆく八重山の海
石垣に戻る船、速度緩めて
残された君との時間尽きる間際に
君の髪、肩にもたれた夏の夕暮れ
その一瞬を僕は今も忘れない
離島ターミナルの自動ドアの向こうに
小さくなる君の背中追えなかったあの時
船は左に曲がり切ない青に
染まる海超えたどり着く黒島港へ
港で自転車借りて、あの日と同じ
西の浜に続く道を一人たどって
草に埋もれた道抜けて浜に下りたら
あの時追えなかった背中をみつけた
二年の時を経て再びこの浜辺で
君と肩を並べて今、みつめる黒島ブルー
「どうだった」
歌い終えて僕は尋ねた。
「うん、良かった。ハッピーエンドにしてくれたんだね」
真澄はどこか嬉しそうだった。
「いや、前の五曲のうち三曲は暗いイメージだったから、バランスを取ろうとしただけだよ」
「そうなの?でも嬉しいな」
「気に入ってもらえてよかったよ」
正直僕は少し安心した。ただ、バランス云々の話が嘘なのはバレているような気がした。
「私の初恋も、これでめでたく成仏できたかな」
その言葉の真意が僕にはつかめなかった。だから尋ねた。
「何、それ」
「うん、この歌を聴いて、私の人生の最初で最後の恋も、やっと思い出にできたような気がする。ああ、といっても次があるわけじゃないけどね」
一転して、真澄は少し悲しそうな顔をした。三十年以上前に真澄は確かに死んだ。真澄の人生がすでに終わっているのは紛れもない事実だった。では、その後、こうして僕と関わっている時間は、真澄にとって何なのだろうと僕は思った。
そして、僕にとって真澄とはいったい何なのだろうと考えた。答えは見つかるはずもなかった。
八月十一日(火)
夜、僕たちは、もう初めから、パソコンを置いたデスクの前に椅子を並べて次の歌の打ち合わせを始めた。
「さて、次は新城島(あらぐすくじま)の歌を作ろうと思うんだ」
「『あらぐすく』って、どういう字を書くの」
「あらぐすく」とい聞いて、真澄に漢字が思いつかないのは至極当然だった。
「新城、『新しい城』と書いて『あらぐすく』と読むんだ」
「へえ、そうなんだ」
真澄は少し驚いた様子で答えた。
「ところでまた、相談があるんだけどな」
初恋の話をさせられた前回の経験を打踏まえてか、真澄は少し身構えたような態度を取った。
「ええ、私にはもう、歌のネタになるような恋の話はないわよ」
「いや、もう一歩進んで、今度は真澄さんに歌詞を書いてほしいんだ」
僕の要望は真澄の予想を上回っていたようで、真澄はかなり驚いた反応を見せた。
「ええ、無理よ」
「そんなことないよ。だって、昔は詩とか小説とか書いていたんでしょ」
僕は真澄の反応を無視して、できると判断した根拠に言及した。
「まあ、そうだけど」
真澄が痛いところを突かれてひるんだところで、僕は更に追撃を入れた。
「それに、いつも良いアドバイスをくれるじゃないか。だから絶対にできると思う」
「簡単に言わないでよ。それに、私が作詞をしたら純さんの歌にならないじゃない」
どうにか逃げ切ろうとする真澄に、僕は逃げ道を与えなかった。
「そんなことないよ。僕が曲を作れば、それは立派に僕の歌だよ。そもそも、僕が全部の歌の作詞・作曲をしなければいけないなんてルールは無いんだから」
「まあ、それはそうね」
真澄は、もう逃げられないと観念したのか、僕の要望の真意を尋ねてきた。
「でも、なんで、私に作詞をして欲しいと思ったの?」
「ちょっとネタに困っているというのも嘘ではないんだけど、アルバムには一つくらいは、完全に女性目線の歌があった方が良いと思ったんだよ」
「女性目線ね」
真澄は不本意ながらも、僕の意図するところを理解してくれたような口ぶりだった。
「そう、女性目線で作詞してもらって、女性の声で録音したいんだ。そう、つまり真澄さんに歌ってほしいと思っているんだ」
「作詞だけじゃなくて、歌うなんてハードルが高すぎない?」
さすがに、次なる要望には真澄も難色を示した。
「そんなことないよ。真澄さんが僕に合わせて歌ってくれる時の声、僕は、すごく気に入っているんだ。本当は全部の歌を真澄さんに歌ってほしいくらいだよ」
「そんなこと言われたら、益々やり難くなるじゃない」
真澄は消極的だったが、僕としては引き下がるわけにはいかなかった。もう、一押し頑張ってみようと思った。
「そんなこと言わないで協力してくれよ。お願いだから」
僕は、真澄の前で両手を合わせて懇願した。我ながら芝居じみていると思ったが。
「まあ、純さんの頼みなら断るわけにもいかないわね」
居候の身分に申し訳なさを感じていたせいもあったのか、真澄は渋々と僕の要望を受け入れた。
「ありがとう。やってくれるんだね」
「ええ、でも期待しないでね。」
そうは言われたが、僕は大きな期待をしていた。真澄が、いったいどんな歌詞を書いてくるのか、僕は楽しみでならなかった。
無事に作詞の依頼が済んだので、僕たちは早速実際の作業に入った。
「まず、新城島がどんな所か教えてくれない?」
真澄が当然の質問をしてきた。
「そうだね。やはり実際の映像を見てもらいながら話すのが一番かな」
僕は、まず最初に八重山のフリーペーパーに掲載された地図を真澄に示した。
「新城島の位置は、石垣と西表の間だけど見ての通り西表のすぐ近くだね。この前に歌を作った黒島と西表のちょうど真ん中になるね」
「二つ島があるけどどちらが新城島なの」
これもまた、八重山に詳しくないものにとっては当然の疑問だった。
「北にあるのが上地島(かみじしま)、南にあるのが下地島(しもじしま)、この二つを合わせて新城島って言うんだ。新城島は『パナリ』と呼ばれることも多いんだ。二つの島は離れているので方言の『離れ』に由来しているという説があるんだけど、他の説もあるらしいよ」
僕が一通り説明してあげると、真澄は更に細かい部分に関する質問をしてきた。
「なんだか複雑ね。それで、二つの島はどれくらい離れているの」
「ガイドブックによれば四百メートル離れているらしいよ」
「微妙な距離ね。それで、どちらの島にも人は住んでいるの?」
歌詞を書く覚悟を決めたせいか、真澄は、島のことを色々と知りたいと思い始めたようだった。
「下地島には、今、人は住んでいなくて牧場があるだけ、上地島には人が住んでいるけど二十人にそこそこみたい。新城島には未だに定期船がないから、シュノーケリングやダイビングのツアーにでも参加しないと行けないんだ。ツアーに参加しても、行けるのは上地島だけの場合が多くて、下地島に上陸できるツアーなんてほとんどないね」
「純さんは下地島にも行ったことがあるの?」
真澄の質問に、僕は少々誇らしげに答えた。下地島に複数回上陸した観光客の数はそう多くはないはずだった。
「四回あるよ。最初はシュノーケリングのツアー。あと三回は西表からカヤックを漕いでいったんだ」
「カヤックで行くのは大変そうね」
真澄はひどく感心した様子だった。
「そうでもないよ。まあ、海の状態が良くないと行けないけどね」
「なるほどね。ああ、それじゃあ、二つの島の特徴を教えくれない?」
最初は渋っていた真澄も、いざ歌詞を書くと決まると、物書きの性が目覚めたのか新城島に対する興味が増してきているようだった。
「まずは、人が住んでいる上地島のことから話すね。ああ、やっぱり写真がないとダメだね」
僕はパソコンの電源を入れ、新城島の写真のフォルダにアクセスして、真澄に新城島で撮った写真の数々を見せた。
「まず、ここが一番の名所のクイヌパナだよ」
クイヌパナは上地港のすぐ南の崖の上の展望台だった。展望台の下の海上には、波で根元が浸食された岩がいくつか並んでいた。岩の頂上には草が生えていて、その緑が、例えようのないほど美しい海の青と綺麗なコントラストを描いていた。
「綺麗な所ね。めったに行けないなんてもったいないわね」
「そうだね」
僕は真澄に同意してから、クイヌパナから下地島の方を撮った写真をみせた。
「この写真の右端に写っているのが下地島だよ。この写真だと地続きにしかみえないけどね」
「そうね」
クイヌパナで撮った写真を一通り見せた後、僕は次の名所の写真を真澄に見せた。
「クイヌパナのすぐ南にある浜が、この『恋路が浜』。見ての通り入り江の入り口が狭くて、小ぢんまりとした浜だけれど、砂も白くて、とても雰囲気の良い所なんだ」
「名前には何か伝説があるのかしら」
「どうかなあ、聞いたことがないな」
ガイドブックなどにも記述はなく、僕には名前の由来はわからなかった。
「でも、こんな所に好きな人と二人でいられたら幸せでしょうね」
「そうだろうね。残念ながら僕はそういう状況ではなかったけどね」
「それは残念だったわね」
真澄の皮肉を無視して、僕は次の写真を見せた。
「この浜は、クイヌパナから港を挟んで北側にあるんだけど、名前を聞いたことはないな。僕は、この場所は八重山の中でも最も美しい場所の一つだと思っているんだけどね」
「確かに綺麗な所ね。」
真澄は浜の写真を食い入るように見つめた。
「この写真で、正面に見えるのは西表島だよ」
僕は、その浜で撮った写真を次々と真澄に見せた。
「この右側に見えるのが小浜島。とにかく素晴らしい浜だよ。ここの海の色なんて、もうなんて表現したら言いか分からないよ。」
「確かに、これは、もう言葉で説明されるより写真とかで見るしかないわね」
浜に対する僕の形容が乏しいことに真澄も納得せざるを得ないようだった。
「それに、ここから海に入ればすぐに綺麗な珊瑚も見られるしね。とにかく、すごい所だよ」
「そんな素晴らしい場所がほとんど知られないまま、手付かずで残っているわけね」
「そうだね。だから、行ったことがある僕は少し得した気分になるよ」
「このまま秘境のままにしておきたい気分かしら」
「そうだね。そんな気もするね」
真澄の言葉に同意した後、今度は下地島の話をすることにした。
「次は下地島のことを話すね」
「うん、聞かせて」
島に関する真澄の興味はまったく尽きないようだった。
「下地島から見た海も綺麗だけど、上地島のような見所は特に無いかな」
「じゃあ、特に思い出に残ったこともないっていうこと」
その後の話を続けるのが、僕は少々照れ臭かった。
「そうでもないんだな。まあ、歌のネタにはならないと思うけど」
「何があったの」
真澄が聞いてくるのはもっともだったが、それでも僕は、照れ臭さをぬぐい切れなかった。
「まあ、ちょっと話すのも恥ずかしい話なんだけどね」
「いいから、聞かせてよ」
真澄が話の続きを迫ってきた。僕は仕方なく話すことにした。
「大学の同級生の鈴木君からメールが来てね。『沖縄にいるなら、砂浜にハートを描いて、それを写真に撮って送れ』、て言ってきたんだ」
「どうして、そんなこと頼まれたの」
妙なリクエストに対する真澄の疑問はもっともだった。僕は丁寧にその理由を伝えた。
「僕と鈴木君が所属していたサークルの同級生の田中君と伊藤さんが結婚することになってね。メールを送ってきた鈴木君は、二次会の幹事だったんだ。それで、メッセージを集めた色紙に貼る写真を僕に頼んできたんだ」
「ハートの写真を送るのが、そんなに恥ずかしいことだったの?」
真澄は不思議そうに僕の顔を覗いた。
「いや、その時は、カヤックで下地島に渡ったんだけど、インストラクターさんが昼食の用意をする間、かなり暇だったんだ。だから、どうせ送るなら、もう少し気の利いたものにしようと思ったんだ」
「それでどうしたの」
「そうだね。これも実物を見てもらった方が速いな」
僕は、自分が浜に描いたものの写真を真澄に見せた。真っ白な砂の上に棒状の白い珊瑚がいくつも並べられハートを形作っていた。そのハートの中には、やはり珊瑚で新郎・新婦の下の名前がローマ字で描かれていた。
「まあ、素敵、これ、純さんが作ったの、信じられないな」
写真を見る真澄は如何にも十九歳の女の子らしい表情を見せた。
「いやあ、のむら荘にあったボードの真似をしただけだよ。お客さんが送ったもので、それには、オジイとオバアの名前が入っているんだけどね」
「純さんが、どんな顔してこれを作っていたのか見たかったな」
真澄は今にも大声で笑い出しそうだった。
「インストラクターさんに見られてね。思い切り笑われたよ」
「そうでしょうね。私だって、今、笑いをこらえるのに必死だもの」
真澄は、もう耐え切れないというように少し笑った。しかし、なぜか急に真剣な表情に変わって僕に聞いてきた。
「ところで、その浜って、ほとんど人が行かない所なんでしょう。もしかして、そのハートまだあるのかな」
「まさか、波打ち際からそう遠くはなかったから、波が消してしまったと思うよ」
「そうなんだ。それってちょっと寂しいね」
真澄は少し遠くを見るような目をした。
しばらく、そのまま黙っていたが、不意に何かを思いついたように口を開いた。
「あの、歌詞を書く上で、私も純さんにお願いがあるんだけど、いいかしら?」
「なんなりと」
僕は、言葉通りに、何でも応えるつもりだった。それどころか、僕はどんな要求をしてくるのかにかなり興味があった。
「少しイメージが湧いてきたんだけど。恥ずかしいって言うのと、ちょっとびっくりさせたいっていう理由があるのね」
「それで?」
真澄の言うことは分からないでもなかった。しかし、それを理由に何をしてほしいかについては見当がつかなかった。
「私は、純さんに歌詞の語数とイメージだけを伝えて曲を書いてもらいたいんだけど、無理かしら」
「いや、できないことはないと思うよ。まあ、僕が真澄さんに無理を聞いてもらったんだから、真澄さんの依頼も受けさせてもらうよ」
思ったほどに難しい依頼ではなかったので、僕はすんなりと快諾した。
「ありがとう。じゃあ、歌詞ができあがったら教えるわね」
「ああ、期待して待っているよ」
「だめ、期待しないで」
「ああ、じゃあ、期待しないで待っているよ」
そうは言ったものの、僕は真澄がどんな歌詞を書いてくるのか気になって仕方がなかった。
八月十二日(水)
夜、歌詞ができたと真澄が言ったので、僕たちは前の晩に引き続いてパソコンを置いたデスクの前で打ち合わせを始めた。
「純さん、歌詞の語数とかイメージとか、メモを取ってもらってもいいかな?」
「ああ、ちょっと待ってね」
僕は、すぐにノートと鉛筆を取り出して真澄に声を掛けた。
「はい、じゃあ、歌詞の語数を教えて」
僕は鉛筆を構えて真澄の言葉を待った。
「まず、Aパートは文字数が五五七七で、A’のパートも五五七七ね」
僕がメモを取るのを待ってから、真澄は続きを始めた。
「次に少し曲の感じを変えてもらってBパートが七七七七、最後にCパートが七七七七、それでおしまい」
僕はメモを取り終えると、確認をすることにした。
「つまりAパートが五五七七、A’パートも五五七七、そしてBパートは少し感じを変えて七七七七、その次のCパートも七七七七で終わる曲を書けばいいんだね」
「そう、その通り」
すんなりと話が通り、真澄は満足そうな表情を浮かべた。
「語数は分かったけど、それ以外で何か注文はあるかな?」
「そうね、AとA’のパートは説明的な所だから控えめな感じにして、Bパートの七七七七で少しずつで感情を高めるの。そして次のCパートの前半の七七で一気に感情を爆発させて後半の七七で少し落ち着く感じにして欲しいの」
僕は真澄の言葉をきちんとメモしてから尋ねた。
「それで、曲の雰囲気はどんな感じにしたいの。歌詞を読んでいないから、明るいのやら、暗いのやらさっぱり分からないからね。真澄さんの曲に対するイメージを少し伝えてくれないかな」
「思いっきり暗い曲にして欲しいの。確か今までの歌には短調の曲はなかったと思うから、短調で書いてくれないかな?」
真澄は迷う様子もなく、はっきりした口調で自分の希望を伝えてきた。
「女性目線の短調の歌か。確かに変化をつけるには良いアイディアだね」
「そうでしょ」
得意げに話しているのに真澄の顔は、どこかしら悲しそうにも見えた。真澄の希望は理解できたが、僕にはもう一つ聞いておかなければならないことがあった。
「それで、歌詞は何番まであるの?それと歌詞同士はつながっているのかな?」
「歌詞は三番まであるの。全体で一つのつながったストーリーになっているんだけど、間奏は無しにして、すぐに次の番に行くようにして欲しいんだけど、いいかな?」
「もちろん、そうさせてもらうよ」
「ありがとう。じゃあ、曲ができたら教えてね。」
前日の消極的な様子が嘘だったかのように、真澄の歌作りに対する姿勢が積極的な割には、相変わらず、その表情には憂いのようなものが感じられた。
正直に言ってしまうと、僕は真澄の要望に応えられる自信はなかった。僕は、それまで他人が書いた歌詞に曲を付けた経験はなかった。歌詞のストーリーの内容を知らずに語数とイメージだけで曲を書くというのは、最初に思ったよりも難しい気がしてきた。
僕は、夏休みの宿題をたくさん出された生徒のような気分になった。
八月十三日(木)
しかし、実際に曲を作り始めてみると、予想に反して曲はスムーズに出来上がった。真澄のリクエストは、かなり具体的だったし、歌詞の語数もそれほど多くなかった。五七調で書かれている上に、パートもきちんと分かれていたのも幸いだった。かつて詩を書いていた経験のある真澄は、やはり歌というものが良く分かっていた。
歌が出来上がったところで、僕は真澄を呼んだ。ベランダに続くドアの前には、もう、しばらく前から座布団が二つ並んだままになっていた。僕は先に三線を持って腰を下ろし、糸の調子を合わせた。真澄が隣に座ったところで、僕は練習の開始を提案した。
「まず、僕が三線を弾きながらパートごとにラララで歌うから。一緒に歌いながらメロディーを覚えて」
「うん、分かった」
真澄の答え方には、何か迷いのようなものが感じられた。
僕たちは、パート毎に繰り返し歌ったら次のパートに進むという過程を繰り返した後、通しで歌う練習をした。真澄がきちんと歌えるようになるまで、たいして時間は掛からなかった。
頃合いを見て、僕は真澄に尋ねた。
「さて、もう大丈夫かな」
「うん、大丈夫だと思う」
真澄の声は、どこか自信がなさそうな返答に聞こえた。
「じゃあ、ちゃんと歌詞をつけて歌ってもらおうか」
「うん、なんかちょっと怖いな」
歌詞を付けて歌うと聞いた瞬間、真澄は更に弱気になった。
「じゃあ、録音もしてみようか」
「ちょっと、嘘でしょ」
うろたえる真澄を無視して、僕はコンピューターでの録音の準備をした。僕は、マイクを持てない真澄のためにスタンドも用意して高さを調節してあげた。
「じゃあ、このマイクの中心に向かってしっかり歌ってね」
僕がそう言うと、真澄は思いもかけないことを言ってきた。
「ねえ、純さん。やっぱり私の歌詞で歌を作るのやめにしない?」
あまりにも意外な展開に僕はかなり動揺した。
「真澄さん、すごく真剣に取り組んでくれたのに。どうして?」
俯いた真澄の返答は声が小さかった。
「私ね、久しぶりに創作に取り組むことができて、すごく嬉しかったの。歌詞のできもね、すごく良いと思っているの」
僕には真澄の真意がまるでつかめなかった。だから尋ねた。
「良い歌詞が書けたのに、どうして?」
「こんな歌詞、純さんに聴かせちゃいけないって思ったの」
真澄の返答は、更に謎を深くするばかりだった。しかし、真澄の思いはどうあれ、僕は引き下がれなかった。
「真澄さんの気持ちは大切にしたいと思うんだけど、僕はどうしても真澄の歌詞と僕の曲が一つにしてみたいんだ。これは、やはり、物書きの性かな?真澄さんが、どうしても嫌だと言うなら諦めるけど」
俯いたままの真澄が、ようやく僕の言葉に応えるまでにはかなり時間が掛かった。
「わかった、歌うわ。」
真澄の声はかなり辛そうだった。それでも僕は、二人の歌を形にしたいという思いに抗することができなかった。相変わらず俯いたままの真澄の様子など気づかないような態度で、僕は録音の準備を進め、真澄の同意を求めるようなことも言わないまま録音の開始を宣言した。
「じゃあ、始めるよ」
僕は真澄の顔を横目で見ながら録音のボタンを押し、さっさとイントロを弾き始めた。すると、真澄も観念した様子になった。歌の部分が近づくと、真澄は一瞬目を閉じてそれから歌い始めた。
上地島、下地島、二つ合わせて新城島
傍にあり、離れてる二つの島をパナリとも呼ぶ
あなたの横に並ぶ彼女の笑顔輝くクイヌパナから
海を隔てた下地を見れば届かぬ思い風に舞い散る
いつだって傍にいて微笑み交わし話もできる
でもいつも、目に見えぬ海が隔てるあなたと私
恋路が浜に一緒にいても、そこは私の場所ではなくて
あなたと彼女寄り添う写真、頼まれて撮る指が震える
友だちの輪を離れ、水際に白い珊瑚並べて
描いてみた、私たち二人の名前、ハートで囲み
上地と下地、隔てる海の波が消すまで夢を見たなら
二つの島のような定めを受け入れ、そして、歩き始めよう
真澄が歌い始めた瞬間に、すでに鳥肌が立っていた。美しい歌声は前からだったが、自分が書いた歌詞を歌う真澄の声の美しさは、明らかに今までとは別のものだった。
しかし、僕はそれ以上に歌詞の内容に打ちのめされていた。それは明らかに僕たちの話だった。どんなに心を通わせて一緒に歌を作っても、お互いに指一つ触れることの出来ない僕たちの物語だった。生者の僕と死者の真澄。僕たちの間には、決して超えることの出来ない見えない海が横たわっていた。
エンディングを弾き終えても、僕は録音停止のボタンを押すことすらしばらく忘れていた。うなだれた僕を気遣うように、真澄が恐る恐る言葉を掛けてきた。
「ごめんなさい。こんな暗い歌詞を書いてしまって」
「そんなことないよ。とても良かったよ。」
「そう、ありがとう」
真澄はぎこちない笑顔を浮かべた。
「じゃあ、録音した歌、聴いてみようか」
「私、あまり聴きたくないな」
「そんなこと言わないでよ、歌詞も良かったけど歌声も素敵だったよ」
僕が再生のボタンを押すと、パソコンのスピーカーから三線のイントロが流れ始めた。曲はやがて歌の部分に達した。しかし、スピーカーから流れてくるのは三線の伴奏ばかりで、真澄の声はまったく聞こえてこなかった。
「私の声、録音できないんだね」
真澄が俯いた。僕は何も言えなかった。
「仕方がいないよね。私、オバケなんだものね」
「自分のことをオバケなんて言うなって言ったじゃないか」
「ごめん、そうだったね」
俯いたままの真澄を元気付けるために、僕は説明した。
「真澄さんが書いた歌詞は、絶対に完成した歌として残すから安心して。今は歌詞を打ち込めば歌ってくれるソフトもあるから心配しないで」
「ありがとう。その気持ちだけで、もう十分よ」
泣き出しそうな声だった。
僕は思い切り真澄を抱きしめてあげたかった。しかし、僕には、二人の間にある目に見えぬ海を越えることはできなかった。
八月十四日(金)
夜、僕たちは、また、パソコンを前にしていた。前の日にできた新城島の歌は、真澄の希望で僕が名付け親になることになっていた。タイトルが「新城哀歌」に決まった後、僕たちは次の歌について話を始めた。
「さて、真澄さん、とうとう残るのは波照間島だけになったね」
「波照間島ってどこにあるの」
まず、僕は、いつものようにフリーペーパーの地図を真澄に見せた。
「この地図だと西表のすぐ南にあるみたい見えるけど、ここに赤い線が引いてあるだろう。これは実際の距離を縮めているって意味なんだ。つまり、本当は、波照間島は西表の遥か南にあるってことなんだ」
僕は、すでにネットにアクセスしてあったパソコンで地図を表示した。
「見てごらん。ご覧の通り、実際には波照間は西表からも石垣からもかなり離れた所にある絶海の孤島で、石垣からは高速船で1時間もかかるんだ」
「他の島と比べると随分と遠いのね」
真澄はパソコン上の地図に顔を近づけた。
「ああ、そうだね。人が住んでいる島としては日本で一番南にあるからね」
「へえ、そうなんだ。それでその最南端の島はどんな所なの?」
最南端と聞いて、真澄の島への興味が増したようだった。
「そうだね。島中がサトウキビ畑みたいで、静かな所だよ。売店はいくつかあるんだけど、食事ができるお店が少ない上に休みが多いのが困ったところだね」
「なんだかつまらなそうな所ね」
真澄は少し失望したような声を出した。
「いや、波照間は八重山の中でも人気が高い島なんだよ」
「一番南だからってだけの理由で?」
真澄は納得がいかないと言いたげだった。僕は、すぐに納得のゆく説明をしてあげた。
「違うよ。理由の第一は、海がすごく綺麗なことかな。やはり、これも写真を見せた方が話が速いよね」
僕は写真フォルダを開いてニシ浜の写真を見せた。
「これがニシ浜で撮った写真だよ」
真っ白な砂浜の向こうには、黒島より少し薄いスカイブルーの海が広がっていた。所々、珊瑚のあるところだけが色が濃く、パッチワークのようだった。海は沖に向かうにつれて青さを増し、その先には西表島が控えていた。
「わあ、すごい。確かにこれなら、人気が高いのもうなずけるわね」
たった一枚の写真が見事に真澄を納得させてしまった。
「そうだろう。それに、この浜は、少し泳ぐだけで綺麗な珊瑚が見られる、正に最高な場所なんだ」
「ボートに乗らなくてもシュノーケリンゲで珊瑚が見られるのね」
「そうなんだ。」
そう答えた後、僕は、次々とニシ浜の写真を真澄に見せた。真澄は何かに魅入られたように黙って画面を見続けていた。ニシ浜の写真が尽きたところで、僕は唯一の欠点と思えることを教えてあげた。
「この浜の短所を敢えて挙げるとしたら、浜辺に日陰がないことかな」
「それじゃあ、あまりのんびりできないわけね」
「いや、東屋があるから、そこでのんびりできるよ。僕は、そこでずっと海を見ているのが好きなんだ。とにかく海が綺麗だから、何時間でも見ていられるよ」
真澄は「なるほど」といった表情を浮かべた後、質問をしてきた。
「ところで、この浜が最南端の浜なの?」
「違うよ。最南端は別の場所だよ。今、写真を見せるね」
僕は「最南端の碑」の写真を出した。
「これが『最南端の碑』だよ。まあ、碑が立っているだけで、あまり最果てという感じはしないし、海がすごく綺麗な場所でもないね」
僕は、最南端の碑の周辺と、その近くにある高那崎の写真を見せた。その辺りの海は断崖絶壁で、本土で見る風景と大きな違いはなく、真澄もそれほど興味を示さなかった。だから次の質問も至極当たり前に思えた。
「じゃあ、波照間に来る人のお目当てはニシ浜だけってこと?」
「いや、そうでもないんだ。南十字星が目当てで来る人も多いんだ」
「南十字星が日本でも見られるなんて知らなかったわ。最南端のこの島でしか見られないわけね」
真澄の誤解を解くために、僕は受け売りの知識を披露することにした。
「いや、そうでもないんだ。石垣の天文台の人に聞いたんだけど、石垣でも波照間でも、星自体の見え方は変わらないそうだよ。ただ、波照間は絶海の孤島で、回りに光が全くと言っていいほどないのが利点なんだって。だから、石垣でも光のない場所を選べば、波照間と同じレベルで南十字星は綺麗に見えるらしいよ」
「そうなんだ」
僕の話を理解した上で、真澄は違う角度からの質問をしてきた。
「で、純さんは南十字星を見たことあるの?」
真澄を益々羨ましがらせたいところだったが、そうはいかなかった。
「残念ながらないね、見える時期に石垣にいたことがあって、スマホのアプリの画面上には、確かに位置が表示されてたけれど、そこには雲がかかってて見られなかった」
「それは残念だったわね」
真澄は、あまり残念だとは思っていないようだった。
「ああ、でも、いつかそのうちに見られると思うよ」
「そうだといいね。ところで、今度はどんな歌を作るつもりなの?何か私のアイディアも必要かしら?」
「いや、今回は、手助けは必要ないよ」
「何だ、つまらないな」
真澄は少し不機嫌な顔をして見せてから、その後を続けた。
「それで、どんな歌になるの?」
「秘密」
「何それ」
そう言って真澄は頬を膨らませた。
「真澄さんだって、前回は歌詞を完全に秘密にしていたじゃないか。今度は、僕が真澄さんを驚かそうと思っているんだ。それに、ちょっと照れくさいしね」
「ふ~ん、そうなんだ。じゃあ、期待しないで待ってるわ」
「いや、期待して待っていて欲しいな」
「あら、純さんにしては珍しく自信たっぷりね」
「ああ、きっと真澄さんも喜んでくれると思うよ」
真澄は少し不機嫌だったが、最後の歌の構想は、まだ真澄には聞かせられなかった。真澄を驚かせ、喜ばせるためには、それが必要だった。真澄が作詞をした「新城哀歌」は余りにも悲しい歌だった。だから、せめて最後は、真澄をもっと幸せな気分にしてあげたかった。いや、してあげるのではなかった。僕が、そうしたいのだと最近ようやく気がついたのだ。
八月十五日(土)
午前中に、必要な買い物をするために都心に出た後、僕は部屋に戻り、ヘッドフォンを被って歌作りに没頭した。そんな僕の様子を見て、真澄は全くと言っていいほど声を掛けてこなかった。結局、歌が完成する前に僕は眠りについた。
八月十六日(日)
朝食を済ませると、僕は、再び歌作りに没頭した。そして、歌は午前中にはどうにか完成した。
「じゃあ、ちょっと学校に行ってくるよ」
僕は三線のケースを持って部屋を出ようとした。
「いってらっしゃい」
真澄の声は少々冷たかった。僕の秘密主義がお気に召さなかったようだった。
僕は途中、昼食を済ませた後、誰もいない学校に上がり込んだ。そして、放送室でしっかりと伴奏と歌の練習をした。
完成するまで歌を聴かせたくなかったのは「いるもて紀行」のビデオを作る時も同じだった。しかし、今回の歌にかける自分の気持ちは、あの時とは比べ物にならなかった。真澄には、どうしても、決して途中でつかえたりせず、完璧な形で歌を聴かせたかった。今の自分の気持ちを全て込めた完全な歌を届けたいと僕は思っていた。しかし、思えば思うほど、僕は自分の歌に満足がいかなかった。結局、納得行く演奏ができないまま僕は学校を後にした。
「ただ今」
僕は自分の言葉に疲れが滲んでいるのがわかった。
「お帰りなさい」
キッチンに腰を下ろしていた真澄の言葉は、相変わらず不機嫌な匂いがした。
靴を脱いでから、僕はリュックをデスクの上に置き、三線のケースも一先ず定位置に置いた。すぐに歌う気にはなれなかった。
シャワーを浴びて体がすっきりした後も、心の方はそうはならなかった。放送室での練習中に自分の歌に満足がいかなかったことが、まだ気になっていた。結局、歌う気にならないまま、僕は座布団に腰を下ろして、ぼんやりと天井を見上げた。
すると、真澄が黙って僕の隣に座った。真澄は、しばらくそのままでいたが、沈黙に耐えきれなくなったように口を開いた。
「波照間島の歌、まだできていないの?」
「いや、できたよ」
僕の声に力がなかったせいか、真澄は心配そうに次の問いを発した。
「じゃあ、歌のできがあまり良くなかったのかな?」
「いや、良い歌ができたと思っているよ」
僕の自信がなさそうなものの言いようと、発言の内容がかみ合わないことに、真澄は首をかしげた。
「じゃあ、どうして聴かせてくれないの。あんなに期待をさせたくせに」
真澄の言い分はもっともだった。
「なんか上手く歌う自信がないんだ。なんとなく、気持ちが伝わらないような気がしてね」
「純さん」
名前を呼ばれて僕は真澄の方を見た。真澄はまっすぐに僕を見つめていた。その目は、その後の真澄の言葉以上に僕の心を動かした。
「別に上手に歌えなくても良いんじゃないかな。上手に歌えば気持ちが伝わるってわけじゃないし。上手く歌えなければ、気持ちが伝わらないってわけじゃないと思う」
僕の心から迷いが消えた。そうだ、その通りだ。歌えば良いのだ。結局のところ、僕は歌いたいから歌を作っているのだから。
「ありがとう、真澄さん。じゃあ、歌わしてもらうよ」
「うん」
真澄の目から、訴えるものが消えて、眼差しが優しいものに変わったのがわかった。僕はケースから三線を取り出すと、手早く調弦を済ませた。
「じゃあ、これから波照間島の歌を歌うね」
「私に大きな期待をさせたんだから、さぞ良い歌ができたんでしょうね」
真澄の物の言いようは、すっかりいつも通りに戻っていた。
「そうだね。期待を裏切らない出来だと思うよ」
「そう。それでタイトルはどういうの?」
僕は真澄の問いに素直に答えた。タイトルぐらいは明かしておいても良いと思った。
「タイトルはね『南十字の下で』にしたんだ」
「そう、南十字星の下で何かが起こるわけね」
真澄の期待が膨らむのがわかった。
「その通り、何が起こるかは、聴いてのお楽しみかな」
僕が少し間を置くと、真澄は僕を急かしてきた。
「はいはい、もったいつけないで早く歌って」
その言葉に、ようやく覚悟が決まった。
「じゃあ、そうさせてもらうよ」
僕は三線を構え、イントロを弾き始めた。「南十字の下で」は、ややテンポの速い明るい曲に仕上げてあった。自分の歌としては長めのイントロが過ぎ、歌に入った。
南の果ての波照間島の
ニシ浜の東屋で君と二人で
言葉にできぬ程に綺麗な
青い海見つめてる幸せを噛み締めて
小さいけど確かな決意はこの胸の中
小さな箱は荷物の底にしまってきたけど
No one loves you more than I love you, but
今は口には出さずに
波照間の空、南十字が
輝く夜を待つよ
星空の下、肩を並べて
十字星あるはずの場所を見つめる
風に吹かれて雲が流れて
二人して夢に見た星が今、見えたから
ポケットに忍ばせた小さな星の光を
そっと君の左手の薬指へと宿して
Will you marry me, please say “Yes, I will.”
永久の愛を誓うから
今、波照間の夜空に光る
南十字の下で
南十字の下で
「どうだった。」
エンディングを弾き終わり、三線をケースにしまってから、僕は尋ねた。
「なんか、甘すぎるドラマみたいだと思った」
真澄は少し顔を赤らめていた。
「それって良くなかったっていうこと?」
甘く作り過ぎたかと、後悔が頭をもたげそうになった時に、真澄が僕の言葉を否定した。
「そうじゃないよ。南十字星の下でプロポーズなんて、最高だと思う。私だったら気絶しちゃいそう」
真澄は妙に嬉しそうだった。
「少しはハッピーな気分になってもらえたかな?」
「うん、とっても。でも・・・」
言いかけて、真澄は天井を見上げた。
「でも、何?」
真澄は天井を見上げたまま、素直に思いを語った。
「私も、プロポーズとかされてみたかったなって、ちょっと思っちゃった」
上を向いたまま、閉じた瞼の裏には、あるいは涙が滲んでいるのかもしれないと思った。
「そうか、良かった」
「どういうこと」
僕はポケットから箱を取り出した。
「オンボロアパートの天井の下だし、真似事しか出来ないから安物だけど、気持ちだけでも受け取って欲しいんだ」
僕は、箱の中から、真澄のために買ってきた指輪を取り出した。真澄の目が大きく見開かれた。
「左手の薬指を出してくれないかな?」
僕が頼むと、真澄はゆっくりと僕の前に左手を差し出した。僕は真澄の薬指に指輪を通してみた。指輪が落ちないように手で持ったまま僕は尋ねた。
「真澄、ずっと僕の傍にいてくれるよね?」
「うん」
答えた真澄の目に、堪えていた涙が溢れ出した。真澄が思わず両手で顔を覆った瞬間に、信じられないことが起こった。指輪は僕の手から離れ、顔を覆った真澄の左手の薬指に収まっていた。
「え。」
真澄は、驚いて顔から手を離すと、何度か掌の向きを変えて、自分の薬指にはまったまの指輪を、何か不思議なものでも見るような目で見つめた。それから、真澄は恐る恐る左手を伸ばして僕の頬に触れた。
「感じる。暖かい」
僕は右手で頬に当てられた真澄の手を包み込んだ。
「僕も感じるよ。暖かいね」
僕は、そのぬくもりが何物にも代えがたいもののように思えた。
「私、幸せすぎて成仏しちゃいそう」
冗談めかして言った真澄の言葉を、僕はすぐさま打ち消した。
「ダメだよ。真澄は、ずっと僕の傍にいてくれるって約束したじゃないか」
「そうね」
真澄は、そうつぶやいて笑顔を僕に向けた。僕は両手で真澄の肩を引き寄せて、思い切り抱きしめた。真澄の体の温もりを、僕は全身で感じた。それは、決して冷たい死者の体ではなかった。僕の目からも涙がこぼれ始めていた。
第四章
八月十七日(月)
目が覚めると、真澄はキッチンに立っていた。フライパンで何かを焼く音が聞こえてきた。布団から起き上がって近づいてみると、真澄は目玉焼きを作っているところだった。
「おはよう」
僕は真澄に声を掛けた。
「おはよう。良く眠ってたね」
真澄は、僕の方を見ずに目玉焼きに集中していた。
「もっと良い物を作ってあげたかったんだけど、冷蔵庫の中、卵くらいしかなかったから、目玉焼きにトーストで我慢してね」
「何か手伝おうか?」
「じゃあ、牛乳を注いで、トースターのスイッチを下してくれる?」
「分かったよ」
僕は、既にパンが入っていたトースターのスイッチを下した。次に、食器棚を見たが、そろいのコップは無く、しかたなく、形の違うコップ二つに牛乳を入れて向き合うようにテーブルに置いた。
真澄が目玉焼きを二枚の更に乗せてコップの隣においた頃、トースターから食パンが飛び上がった。真澄は焼きあがったトーストを別の皿に乗せて、目玉焼きの隣に置いた。そんな真澄の様子を、僕は突っ立ったまま、何か美しいものを見るような気持ちで眺めていた。
「じゃあ、食べましょうか」
真澄が席に着いた。僕は真澄の向かいに座った。
「いただきます」
真澄が先に言った。
「いただきます」
僕もそれに続いた。
「でも、まさか、このアパートで誰かと向かい合って朝食を食べる日が来るなんて、想像したこともなかったな」
僕が感慨深げに言うと、真澄はクスクスと笑った。
「朝食っていってもトーストに目玉焼きだけじゃない。そんなに嬉しそうにされると、こっちが恥ずかしくなるわ。でも、冷蔵庫の中にあるのは、ほとんどビールだけなんだね」
「まあ、知っての通り、食事はほとんど外食だからね」
「私は何もしてあげられなかったから言わなかったんだけど、外食一辺倒は経済的にも、健康にも良くないわよ」
真澄は少し難しい顔をして小言めいたことを口にした。
「まあ、料理なんてできないから仕方がないよ」
「でも、安心して。今日からは私がやるから」
「それは助かるな」
正に本音だった。
「今日の朝食は大したものじゃなかったけれど、誰かのために作るって楽しいものね」
真澄は心底、嬉しそうな顔をしていた。三十数年もの間、何一つ出来なかった真澄にとっては、目玉焼きを作る程度のことですら、できるのが幸せに思えたのだろう。
「いや、僕も、誰かと一緒に食べる朝食が、こんなに良いものだということを忘れていたよ。別に家族の仲が悪かった訳じゃないんだけど。姉さんが嫁いでからは、みんな、朝食を取る時間もバラバラになっちゃってね」
「そうだったの。でも、これからは、毎朝、一緒に朝食が食べられるわ」
「そうだね」
嬉しそうに笑う真澄の顔を見ながら、僕もまた、ささやかな幸福を噛み締めていた。
朝食の片付けはすぐに終わった。翌日を含めて二日間、夏期休暇を取っていたので、僕は朝食後に急いで出勤する必要も無かった。僕たちは、とりあえず寝室に置かれたテレビの電源を入れ、その前に座った。テレビのニュースは、夏休み中とあって、浦安の遊園地が朝から賑わっている様子を伝えていた。そのニュースを見ながら、真澄は少しため息混じりに言った。
「私、ランドもシーも行ったことないのよね。そんな余裕も、一緒に行く人もなかったし。ああ、シーは出来る前に私・・・」
言いかけた言葉を真澄が飲み込んだ。僕は空気が澱まないように、くだらない対応をした。
「ランドに行ったことない人なんていると思わなかったよ」
そう言った次の瞬間に、僕は休日の過ごし方を思いついた。
「真澄、行こうよ、ランド」
「え、これから」
真澄はひどく驚いた声を上げた。
「うん、行ってみようよ」
「ええ、でも、暑いし、込んでるよ」
行ったことがないと嘆いていたくせに、真澄は消極的だった。
「まあ、いいじゃないか初めてだから、とりあえず、雰囲気を味わうだけでも良いんじゃないかな」
「行けるのはすごく嬉しいけど」
嬉しいという割には、真澄は乗り気でないように見えたが、僕は強引にランド行を決めてしまうことにした。
「じゃあ、ランド行、決定だ」
僕は、そう宣言すると着替えをして、通勤用に使っているリュックの中にデジカメを入れた。ランドで真澄とデートができるなんて思いもしないことだったので、年甲斐も無く、僕は少し興奮気味になった。
「じゃあ、出かけようか」
「うん」
僕が真澄の手を取って玄関を出ようとした直後、真澄とつないだ手に、反対方向の強い力がかかるのを感じた。
「痛い」
真澄が悲鳴に近い声を上げて、つないだ手を離した。そして、真澄はそのまま玄関にうずくまってしまった。僕には何が起こったのかまるで分からなかった。
真澄はうずくまり、下を向いたまま、しばらく動けなかった。少しして真澄は無理に搾り出したような声で僕に詫びた。
「ごめんね。私、やっぱり、この部屋からは出られないみたい。せっかく、ランドに誘ってくれたのに、一緒に行けなくて、ごめんね」
僕は、真澄を傷つけないような言葉をどうにか探そうとした。
「気にしなくていいよ。部屋の中でも、二人で楽しめることはいくらでもあるよ。うん、そうだな、とりあえず、トランプでもやろうか」
「うん、トランプ良いね」
もちろん、本当に良いと思っているわけではないことは、泣きそうな真澄の声で分かった。
「じゃあ、テーブルでやろうよ。さあ、立って」
僕は真澄に手を差し伸べた。僕の手を取った真澄の手は確かに暖かかったが、やはり、真澄はこの世のものではないのだという現実を僕は思い知らされた。
その後、僕たちは、二人でできるトランプのゲームをつぎつぎと探しては遊び続けた。初めこわばっていた真澄の顔も、ゲームを続けるうちに少しずつ笑顔になっていった。たとえ外に出られなくても、二人でトランプに興じることができるようになったのは、僕たち二人にとって幸せなことだった。
二人でできるゲームを一通りやり終えた頃には、お昼が近づいていた。
真澄は部屋の時計に目をやると、僕に尋ねた。
「ねえ、お昼は何が食べたい?」
「そうだな、暑いから、冷やし中華がいいかな」
「いいわね、じゃあ、お買い物をしてきてくれる?」
真澄は立ち上がって、キッチンにあったメモ用紙とペンを取り、冷蔵庫の中とキッチンのあちこちを調べた後、買い物のリストを作って僕に手渡した。
「とりあえずは、これだけあればいいかな。ごめんね、私が行ければいいんだけど」
「気にすることはないよ、じゃあ、行ってくるね」
僕は部屋を出て、自転車で近所のスーパーに出かけた。外食ばかりだった自分が、二人分の昼食の買い物をしているのは、何だか不思議な気分だったが、それはまた、嬉しくもあった。
真澄が作った冷やし中華は、出来合いのスープを使ったものだったが、キュウリ、ハム、卵焼きといった定番のトッピングがきちんとできていて、なかなかの味だった。
片付けが終わったところで、真澄は遠慮がちにお願いをしてきた。
「実は、純さんが買い物に行っている間に、これから必要になるもののリストを作っておいたの。本当に申し訳ないんだけれど、買ってきてくれるかな?」
「もちろんだよ。」
「じゃあ、これなんだけど。」
真澄は、遠慮がちに僕にメモを差し出した。僕は真澄からメモを受け取り、それを畳んで財布の中に押し込んだ。
「少し大きめのバッグを持って行った方が良いと思うわ。」
「そうだね」
僕は、言われた通り大きめのバッグを探すと、それを抱えてドアに向かった。
「いってらっしゃい。気を付けてね。」
「ああ、行ってきます。」
部屋を出ると、僕は、メモに書かれた日用品が置いてありそうな比較的近所のホームセンターに行き、真澄のリストにある品物を買い揃えた。エプロンや弁当箱があることに笑ってしまった。真澄は、これから僕に弁当を作ってくれるつもりなのだ。手作りの弁当なんて一体いつ以来だろうかと思った。
八月十八日(火)
昼食が済んでしばらくしてから、僕は隣町の電気製品の店に自転車で向かった。そこで、僕はゲーム機といくつかのゲームソフトを購入した。僕は本来ゲーム機など買ったことがない人間だったが、部屋から出られない真澄と一緒に楽しめることとしては、とりあえず良い手段だと思った。ゲーム機は部屋まで配達してもらうことにした。配達は夜になるだろうということだった。
夕食の片付けが終わった頃、ドアベルがなった。電気店の店員がゲーム機とソフトを運んできてくれたのだ。
「こちらにサインをお願いします」
店員から差し出された用紙にサインをして、僕は品物を受け取った。
「どうも、この度はお買い上げありがとうございました。」
店員は礼を言うと、足早に去っていった。
僕が受け取った荷物を部屋の中に入れると、真澄が近づいてきた。
「純さん、何を買ったの?」
「ゲーム機だよ、真澄と一緒にやろうと思ってさ」
「私、ゲームなんてやったことないわよ」
「僕もだよ。だから、有利、不利は無しで真剣勝負だね」
「ごめんなさい。私のためにお金を使わせてしまって」
「遠慮するなよ。僕がやりたいから買ったんだから。」
それから、僕はゲーム機をテレビに接続して、とりあえずテニスのゲームをセットしてみた。そして、テレビの前に座布団を二つ並べてから真澄を呼んだ。
「ねえ、やってみようよ。」
「私、ぜんぜんできる気がしないな」
真澄は、あまり乗り気がしないという様子で僕の隣に座った。
いざテニスゲームを始めてみると、二人ともやりかたがよくわからず、まるで勝負にならなかった。次々と別のソフトを試してみたが、状況はまるで同じだった。
「やっぱり、説明書をよく読んでからでないとダメみたいね」
真澄が早々にギブアップ宣言をして、ゲーム初日はあっさりと終わった。
「私、純さんが仕事に行っている間に、説明書を読んで勉強しておくね。そうして純さんにやり方を説明してあげる」
「ああ、よろしく頼むよ」
そんな風にして、僕たちには歌以外にも一緒に楽しめることができた。
八月十九日(水)
僕はテニスゲームで真澄にコテンパンに叩きのめされた。
八月二十日(木)
僕はレースゲームで真澄にぶっちぎられた。
八月二十一日(金)
夏休みも終わりに近づいた金曜日の夜、夕食の片付けをしている真澄に僕は声を掛けた。
「町内会の掲示板で見たんだけど、明日、近くの河原で花火大会があるんだね」
「うん、ベランダに続くガラス戸越しに花火がよく見えるのよ。このアパートの前の道も、浴衣を着た人たちがたくさん通るの」
部屋からでも花火が見えるというのは悪いことには思えなかったが、真澄の返事の仕方は楽しげではなかった。にもかかわらず、僕は尋ねてしまった
「近くなら、真澄も河原まで見に行ったことがあるの?」
「ないわ、私ね、花火大会って行ったことがないの。田舎には無かったし、東京に出てからはお金も無かったし、一緒に行く人もいなかったから」
「そうなんだ」
僕は、花火大会の話を持ち出したのを少し後悔した。しかし、真澄は話題を変えようとはせず、花火大会の話を続けた。
「初めて東京に来た年の夏はね、ドア越しに花火を見たの。奇麗だったわ。でも、次の年からはカーテンを引いて見ないようにしたの、イヤフォンで音楽を聴いて、花火も音も聞かないようにしてね」
「どうして、そんなことしたの」
僕は、また余計なことを言ってしまったと思ったが、すでに遅かった。
「浴衣を着て恋人と花火大会に行ける女の子たちが羨ましかったからかな」
「そうか」
二十歳前の女の子らしい話だと一瞬思ったが、そんな甘い話ではなかった。
「私、花火大会って嫌いなの。私が死んだのはね、花火大会の日だったの。みんな、浴衣を着て、幸せそうに花火大会に出かけて行くのに、どうして自分だけがこんなに不幸なんだろうって思ったら・・・」
「真澄、もういいよ」
僕は真澄の言葉を遮った。
「ごめんなさい。こんな話を聞かせるつもりじゃなかったのに」
泣き出しそうな声だった。
「僕の方こそ、ごめんね。鈍感で。真澄に辛い話をさせてしまったね」
真澄は何も言わなかった。代わりに、すすり泣く音が聞こえた。
花火大会にそんな悲しい思い出があるとは、僕は想像すらしていなかった。だが、その後、僕はそれを聞いたことは、決して悪いことではないことに気づいた。真澄の悲しい思い出を消してあげることはできないが、これから良い思い出を作ってあげることはできると思ったからだった。
八月二十二日(土)
朝食が済むと、僕は真澄に尋ねた。
「今日、少し遠くまで買い物に行ってきてもいいかな?」
「もちろんよ。ああ、ついでに夕食の買い物もお願いね」
真澄は、前の晩のことを引きずっている様子はなく明るかった。
「ああ、分かっよ。悪いけど、お昼は一人で済ましておいてくれないかな。どれだけ時間が掛かるかわからないから」
「うん、分かった。気をつけて行ってきてね」
「ああ、なるべく早く戻るようにするよ」
それから、僕はネットで少し下調べをして買い物に備えた。
午前十時過ぎ、僕はアパートを出て、電車に乗り、大きなデパートに出かけた。そこで、僕は慣れない買い物をした。店員さんに助けを乞いながら、どうにか目当ての品々を買うことはできたが、買い物の間、不似合いな場所に自分がいることが恥ずかしくて仕方がなかった。
部屋に戻ったのは午後の三時頃だった。
「ただいま」
「お帰りなさい。早かったのね」
キッチンにいた真澄は、読みかけの本に栞を挟むと、僕の方に近寄ってきた。
「あら、結構な荷物みたいだけど、何を買ってきたの?」
僕は、デパートの紙袋から箱を取り出すと、それを真澄に手渡した。
「気に入ってもらえると良いんだけどな」
「何かしら?」
「開けてごらんよ」
真澄は箱をテーブルに置いて腰かけると、丁寧に包装紙を取り去っていった。そして、箱を開けた瞬間、目を大きく見開いた。
「これって浴衣よね?」
「ああ、『浴衣を着て花火大会に行きたかった』って言っていたじゃないか」
真澄が浴衣を見つめたまま何も言えないでいたので、僕は言葉をつないだ。
「実は僕の分の買って来たんだ。今日は、この部屋で花火大会をしようよ。夜店で焼きそばとか買ってきてさ」
少し時間が経ってから、真澄はようやく言葉を絞り出した。
「ありがとう」
そう言った後、改めて浴衣を見つめた真澄の目からは、涙がこぼれ始めていた。
夕方、僕は、卓袱台代わりになりそうなものを探した。冬物のセーター等が入っていたプラスチックのケースを、とりあえずベランダに続くガラス戸の前に置いた。そして、その後ろに座布団を二つ並べ、真澄に声を掛けた。
「じゃあ、食べ物を買いに行ってくるけど、何か食べたいものはある?」
「何でも良いわ。ああ、そうだ、私、イカ焼きが食べてみたいな」
すっかり明るさを取り戻した真澄は、興奮気味に返答した。
「うん、分かった。探してみるよ」
僕は立ち上がり、バッグを掴むとドアに向かった。
「じゃあ、行ってくるね」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
真澄の声に見送られてアパートを出ると、僕は自転車で花火大会が行われる川辺の方に向かった。その途中で、僕はたくさんの浴衣姿のカップルを追い越していった。川辺に腰を下ろして間近で花火が見られる彼らが、僕は少し羨ましく思えた。
花火大会の会場に着き、自転車を指定された場所に止めると、僕は土手に上がった。土手の斜面は、もうすでに、たくさんの見物客で埋め尽くされていた。僕は、土手の上の道沿いに並んだ夜店を見て回った。真澄が食べたいと言っていたイカ焼きは、すぐに見つかった。その後、僕はお好み焼きと焼きそばを買い、さらにはデザート代わりに綿菓子まで買ってしまった。
それから、僕は人の流れに逆らうようにして町中に戻り、スーパーに入った。缶ビールをたっぷり買い込んでから、僕は部屋に帰った。
「お帰りなさい。」
帰宅した僕を迎えた真澄は、すでに浴衣に着替えていた。
「浴衣、どうかしら?」
真澄は少し恥ずかしそうに尋ねた。
「似合っているよ。とても奇麗だ。」
「ありがとう。嬉しいわ。お世辞でも。」
「お世辞なんかじゃないよ。」
確かに、それはお世辞などではなかった。浴衣姿の真澄は、オンボロアパートには似つかわしくない程に美しかった。
僕は、まずビールを全て冷蔵庫の中に入れた。買ってきた食べ物をテーブルの上に並べていると、真澄が声を掛けてきた。
「せっかくだから、食べ物はお皿に盛り付け直すね。少し温め直した方が美味しいと思うしね」
真澄は上機嫌だった。
「そうか、すまないな」
そう言いながら、僕は冷蔵庫からビールを一つ取り出すと、椅子に腰を下ろして飲み始めた。自転車を漕ぎ汗をかいた体には、ビールは正に命の水だった。
「ごめんね。暑かったから疲れたでしょう」
「いや、おかげでビールが最高に旨いよ」
「花火が上がる前から飲んでいたら、最後はベロベロになっちゃうよ」
真澄が小言めいたことを言ったが、僕はやんわりとやり返した。
「大丈夫だよ、こう見えても結構お酒は強いし。明日も休みだからね」
僕は残りのビールを更に口に運んだ。
「純さん、シャワーを浴びて浴衣に着替えたら?きっと、さっぱりすると思うわ」
「そうだね、そうしよう」
僕は真澄に言われるまま、シャワーを浴び、浴衣に着替えることにした。
シャワーを浴びた後、僕は浴衣を着た。真澄はキッチンに立ち、僕が買ってきた食べ物を皿に移しラップを掛けていた。
「どうだろう。似合うかな?」
僕が声を掛けると、真澄は振り向いて、一瞬笑いだしそうな顔をした。
「うん、似合うわよ」
真澄の顔には嘘だと書いてあった。
「嘘だろう。本当はそう思ってないんだろう。」
「ううん、本当にカッコ良いわよ」
そう言いながらも、真澄は今にも笑い出しそうだった。
「真澄は嘘が下手すぎるよ」
「あはは、バレたか。やっぱり、純さんは英語の先生ってイメージだからなあ。でもね、一緒に浴衣着てくれたことは、私、本当に嬉しいの。それは絶対嘘じゃない」
真澄は真剣な目で僕を見た。確かに、その言葉には嘘はないのだろうと僕は思った。
部屋の外がすっかり暗くなり、花火大会の開始の時間が迫った頃に、僕たちはガラス戸の前に用意した座布団に腰を下ろした。部屋の明かりは、もう消してあり、卓袱台代わりのケースの上には、すでにビールも用意されていた。ガラス戸の向こうの夏の夜空を見ながら、僕たちは黙って花火が始まるのを待った。
しばらくして、最初の花火が空を染めた。そして、少し遅れて花火が弾ける音が僕たちの元に届いた。
「じゃあ、乾杯しようか」
「そうね」
僕はビールの缶を開け、中身を真澄のグラスに注いだ。その後、真澄が僕のグラスにビールを注いでくれた。
「乾杯」
僕らは声を揃えてグラスを合わせた。そして二人とも、一気に中身を飲み干した。
「旨い、こんな旨いビールは初めてだ」
「私も。ああ、でも、今まで飲んだことなかったけどね」
僕たちは、すぐにビールを継ぎ足して、しばらく黙って、次々と打ちあがる花火に目を凝らした。花火を見つめる真澄は心底嬉しそうだった。
その後も、次々と花火が打ちあがり、夏の夜空を照らした。僕たちは、買ってきたものを食べ、ビールを飲みながら、二人きりの花火大会を楽しんだ。その間、僕たちはほとんど口をきかなかった。ガラス戸の向こうに打ちあがる花火を、ただただ見ていた。光と音に彩られた時間は実に穏やかだった。僕と真澄の暮らしは、やはり普通とは言い難く、思うに任せない部分もあった。しかし、花火を見ている間は、そういうことをすべて忘れていた。二人並んで花火を見ているだけで、僕はとても幸せな気分だった。
花火大会がフィナーレに近づいた頃には、ビールも食べものも全てなくなり、デザート代わりの綿菓子もなくなっていた。フィナーレのスターマイン、いわゆる一斉打ち上げの仕込みに時間が掛かっているのか、花火の打ち上げが途切れた時に、少し寂し気に真澄がつぶやいた。
「もう夏も終わりだね」
「うん、まあ、そうだね」
そうは言ったものの、夏休みは十日も残っていたので、夏が終わるという実感は、まだ僕にはなかった。しかし、真澄は僕とは違っていた。
「夏の終わりって、なんか切ない気分にならない?」
真澄は妙に感傷的だった。
「そうだね、教師なんてしていると、特にそう思うよ。」
言ってすぐに、馬鹿なことを答えたと思った。
「日本には春も、秋も、冬もあるのに、どうして夏の終わりだけが切ないのかな?」
真澄は、それが究極の疑問であるかのようにつぶやいた。
「さあね、夏休は開放感のある季節だからかな?お盆や夏休みもあるけど、それが終わると、また現実に戻らなければならないしね」
僕が並べたありふれた理屈は、何一つ真澄の疑問に対する答えになっていないような気がした。
「私ね、夏の終わりがこんなに切なく思えたことがないの。今年の夏は、本当に良いことが色々あったせいかな?」
真澄はどこか遠くを見つめるような眼をして話を続けた。
「初めて純さんの歌を聴いた時、とても感動したわ。それと、三十数年ぶりに人と話ができて、とても嬉しかった」
「あの頃は、まだ真澄の声が聞こえるだけだったね」
随分昔の話のような気もしたが、ほんの四週間前の出来事だった。
「あの時は、私も、まだ生きている振りをしていたのよね」
真澄は後ろめたいものの言いようをした。
「純さんの歌作りのお手伝いができたのも、とても楽しかったわ」
「いや、こちらこそお礼を言わないとね。本当に助かったよ」
わずか十七日間で六曲もの歌ができたのは、単なる手助けのおかげとはとても思えなかった。真澄の存在自体が、僕に何か特別な力を与えてくれたようにしか思えなかった。
「西表のビデオも嬉しかったな。」
「あんな急ごしらえのものを褒められると恥ずかしくなるよ」
今ならば、もっと良いものが作れそうな気がした。真澄が喜ぶのならば、九曲全てのビデオを作っても良いと思った。
「でも、やっぱり一番感動したのは指輪をもらった時かな」
真澄は左手を顔の前に近づけると、手のひらを何度か裏表にしながら、まじまじと指輪を見つめた。
「そんな安物で、そこまで喜ばれると申し訳ない気分になるよ」
「ううん。大切なのは気持ちだから。どんなに高価な宝石でも、気持ちがこもってなかったら、ただの石ころと一緒だから・・・なんてちょっとカッコつけすぎかな。売れば大金になるものね」
「そうだね」
真澄は左手を下げると、右手の親指と人差し指で指輪に触れた。指輪が確かにそこにあることを感じていたいような仕草だった。それから、真澄は何故だか奈々さんや姉の話を持ち出してきた。
「奈々さんの話も、とても素敵だった。私も、そんな風にカッコ良い女になりたいと思ったわ。あ、それからお姉さんの話、本当に羨ましいと思ったわ。純さんにも、ご主人にも、とても愛されていて」
「真澄は、僕一人じゃ足りないのかな?」
我ながら、きざな台詞だった。よせばよかったと思った。
「そんなことないよ。私は十分に幸せよ、十分すぎるくらい」
「それならば良かった」
僕も十分すぎるくらい幸せだとは、とても口にできなかった。
奈々さんと姉に関する真澄の話は更に続いた。真澄は、まるでこの夏の全てを語りつくしたいようだった。
「私、奈々さんにも、純さんのお姉さんに会ってみたかったな。二人とも、とても素敵な人だったのでしょうね。でも会ったら、自分なんてとても太刀打ちできないと思うだろうな」
「どうして、そんなに他人と自分を比べるの?奈々さんは、もう思い出だし。姉さんは弟として好きだっただけだから。今、僕が一番好きなのは真澄だから」
「嬉しいこと言ってくれるね」
そう言うと、真澄は僕の肩に体を預けてきた。
次の瞬間、花火が空一面を覆いつくした。
「ねえ、純さん・・・」
真澄が、か細い声で何か言いかけたが、その言葉は、遅れてやって来た花火の轟音にかき消された。花火大会の終わりを告げる一斉打ち上げはしばらく続いた。空を埋め尽くす花火の群れを、僕はこの目に焼き付けておきたいと思った。真澄もきっと同じことを考えているよう気がした。
しかし、夜空を染める花火の光は束の間で、後には、都会でも見えるわずかばかりの星の光が消えずに残っただけだった。
八月二十三日(日)
夕食の片付けが終わると、真澄はテーブルの前に腰を下ろし、神妙な顔で僕に言った。
「純さん、実はお話があるんです」
その言葉を、僕は前の晩から予期していた。最後の花火が上がる前に言いかけたことを言おうとしているのだと、僕は確信していた。良い話ではないのだろうと、僕は覚悟を決めて真澄の向かいに座った。僕を前にして、真澄は一瞬ためらったように見えたが、意を決したように話し始めた。
「純さん、私、もう長くはここにいられないみたいなの」
僕は激しく動揺した。だから、次の言葉は真澄を問い詰めるような口調になってしまった。
「それってどういうこと?」
「どうやら私、成仏してしまうみたいなの」
真澄は自分でも、まだ確信を持ち切れていないようだった。
「成仏って?」
「私、地縛が解けて、次の世界に旅立てるようになったみたいなの」
真澄の、不確かなことを語る口調に変わりはなかった。
「どうして地縛が解けたの?」
「たぶん、純さんに出会って、この世で幸せになれたからだと思う」
推測を語る真澄の表情は、苦しそうでもあり、また、僕への感謝を伝えたいようにも見えた。
「留まることはできないの?」
「うん、無理みたい。」
真澄の表情が明らかに辛そうなものに変わった。
「どうしてそう思うの?」
どこか非難をしているような自分がひどく嫌になった。真澄は申し訳なさそうに理由を語った。
「実はね、昨日の夜に気づいたの。自分をここに縛っている力が薄れていることに。でも、同時に自分の体から力がなくなり始めたことにも気づいたの」
「昨日、言いかけたのはそのことだったんだ」
僕の悲しい予想は当たっていた。
「うん。でも昨日はとても良い夜だったから、言い出せなかったの」
真澄が、この夏の思い出をあれこれと語り続けた理由が、悲しいほどに良く分かった。
真澄は辛そうに話の続きを切り出した。
「純さん、私は、たぶん来た道を戻って行くんだと思うの。もうすぐ、触れ合うこともできなくなって、やがては姿も見えなくなって、最後は声も聞こえなくなって、この世から消えてゆくんだと思う」
やり切れない怒りが僕の口調を乱暴なものにした。
「どうして、どうして真澄がそんなひどい目に合わなければいけないんだ。真澄は何も悪いことなんかしていないじゃないか」
真澄は微かな笑みを浮かべると、僕の怒りを鎮めるように柔らかな答えを返した。
「純さん、それは違うわ。地縛霊が成仏できるってことは、とても幸せなことなの。私は長い苦しみから、やっと解放されて次の世界に旅立てるの。だから、ひどい目に合う訳じゃないのよ。私は幸せになるよ」
「僕と別れることが真澄にとって幸せだってことなのか?」
言った直後、僕は自分を殴り倒したくなった。真澄は申し訳なさそうに次の言葉を紡いだ。
「違うわ。どうか、それとこれを一緒にしないで。私も、できることなら純さんとずっと一緒にいたい。でも、私の意志ではどうすることもできないの」
「本当にどうしようもないのか?」
まだそんな言葉を吐いている自分が惨めだったが、僕は聞かずにはいられなかった。
「無理みたい。でも、皮肉なものね。純さんに出会って、幸せになれたから、お別れしなければならないって」
僕が何も言えないでいると、真澄は次の言葉をつないだ。
「でも、信じてね。私は本当に幸せなの。可哀そうだなんて思わないでね。純さんのお姉さんが若くして亡くなったのは悲しい出来事だったけど、私とお姉さんは違うのよ。純さんと出会った時、私は、もう死んでいたのだから。生きている人が亡くなることは不幸なことかもしれないけど、死んだ人間が成仏できることは幸せなことなのよ」
僕は真澄の顔が見られなくなった。俯いて何も言えずにいると、真澄が優しい言葉を掛けてくれた。
「純さん、悲しまないで。私は今、とても幸せだから。それに、まだ少しだけど時間があるから。だから、旅立ちの時が来るまで、今まで通り一緒にいてほしいの。少しずつ、一緒にできることは減ってゆくと思うけどね。でも、まだ触れ合える。触れ合えなくなっても微笑み合える。姿が見えなくなっても、歌は一緒に歌えるわ」
とてつもない無力感が僕を襲った。そして、それはそのまま言葉になった。
「真澄、僕は、これからどうすればいいんだ。僕は、これから君のために何をしてあげられるんだ?」
「何もしなくていいわ。ただ一緒にいてくれるだけでいいの。純さんには、もう、十分に幸せにしてもらったわ。もうこれ以上、望むことは無いわ。でも、純さんが辛くても、この部屋から出てゆくことだけはしないで。私が旅立つまで、私を一人にしないで。私の傍にいて。それが最後のお願いかな」
僕が何も言えず俯いたままでいると、真澄が席を立つ音がした。その後、背中から僕を抱きしめる真澄の温もりを感じた。目に涙が滲んだ。
「ごめんね、純さん。私、普通の女じゃなくて。」
その声を聞いて、僕は不覚にも嗚咽を漏らしてしまった。
「純さん、どうか笑顔で見送ってくれないかな?ああ、ごめんね。最後のお願いが二つになっちゃった。お化けのくせに、私って欲張りな女だね」
「自分のことをお化けだなんて言うなって言っただろう」
「ごめん。そうだったね」
僕を抱きしめる真澄の力が強くなった。僕は頭の中が真っ白になって、何も考えることができなくなった。
八月二十四日(月)
その日、台風は沖縄の当たりにあった。その影響か東京も曇りで気温は二十九度までしか上がらなかった。
夜、ゲームをしている時に、僕は小さな異変に気が付いた。それまでゲームでは、いつも真澄が優勢だったが、その日、僕は次々と勝ちを重ねた。
「純さん、強くなったね。」
真澄は苦笑いをした。
しかし、僕が強くなったわけではなかった。真澄が弱くなったのだ。コントローラーを操作する真澄の手つきがおぼつかなくなっていたのだ。真澄の手は、もう、素早くかつ細かい操作についていけなくなっていた。
それが、僕たちがゲームをした最後になった。
その日は、もう一つ特筆すべきことがあった。
いつものようにガラス戸の前で座布団に腰を下ろして、三線の調弦をしていると、真澄が妙なお願いをしてきた。
「純さん、もう一度私の指に指輪をつけてもらえないかな」
真澄は、いつのまにか外していた指輪を収めたケースを僕に差し出した。
「いいよ」
箱を受け取りながら、僕は笑顔で答えた。
「ありがとう。」
そう言って僕の右隣に座ると、真澄はお願いの追加を申し出た。
「指輪をつけてもらう前に、『南十字の下で』を歌ってくれないかな」
「お安い御用だよ。」
僕は調弦を済ませると、真澄の望み通りに歌を歌った。真澄は目を閉じて、僕の歌に聞き入っていた。あのプロポーズの夜に思いを馳せているように見えた。
僕が歌い終わると、僕はケースを持って真澄の右側に移動して腰を下ろした。
「じゃあ、左手を出して」
僕がそう言うと、真澄は嬉しそうに左手を差し出してきた。僕はケースから指輪を取り出した。あの日とは違い、「振り」ではなかったので、ごく自然に指輪は真澄の左手の薬指に収まった。真澄は左手を顔の前に置いて、まず手のひら側から、それから手首を返して手の甲側から見つめた。その後、開いた両の掌を重ねて胸に押し当てると、目を閉じてお祈りのようなことをした。僕は、ただ黙って、そんな真澄の様子を眺めていた。
真澄は大きく一つ深呼吸をすると瞼を開き、遠くを見るような眼をしてつぶやいた。
「よし、これでもう大丈夫」
何が大丈夫なのかは僕にはわからなかった。そんな僕の様子に気づいてか、真澄は遠慮でもしたかのように小さな声で僕に語り掛けた。
「純さん、ケースをくれるかな?」
「ああ」
僕は言われるままに真澄にケースを手渡した。真澄は薬指から指輪を抜くと、それをケースに収めた。蓋は開けたままだった。真澄は立ち上がるとデスクの方に向かい、蓋が開いたままのケースをデスクの上に置いた。
「これで良し」
真澄は、そう宣言すると戻ってきて座布団に腰を下ろした。
なぜ指輪を外したのか、僕は理由を聞きたそうな顔をしていたのだろう。真澄は自分からその理由を語り始めた。
「ゲームをしている時に純さんも気が付いたと思うけど、私の体、そろそろ限界みたい。私ね、純さんにもらった指輪が薬指からこぼれ落ちて床に転がるところを見たくないの。だから、そうなる前に外したの。指輪にきちんとお礼とお別れを言ってからね。あそこに置いてあるけど、私の気持ちとしては、指輪はいつも薬指にあるのよ」
真澄の顔は嬉しそうにも悲しそうにも見えた。
「それと、純さんにお願いがあるんだけど」
真澄の改まった口ぶりは、お願いの大変さを予感させた。だから僕は敢えて冗談めかした対応を取った。
「欲張りだな、お願いが多すぎないか」
「そうね、でもこれで本当に最後だから。」
真澄の目が急に真剣な光を帯びた。僕は冗談めいた対応を取ったことを少し後悔した。
「冗談だよ、真澄のお願いならいくつでも聞いてあげるよ」
「気前がいいのね。そんなに大風呂敷を広げて後で後悔しても知らないわよ」
「後悔なんかしないよ。それで何をすればいいの?」
真澄は、その後の僕の反応を予想してか、少しためらった後、静かにお願いの内容を語った。
「私がいなくなったら、あの指を純さんの好きな場所、竹富島のカイジ浜の砂の中に埋めてほしいの」
驚いた。嫌だと思った。聞けない願いだと思った。
「どうして、そんなことをしなければならないの?大切な思い出の品なのに」
興奮気味に話す僕を諭すように、真澄はお願いの理由を明らかにした。
「私はね、純さんには、別れた女との思い出の品をいつまでも持っているような人になって欲しくないの」
「そんなことを言ったら、奈々さんにもらった三線だって同じじゃないか」
少し怒りのこもった僕の言葉を真澄は優しく否定した。
「それは違うわ、奈々さんの三線は純さんに希望を与えてくれた。そして、今も純さんの歌作りに役立っている。それから、純さんの未来も作ってくれる。でも、私の指輪は純さんに何も与えてはくれないわ」
「そうかもしれないけど」
真澄の方が正しいような気がした。しかし、認めたくはなかった。
「純さんには、私のことも、きちんと思い出にして欲しいの。奈々さんのことを奇麗な思い出にできたようにね。だから、カイジ浜に来た時だけ、私のことをちょっとだけ思い出してくれたら嬉しいな。それが私の本当に本当の最後のお願いかな」
「どうしても、そうしなければいけないの?」
したくなかった。だが、まだ、そんな質問をしている自分が弱虫の子供のような気がした。
真澄は、僕の子供じみた抵抗を打ち砕くかのように、らしくない理屈で答えてきた。
「うん、私がもらったものだから、私の好きにする権利はあると思うな」
「そう言われると返す言葉がないけど」
僕がそう言うと、真澄は、まるで小さな子供をあやす母親のように確認を求めてきた。
「じゃあ、私の最後のお願い、聞いてくれるよね」
「ああ、わかった」
僕には、もう、そう答えるしかなかった。
「じゃあ、約束ね。」
真澄が小指を差し出してきた。
僕は自分の小指を絡めて、それまでの人生で一番辛い約束をした。やがて失われるだろう温もりは、まだしっかりと真澄の小指から伝わってきていた。
八月二十五日(火)
その日、台風は熊本に上陸して、大きな被害が出ていた。東京は曇りで、最高気温は二十二度までしか上がらなかった。台風が連れ去る前に、夏は、もう早々に逃げてしまったかのようだった。
夕方帰宅すると、真澄は浴衣に着替えていた。
「どうしたの、浴衣なんか着て?」
僕が尋ねると、真澄は照れ臭そうに笑った。
「うん、せっかく買ってもらったのに、まだ一度しか着ていないから、もったいない気がして」
「そうか、うん、良いよ。とても奇麗だ」
真澄の浴衣姿はやはり奇麗で、僕の言葉はお世辞ではなく本音だった。
「ありがとう」
真澄はとても明るい笑顔で答えたが、つい先日着たばかりの浴衣をまた着ようと思った真澄の気持ちは正直理解しがたかった。
僕がリュックを下ろして、部屋着に着替えようとしていると、キッチンから真澄の声がした。
「純さんも浴衣になってね。この前の花火大会、とても楽しかったから。もう一度やろうと思って」
「花火が上がらないんだから、花火大会のしようがないじゃないか」
真澄の提案には、さすがに少し腰が引けた。
「まあ、そうだけど。浴衣着て、ちょっと気分だけでも味わいたいの」
正直、僕は乗り気ではなかったが、真澄の勢いに負けた。
「まあ、そういうことなら付き合うよ」
「ありがとう。ああ、夕食は、もうレンジで温め直すだけになってるから、純さんはこの前みたいにガラス戸の前に席を設けてくれるかな?」
「いいよ」
そう答えてから、僕は押入れから前に使った冬物の洋服用のケースを取り出して、前回同様にガラス戸の前に置いた。座布団も二枚並べた後で、試しに腰を下ろしてみた。ガラス戸の向こうには曇り空があるばかりで星の一つも見えなかった。これでは浴衣を着てみたところで、とても花火大会の気分にはなりようがなかった。何か良い方法はないものかと思った時、名案が浮かんだ。
僕はケースと座布団を寝室のテレビの前に移動させた。そして、テレビにノートパソコンをつないだ。僕が思いついたことは、どうやら思った通りうまくいきそうだった。準備がうまくいったので、とりあえず僕は電源を切り、夕食になる前にシャワーを浴びることにした。
僕はシャワーを浴びると浴衣に着替えた。それから、ケースの上にビール用のグラスを用意した後、キッチンにいる真澄に声を掛けた。
「こっちは用意できたよ。」
「あれ、どうしてベランダの方じゃなくてそっちに席を作ったの。」
別の場所に席が設けられているのを見て、真澄は少し怪訝そうな顔をした。
「せっかくだから、ヴァーチャル花火大会にしようと思ってさ」
「何それ?おばさんにもわかりやすいように言ってくれないかな」
「まあ、すぐにわかるよ。」
「そう。じゃあ、食べ物を温め直すね。」
真澄は、ラップの掛かった皿をレンジにかけた。その間に、僕は冷蔵庫からビールを二つ取り出してケースの上に並べた。それから、テレビとノートパソコンの電源を入れて座布団の上に腰を下ろした。
「はい、まずは焼きそばからね。」
真澄は、焼きそばの皿を卓袱台代わりのケースの上に置いて、僕の隣に腰を下ろした。
「じゃあ、ヴァーチャル花火大会を始めようか」
「何が始まるのか楽しみね」
真澄はどこか楽しげだった。
僕は立ち上がると、部屋の明かりを消した。ノートパソコンのデスクトップを映したテレビの画面がやけに明るく見えた。再び腰を下ろしてパソコンを操作し、ネットにつないだ。動画サイトで検索すると、使える映像はいくらでもありそうだった。
「じゃあ、とりあえず両国からいってみようか」
僕は両国の花火大会の映像を選び、再生ボタンを押した。すぐさまテレビ上では光と音のショーが始まった。真澄は夢見心地で画面に見入っていた。
「じゃあ、乾杯しようか。」
僕がビールの缶を開けると、真澄が自分のグラスを差し出した。僕はそこにビールを注いだ。続いて自分のグラスにもビールを注ぐと、グラスを二人の間に掲げた。
「じゃあ、乾杯」
「乾杯」
僕たちはグラスを合わせると、あの日と同じように一気に飲み干した。前回の乾杯の時、僕はえらく浮かれていた。しかし、今は楽しいのと同時に、寂しさもまた深くなっていた。こんな風に一緒にビールが飲める日が、いったい後どれだけ続くのか、それを考えずにはいられなかった。でも、僕はそれを顔に出さないように努めた。たぶんそれは、真澄も同じだったに違いなかった
僕たちは、ひたすら全国の花火大会の映像を見ながら、真澄が用意してくれていた焼きそばや、お好み焼きといった夜店メニューを楽しみ、ビールを飲み続けた。
その間、僕は何度も真澄の顔を横目に見ていた。明かりの消えた部屋で、様々な色に照らされる真澄の顔が悲しいくらいに美しく見えた。
真澄がいなくなるなんて嘘であってほしい。真澄の勘違いであってほしい。僕は、まだ、そんなことを願っていた。しかし、僕のそんな淡い期待は、すぐに打ち砕かれることになった。
ヴァーチャル花火大会が終わり、真澄が片付けをしている間に、僕はテレビの前でビールの最後の一缶と向き合っていた。飲み終わるのを待っていたかのように、真澄が僕の隣に腰を下ろした。そして、無理やり絞り出したような声で、妙な花火大会の趣旨を告げた。
「あのね、純さん。今日は私のためにヴァーチャル花火大会までしれくれてありがとう」
真澄は僕の言葉を待たずに次の言葉をつづけた。
「私が今夜、浴衣を着たのは、実は、ちょっと理由があったの。単刀直入に言うわね。私たちが触れ合えるのは、たぶん、今夜が最後になると思うの。だから、今夜は少しお洒落して見たかったの。それで、浴衣を着たの」
真澄の言葉に、最後の夜の姉の言葉が重なった。胸がつぶれそうな気がした。
「だからお願い。今夜は朝まで・・・」
僕は、真澄を抱き寄せると、言いかけた言葉を唇で塞いだ。切なかった。ただただ切なかった。明日の朝には消えてしまうだろう真澄の温もりが、どうしようもないほど愛おしかった。
八月二十六日(水)
朝、目が覚めた瞬間、真澄が、もういなくなっているのではないかという不安に駆られた。慌てて横を向くと、真澄の顔がすぐそばにあった。真澄は横向きに寝て、僕の寝顔をのぞき込んでいたようだった。
僕は左手を伸ばして真澄の頬に触れようとした。しかし僕の左手は空を切った。真澄の姿は、まだしっかりと見えるのに、僕は、もう真澄に触れることができなくなっていた。
「ごめんね」
真澄は寂しそうに笑った。
「謝らなくていいよ。真澄のせいじゃないんだから。」
真澄の目から涙があふれ、やがて枕の上に落ちた。しかし、それが枕カバーを濡らすことはなかった。それを見た瞬間、僕の中で強がりの糸が切れた。
「真澄、僕も一緒に連れて行ってくれないかな。もう、置いていかれるのにも疲れたよ。真澄なら僕を一緒に連れていけるんじゃないか?」
真澄はとても悲しそうな目で僕を見た。
「純さん、私にはそんな力はないわ。たとえあったとしても、ぜったいなそんなことはしないわ」
「どうしてだよ?」
少し感情を荒げた僕の顔を見た真澄の表情が更に悲しみの色を増した。
「そんなことをしたら、奈々さんにも、お姉さんにも申し訳ないもの。純さんは置き去りにされたって言ったけど、奈々さんも、お姉さんも好きで純さんの元から離れていった訳じゃなしでしょう。別れたくなかったけど、仕方がなかったのよ。それは私も同じ」
真澄は例えようもないほど美しい微笑みを浮かべると、幼い子供に言って聞かせるように優しく僕に語り掛けた。
「純さんには、純さんを必要としている人がたくさんいるでしょう。生徒さんに、お友達、それに、お姉さんを亡くしたご両親は以前にも増して純さんを必要としているはずでしょう。だから、純さんを一緒に連れていくことなんか絶対にできないわ」
真澄は、もう触れることのできない僕の頬に手を当てた。真澄の手の温もり感じられなかったが、真澄の思いは嫌というほど伝わってきた。
「ねえ、純さん。私と一緒に行きたいなんて言わないで。純さんがそんな風だったら、私、安心して成仏できないわ。私が安心して旅立てるように、笑顔で見送ってくれないかな?」
僕を見つめる美しい真澄の姿も、やがて見えなくなるのかと思ったら、残されることに耐えきれないような気がした。そして、すぐさま自分の弱さに嫌気がさした。笑顔で見送るという約束をしたはずだった。だが、自分には、それができなかった。ふと、姉と茂樹さんのことを思った。最後まで笑顔を通した二人の強さが僕にはなかった。約束も守れず、自分より辛いはずの真澄に弱音を吐いてしまった自分が情けなかった。
もう、二度と泣くまいと思った。
「真澄、ごめん。馬鹿なことを言って」
「私の方こそ、ごめんね。もう、涙も拭いてあげられないから、どうか笑顔でいてね」
真澄の言葉を聞きながら、まだこぼれてくる涙を抑えきれない自分が、とんでもない弱虫に見えた。
「じゃあ、行ってきます。」
「ちょっと待って」
僕が出勤のために部屋を出ようとすると、真澄に呼び止められた。
「お弁当があるの」
もう、当然、弁当はないものだと思っていたので、少々意外だった。
「昨夜作っておいたの。ごめんなさい。冷蔵庫の中から持って行ってくれるかな?」
真澄は少し申し訳なさそうな顔をした。今までは、玄関口で僕に手渡してくれていたのだが、今は、もう、それはかなわなかった。
僕は引き返し、冷蔵庫を開けると、中に納まっていたお弁当のバッグを取り出して、それをリュックに収めた。
「残さずにきちんと食べてね」
真澄はなんだか嬉しそうに見えたが、それが見せかけであることは容易に想像がついた。
「ありがとう。じゃあ、行ってくるね。」
「行ってらっしゃい。気を付けてね。」
前日までは、真澄の声に送られて仕事に向かうことも当たり前のことのように思えていた。しかし、いざ真澄と触れ合うことができなくなってみると、一気に逃れられない現実を突きつけられたような気分になった。あと何回、僕は真澄の声に送られて仕事に向かうことができるのだろうか。僕は、そんなことを考えながらアパートの階段を降りた。
お昼時、弁当箱を開けたら胸が痛んだ。僕の好きなものばかりが、これでもかというほど詰め込まれていた。見た目も色鮮やかで、真澄が最後の弁当にかけた思いが痛いほど伝わってきた。僕は、真澄の気持ちを無駄にすることのないように、じっくりと時間をかけて最後の弁当を味わった。
「ただいま」
帰宅時、僕は、なるべく明るい声になるように努めて部屋のドアを開けた。
「お帰りなさい」
真澄の声も明るかった。
「お弁当、力作だったね。とても、美味しかったよ」
僕は、いつものようにリュックから弁当のバッグを取り出すと、それを真澄の前に差し出した。その瞬間、真澄の笑顔が曇った。しまったと思ったが、後の祭りだった。
僕は、真澄の表情には気づかないふりをして流し台に向かうと、黙って弁当箱を洗い、水切りの籠の中に収めた。それきり、弁当箱が使われることは二度となかった。
その後は、二人とも何事もなかったように過ごした。今まで通りに、ガラス戸の前に座布団を二つ並べて腰を下ろし、一緒に歌を歌った。触れ合うことはできなくなっても、一緒に歌う時間は楽しいものだった。しかし、そうこうしているうちに僕は真澄に促された。
「純さん、夕食まだでしょう。そろそろ食べに行かないとお店閉まっちゃうよ」
「ああ、そうだね。じゃあ、行ってくるよ」
そう言って、僕は財布と携帯だけを持って部屋を出た。
真澄が食事を作ってくれるようになる前に、よく行っていたラーメン屋に僕は足を運んだ。結構好きだった味噌ラーメンも、まるで味がしなかった。一人きりで外で食べる夕食は妙に侘しかった。
八月二十七日(木)
朝、部屋を出る時、僕を見送る真澄の姿に変化が見られた。輪郭が少し怪しくなり始めていた。帰宅した時には、更に少し輪郭がぼやけていた。僕は、それに気づかないふりをした。真澄自身も自分の体の変化には気づいているのだろうが、何事もなかったように振舞っていた。
いつものように、ガラス戸の前で歌う準備をしていると、真澄が頼みがあると言い出した。
「ねえ、純さん、今日は『鳩間島巡礼』を歌ってくれないかな?一度歌ったきりで、あれから一度も歌っていないよね」
「ええ、そうだったかな?」
僕は、ごまかすように言ったが、僕の意図は真澄に読み取られていた。
「そうよ、私がこんなだから、気を使ってくれたんでしょう」
「いいや、そんなことはないよ」
そうは言ったものの、図星だった。
「純さんって、やっぱり嘘が下手だね。」
真澄は、全てお見通しだというように誇らしげな表情をした後、要望の趣旨を話した。
「私ね、もし向こうでお姉さんに会えたら、純さんの歌をみんな歌ってあげたいの。特に『鳩間島巡礼』はお姉さんの歌だものね。だから、ちゃんと歌えるように教えてほしいの」
真澄の言葉は、僕の心の奥底まで染み渡るようだった。だから、少し返事をするのが遅れた。
「純さん、だめかな?」
「いや、そんなことないよ。真澄の気持ち、すごく嬉しいよ。ああ、覚え易いように歌詞をコンピューターでプリントしようね」
「ありがとう」
真澄は嬉しそうに笑った。僕は、ノートパソコンを立ち上げ、歌詞のプリントアウトの準備をした。そんな準備をしている間は、真澄に泣きそうな顔を見せずに済んだ。
もはや紙切れ一枚持てない真澄のために、僕は、できる限り大きな文字で歌詞をプリントした。そして以前卓袱台代わりに使ったケースを真澄の前に置き、その上に歌詞をプリントした紙を置いた。
「どうかな、文字の大きさは十分かな?」
「大丈夫、ちゃんと読めるわ」
真澄は、僕の方を向いて笑ってみせた。
「そう、じゃあ、練習してみよう」
「うん」
真澄の返事は力強かった
それから、僕は、歌詞を1行ずつ歌って聞かせた。続いて、真澄が歌詞とメロディを覚えるまで、何度か一緒に歌っては次の行に進むという練習を繰り返した。真澄は驚くほど飲み込みが早かった。あっという間に最後の行にたどり着き、1曲分の歌詞とメロディがすっかり頭に入ってしまった。
もはや練習の必要もないであろうと思った頃、僕は真澄に言った。
「じゃあ、僕は、もう伴奏だけするから、真澄は一度通しで歌ってみて」
「うん、分かった。」
真澄の顔は、帰宅した時より更に輪郭がぼやけているような気がした。もうすぐ、この世から消えようとしているというのに、その表情は希望に満ち溢れているように見えた。
僕は、三線の糸を巻き直してからイントロを弾き始めた。イントロが終わり、真澄が歌い始めた途端に、僕は真澄の歌に完全に吸い込まれた。歌が染みついた僕の体は、どうにか三線を弾き続けていたが、心はすでに体を離れ、真澄の歌に絡めとられていた。
真澄が歌う『鳩間島巡礼』は、僕とは比べ物にならない程、美しく、そして切なかった。真澄は、以前から姉を羨んでいた。真澄にとって姉は、すでに女性としての理想像になっていたのかもしれなかった。そして、真澄は、姉と茂樹さんの物語に、真澄と僕の物語を重ねているのかもしれないと思った。真澄は今、僕たち三人が灯台の下から見た景色を思い描きながら歌っているような気がした。
歌が終わり、僕がとりあえず三線をケースに収めると真澄が尋ねてきた。
「どうだった。上手く歌えたかな?」
「うん、とても良かったよ。」
真澄が歌い終わってなお、激しく心が震えていた僕には、そう言うのが精いっぱいだった
「お姉さん、喜んでくれるかな?」
真澄のその言葉を聞いた瞬間に、僕は一瞬理性を失い、真澄を強く抱きしめたい衝動に駆られた。しかし、すぐに、それがもう叶わないことであると思い出した。そして、同時に地の底に叩き落されたような気分になった。もう、これ以上、自分の感情を制御することは不可能だと思った。そして次の瞬間、僕は立ち上がり、ドアの方に向かった。
「ちょっと、ビール買って来るね」
僕は、真澄の方を見ることもできないまま、部屋から逃げ出した。僕の気持ちを察していたのだろう。真澄は何も言わなかった。
部屋を出た途端に、一気に涙がこぼれ始めた。近くの公園まで走ると、ベンチに腰を下ろして、ひとしきり泣いた。幸い、近くを通りかかる人はなかった。
どうにか落ち着いた後、僕はコンビニ行き、ビールを買って部屋に戻った。万年床にしたままになっていた布団の端で真澄は眠っていた。僕に気を使って寝たふりをしていただけかもしれなかったが、僕にはどちらかわからなかった。
八月二十八日(金)
朝、部屋を出る時、真澄の輪郭は更にかすみ、体を通して後ろの部屋の壁が見えるようになっていた。真澄の姿が見られるのも、もうあとわずかだと思わざるを得なかった。帰宅した時には、もう見えなくなっているのではないかという不安に襲われたが、僕は、いつも通りに部屋を出て学校に向かった。
夕方、帰宅すると、真澄の姿は、まだ消えてはいなかった。しかし、その姿は更に透明度を増していた。真澄の姿が見えるのは今日かぎりだろうという気がした。だから僕は、いつもとは少し違うことをしてみることにした。少しでも長く、真澄の姿を見続けるために、そうしようと思った。
いつも一緒に歌を歌う頃合いを見て、僕はガラス戸の前に並んでいた座布団の内のひとつを、反対側、つまりキッチンとの境に移動させた。三線の糸を巻き直してから、キッチンにいた真澄に声を掛けた。
「真澄、今日は、そっち側に座ってくれないかな?」
僕はキッチンの側の座布団を指さした。
「いいけど、どうして?」
僕は、一呼吸おいて自分の思いを真澄に伝えた。
「今日はね、真澄に一人で歌ってほしいんだ。僕の声なんて混ぜずに、純粋に真澄の声だけを聴いていたいんだ。」
真澄の姿をじっくりと目に焼き付けておきたいという、もう一つの目的は口にしなかった。
「分かったわ。こっちで、一人で歌えばいいのね。」
真澄はそれ以上何も口にせず、素直に座布団に腰を下ろした。しかし、僕が口にしなかった意図には、気づいていたに違いなかった。真澄の歌声に耳を澄ませるだけなら、座布団の位置を移動する必要はなかったからだ。
真澄の姿は帰宅時よりも少し色褪せたように見えた。裏腹に、背にしたキッチンの様子がより色濃く見えるようになっていた。
それから、僕は、真澄にたくさんの歌を歌ってもらった。八重山の歌はもちろん、真澄と僕が知っている歌を、とにかく片っ端からやってもらった。真澄が両親と同世代で、歌の好みも比較的に通っていたことも幸いした。
真澄が歌っている間、僕はずっと真澄のことを見つめていた。真澄も決して瞳をそらすことなく、まっすぐに僕を見つめ返していた。消えかけてはいるものの、真澄の澄んだ瞳に、あの最後の日の、死を決意した姉の瞳が時折重なって見えた。もうすぐ、みつめあうことすらできなくなることを、僕たちはしっかりと自覚していた。
僕は、何度も泣きたくなるのを堪えて、ひたすら三線を弾き続けた。それに合わせた真澄の歌声は、悲しいくらい美しく、透き通っていた。
その夜、明かりを消して、すっかり万年床が定着してしまった布団に横になった。すぐそばに真澄の横顔があった。部屋の中に漏れてくる微かな街頭の光の中に、真澄のその美しい横顔は、今にも溶けてしまいそうだった。それが、僕が見た最後の真澄の姿だった。
八月二十九日(土)
「おはよう。」
目が覚めると、すぐ傍で真澄の声がした。しかし、僕には、もう真澄の姿は見えなかった。予想していた事態だったが、だからと言って悲しみが薄れるわけではなかった。真澄自身がすでに承知していたのか、あるいは僕の様子から判断したのかはわからなかったが、真澄は、すでに僕の目に真澄の姿が映っていないことに気が付いているような気がした。しかし、真澄の態度は、それとは逆に明るかった。それは真澄なりの気遣いなのだと僕は思った。
「純さん、今日、明日はお休みだよね。だから、ずっと一緒にいられるよね?」
真澄の声は、僕のすぐ耳元から聞こえてきた。だから、真澄は、まだ僕の隣で寝転んでいるものだと思った。
「ああ。」
僕は顔を横に向けて、そこにあると思われた真澄の顔に向かって笑顔で答えた。
「私、まだ、見たい映画があるんだけど、後で借りてきてくれるかな?」
「ああ、いいよ。貸し出し中でなければいいんだけど」
「うん、なければ仕方がないわね」
僕は起き上がると、机の上からペンとメモを取り上げた。
「メモするから、観たいものを言ってくれるかな?」
「うん、じゃあ、二日もお休みがあるから、いっぱいお願いしちゃおうかな」
そう言って、真澄は次々と映画のタイトル口にして、僕はそれらをメモしていった。
レンタルビデオ屋が開く時間を見計らって、僕は部屋を出た。真澄がリクエストした作品は大方借りることができた。それから、僕はスーパーによって部屋で食べられるものをたくさん買い込んだ。
「お帰りなさい。」
僕が部屋のドアを開くと、真澄の声がしたが、どこにいるのかはわからなかった。
「あら、随分と食べ物を買い込んできたのね」
「いやあ、手間が省けていいかと思ってね」
「そうなんだ」
この休日の二日間、できる限り部屋を離れたくないという僕の気持ちに、真澄は気づいていたに違いなかった。以前、食事は外で済ませてほしいと言っていた真澄の要望に反する行いに対して、真澄が抗議することはなかった。
ビデオを見始めた後、真澄の鑑賞態度が今までと違うことに気づいた。今までは、しっかりと鑑賞に集中し、途中で口を開くことは無かった。しかし、この日は所々で感想を口にしたり、僕の意見を求めたりしてきた。姿は見えないけれど、自分はここにいる。だから、安心してほしいという気持ちの表れなのだろうと僕は思った。
一つビデオを見たらじっくりと感想を語り合い、それが済んだら次のビデオを見る。そんなことを何度か繰り返しているうち夕方になった。
僕が、テーブルで、買ってきた弁当を食べていると、正面から真澄の声が聞こえてきた。どうやら真澄は僕の正面に座っているようだった。
「純さん、今日は、純さんの歌をしっかりと聴かせてくれないかな?私、自分の声なんか混ぜないで、純さんの歌が聞きたいの。いいよね?」
もう自分の姿は見えないのだからとは真澄は言わなかった。昨夜とは逆のことをしようという真澄の気持ちはよく分かった。
「でも、それだと・・・」
言いかけた僕の言葉を、真澄が遮った。
「心配しないで。純さんが歌っている間に、黙って消えたりしないから。私、まだ、大丈夫だから」
「わかったよ」
その後、前夜と同じように座布団を置き、僕はガラス戸の方に腰を下ろした。
「準備ができたよ。」
三線の調弦を済ませたところで、僕は真澄に声を掛けた。
「はい、私、今、反対側の座布団の上に座りました。さあ、歌を聴かせて。」
まだ大丈夫だと言った割には、真澄の声は少し小さくなっているような気がした。
それから、僕は八重山の歌を全て歌い、真澄の知っていそうな歌、自分の好きな歌を次々と歌った。真澄のリクエストにも可能な限り応えた。
真澄は、歌が一つ終わる度に感想や歌にまつわる思い出などを饒舌に話した。自分は、まだここにいるから、安心してくれと伝えたいのだと僕にはよくわかっていた。
「じゃあ、夜も遅くなってきたから、今日はここまでにしよう」
僕がそう言うと、真澄は嬉しそうな声で答えた。
「ありがとう。純さんの歌、堪能させてもらったわ」
「真澄が喜んでくれて良かった。明日は、また一緒に歌おうね」
「そうね、そうしましょう。」
真澄のその声を聞きながら、僕は、その明日が本当に来るのか不安になった。真澄の声は、僕が歌いだした時より更に小さくなっていたからだ。真澄の旅立ちが、もうすぐそこまで迫っていることを、僕は認めざるを得なかった。
八月三十日(日)
この日は、夏休み最後の日曜日だった。僕たちは、前日と同じように、昼間はビデオを観て過ごし、夜は一緒に歌を歌った。真澄の声は、かなり小さくなっており、僕は三線の音も、歌う声も、真澄に合わせて小さめにした。真澄と一緒に歌えるのも、これが最後かもしれないという気がした。
歌うのを止めて、僕がテーブルでビールを飲んでいると、正面から真澄の声がした。
どうやら、また僕の正面に座ったようだった。
「ねえ、純さん。八重山歌集のアレンジってもう、決まっているの?伴奏は全部三線だけってわけじゃないよね?あと、曲の順番はどうなるの?」
真澄が立て続けに質問をしてきた。
「ああ、アレンジは大体考えてあるんだ。さすがに九曲全て三線のみだと変化がないからね。曲順も考えてあるよ」
「どういうアレンジと曲順、教えてくれないかな。」
そう言った真澄の姿は、もちろん僕には見えなかったが、その瞳は輝いるような気がした。
「まず、最初は『幻の夏』。伴奏は三線がメインかな。低音部分には控えめにエレキベースを入れようと思っているけどね」
「純さん、ベースも弾けるの?」
「ああ、学校に置きっぱなしだけどね」
「そうなんだ、それで二曲目はどうなるの」
真澄は、先を急ぐように次の質問をしてきた。
「二曲目は『鳩間島巡礼』にするつもりだよ。」
「そうなんだ、それでアレンジはどうなるの、私、特に興味があるんだ」
真澄が身を乗り出してきたような気がした。
「あの歌は姉さんの歌だから、伴奏はピアノ一台だけにしようと思っているんだ」
「お姉さん、ピアノが好きだったの?」
真澄の好奇心は、どんどん加速していくような気がした。
「ああ、好きだったし、とても上手だったよ。僕なんて足元にも及ばない程にね。ピアノの先生に、音大に行くのを勧められたたくらいだからね。僕が中学でピアノを止めてしまったのは、とても姉さんには敵わないと思ったことも理由のひとつだったんだ」
「そうだったんだ。でも、『鳩間島巡礼』は、確かにピアノの伴奏が似合いそうね」
真澄はしばらく黙り込んだ。姉がピアノ伴奏をする『鳩間島巡礼』を思い浮かべているような気がした。
しかし、すぐに、また嬉しそうな声で質問を浴びせてきた。
「じゃあ、三曲目は?」
「三曲目は『ティダヌファ』かな?」
「アレンジはどうなるの?」
「明るい三線が似合う気がするな。でも、それだけだと沖縄っぽくなりすぎてしまうから、エレキギターを入れようと思っているんだ。ヒロインは都会から来た明るい少女って感じだからね」
「うん、合っていると思う」
真澄は、満面の笑みをたたえているような気がした。そして、嬉しそうに次の質問を繰り出してきた。
「四曲目はどうなるの?」
「『新城哀歌』にしようと思ってる。ああ、この歌は、真澄が詞を書いた歌だから、真澄の意見を聞きたいな。どんなアレンジがいいと思う?」
「ううん、そうね。」
真澄は、しばらく考え込んだようで、少し沈黙が続いた。しかし、しばらくすると、かなり良いアイディアを持ち出してきた。
「この歌は、生のギターを何台か使って、スペインとかメキシコの雰囲気で。ああ、そう、フラメンコみたいな感じ。ええと、ちょっと激しさもあるけど悲しさが伝わってくるような・・・ああ、ごめん。なんか上手く説明できてないよね」
「いや、そんなことはないよ。真澄の気持ちは十分伝わったよ。でも、そうなるとフォークギターより、クラッシックギターを使った方がいいかな。確か、音楽室にあったから、それでやってみるよ」
「ああ、私のアイディアが伴奏に活かされちゃうなんてワクワクするな」
真澄は、興奮のあまり身震いしているような気がした。真澄は、アレンジと曲順に興味津々といった様子で次の質問をぶつけてきた。
「それで五曲目はどうなるの?」
「五曲目は『いるもて紀行』にしようと思っているんだ。楽しくて優雅な気分を出したいし、他の曲との差別化も図りたいから、伴奏は弦楽四重奏にしようかと思っているんだ」
「弦楽四重奏?純さん、中卒の田舎娘にも分かるように説明してくれないかな?」
真澄は、口を「ヘの字」に曲げているような気がした。
「そうか。バイオリンはわかるよね?」
「それくらい私だって知ってるわよ」
真澄が、少し頬を膨らませたような気がした。
僕は、それ以上真澄の機嫌を損ねないように丁寧に説明をした。
「形は基本的に同じだけどバイオリンより少し大きいのがビオラ、ビオラより更に大きくて、座って弾くのがチェロ、チェロより大きくて、立って弾くのがコントラバス。この四つの仲間で合奏するのが弦楽四重奏だよ」
「なるほど。確かに優雅で楽しい旅の歌には向いているわね」
真澄は納得した様子だった。
「それで、その次は?」
「次は『ドラマチック石垣』だね。これは馬鹿っぽい歌詞だから、いっそのこと、伴奏も派手にトランペットやトロンボーンみたいな金管楽器、つまりラッパの類で行こうと思うんだ」
「パンパカパーン!って感じね。良いんじゃないかしら」
真澄は、少し馬鹿にしたようにクスクスと笑った。
「それで、次は?」
真澄の質問は止まらなかった。
「七曲目は『望郷輪舞曲』だね。これはもう、三線だけで良いような気がしているんだ」
「半分は沖縄の音階を使っているし、故郷を思う歌だから、ぴったりだね。」
真澄は、首を縦に振って大きくうなずいているような気がした。
「それで、その後は?」
真澄の質問は途切れなかった。
「八曲目は『黒島ブルー』なんどけど、これも真澄の初恋がモチーフになっているから、真澄の意見を聞きたいな」
「うーん、そうね。こっちも生ギターが良いと思うんだけど、今度は生ギター一本で、昔ながらの弾き語りにして欲しいかな。純さんの歌がしっかり前にでるようにね」
先ほどとは違って、真澄の返事は答えを用意していたようにすぐに返ってきた。
「いいね。素朴な感じが初恋っぽいかもしれないね」
「まあ、現実はそんな爽やかじゃなかったけどね」
真澄は、少しうつむいたような気がした。そして、少し間を置いてから聞いてきた。
「最後は『南十字の下で』だよね。どんなアレンジになるの?」
「一番ハッピーな曲だけど、あまり派手にしたくないんだ。優しい感じを出したいから、フルートやクラリネットのような木管楽器、つまり、笛の仲間の楽器を考えてる」
「そう、良いわね。すごく合っていると思う」
真澄は、その日一番の笑顔を浮かべているような気がした。
「純さん、アルバム、きっと素晴らしいできになるわね」
「そうなると良いね」
聴きたかったと、真澄は言わなかった。だから、僕も聴かせたかったとは言わなかった。
八月三十一日(月)
「おはよう。純さん」
目が覚めた時に聞いた真澄の声は、かすれていて聞き取りにくくなっていた。嫌でも、真澄の旅立ちが間近に迫っていることがわかった。こんな状態では、僕が帰宅するまで、真澄はこの部屋に留まっていることはできないかもしれないと不安になった。勤めを休もうかとさえ一瞬考えてしまった。しかし、夏休みの最終日のため、翌日からの新学期に備えた会議が予定されていた。担任としても準備しておくべきこともたくさんあった。何より、仕事を休むなどと言えば、真澄に叱られることはわかりきっていた。僕は、帰宅するまで真澄がこの部屋に留まっていてくれることを祈るしかなかった。
「行ってらっしゃい」
僕を送りだした真澄の声は、まるで消え入りそうにか細かった。
「行ってきます」
答えながら、僕は、これが最後の朝の挨拶になるのだろうと思った。僕は必死で笑顔を作り、仕事に出かけた。
僕の留守中に真澄が旅立ってしまうかもしれないという不安が頭から離れず、仕事に集中するのが難しかった。加えて、昨夜は真澄を失う不安もあり、ろくに寝ていなかったので、度々睡魔も襲ってきた。
そんな状態で、僕は何度も時計を見ながら、早く退勤時間にならないものかと思った。しかし、時間は、そんな時に限ってゆっくりとしか進まないものだった。
退勤時間が近づいても、するべき仕事は、まだ、片付いてはいなかった。寝不足と新学期が始まる緊張感、真澄が消えているのでないかという不安、そういったものと闘いながらの仕事は、ひどく僕を疲れさせた。そして、とうとう、僕は職員室で、翌日のホームルームの準備をしながら、襲ってきた睡魔についに屈してしまった。
十歳の僕は、ニューヨークの家の子供部屋で目を覚ました。いや、より正確に言えば、ベッドの上で、夢と現の境をさ迷っていた。ああ、早く起きてベッドから起き上がらなければ、このままだと、また、姉さんに起こされて「寝起きが悪い」と小言を言われてしまいそうだ、そう思っていた。
すると、子供部屋のドアが開いた。まずい、もう、姉さんが来てしまった。また、叱られると思った次の瞬間に、僕は何かが変だと思った。部屋に入ってきた姉さんは、まだ、中学生のはずなのに、すでに大人の姿をしていた。姉さんは、まだベッドに横になっていた僕の両肩を掴むと強く揺すった。
「純、こんな所で何しているの。あなたには、まだすることがあるでしょう。急がないと手遅れになるわよ」
その次の瞬間、僕は職員室で目を覚ました。そして、リュックを掴むと、自転車置き場へと駆け出した。雨が降っていたが、雨合羽を着る心の余裕などなかった。アパートに向けて、必死に自転車を漕ぐ僕には、雨の冷たさなどまるで感じられなかった。
自転車を漕ぎながら、僕の頭の中では、真澄に贈る歌が一気に形を作り始めていた。いや、本当は、その歌は、きちんとした形をなしていなかっただけで、すでに、ほとんど出来上がっていたのだ。ただ、僕は、それをきちんとした形にしようとしていなかっただけなのだ。その歌を歌ってしまったら、真澄は旅立ってしまうに違いない、心のどこかで、僕はそれを確信していた。だから、完成させたくなかったのだ。
しかし、もはや、そんなことは言っていられなかった。残された時間が、もう、ほとんどないことを姉が教えてくれた。手遅れになる前に、僕は、その歌を真澄に贈らなければならなかった。それが、僕が真澄にしてあげられる最後のことだったからだ。
「ただいま」
僕は、あわただしく部屋のドアを開けた。
「おかえりなさい。どうしたの・・そんなに・・濡れて?早く・・・シャワーを浴びて・・・着替えた方が良いわ」
真澄の声は、玄関のすぐ近くで聞こえたが、まるで隣の部屋から聞こえてくるように弱弱しかった。途切れがちな話し方からは、苦しそうな様子がうかがえた。真澄は今、必死にこの部屋にしがみついているに違いなかった。少しでも気を抜けば、真澄は次の世界へと旅立ってしまうのだろう。そして、多分、真澄は最後の力を振り絞って僕の帰りを待っていたのだ。
「ごめん。待たせたね」
僕は、リュックをテーブルの上に置くと、キッチンとの境に置いたままになっていた座布団を指さした。
「真澄、ここに座ってくれないか?」
「うん・・・いいよ」
今にも消え入りそうな声だった。少しすると、移動を終えた真澄の声が聞こえた。
「純さん・・座ったよ」
「ありがとう。ちょっと待ってね」
僕は、ケースから三線を取り出すと、ガラス戸の前の座布団に腰を下ろした。いつもならすぐにできる調弦に手間取った。僕は焦っていた。一つ深呼吸をして気持ちを落ち着けてから、再び調弦に取り掛かった。どうにかうまくいった。
「真澄、君に聴いて欲しい歌があるんだ。君のために、君のためだけに作った歌なんだ。できたばかりで、上手く歌えないかもしれないけど、聴いてくれるかな?」
「もちろんよ・・・私のために・・・作ってくれたなんて・・・すごく嬉しいな。じゃあ・・・聴かせて」
僕は、三線を構えてイントロを弾き始めた。気持ちが揺れて、指の動きが重いような気がした。しかし、歌の部分が近づいたところで、覚悟が決まった。短いこの歌に全てを込めようと思った。真澄と出会えたことに対する感謝を、共に過ごした日々の喜びを、旅立つ真澄の幸せを祈る気持ちを、そして叶うあてのない希望を。
座布団の上に真澄の姿は見えなかったが、僕をまっすぐに見つめているのがわかるような気がした。僕は、見えない真澄の視線から目をそらさないように、まっすぐに前を向いて歌い始めた。
こんなにも小さな部屋で
君と共に過ごした
二度と巡ることのない
夏が終わろうとしてる
できるなら、ずっとこのまま
君といたかったけど
旅立つ君の背中を
せめて笑顔で見送ろう
これから君が旅立つその先には
幸せが必ず待っているから
互いに顔も見れず
声も聞けなくても
心だけは繋がってる
たとえ二人、遠く離れても
いつか互いを忘れる時が来ても
共に過ごしてきた日々は消えない
今はそれぞれ別の
道を行くとしても
僕らは、また巡り会える
たとえ何度、生まれ変わっても
「どうだった?」
歌い終えると、僕は真澄に尋ねた。しかし、返事は返ってこなかった。
「ねえ、真澄、感想を聴かせてよ」
言いながら、僕は一気に不安になった。
「真澄、答えてよ」
僕は、まだ認めたくなかった。
「真澄、黙ってないで、なんとか言えよ!」
叫んだ僕の言葉は、古いアパートの一室にむなしく響くだけだった。
真澄が、いつ旅だったのか、僕にはわからなかった。僕の歌が真澄に届いたのか、もはや、それは知る由もなかった。涙が止めどなく溢れてきた。僕は、それを流れるままにしておいた。笑顔で見送るなんて歌っておきながら、無様な姿だった。やはり自分の書く歌詞は、ただの作りごとに過ぎないのかと思った。
夏休み最後の日、八月とは思えないほど冷たい雨の降る夜、僕たちの夏は終わった。



